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2013年2月24日 - 2013年3月2日

2013年3月 1日 (金)

ローマ教皇ベネデイクトゥス16世退位・使徒座空位に

                     

 ローマ教皇ベネデイクトゥス16世が退位し、バチカンはトップを欠いた「使徒座空位」の状態に入った。従前、使徒座空位の間にはバチカンに世界中からカトリック信者が詰めかけて前教皇の葬儀が行われ、同時に弔問外交の舞台ともなってきたが、今回は自発的退位ということもあって静かな印象を受ける。もっとも、一般的に予告して死ぬ教皇はいないから教皇逝去は大事なのだが、自発的退位があらかじめ報じられていたから使徒座空位となるショックは小さいのかも知れない。

 かつては何年間も次期教皇が決まらないという「大空位時代」もあったが、現代ではおおむね一箇月以内にコンクラーベで新しい教皇が選出されている。ヨハネ・パウロ2世以来教義的には保守的な教皇が続いてきたが、次期教皇が避妊や人工妊娠中絶や聖職者の妻帯、ラテン語典礼などにどのような意向を示すのか興味深い。特に、今やカトリックの最大勢力となっている南米では「貧乏人の子だくさん」を地で行く状態になっている。カトリック信者の多いアフリカも同様だ。南米出身の教皇が生まれるとなれば、この問題に対して従来のように一方的に「許されない」というだけで信者の理解を得ていくのは難しいのではないか。

 なお、前教皇ベネディクトゥス16世は「名誉教皇」として「聖下」の称号を引き続き用いられる。体力的に教皇を続けられないとの自発的な退位であるから今回は「院政」は無さそうだが、進歩派が新教皇に選ばれた場合、前教皇の存在自体が教会改革の歯止めにもなりかねない。実質的に初の「存命の前教皇」がどのような役割を果たしていくのか、或いは日本当に何もしないのか。退位後の動向にも注目したい。

2013年2月27日 (水)

「道徳」を教科にすることは必要か

 政府の教育再生実行会議は「道徳」を教科にすることを提言にまとめた。もともと、第一次安倍内閣の頃から「道徳」の教科化は保守派の望むところであったから、復古主義的な第二次安倍政権の嗜好に沿ってこのような提言がされること自体はそう不思議なことではない。

 だが、わざわざ「教科」にする必要があるのかと言うと、疑問に感ぜざるを得ない。我々が子供の頃から週一回は「道徳」の授業はあった。大抵は運動会の練習や漢字や算数の小テストに消えていた記憶があるが、若干は「道徳」の教科書(厳密には教科ではないため副読本らしいが)を読まされた。しかし、それだけのことであった。

 何をもって「道徳」であるかの中身を決めるのかは非常に難しい問題だ。この点、キリスト教文化圏であれば聖書が、イスラーム圏ではクルアーンが基礎となるだろうが、日本にはこのようなものは神道であってもそもそも存在していない。何より、特定の宗教的価値観を採ることは公教育の場ではできる筈もない。

 何が「道徳」で何が「不道徳」かの線引きはかなり困難なことで、例えば自由恋愛は西欧文化圏では問題にならないが、イスラーム文化圏では死に値する不道徳な行為となる。婚前交渉は日本でも保守派を中心に不道徳な行為であるとされているが、現実には自由恋愛の延長線上としてごく普通なことである。仮に自由恋愛や婚前交渉を不道徳な行為であると糾弾してみたところで、逆に守っている人の方が社会的少数派に追いやられるのみならず変わり者として社会一般から人格を否定されることにもなりかねない。

 協調性や個性にしてもそうだ。そもそも、我が国では協調性という名の下で個性や人権を抑圧する傾向にあった。個人として尊重された上での集団と言う概念そのものは存在しない概念であったと言ってもよい。実際、権力側に不都合なことになると「個性を尊重しすぎている」という言葉が権力側から毎度のように出てくる。

 恐ろしいのは、これを「教科」にしてしまうと、それは評価の対象になるということだ。どんな教科でも「点の取り方」というものがあって、現実にその教科に精通していたり興味を持っていたりするよりも、テクニックを身に着けた方が点が高くなることが多い。これが「道徳」でも評価されるということになると、其の者の人間性などとは別のところで「道徳の評価」がされてしまう可能性が高い。何より、道徳は精神面に直結するものだから、道徳の点数が高いから道徳的、低いから不道徳だと言われたら子供も親もたまったものではあるまい。

 そして、残念ながら社会は道徳的にはできていない。慶応大の竹中教授が毎年年初に海外に居住することで住民税の納付を免れていたという話があったが、このような手段は不道徳と一般的にはみなされようけれども合法ではある。何より、安倍内閣を支持している財界関係者の多くの企業では偽装請負や多重派遣などが半ば公然と行われてきたのではなかったか。アベノミクスを支持しているファンド関係者も同じことだ。こうした人々に支持されて存在している安倍政権が「道徳教育」ということ自体、いささか悪い冗談にしか聞こえないが、ビジネスの世界では道徳よりも幾ら儲けたかが重要であることは冷徹な事実である。

 そうすると、結局のところ「道徳」を教えたとしても、それを身に着けた者ほど人生で馬鹿を見ることになりかねない。何しろ、ハゲタカ・フアンドの関係者の中には大学に客員教授で招かれて「コツコツ真面目にやる奴が評価されるのはおかしい。あいつらは馬鹿だ」などと公然と学生に吹き込んでいるような者までいる。実際、労働問題を見ていれば、それは当たっている。そうなると、自ら人生を失敗する者を学校で量産することになりはしないか。

 また、子供という者は意外に大人をよく見ている。親も、子供に失敗をさせたくない。かくして、学校でいくら表面上の「道徳」を教えたところで、ちょっと知恵のある子供たちが面従腹背することになるだろうし、親も子供に対して失敗しないように「教育」を加えるだろう。

 「道徳」の教科化は、結局のところ「美しい言葉」を子供に垂れ流すだけの意味しかない科目になるのではないか。わざわざ「教科」にする必要があるとは思われない。

2013年2月25日 (月)

王毅新外交部長

 中国政府の次期外交部長について、元駐日大使で中国共産党中央委員の王毅国務院台湾事務弁公室主任を軸に調整が進められていることが報じられた。外交部で日本畑を一貫して歩み、知日派として知られる王毅主任が外交部長に就任することが日本として吉と出るか凶と出るか、それは日本政府次第である。

 知日派で日本勤務が長いということは、当然ながら日本の事をよく知っているし、日本の関係者とのパイプ太いということだ。これは日本側としては少なくとも日本側を理解する能力のある人物が交渉のテーブルに座ることを意味する。話が進めやすいということはあるだろうが、同時に日本の泣き所も知り尽くしているが故に、巧みに日本を追いこんでくる可能性も高い。すなわち、日本側のテーブルに誰が座るかで、王毅外交部長は吉とも凶とも出ることになるだろう。少なくとも、中国政府のご機嫌取りに終始した丹羽前駐日大使のような人物が座れば中国側に取り込まれていいように使われるのは間違いない。

 親中派の多かった民主党政権が政権末期には尖閣周辺海域での衝突が発生しているが、それでは自民党政権に代わってどうなったかと言えば、さしたる変化は見られない。むしろ、自民党は中国共産党中央と太いバイブで繋がっている公明党や中国ビジネスで中国政府のご機嫌を損ねたくない財界に支えられているから、彼らの意向を無視して対中強硬路線は実質的に取れない。中国側もこのことをよく分かっているから、日本政府を屈服させるチャンスと捉えているのだろう。日本側に安心感を与える策として王毅外交部長と言う人事を行うとも考えられる。

 従来の対中外交全般及び最近では丹羽前大使を任命しての失敗から少しは学んでいなければならないことだが、「友好」とは時には対決しなければならないこともあるし、言い争いもしなければならない。対中関係においては表面上の波風を立てることを恐れるあまり譲歩を繰り返し、何かあると日本が譲歩することが当たり前になってしまった。これでは中国に傲慢になるなと言う方が無理というものではないか。

 いずれにせよ、対中関係において「利益相反」を起こしそうな人物を対中関係の交渉窓口に置くことだけは絶対に避ける必要がある。

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