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2013年10月13日 - 2013年10月19日

2013年10月19日 (土)

関西国際産業関係研究所創立25周年

 所属している関西国際産業関係研究所の創立25周年行事が同志社大学で行われた。法的には同志社大学とは別の組織だが、同志社大学の名誉教授である中條毅先生が同志社大学を定年退職されると同時に設立され、現在も事務局を同志社大学内に置いて同志社と関係のある研究者が多くメンバーになっているので縁は深い。

 日本に「産業関係学」が根付いているとは言い難い。日本で唯一の産業関係学科である同志社にしても最近は実質的に「労働経済学科」の様相を呈しており、労使関係全体をどのように捉えていくか模索が続いているどころだ。いずれにせよ、少なくとも日本に産業関係学を導入したのは中條先生である。

 御年93歳だが、私の恩師である中田喜文先生の前任教授だから孫弟子、私は文字通り孫の世代だ。実に矍鑠とされており、最初の挨拶は立ったままされ、その後1時間の講演をこなされた。戦時下の同志社をテーマに論文も執筆されており、まだまだやる気なのは恐れ入る。私は中條先生から直接教えを受けたことはない世代であり、同志社を卒業後たまに出席する研究会で御挨拶する程度だが、すっかり顔と名前を覚えられ、こちらが激励を受けて恐縮することしきりであった。長生きするなら先生のように功なり名なりを遂げて健康でありたいものだ。

 研究会ではトヨタ自動車の宮﨑専務役員とパナソニックの中川常務取締役による発表が行われた。両者とも世界的な企業であるだけに、その基幹となる労働者の人材育成には工夫を凝らしている。日本はもともと就職ではなく「就社」と言われており組織内で無関係の部署に配置転換が頻繁に行われることが特色であるが、両者とも幹部候補には必要とされる視野を持たせるため複数の部署を戦略的に経験させるだけでなく、複数の国や企業に出したり、国内外の大学や大学院で研究する機会を与えている。単に今日明日だけ使えればいいという知識ではなく、もっと先に必要となる知識や視野を早い段階から身に着けさせることで、一回り大きな人材を育てようとしている。

 翻って、非正規労働者はどうか。業務に必要なまともな教育すら省略されて現場に放り出され、消耗しつくして使い捨てられることが普通である。非正規労働者から正規労働者に転換できたグループについても、その場の業務知識は相応の物を持っているが、幅広い知識や視野となると疑問だ。この点は単に正規労働者中心の企業と非正規労働者中心の企業との違いの他、企業側が与えている教育の質や、採用段階での学歴など複数の要素を考慮する必要がある。ただし、自分で実務を行うだけならばともかく、相応の組織を動かしていく立場に就けるのであれば、採用時の学歴や出自はともかくとして少なくとも大学レベルの教育を働きながら受けさせるくらいの事はする必要がある。

 厚生労働省は社会人が大学で学びなおすことを推進する法案を提出するそうだが、実現すれば企業人のレベルアップを期待できる。だが、トヨタやパナソニックと言った名の知れた大企業の総合職はともかく、それ以外となるとそもそも大学教育を含めた教育に価値を見出していない例も珍しくなく、実現にはかなりの困難を伴うのではないか。

 今回、改めてトヨタとパナソニックの「綱領」なども熟読し、直接両常務と話す機会を得たが、両社とも特徴的なのは「社会への奉仕」が前面に打ち出されていることである。両者ともに創設が戦前であることもあってともに「産業報国」という言葉が使われているが、それ以外にも社会貢献や従業員間の協調が説かれている。数字や競争という言葉はどこにも使われていない。

 もし、掲げられている会社の「社是」が利益や数字だけだったら、それを達成できなければそのまま労働者にとっては喪失感を味わうだけになる。達成したら、その手法や中身については吟味せず、数字だけに満足することになる。そうやって、表面的なデータだけなら上手くいっているように見える組織が崩壊することかは珍しいことではない。しかし、もっと高い次元の目標が掲げられていたとしたら、マイナスの時期もまた高い目標を達成するための必要な時期だとという気持ちを持てる。何より、仕事そのものが「社会に対して役だっている」という意識を持てるかどうかは重要なことだ。単に「会社に役立っている」だけなら、その会社との縁が切られれば終わりである。

 長く続いている企業には、やはりそれなりの理由がある。ITや人材派遣で急成長した企業の掲げているものを見ると、大変短絡的だし短絡的な理念や目標では人はすぐに離れてしまう。それでは長期的な人材育成はできないし、企業も長期にわたって存続することは困難と言えよう(もっとも、企業を長期に渡って存続させることに価値を見出さない考えもあるが)。

 尚、両社の方針には違いも見られた。トヨタが米国でのリコール騒動のこともあってあくまで品質には妥協しないという姿勢を示しているのに対して、パナソニックはあまり重要とされないところまで高品質にこだわると価格に反映されて高すぎて売れなくなる商品になってしまうので、品質に一定の妥協をする意向である。どちらも一理あるが、この違いが今後どのような違いとなって表れてくるか、興味深い。

2013年10月17日 (木)

評価に潰される組織

 社会政策学会でほぼ欠かさず拝聴している発表がある。西南学院大学の石塚准教授が行っているドイツ化学企業の評価制度をめぐる研究だ。第一次大戦前から20世紀中盤までの人事に関する資料がほぼ残っているため、かなり長期間に渡って個々人の評価まで変遷が追えるのだそうだ。

 石塚先生の研究はまだ途上にあるが、ひとつ私が感じたのは評価制度はもろ刃の剣であるということである。評価制度の運用だけで組織が疲弊してしまったり、実情に合わない評価制度によってモチベーションが下がったり人材が逃げ出したりと言う話はあちこちで聞く。だからこそ、長続きする企業は評価制度を恣意的にならない程度でそこそこ柔軟に運用するし、時代に応じて変えていく。それができる企業が生き残っていると言える。それができる組織にするためには、何が必要なのか。

 ここ二十年ばかり、評価制度を作って競争させればよくなるという考えが大流行していた。一人一人を詳細に締め上げれば業績は上がると。しかし、現実には日本企業は衰退を続けており、心身を害する労働者が続出している。メンタル面での労災認定は激増しており、今やオフィスは「窒息する場」である。

 私は歴史は好きだが歴史学者ではない。一介の実務家という立場である。しかし、色々な仕事をしていると、歴史こそ最も学ぶべき教訓が多い分野であることが分かる。組織を動かすために必要なのは歴史から学び取ることだ。経営者の多くは数字に執着し、数字に一喜一憂する。数字は確かに分かり易い。しかし、数字はかなり恣意的な解釈ができる。そして、数字に一喜一憂する連中の思考と言うのは、大抵そこまでである。学者ですら数字を並べ立てて発表を行った挙句、会場から「それで、あなたはその数字を並べて何が言いたいのか」と質問されると壇上で右往左往する者が珍しくないから仕方がないと言えば仕方がないのだが、数字に一喜一憂しているだけの経営者は所詮二流三流の経営者である。一流の経営者と話すと、彼らは歴史を語る。歴史から教訓を学び取り、それを活かそうとしている。この違いは大きい。

 

2013年10月15日 (火)

後世の検証なき「秘密保全法」は問題

 政府は秘密保全法を臨時国会に提出する予定だが、この法案の危険性については日弁連をはじめとして多くの識者が懸念を示しているところである。

 私は国家機密の保全そのものには一定の制度を設けるべきだとは思うが、政府与党の考えている秘密保全制度は単なる「国家機密のインフレ」で終わってしまうように思われる。何より、後世の検証機会が十分に保障されているとは言い難い。機密指定されたものは、そのまま闇に葬られてしまうだろう。

 アメリカの場合は国家機密も永遠に隠しておくことはできない。指定解除されれば誰でも見ることができ、「沖縄返還密約事件」もアメリカの情報開示制度によって事実であることが明らかになった。一方、もう一方の当事者である日本にはこの種の制度がなかったから、日本側の資料検証を行っても事実にはたどり着けない。

 日本はアメリカと異なり頻繁な政権交代は無く、政府中枢に入る政治家の多くは閨閥によって二重三重に結ばれている。これでは、過去の機密の暴露は自分たちの父や祖父の「恥部」をさらけ出すことになりかねないわけで、特に自民党の関係者が消極的になるのは人情として理解できなくはない。しかし、それを肯定してしまえば我が国は民主主義国ではなくなる。

 沖縄返還密約は私はあの時代には必要だったと思っている。アメリカが血を流して奪い取った沖縄を返還するのに裏で何の条件も付けないほうがむしろ不自然である。日本ではアメリカのベトナム介入をめぐって反米意識が高まっていた時代であり、左翼過激派の力は現代と比べようもないくらい強かった。密約がなければアメリカは返還に応じなかっただろう。

 機密で守られているものが「妥当」でったかどうか、最終的には歴史の法廷の手に委ねられるべきだ。しかし、現在の秘密保全法ではその検証が保障されているとは言い難い。いくらでも機密を機密として闇に葬ることのできる余地がある。これでは、権力のやりたい放題が容認されかねない。

 

2013年10月13日 (日)

社会政策学会

 社会政策学会の秋季大会が大阪経済大学で開催された。社会政策学会に参加するようになったのは、厳密には大学院生の立場を喪失して一介の社会保険労務士に戻ってからなのだが、労働及び社会保険の実務家として研究一筋の人達と意見交換を行うのは大変な刺激になるので毎回楽しみにしている。

 実務の世界では、ともすれば「決まったこと」はその通り通してしまう。いちいち考えていては仕事が進まない。しかし、制度や手続きの制定過程や趣旨を吟味していくと、現実の運用が当初の想定とかけ離れたものになっているのはまだいい方で、中には当初の法制定の趣旨と全く逆の制度になってしまったものすらある。私が今回の学会で興味を抱いたのは在職老齢年金制度に関連する話であった。

 現実には実務を深め、そこに「面白さ」や「やりがい」を感じていくためには、単なる制度運用の表面的な知識だけではなく、「なぜ」「どうして」を追及するアカデミックな視点を持ち続けることが必要である。単に右から左へ処理していくだけなら「専門職」ではなく単なる「職人」に過ぎない。

 確かに、年金にしろ労務にしろ、表面的な実務はそれほど勉強していなくてもできないことはない。ゆえに、この分野での「専門家」は不要であると言われることも多いし、社会保険労務士が単なる代書屋や機構業務の請負人程度の扱いしか受けられないことも珍しいことではない。実際、そのような能力しか持たない社会保険労務士も多いが、特にねんきんを含む社会保険関連業務では専門家としての待遇と格式は全く失われていることがごく当たり前に見られる。

 だが、我が国にブラック企業が蔓延し、年金制度に対する国民の不信感がピークに達していることに思いを致す時、表面的な手続きや説明を行うだけで、本質的な部分を理解し、そこまで立ち入った説明や処理を行ってこなかったことが今日の事態を招いていると言えはしないか。ただちに改善できるとは誰も思っていないが、専門家としてなすべきことをやっていきたい。

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