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2013年9月8日 - 2013年9月14日

2013年9月13日 (金)

13日の金曜日

 今日は13日の金曜日である。伝説ではイエスが十字架にかけられたのが13日の金曜日なのだそうで、西欧世界では昔から不吉な日と言われている。もっとも、このあたりは中世のカトリック教会が言い出したことのようで、イエスの誕生日を12月25日としているのと同じく歴史的な信憑性は乏しい。

 それでも、イエスの誕生日はクリスマスとして日本でも誰もが知っているし、誕生の物語についても全く知らない人は少ない。一方、イエスの磔刑の物語はキリスト教では重要な物語だが、日本ではイエスが十字架に磔になったくらいは知っていても、その物語はそれほど身近ではない。

 メル・ギブソン監督による「パッション」はイエスの最期をかなり忠実に再現した映画として有名で、晩年のヨハネ・パウロ二世も鑑賞して「真実」と言ったと伝えられている(バチカンは鑑賞したことは認めているが、感想については否定)。実際には反ユダヤ的なエピソードが盛り込まれているそうだが、私にはその部分が何処であるのかあまり良く分からなかった。

 それでも、「パッション」は当時の服飾や磔刑だけでなく、登場人物の言葉まで可能な限り忠実な復元を試みている。例えば、イエスはユダヤ人だが日常用語はヘブライ語ではなくアラム語であったと言われており、役者にもアラム語を喋らせている。ヘブライ語は一時は宗教祭祀のみに使われる言語になっていたが、イスラエル建国と同時に復活し今では公用語になった珍しい言葉である。一方、アラム語に現代でも話者がいるということ自体、私はこの映画で知って大変驚いた。イエスを磔にしたローマ総督ピラトゥスらローマ人は言うまでもなくラテン語である。

 史的イエスについての最近の研究もなかなか興味深いものがある。カトリックや正教では伝統的に聖職者は独身であり、イエスもまた独身で童貞であったことになっている。しかし、当時のユダヤ教社会では「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」の言葉にもあるとおり、聖職者も含めて妻帯が当然とされていた。キリスト教の解釈通り、イエスが三十過ぎまで独身で女性とも接触せず、聖書ばかり読んでいる人物だったら「聖人」ではなく「変人」扱いされたのではないか。ローマ側だかユダヤ教側の記録ではイエスは背が低く浅黒く風采のあがらない男だったそうだから、そもそもモテなかったのかも知れない。

 最近の考古学的発見により、初期キリスト教のものとされるパピルスの断片に「キリストが『私の妻は・・・』」と言っている記述も見つかっており、妻帯していた可能性も考えられている。その一方で、当時のユダヤ社会には独身男性だけの異様な集団があったことも墓地などの調査から判明しており、イエスの身の回りのことだけ考えていても信仰上は重大問題になるのだろうが、歴史好きとしては面白い。

2013年9月11日 (水)

911テロから12年

 911同時多発テロから12年になる。あの日から始まった「テロとの戦い」は未だ終わりが見えないままで、非常事態であった筈の戦争が平和な日本ですら常態化しつつある。この「慣れ」はかなり危険だ。

 「テロリスト」として敵とされたのがアルカイダをはじめするイスラム過激派集団である。この恐怖心の裏返しと言うべきか、市井に流布されるイスラームについての知識そのものはこの十数年間で大きく増えたように思う。しかし、日本人のムスリムはほとんどおらず、外国人ムスリムと日常的に接する機会も欧米社会と比べると極めて少ないこともあって、相互理解が市民レベルで進んでいるかと言われれば疑問だ。イスラム教徒をただちに「テロリスト」「原理主義者」という目で見る者も少なくない。

 今でこそテロリストはイスラム過激派の専売特許のようなところがあるが、半世紀前には無慈悲なテロリストであったのはユダヤ教徒であった。イスラエル「建国の父たち」の中にはテロリストの出自を持つ者が少なくなく、中には後に首相まで登った人物もいる。頼れる祖国がないこと、十分な教育が受けられないか受けられない同胞を観ていること、生業で食えないこと、このあたりは宗教や民族に関係なくテロリストを培養する土壌だ。宗教はむしろ後付けの理屈に過ぎない。

 日本はアメリカとともにこの十余年テロとの戦いを進めてきた。しかしながら、テロの土壌となる貧困や富の偏在、民衆の無知に対してどれほどの手を打てたのであろうか。むしろ、新自由主義的な思考の元自由競争や市場主義の名のもと、格差や富の偏在を増幅させ、日本国民の中間層を没落させ、むしろテロリストを醸成する土壌を作っていたのではないか。昨今の中国人韓国人に対する「ヘイトスピーチ」や「あからさまな憎悪」は単純に日本人の民族意識が高まったというだけではないように思われてならない。

 テロリストがテロに走る所以は、定められた手続きでは意見を表明できないか、表明できても富の配分に与れないところにある。日本共産党はかつて武装闘争に走っていた時代があったが、現在では議会を通じて意見を表明する手法を取っている。IRAやファタハも同じで、かつては武装闘争を行っていたが、和平や選挙制度の整備によって合法的な手法に移行してきた。しかし、これとは逆に意見表明の機会が奪われ、合法的に貧困に陥れられるような制度が機能し始めたらどうなるか。従来穏健な人々が武装闘争やそれに近いことを通じて実力で願望を実現させようとするのではないか。

 例えば、労働規制緩和によりブラック企業が合法化されたとする。合法であり貧困や過労死は自己責任だと説明されたとしても、それで納得できるわけもない。かといって、法廷闘争で勝てる見込みがなく、団体交渉においても少数組合や個人加盟組合の団体交渉権が剥奪されたとしたらどうなるか。非合法的な手法に訴える人々が出てきても不思議ではない。

 現在、シリア情勢が緊縛の度を増している。アメリカは武力行使に踏み切るべく地中海に艦隊を終結させ、シリア現政権と密接な関係にあるロシアも艦艇を派遣してアメリカを牽制するなど、シリア内戦は当初の民主化の是非という争点を超えて、大国同士の勢力争いに部族や宗教宗派の対立が混ざるというカオス状態になりつつある。こうなると、誰が軍事的勝者になったとしても、その後の政権運営は厳しい。勝った側は独占しようとするだろうし、勝者に与した側は配分を求める。敗者に寛容になれば分け前が減るから、勝者の指導者とて安泰ではない。「貧しくとも絆があれば助け合える」というのは幻想に過ぎない。むしろ、貧しいからこそ僅かな富の配分に必死になるのである。貧困国として出発したイスラエルとパレスチナが寸土の開拓地を争ったのは農地を確保するしか生きていく方法がなかったからである。一方、冷戦後に分離したチェコとスロバキアは双方とも西欧には遥かに劣るものの東側世界ではそれなりの経済を持っていたこともあって「合法的な離婚」に例えられるほど円満に分離し、今や両国の結びつきはかつてのチェコスロバキア時代より密であるとさえ言われている。

 まだまだ、テロとの戦いは続くだろう。憎悪を煽れば、テロとの戦いへの支持を得ることはそれほど難しいことではなかった。しかし、世界は確実に戦いに疲れてきている。何処に落としどころを求めていくか、これからは更に難しいかじ取りが必要になるのではないか。

 

2013年9月 9日 (月)

2020年東京オリンピック

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 2020年夏季オリンピックの開催地が東京に決まった。日本での夏季オリンピックは1964年の東京大会以来2回目、夏冬併せて4回目の日本開催となる。

 少し前まではイスタンブールが圧倒的に有利と見られていた。何と言っても長い歴史と伝統のある都市であり、紀元前の昔から東西の架け橋となってきた都市である。イスラム国初のオリンピック、それは相応の経済力を持つだけでなく世俗国家でなければ難しいという条件もあったから、最初に射止めるのは間違いなくトルコだろうと私も思っていた。しかし、隣国のシリア内戦が全てを狂わせてしまった。国内の経済問題を巡るデモと言う問題はあったが、これはスペインも日本も無縁のものではなかったから致命傷になったとは言い難い。

 イスタンブールはこれが5度目の立候補であった。EU加盟問題もそうだが、トルコの前には常にハードルが作られ、後から来た国に先を越されていく。こうした境遇がトルコを再びイスラムに向けていることは確かだ。トルコを「世俗国家」「東西の架け橋」たらしめることは国際情勢の安定化に資するものだが、そのためにはトルコに西欧世界と組んだことによる利を実感させられる場を設ける必要がある。オリンピック開催は何よりの「場」となろう。

 もともと、トルコ沿岸部は紀元前のギリシア人の植民活動による起源を持つ都市が少なくない。一方で、ギリシアとトルコは神話の時代から抗争を繰り広げてきた。トロイ戦争は最も有名なところだ。ギリシアもトルコもその地の民族や宗教が入れ替わっているにせよ、現在に至るまで緊張状態が続いており、両国はともに西側世界に属しながら仲は悪い。このあたりは、日韓関係を思い起こさせるところがある。オリンピックはもともとギリシア発祥であるが、そのオリンピックをギリシアの宿敵トルコが開催するということもまた、歴史的な出来事になった筈である。

 東京が開催地に決まった時、真っ先に我が国の安倍総理の元に駆け寄って祝意を表したのはトルコのエルドアン首相であった。2024年又は2028年の開催に向けてイスタンブールはまた歩き始めるだろうが、私としては2020年東京オリンピックの最後に五輪旗がイスタンブールに引き継がれるのを見たいと思っている。

 さて、日本は開催を獲得したが課題は多い。日本の汚染水問題は簡単に解決できない問題ではあるが、国際社会は泥沼紛争と化しているシリアよりは「マシ」と考えたのではないかと思われる。いずれにせよ、オリンピック誘致=安全という図式は成り立たない。日本人の性質として「問題を解決」するよりも「めでたいことがあるのだから、不景気なことは言うな」と封じ込めてしまうことがあるので、汚染水問題もオリンピックの陰に隠れて誤魔化されてしまうのではないかとの危惧を抱いている人は少なくないのではないか。

 経済財政面でも問題は少なくない。オリンピック開催は施設建設だけでも金がかかる。また、選手の強化にも資金を投入する方針であるという。財政が潤沢ならばともかく、増税に社会保障費の圧縮を行ってもまだ足りないというのが現実なのだ。当然、煽りを食う分野が出てくることになる。オリンピック開催も相俟って、スポーツ関連の予算は拡大されるだろうが、資金を投ずべき教育はスポーツだけではない。義務教育では体育は優遇されているが音楽や演劇は明らかに割を食わされている。これが拡大することは文化国家として好ましいことではない。

 「子供たちに夢を」というのは決まり文句だが、はっきり言って射撃や馬術ならともかく、それ以外の競技では「夢」を持つくらいの年になってから競技をはじめてもメダルには届かない。メダリストの量産のためには、かつて共産圏がやっていたような純粋培養は無理にしても、幼稚園くらいで競技一筋の生活をさせなければおぼつかない。

 オリンピックが経済の起爆剤になるという理屈も眉唾物だ。愛知万博もそうだったが、多層構造の中で地元業者や中小企業に回ってくる時はほとんど利益など出ない仕事になってしまう。今回も大企業が内部留保としてため込むのがせいぜいではないか。むしろ、物価高等に庶民は苦しむことになる可能性の方が高い。先のロンドンオリンピックでも市民層は経済効果を実感できなかったというし、先進国ではそんなものであろう。

 それでも「夢」のためにやるというのだから、決まってしまった以上やらざるを得ない。幸い、東京が選ばれたひとつの理由は会場となる施設がある程度整備されていること、狭い範囲内に競技施設が集中していることである。コンパクトなオリンピックという先の中国がやった北京オリンピックとは違うコンセプトのオリンピックを打ち出すことはできるのではないか。

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