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2015年8月

2015年8月31日 (月)

吉田一平市長、再選おめでとうございます

 昨日行われた長久手市長選挙で、現職の吉田一平市長が10,868票を獲得し、大差で当選を果たされた。吉田市長の実績と、「夢」が評価された結果であると思う。心からお祝いを申し上げたい。

 吉田市長の取り組みは、基本的に長久手市というローカルな範囲に留まっている。ご自身も、そのように自覚されている。しかし、吉田市長の取り組みや言動を通じて見えているのは、ネオ・リベラズムとは全く異なる社会づくりへの模索である。それは「共生」であり、「コモンズの再構築」である。

 世界的には1970年代以降、日本でも1980年代以降は、「ネオ・リベラリズム」の考えに基づく社会改革が行われてきた。この経済優先、市場優先の思想は先進諸国を中心に格差社会に代表される大きな矛盾を生んできたが、未だ「ネオ・リベラリズム」に対抗しうる新たな価値観を生み出すまでには至っていない。

 「コモンズの再構築」はネオ・リベラリズムに対抗し得る価値観ではないかと言われてはいるが、あくまでも学者が研究室の中で言っているに過ぎない。しかし、吉田市長はご自身の生き方を通じてほぼこの考え方に到達したのみならず、既に一期目の段階でコモンズの再構築に向けた改革に着手している。

 吉田市長は「自分の故郷を何とかしたい」という想いから市長に立たれ、その考え方に基づいて二期目に挑戦された。その根底にあるのはあくまでも「素朴な郷土愛」であって、日本国内のみならず国際的にも大きな価値のあることをやっているという自覚は無いようである。本当の価値が大衆に理解されるのはもっと先の時代になるかも知れないが、これは大きな仕事になる。

 長久手市の施策を通じて、先進諸国家にとってもモデルとなるような「新たな社会づくり」につながる可能性がある。吉田市長の二期目の奮闘を期待したい。

2015年8月30日 (日)

長久手市長選挙投票日

 今日は長久手市長選挙の投票日である。

 長久手市民である有権者一人一人が、きちんと権利を行使して賢明な選択をするよう期待したい。

2015年8月29日 (土)

長久手市長選挙、吉田一平候補の哲学を考える

 長久手市長選挙に立候補している現職の吉田一平市長の話は、率直に言って分かり難い。市長選挙に興味のない人たちには、何を言っているかほとんど分からないだろう。吉田市長の応援をしている地元住民ですら、分かる人は少数派ではないだろうか。吉田市長自身、「自分の話は分かり難い」と認めている。

 だが、吉田市長の話をじっくり聞いて整理していくと、そこから浮かび上がってくるのは独特の「哲学」である。この哲学は、1980年代以降の日本を席巻して食い荒らしてきたきた「新自由主義路線」とは全く異なる考え方だ。これは、我が国の「保守層」にとって、市場や資本を重視する新自由主義路線とは異なる選択肢を提供するものであり、保守系の政治家の中からこうした動きが出てきたことはもっと全国的に注目されてよいのではないか。国際的に見ても、先進国の新たな進むべき社会のモデルとなる可能性もある。

 吉田市長の演説にもパンフレットにも、「民営化」とか「人件費削減」「効率」という言葉は出てこない。かわって「共生」の考え方が貫かれている。吉田市長の考え方をまとめると、「コモンズ(商品化されていない社会的な協働や生産)の再構築」という哲学が貫かれていることが分かる(無論、「都市と農村の共生」など、それだけではないが)。

 コモンズの考え方は、過激な市場主義・競争社会から離脱する理屈として、経済学者の一部が主張している。もともと、過激な市場主義に対峙する考え方は「社会主義」「共産主義」であったが、これらは冷戦終結とともにほぼ潰えた。が、市場経済は統制経済よりも優れてはいるものの、問題がなくなったわけではなかった。そこで、かつてのマルクス経済学者を中心に市場万能主義に対する価値観の再構築が行われており、そのひとつが「コモンズ」の考え方である(なお、私は経済思想を専門としているわけではないので、多少錯誤があるかも知れない)。

 吉田市長の恐るべきは、この人物の経歴に高等教育や専門教育を受けた形跡が全くないことである。海外生活の経験も、マスコミなど言論機関で働いたこともない。となると、吉田市長の「哲学」はご自身が地域活動や福祉施設・教育施設の運営に携わる中で生み出されたものであると考えざるを得ない。つい最近まで農村社会であった長久手で、このような「鬼才」が出てきたことは、ある意味では奇跡である。農村社会と言うものは洋の東西を問わず保守的であり、前例を踏襲していくことが重要であり、新しい考え方が出てくることを好まない。実際、吉田市長が若い頃は「かなり異質」に見られていたというから、強固な意志があることは間違いない。

 そう考えると、吉田市長の話が分かり難いのは当たり前だ。吉田市長は独力で、「コモンズ」に類似する考え方に行き着いた。経済学者が研究室で理論研究を行う中から生み出した理屈を話しているわけではない。吉田市長の地域活動の中で生み出された理論であり、実業家からただちに首長に転じて現在も市長として活動している以上、理論的な整理が十分にできていないのは仕方がない。理論的な整理に傾注すれば、実務を行う時間など無くなってしまう。中国の戦国時代末期の法家の思想家である李斯をはじめ、実務家であったためにまとまった著作を残せなかった思想家は多い。マキャベリは「君主論」を書いてその哲学や理論を後世に残しているが、これはマキャベリがフィレンツェ共和国内の権力闘争で敗北し、ずっと失業状態のままで髀肉之嘆を囲っていたからできたことである。

 選挙に当選することだけを優先するのであれば、考えていない人たちに対しても「分かりやすい話」をした方が良い。だが、吉田市長は今回の選挙の最期の最期まで、自分の哲学を説き続けた。これは、政治家として極めて勇気のいる事であっただろう。

 1980年代以降続いてきた新自由主義の流れの中で、効率化と民営化が推し進められた結果、行政サービスの低下や公務ワーキングプアなど新たな問題が目につくようになった。また、住民が一方的な行政サービスの利用者、お客様と位置づけられることで、自治意識が低下し、行政に対する理不尽なクレームが激増するに至っている。

 吉田市長はこうした一連の流れの根底にある価値観とは異なる価値観を有権者に提示している。保守系の政治家としては異質だが、そもそも「保守」の立場にあることと「市場原理主義」であることとは何の関連性も無いことは、京都大の池田先生の学会報告で明らかになっている。ただ、多くの保守系の政治家は市場原理主義的な政策に多少の嫌悪感を示すことはあっても、新自由主義とは異なる価値観を打ち出すという事が無かった。これは国政レベルでも地方政治のレベルでも事情は大して変わらない。何故ならば、市場原理主義に批判的な言動をすると「社会主義的」「サヨク」とレッテルを貼られるからで、これは保守に身を置く者としては気持ちのいいものではない。

 吉田市長の「哲学」は、「保守層」が立脚できる新たな価値観を確立できる可能性を秘めていると言える。吉田市政が引き続き四年間続くとすれば、この「哲学」をどのようにして具体的な行政に反映させていくかと言うところが重要になる。議会や行政の担当者は、吉田市長の「哲学」を理解した上で議論を行うべきだ。市長のブレーンは、市長の哲学を秩序立ててまとめることをするべきだ。そうすれば、多くの住民がもっと提案をし易くなるだろう。

 「コモンズ」については市場原理主義的な立場からの批判だけでなく、反市場原理主義的な立場からも疑問が提起されている。故に、吉田市長の「哲学」にもとづく施策についても、多くの議論の余地がある。完成された理論ではないのだから、思想の具現化をしていく中で、問題点を修正していく作業が必要だ。

 例えば「おせっかい」と「プライバシー権」の均衡をどう考えるか。地域活動に参加する住民の負担をどう考えるか。彼らに報酬を支払う場合、労働契約なのか準委任契約なのか。市役所の行うべき意思決定を地域分権するという事は一住民でも公権力の行使にあたるのか。地域分権社会に参画してくる外国人の取り扱いはどうするか。従前プランを担ってきた市職員や専門家はどのように活用するのか。課題は少なくない。

 吉田市長を中心に、議会や行政に加え、住民も含めて建設的な議論がなされることを期待したい。

2015年8月28日 (金)

外国人技能実習生の拡充は亡国への道

 政府は外国人技能実習生を拡大して、介護などでも受け入れていく方針だ。これは亡国への道である。

 残念ながら、多くの企業では外国人技能実習生は事実上「低賃金で使える外国人労働者」という扱いになってしまっており、関係者の本音もそのような認識だ。実際、受け入れ企業の関係者で「実習のため」と本気で考えている人を見たことが無い。

 また、「外国人労働者」として見た場合であっても、出身者の文化的背景などに配慮した労務管理が行われているとは言い難い。「訳の分からないものを食べている」「飲みに行こうともしない」など、あからさまな外国人蔑視の言葉を口にする経営者すら珍しくは無いのである。

 これで介護などへ広げようというのだから狂気の沙汰だ。日本人労働者が引っ張られる形で労働条件の低下に苦しむだけではない。失踪者は「統計に表れない不法移民」となり、日本国内で新たな「不安定層」を構成することになる。これが犯罪の温床になるのは明白だ。

 また、その対応は自治体にとって大きな負担となる。長久手市の吉田一平市長は「福祉日本一のまち」を公約に掲げており、市内には福祉施設や福祉関係の学校も多い。介護施設に受入れた外国人技能実習生がそのまま不法移民として定住するようなことになれば、福祉のまちであることがそのままリスクになってしまう。地元住民にとって、「福祉日本一のまち」は望ましくとも、不法移民のまちになることは受け入れられないであろう。

2015年8月27日 (木)

「自治体外交」という幻想

 国会で安全保障や外交で論戦が行われる時期には、地方選挙でも主として野党側の候補者が「戦争反対」や「九条擁護」を掲げて選挙を戦うことがある。このような場合に「自治体外交」と称して、地方政治家が独自の外交を行うことを公約として掲げることがあるが、これは本当に妥当なのであろうか。

 結論から言えば、自治体は外交を行うことができない。国際法で外交を行う主体を認められているのはあくまでも国家だけである。「交戦団体」という存在が一定の当事者性を認められることもないわけではないが、「交戦団体」は国家を作ろうとして武力闘争中の場合が想定されている。つまり、「独立する気もない自治体など、国際法の世界でははじめから問題外である」ということだ。NGOや個人についても同様で、確かに当事者性を認めるべきだという議論がないわけではないが、あくまでも少数説でしかないし、実務的にも採用されていない。

 国際法で当事者性が認められていない以上、自治体はどう転んでも外交の主体にはなり得ない。自治体も「国際交流」は可能だが、「自治体外交」という言葉で、あたかも自治体が国際社会で影響力を行使しう得るかのように宣伝するのは感心しない。

 むしろ、自治体の関係者が外国で好き勝手な言動を繰り返すことで、国の安全が脅かされることの方が問題だ。敵対国としては、敵対国内の自治体関係者を優遇することで、その自治体関係者をシンパにして自国政府と敵対関係にすることもできる。これは、併合を目論む地域の反政府側の関係者を籠絡して併合対象国内で内紛を作りだし、それを口実に進駐して併合するという、ナチスが好んだ手を思い出せばよい。

 残念ながら、「自治体外交」は幻想に過ぎない。言うなれば、ゲームのプレイヤーとしての資格が認められていないので、はじめからゲームに参加できない状態にある。

 なお、選挙公約に法で制限が設けられているわけではない。かつて東京都知事選挙には「政府転覆」を公約に掲げる候補者が登場して話題になったし、「首相を地獄の火の中に投げ込む」と言い張る政治活動家は未だに衆参の選挙に立候補を続けている。

2015年8月25日 (火)

戦争法とアジア諸国

 安保法について、フィリピンやベトナムなど中国の圧迫を受けている諸国はおおむね賛成の意向を示している。歓迎する声すらある。

 一方、興味深いことに、今回の戦争法では中韓も不快感や懸念は示しているものの、ヒステリックな反応はしていない。日本の戦争法に反対するという反日デモが起きているという話も聞かない。

 フィリピンやベトナムの賛成は政府当局の見解だが、それらの国で民間人が大々的な反対をしているという話も聞いたことが無い。

 一方で日本国内では大々的な反対運動が起きているし、中日新聞などはさながら反対派の機関紙のような状態になっている。この違いは何処から来ているのか。

2015年8月24日 (月)

長久手市長選挙はじまる

  市制施行後初となる長久手市長選挙が始まった。事前の立候補表明した新人の森岡稔候補と現職の吉田一平候補の二人以外に立候補は無かった。

 今回の市長選挙は吉田市長の市政について評価するか否かが大きな争点になるところだが、吉田市長の行政運営には大きなミスは今のところ無い。論点になるとすれば吉田市長が取り組んでいる「分権型行政」や「絆の復活」だが、こちらも今のところは目立った問題が起きているわけではない。

 「分権型行政」や「絆の復活」は吉田市長の目算通りに進めばコミュニティ復活等もあって良いのだが、地域で声の大きな人が公権力の行使に関わってしまうリスクや、旧来の「ムラ社会」復活にもなりかねないところがある。悪事も最初は善意によって始まっているものだから、これは今後の吉田市長の手腕と、住民の人権意識次第だろう。少なくとも、現状では目立ったマイナス要因が無いので、吉田市長の従前の目玉政策に対して否定的な評価をする有権者はほとんどいないのではないか。

 一方の森岡候補の政策だが、「有事法制反対」以外の政策については不勉強な点が目立ちすぎている。例えば「非正規公務員を正規化する」と言うが、公務員は「雇用」ではなく「任用」であって、民間の正規雇用転換と同じ考え方を行政や裁判所は取っていない。少なくとも基礎自治体レベルで対処できるような状態ではない。私自身は、非正規公務員を積極的に正規公務員に任用できる制度は必要だと思うが、すべてを任用できるわけもないし、非正規公務員はもともと正規公務員よりも緩い採用が行われて来たから、非正規公務員ルートを取ることで正規公務員採用の「裏口ルート」になる懸念もある。

 政策的に見た場合、吉田市長が良きにせよ悪しきにせよ「長久手市を運営するひとつのパッケージ」として捉えられるのに対して、森岡候補は個々の政策はともかくとして、全体構造が良く見えない。「この町に住んでいるのだから、自分たちの足元から平和運動に取り組んでいこうではないか」という姿勢を強調しているわけでもない。それほど自衛隊が嫌いなら、「長久手市は自衛隊を使わない、長久手市は自衛隊に情報を出さない、長久手市は自衛隊に人を出さない」とか、「有事の際は、市長自ら得意の語学力を生かして直接侵攻勢力との交渉にあたり、無抵抗での占領を受け入れますから、日本中が戦場になっても長久手市民の血は流れません」という政策でも掲げてはどうかと思うが、そこまでの発想もなかったようだ。

 選挙はまだ始まったばかりであり、長久手市の投票率はもともと決して高いわけではない。各候補の活動次第だが、今のところ盛り上がっているとは言えないのが辛いところだ。

2015年8月17日 (月)

滋賀県大津市議会の議長選挙制度改革に思う

 滋賀県大津市議会が、従来「最大会派の多選議員」から一年交代の慣例で選んできた議長を、立候補制にして議会改革などを議員に示した上で選挙を行うという議長制度改革を行うという。議長を「密室」で選ぶことは何処でも同じだから、真新しい試みと言える。

 だが、必ずしもいいことばかりではない。議長は議会の代表者であるが、中立的に議事整理を行う立場でもあるからだ。

 戦前の帝国議会では、衆議院議長がリーダーシップを取って議会を運営することが当たり前だったのに対して、貴族院議長はそのようなことはしなかった。このため、戦前の帝国議会で衆議院議員を務めていた松野鶴平が戦後参議院議長になった時、戦前の衆議院議長をイメージして強引な議事運営を行い、元貴族院議員が多い参議院で白い眼でも見られたという話がある。

 アメリカの下院議長はリーダーシップを発揮した議事運営を行うことが伝統だが、上院議長は副大統領の兼職で特別な場合を除いて登院はせず、上院仮議長も議事運営を行わない。一年生議員から選ばれる上院仮議長代行が交代で議事運営を行うが、これは議事運営を行うことで議会の仕組みを学ばせるという意味合いが強く、リーダーシップなどはじめから要求されていない。アメリカ上院は「合議」をとりわけ重視するため、議長役にリーダーシップそのものが要求されていないのだろう。

 当たり前だが、行司役がリーダーシップを発揮したり、何かやりたいことを明確にしてしまうと、公正な議事運営が脅かされるのではないかと言う懸念が持たれる。政党中心の抗争の場である衆議院・アメリカ下院と、そうではないアメリカ上院・旧貴族院の差異は偶然とは思われない。地方議会は政党中心の抗争の場ではないことを意識する必要がある。 

2015年8月15日 (土)

電通総研の若者調査結果に思う

 電通総研の調査で、若者は積極的に働く意欲を失いつつあり、三割が「働きたくない」と回答していたことが分かった。「モーレツ社員」「企業戦士」という言葉も死語になりつつあるという。

 若者は正直だ。先の世代がどうなったのかよく見ている。
 我々が就職する頃はまだ「仕事で自己実現」「仕事そのものが自己目的」という価値観があることはあったが、それを利用したブラック企業が幅を利かせるような世の中になってしまった。

 「電通事件」では「モーレツ社員」や「企業戦士」として育成した若者を死に追い込んでいる。今のような労働政策では、「勤労の美徳」も遠からず歴史の彼方に消えていくことになるのではないか。

2015年8月13日 (木)

長久手市長立候補予定者選挙公開討論会に思う

 一般社団法人愛知中央青年会議所主催の長久手市長選挙立候補予定者公開討論会が行われた。立候補予定者として新人の森岡稔氏と現職の吉田一平氏の二人が出席された。

 率直に言って、分かり難い討論会であった。もともと、JCの公開討論会は公平・公正の観点から出席者が丁々発止するというものではなく、コーディネーターが問いかけたテーマについて個々の出席者が回答していくだけである。

 目についたのは、コーディネーターの質問に対して出席者があまり関係のないことを答えていることであった。両人とも、言わんとしていることが全く分からないではないし、特に吉田市長の場合はよく存じ上げているから思想の一部を語っているという事を理解はできる。しかし、予備知識が無い者にはお二人の言い分は「よく分からない」で済めばよい方ではないか。「わけがわからん」と理解を投げ出されてしまう可能性もある。そうなれば、市長選挙への関心は薄れてしまうことになる。

 有権者に媚びて「簡単なこと」だけを並べるのは宜しくない。しかし、思想をきちんと語らないと誤解される可能性が高い。例えば、吉田市長の思想は「都市と農村の共生」である。しかし、「地域におせっかいが必要」とか「子供に勉強を強要せず遊ばせるのが大切」という部分だけ取り上げられれば、単に「ムラ社会への憧憬と回帰志向」にされかねない。折角、両候補とも「思想」を持っているのだから、もっとそこのところに重点を置いた方が、逆に分かりやすくなったのではないか。そこが残念でならない。

2015年8月11日 (火)

問題は徴兵より徴用

 「戦争法が通ると徴兵制が復活し、子供や孫が戦地に送られる」

 安保法反対派を中心に、こんな声があちこちで出ている。安保法賛成派の中には徴兵制導入を叫んでいる者もいないわけではないが、おおむね「徴兵制は復活しない」と主張していることが多い。

 現実問題としては、徴兵制の導入は論外であろう。今や陸海空自衛隊ともに、要求されているのは「プロフェッショナル」であり、体力以上に頭を重視する傾向にある。取り扱う武器が高度化するばかりでは、それも当然だろう。特に海空自衛隊は精密機器を日常的に運用していること、陸上自衛隊以上にアメリカ軍との協調行動が重視されていることもあって、とりわけ「頭」が重視されている。

 海自の掃海艇部隊は戦後70年に渡り、日本近海に残された機雷を掃海し続け、湾岸戦争ではペルシア湾まで出動した「実戦を経験している部隊」なのだが、訪問した掃海艇で、自分より背が低い、自分より太り、度の強い眼鏡を着用した自衛官が並び「幹部です」と紹介されて驚いた。一番大切なのは頭脳で、体力や視力は妥協せざるを得ないという。もちろん、ダイバーの資格を持つ者など筋骨隆々としたいかにも「海の男」という乗組員もたくさんいることはいた。

 自衛官は就職先として希望者は多いが、質を重視しなければならないこと、教育に手間がかかることもあって、希望者全員を入隊させているわけではない。このためもあって、どうしても充足は総じて不足気味である。しかし、誰でも入れて使い物になるわけではない。それどころか、徴兵制が導入されればより低レベルな教育に要員を割かなければならなくなり、育てても育てても退官していくことになるから、ザルで水を掬うような状態になる。陸自OBの中には若干徴兵制を支持している者がいるが、自衛官やOBで徴兵制を支持している人はほとんどいないといってもいい。

 実際のところ、徴兵制導入論者は安全保障問題よりも、若者はけしからんから軍隊に入れて鍛えればいいという。要するに、文句を言わない従順な若者を作りたがっているわけだが、これはもうブラック企業の求める人材を作りたがっていると言わざるを得ない。徴兵制導入論者の多くがブラック企業や暴力を伴う教育や体罰に対しても肯定的な評価をしていることから見て、徴兵制導入論者の言い分は安全保障問題を検討する上で考慮する必要はほとんどなかろう。

 むしろ、問題視すべきは徴兵ではなく徴用ではないか。現在、どの国でも軍事行動は民間人の協力が欠かせない。物資輸送、基地の雑務、武器整備など民間業者が協力していることは多い。自衛隊は「自己完結力」が特質だと言われているが、その自衛隊にしても自前で艦艇が建造できるわけでもなく、戦闘機が作れるわけでもない。むしろ、現代の武器は精密機器の塊になってしまったため、本格的な修理や整備はそっくり民間企業に送ってやってもらうしかない。

 また、陸海空ともに自衛隊の輸送能力は限定されたものしか持っていない。もし、本当に有事になれば武器弾薬の輸送も含めて民間業者に協力を求めることになる。

 問題は、こうした自衛隊に協力する「防衛関連労働」に従事する労働者の処遇だ。防衛省自衛隊に限らず公務員は「自分たちには労働法は適用されないから知らない」と言うのが常だし、官公庁は民間委託問題について「委託先で問題が起きても自分たちは関係ない」「委託先で問題が起きれば契約を解除する」と口を揃えて言う。

 しかし、法務省の窓口業務の受託業者が賃金不払いや社保の未加入・不正を労働者から指摘されるや倒産して逃げた事件や、日本年金機構の委託業者が違法派遣を受け入れていた事件では、契約解除により実際に業務の遅滞を招いている。これが有事の時ならどうなるか考えると、背筋が寒くなる。

 官公庁へ装備品の納入はともかく、サービスを提供する業者では、労働条件は低いところに抑え込まれがちである。これは「人出しによる中間搾取」が最大のうまみであること、再受託できるかどうかは入札次第であるため極力労働者を抱え込まず、労働条件も低く抑えておく必要があるという構造的な問題がある。つまり、低賃金の非正規労働者が公務関連労働に従事している。これは防衛関連労働にしても違いはあるまい。

 お役所は「自分たちは問題の無い企業に委託している」と口をそろえて言うのだが、その「問題の無い企業」であるという監査や審査を行った形跡はない。防衛関連企業については、予備自衛官の雇用などで優遇する制度の導入は検討されているが、広く防衛関連労働に従事する労働者の処遇については改善どころか、調査する仕組みは検討すらされていないようだ。

 つまり、このまま有事に突入した場合、公務員たる自衛官は相応の処遇がなされるものの、その下で業務に従事する民間労働者は「使い捨て」になりかねないということである。

 また、こうした「軍に付随する業務に従事する民間人の地位」は単なる国内法の問題だけでなく、国際法上の問題でもある。自衛官すら「軍人として捕虜になれない」というトンデモ解釈が出てくるくらいだから、防衛関連労働に従事する民間人は問題なく「捕虜にはなれない」と考えるしかない。そうなると、捕虜に付与される権利は認められず、「反逆外国人」「ゲリラ」という扱いをされ、場合によっては死刑になることも考えられなくはない。

 戦場に放り込まれた場合には、軍人であっても「攻撃する対象の選定、使用する武器」などで国際戦争法の拘束を受ける。敵の様に見えるからと言って、何でも無差別に攻撃して良い事にはなっていない。武力行使が合法なものと認められれば問題ないが、瑕疵があれば「戦争犯罪」に問われることになる。このため、国際法では自国の軍人に国際法を叩き込むことが求められており、程度の差こそあれ西側諸国の軍人であればしかるべき教育を受けていることになっている。

 実は、軍と一緒に行動している民間人も武器を取って敵と戦うことが全く想定されていないわけではない。場合によっては、武器を持って敵兵を殺しても合法になる。ただし、武器を持った段階で「民間人」という扱いはされなくなるから、そこにはリスクが伴う。

 国際法では、国に広く国民一般に対して国際法を周知するよう求めてはいるが、日本では大学院レベルであっても国際法の講義には閑古鳥が鳴いている。防衛関連労働に従事している民間人に国際法を教授しているのかと何人かの自衛官・防衛省関係者に聞いてみたが、そんな話は聞いたこともないと言われる。それどころか、民間事業者との密接性すら自覚していない者が多かった。

 自治体や他の官公庁では、民間委託した労働者に公務員が指揮命令を行っている例が往々にして見られる。これは本来「偽装請負」という違法行為なのだが、防衛関連労働でも同じことが起きているのではないかと思われる。となると、自衛官が民間業者の労働者に直接の戦闘行為を補助をさせてしまう可能性を排除できない。例えば、銃を撃っているのが自衛官だとしても、たまたまその場にいた防衛関連労働者に銃弾をマガジンに詰めさせるとか、補助をさせることが考えられなくはない。労働者派遣法違反に問われる前に、敵兵はこの民間人を撃ち殺すことが一般的に認められるであろう。

 無論、軍と行動している民間業者の労働者は違法行為や、民間人としての保護対象から外される行為を要求された場合、断る権利を有している。だが、防衛関連労働者にそうした知識が教授されていなければ、断ることができることすら知らないまま、危険な行為を行ってしまうことになる。

 一般的な公務関連労働では、労働者に「業務を遂行するのに必要最低限度ギリギリ」の教育すら行っていないことが珍しくない。例えば、プール監視員でも泳げないとか、年金相談員が公的年金制度全体を理解していないということがある。受託業者から見れば、教育に割くコストは極力減らしたい。となれば、防衛関連労働に従事する労働者に「国際法を教授せよ」と言っても、現状では形式的なことだけやって業務に送り込むようになるに決まっている。前述したとおり、官公庁はおおむね「企業性善説」に立っており、受託業者の労働条件など把握もしていないからだ。そもそも、「国際法の中身が労働条件になる」という発想そのものがないのではないか。

 訓練を受け、覚悟している軍人であっても、戦地に赴くときは少なからぬ葛藤と恐怖がある。これが当たり前だ。民間労働者には、その「訓練」がない。軍人はおおむね民間の正規労働者よりも高い処遇を受けていることが普通であり、これは我が国でも同じだが、公務関連労働に従事するのは圧倒的に非正規労働者である。つまり、極めて低い労働条件で働くことになる。軍人から見て「臆病」であっても、それは当然であろう。仮に「勇敢」に任務を果たしたとしても、それで正規労働者に転じることができるわけではない。

 自衛官は国を守るための「宣誓」を行うが、民間企業で重視されるのは「営利」である。現行法では虚偽の労働条件で募集したとしてもただちに処罰されるわけではない。今のままでは、有事に自衛隊の業務を請け負う業者が「虚偽の労働条件で募集」し、十分な教育を行わないままで業務に従事させるであろうことは容易に想像できる。無論、民間企業の労働者であるから、退職の自由は残されている。一番恐れているのは、労働者が逃げ出すことであろう。

 ここで「徴用」の問題が出てくる。民間企業の立場で自衛隊の業務を請け負う労働者に、有事であることを理由として退職の自由を認めないなど、人権制約を行う動機がある。徴兵制導入より、こちらの危険性の方が高いのではないか。

 仮に、人権制約を行う制度を国が導入しなかったとしても、民間企業の側が危険であるとして業務遂行を拒絶した労働者に対して不利益取り扱いを行う可能性は否定できないし、業務命令違反を理由とした懲戒解雇ということも考えられる。当該労働者が業務遂行しなかったために利益を得られなかったとなれば、損害賠償の余地すら出てくる。「経済的徴兵」などと危機を煽っているが、そんなことよりも「徴用」が実質的に行われかねないことのほうが問題ではないか。

 安保法の是非はともかく、国の安全にかかわる業務に従事する者には、公的にしかるべき身分と処遇を与えること、民間企業に委託するにしても、相応の処遇と権利義務行使の保障を担保するのは当然であろう。そうしたことをしなければ、またもや「使い捨て」という先の大戦の失敗を繰り返すことになる。

2015年8月 4日 (火)

北方領土分与計画

 プーチン大統領は北方領土をロシア国民に分与する計画を進めている。プーチン大統領の強権的な姿勢から考えれば北方領土の支配を固めることは、愛国心を煽る手段として最適だろう。

 日本の安保法は直接関係はないだろうが、ロシアとしては日本は敵国ではないかもしれないが味方ではない。むしろ、ロシアは中国や北朝鮮を支援する立場にあるわけだから、日本がアメリカと関係を密にされるのはあまり喜ばしくは無い筈だ。

 これで北方領土返還のハードルはまたひとつ上がってしまったことになる。仮に北方領土返還が実現できたとしても、住民を追い出すことはかなり難しい。そもそも、国際法では住民は土地に帰属するのが原則なので、北方領土を返還されるとロシア人住民も一緒に日本に入ってくることになる。無論、ロシアと合意があればロシアに送還することもできるし、日本国籍ではなくロシア国籍を選択させることも可能だ。

 土地についてはロシア住民か元島民のどちらかに金銭補償をすることで解決できる可能性はある。しかし、国籍となると容易ではない。現在のロシア人を強制送還するわけにはいかないから、「在日ロシア人」とするか「ロシア系日本人」とするかだ。後者の場合、日本国籍取得のためにロシア人が北方領土に殺到する可能性もある。

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