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2015年10月4日 - 2015年10月10日

2015年10月10日 (土)

本当に組体操は団結心を養うのか

 「組体操は団結心を養う」「子供に達成感を与えられる」

 組体操の危険性がようやく広く知られるようになると、組体操推進派の教員や親からこんな声が出てくるようになった。

 もっとも、組体操で事故が起きて裁判になった時、裁判所がこのような意見を容認しているかと言うと、そうではない。「組体操は教育に必須とは言えない」「他にもっと安全で確実な方法で教育目的を達成できる」として、「加害者」にあたる教員の言い分を認めない。妥当な結論であろう。

 そもそも、本当に組体操で「団結心」が養われるか怪しい。私は、養われないと思っている。例えば、組体操を強制された世代が卒業後も労働運動などで顕著な団結を示したという話は聞かない。団結力がついたと思っているのは指導した教員と、考えの及ばない父兄・地域有力者だけではないか。

 また、学校での「いじめ」は今も昔も変わらない。インターネットの普及や、教員の評価と関連して、むしろ隠蔽体質は悪化しているのではないかとさえ思えてくる。

 こう言うと、次に言われるのが「嫌なことをやらせることで、我慢強さを育てる」という主張である。しかし、嫌なことをやらされた挙句に死んだら、それこそ浮かばれまい。大体、過労死や過労自殺の原因は「問題のある労働環境を我慢することが大切」という環境で起きている。そして、大抵の場合使用者側は「労働者が文句を言わなかったのだから、自分たちの管理体制に問題は無かった。死んだのは労働者の自己責任だ」と言い放つ。

 労働運動を見ていると、「団結」は問題意識を共有したときになされる。この点において、オルガナイザーの説得や演説は重要だ。終戦直後に国労の中心になった人たちは、助役などの中間管理職に相当するポストにあり(後に、こうした職位の人々は「当局」「体制側」とされていくのは皮肉である)、周囲を説得して仲間にしていく能力に長けていた。だが、団結することが「当然」とされていくようになると、職場内・組合内でのコミュニケーションもなくなり、惰性で動員されるだけということになる。そして、国鉄は崩壊した。

 団結で重要なのはコミュニケーションであり、惰性でイベントをやることではない。組体操支持派の言い分が正しければ、今なお「過激な労働組合」がJR内部で大勢力を誇っていなければならないのだが、今や階級闘争を掲げる組合は見る影もない。

 学校が、「生きる力を教える場所」であるならば、むしろ「どんなことをすれば危険か」を教える必要がある。危険なことをやらさせて喜んでいるようでは、そのような着眼点や問題意識が育つわけもない。

 結論として、組体操は団結心とは無関係である。組体操を支持するなら、自分や自分の子供が死んだり障害を負ってもかまわないと考えている人たちだけでやってもらいたい。死にたくない者まで巻き添えにしないで欲しい。

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