« 2015年8月16日 - 2015年8月22日 | トップページ | 2015年8月30日 - 2015年9月5日 »

2015年8月23日 - 2015年8月29日

2015年8月29日 (土)

長久手市長選挙、吉田一平候補の哲学を考える

 長久手市長選挙に立候補している現職の吉田一平市長の話は、率直に言って分かり難い。市長選挙に興味のない人たちには、何を言っているかほとんど分からないだろう。吉田市長の応援をしている地元住民ですら、分かる人は少数派ではないだろうか。吉田市長自身、「自分の話は分かり難い」と認めている。

 だが、吉田市長の話をじっくり聞いて整理していくと、そこから浮かび上がってくるのは独特の「哲学」である。この哲学は、1980年代以降の日本を席巻して食い荒らしてきたきた「新自由主義路線」とは全く異なる考え方だ。これは、我が国の「保守層」にとって、市場や資本を重視する新自由主義路線とは異なる選択肢を提供するものであり、保守系の政治家の中からこうした動きが出てきたことはもっと全国的に注目されてよいのではないか。国際的に見ても、先進国の新たな進むべき社会のモデルとなる可能性もある。

 吉田市長の演説にもパンフレットにも、「民営化」とか「人件費削減」「効率」という言葉は出てこない。かわって「共生」の考え方が貫かれている。吉田市長の考え方をまとめると、「コモンズ(商品化されていない社会的な協働や生産)の再構築」という哲学が貫かれていることが分かる(無論、「都市と農村の共生」など、それだけではないが)。

 コモンズの考え方は、過激な市場主義・競争社会から離脱する理屈として、経済学者の一部が主張している。もともと、過激な市場主義に対峙する考え方は「社会主義」「共産主義」であったが、これらは冷戦終結とともにほぼ潰えた。が、市場経済は統制経済よりも優れてはいるものの、問題がなくなったわけではなかった。そこで、かつてのマルクス経済学者を中心に市場万能主義に対する価値観の再構築が行われており、そのひとつが「コモンズ」の考え方である(なお、私は経済思想を専門としているわけではないので、多少錯誤があるかも知れない)。

 吉田市長の恐るべきは、この人物の経歴に高等教育や専門教育を受けた形跡が全くないことである。海外生活の経験も、マスコミなど言論機関で働いたこともない。となると、吉田市長の「哲学」はご自身が地域活動や福祉施設・教育施設の運営に携わる中で生み出されたものであると考えざるを得ない。つい最近まで農村社会であった長久手で、このような「鬼才」が出てきたことは、ある意味では奇跡である。農村社会と言うものは洋の東西を問わず保守的であり、前例を踏襲していくことが重要であり、新しい考え方が出てくることを好まない。実際、吉田市長が若い頃は「かなり異質」に見られていたというから、強固な意志があることは間違いない。

 そう考えると、吉田市長の話が分かり難いのは当たり前だ。吉田市長は独力で、「コモンズ」に類似する考え方に行き着いた。経済学者が研究室で理論研究を行う中から生み出した理屈を話しているわけではない。吉田市長の地域活動の中で生み出された理論であり、実業家からただちに首長に転じて現在も市長として活動している以上、理論的な整理が十分にできていないのは仕方がない。理論的な整理に傾注すれば、実務を行う時間など無くなってしまう。中国の戦国時代末期の法家の思想家である李斯をはじめ、実務家であったためにまとまった著作を残せなかった思想家は多い。マキャベリは「君主論」を書いてその哲学や理論を後世に残しているが、これはマキャベリがフィレンツェ共和国内の権力闘争で敗北し、ずっと失業状態のままで髀肉之嘆を囲っていたからできたことである。

 選挙に当選することだけを優先するのであれば、考えていない人たちに対しても「分かりやすい話」をした方が良い。だが、吉田市長は今回の選挙の最期の最期まで、自分の哲学を説き続けた。これは、政治家として極めて勇気のいる事であっただろう。

 1980年代以降続いてきた新自由主義の流れの中で、効率化と民営化が推し進められた結果、行政サービスの低下や公務ワーキングプアなど新たな問題が目につくようになった。また、住民が一方的な行政サービスの利用者、お客様と位置づけられることで、自治意識が低下し、行政に対する理不尽なクレームが激増するに至っている。

 吉田市長はこうした一連の流れの根底にある価値観とは異なる価値観を有権者に提示している。保守系の政治家としては異質だが、そもそも「保守」の立場にあることと「市場原理主義」であることとは何の関連性も無いことは、京都大の池田先生の学会報告で明らかになっている。ただ、多くの保守系の政治家は市場原理主義的な政策に多少の嫌悪感を示すことはあっても、新自由主義とは異なる価値観を打ち出すという事が無かった。これは国政レベルでも地方政治のレベルでも事情は大して変わらない。何故ならば、市場原理主義に批判的な言動をすると「社会主義的」「サヨク」とレッテルを貼られるからで、これは保守に身を置く者としては気持ちのいいものではない。

 吉田市長の「哲学」は、「保守層」が立脚できる新たな価値観を確立できる可能性を秘めていると言える。吉田市政が引き続き四年間続くとすれば、この「哲学」をどのようにして具体的な行政に反映させていくかと言うところが重要になる。議会や行政の担当者は、吉田市長の「哲学」を理解した上で議論を行うべきだ。市長のブレーンは、市長の哲学を秩序立ててまとめることをするべきだ。そうすれば、多くの住民がもっと提案をし易くなるだろう。

 「コモンズ」については市場原理主義的な立場からの批判だけでなく、反市場原理主義的な立場からも疑問が提起されている。故に、吉田市長の「哲学」にもとづく施策についても、多くの議論の余地がある。完成された理論ではないのだから、思想の具現化をしていく中で、問題点を修正していく作業が必要だ。

 例えば「おせっかい」と「プライバシー権」の均衡をどう考えるか。地域活動に参加する住民の負担をどう考えるか。彼らに報酬を支払う場合、労働契約なのか準委任契約なのか。市役所の行うべき意思決定を地域分権するという事は一住民でも公権力の行使にあたるのか。地域分権社会に参画してくる外国人の取り扱いはどうするか。従前プランを担ってきた市職員や専門家はどのように活用するのか。課題は少なくない。

 吉田市長を中心に、議会や行政に加え、住民も含めて建設的な議論がなされることを期待したい。

2015年8月28日 (金)

外国人技能実習生の拡充は亡国への道

 政府は外国人技能実習生を拡大して、介護などでも受け入れていく方針だ。これは亡国への道である。

 残念ながら、多くの企業では外国人技能実習生は事実上「低賃金で使える外国人労働者」という扱いになってしまっており、関係者の本音もそのような認識だ。実際、受け入れ企業の関係者で「実習のため」と本気で考えている人を見たことが無い。

 また、「外国人労働者」として見た場合であっても、出身者の文化的背景などに配慮した労務管理が行われているとは言い難い。「訳の分からないものを食べている」「飲みに行こうともしない」など、あからさまな外国人蔑視の言葉を口にする経営者すら珍しくは無いのである。

 これで介護などへ広げようというのだから狂気の沙汰だ。日本人労働者が引っ張られる形で労働条件の低下に苦しむだけではない。失踪者は「統計に表れない不法移民」となり、日本国内で新たな「不安定層」を構成することになる。これが犯罪の温床になるのは明白だ。

 また、その対応は自治体にとって大きな負担となる。長久手市の吉田一平市長は「福祉日本一のまち」を公約に掲げており、市内には福祉施設や福祉関係の学校も多い。介護施設に受入れた外国人技能実習生がそのまま不法移民として定住するようなことになれば、福祉のまちであることがそのままリスクになってしまう。地元住民にとって、「福祉日本一のまち」は望ましくとも、不法移民のまちになることは受け入れられないであろう。

2015年8月27日 (木)

「自治体外交」という幻想

 国会で安全保障や外交で論戦が行われる時期には、地方選挙でも主として野党側の候補者が「戦争反対」や「九条擁護」を掲げて選挙を戦うことがある。このような場合に「自治体外交」と称して、地方政治家が独自の外交を行うことを公約として掲げることがあるが、これは本当に妥当なのであろうか。

 結論から言えば、自治体は外交を行うことができない。国際法で外交を行う主体を認められているのはあくまでも国家だけである。「交戦団体」という存在が一定の当事者性を認められることもないわけではないが、「交戦団体」は国家を作ろうとして武力闘争中の場合が想定されている。つまり、「独立する気もない自治体など、国際法の世界でははじめから問題外である」ということだ。NGOや個人についても同様で、確かに当事者性を認めるべきだという議論がないわけではないが、あくまでも少数説でしかないし、実務的にも採用されていない。

 国際法で当事者性が認められていない以上、自治体はどう転んでも外交の主体にはなり得ない。自治体も「国際交流」は可能だが、「自治体外交」という言葉で、あたかも自治体が国際社会で影響力を行使しう得るかのように宣伝するのは感心しない。

 むしろ、自治体の関係者が外国で好き勝手な言動を繰り返すことで、国の安全が脅かされることの方が問題だ。敵対国としては、敵対国内の自治体関係者を優遇することで、その自治体関係者をシンパにして自国政府と敵対関係にすることもできる。これは、併合を目論む地域の反政府側の関係者を籠絡して併合対象国内で内紛を作りだし、それを口実に進駐して併合するという、ナチスが好んだ手を思い出せばよい。

 残念ながら、「自治体外交」は幻想に過ぎない。言うなれば、ゲームのプレイヤーとしての資格が認められていないので、はじめからゲームに参加できない状態にある。

 なお、選挙公約に法で制限が設けられているわけではない。かつて東京都知事選挙には「政府転覆」を公約に掲げる候補者が登場して話題になったし、「首相を地獄の火の中に投げ込む」と言い張る政治活動家は未だに衆参の選挙に立候補を続けている。

2015年8月25日 (火)

戦争法とアジア諸国

 安保法について、フィリピンやベトナムなど中国の圧迫を受けている諸国はおおむね賛成の意向を示している。歓迎する声すらある。

 一方、興味深いことに、今回の戦争法では中韓も不快感や懸念は示しているものの、ヒステリックな反応はしていない。日本の戦争法に反対するという反日デモが起きているという話も聞かない。

 フィリピンやベトナムの賛成は政府当局の見解だが、それらの国で民間人が大々的な反対をしているという話も聞いたことが無い。

 一方で日本国内では大々的な反対運動が起きているし、中日新聞などはさながら反対派の機関紙のような状態になっている。この違いは何処から来ているのか。

2015年8月24日 (月)

長久手市長選挙はじまる

  市制施行後初となる長久手市長選挙が始まった。事前の立候補表明した新人の森岡稔候補と現職の吉田一平候補の二人以外に立候補は無かった。

 今回の市長選挙は吉田市長の市政について評価するか否かが大きな争点になるところだが、吉田市長の行政運営には大きなミスは今のところ無い。論点になるとすれば吉田市長が取り組んでいる「分権型行政」や「絆の復活」だが、こちらも今のところは目立った問題が起きているわけではない。

 「分権型行政」や「絆の復活」は吉田市長の目算通りに進めばコミュニティ復活等もあって良いのだが、地域で声の大きな人が公権力の行使に関わってしまうリスクや、旧来の「ムラ社会」復活にもなりかねないところがある。悪事も最初は善意によって始まっているものだから、これは今後の吉田市長の手腕と、住民の人権意識次第だろう。少なくとも、現状では目立ったマイナス要因が無いので、吉田市長の従前の目玉政策に対して否定的な評価をする有権者はほとんどいないのではないか。

 一方の森岡候補の政策だが、「有事法制反対」以外の政策については不勉強な点が目立ちすぎている。例えば「非正規公務員を正規化する」と言うが、公務員は「雇用」ではなく「任用」であって、民間の正規雇用転換と同じ考え方を行政や裁判所は取っていない。少なくとも基礎自治体レベルで対処できるような状態ではない。私自身は、非正規公務員を積極的に正規公務員に任用できる制度は必要だと思うが、すべてを任用できるわけもないし、非正規公務員はもともと正規公務員よりも緩い採用が行われて来たから、非正規公務員ルートを取ることで正規公務員採用の「裏口ルート」になる懸念もある。

 政策的に見た場合、吉田市長が良きにせよ悪しきにせよ「長久手市を運営するひとつのパッケージ」として捉えられるのに対して、森岡候補は個々の政策はともかくとして、全体構造が良く見えない。「この町に住んでいるのだから、自分たちの足元から平和運動に取り組んでいこうではないか」という姿勢を強調しているわけでもない。それほど自衛隊が嫌いなら、「長久手市は自衛隊を使わない、長久手市は自衛隊に情報を出さない、長久手市は自衛隊に人を出さない」とか、「有事の際は、市長自ら得意の語学力を生かして直接侵攻勢力との交渉にあたり、無抵抗での占領を受け入れますから、日本中が戦場になっても長久手市民の血は流れません」という政策でも掲げてはどうかと思うが、そこまでの発想もなかったようだ。

 選挙はまだ始まったばかりであり、長久手市の投票率はもともと決して高いわけではない。各候補の活動次第だが、今のところ盛り上がっているとは言えないのが辛いところだ。

« 2015年8月16日 - 2015年8月22日 | トップページ | 2015年8月30日 - 2015年9月5日 »