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2013年6月23日 - 2013年6月29日

2013年6月29日 (土)

「尖閣は日本が盗んだ」鳩山元首相発言に思う

 鳩山元総理が訪問中の中国で「尖閣は日本が盗んだ」という中国側の主張を受け入れるかのような発言をしたことが問題になっている。中国側としてはまことに「有難い」発言であったろう。

 現在の緊迫した日中関係は、もともと鳩山政権発足の時にその萌芽を見せている。鳩山政権は当時の小沢幹事長などを含めて「親中反米政権」だと発足当初から見られていた。実際、鳩山政権では沖縄の基地問題、丹羽大使起用問題、小沢大規模訪中団等明らかに中国政府に「迎合」したかのような行動が見られた。この段階で中国側は日本を甘く見た。一度このような迎合をやってしまえば、後から「正常」な関係に戻ろうとしてもそれは中国にとっては「後退」を意味するものになってしまう。鳩山元総理以降の歴代民主党政権も現在の自民党政権も決して「反中」ではないのだが、中国にしてみれば鳩山政権と比較してしまうから「鳩山政権よりも友好的ではない」と思うようになるし、態度も厳しくなる。

 日本国内での鳩山元総理に対する評価も地に落ちている感があり、民主党にしても鳩山元総理の居場所は最早無いのだろう。それでも、アメリカの元大統領のように「超然とした元首相」としていられればよかったのだろうが、鳩山元総理にはそれができなかった。日本国内の空気と違って中国に渡れば「友好人士」として暖かく接してもらえる。自国で厳しい立場に置かれている人に対して暖かく接することで自国シンパにしてしまう手法は何処の国でもやっていることだが、特に中国はこの手段に長けている。

 鳩山元総理の過去の発言を思い返すと、周囲にタカ派的な人がいたときには「改憲」など比較的タカ派的な発言をしていたし、周囲に新自由主義思想の人がいたときには小泉政権に対抗して「構造改革競争」をやろうと言っていた。今の鳩山元総理にとって中国関係者が周囲にいるから、今回のような発言をしているとも考えられるし、心底中国側の主張に「共感」してしまっている可能性もある。どちらにしても、日本にとっては危険極まりないことに変わりはない。

 結局、鳩山元総理は「中国」と「中国人」を最後まで理解できなかったのではないか。一方的に迎合するだけでは、決して中国人からは尊敬はされない。戦略的に「暖かく迎えられる」ことはあるかも知れないが、真の「友好」にはならない。中国人と接してみて思うのは、彼らはプライドが高いということで、彼らと対等に接するためにはこちらもプライドを持って理論武装することである。考えてみれば当たり前のことだが、人は高い立場の人と接することができる方が総じて「満足」するものだ。「上司を出せ」とクレーマーが叫ぶのも、それが解決につながるからではなく自己のプライドを満足させることで引くことができるからである。私だって、話をするならば小役人よりは大人(たいじん)の方がいい。卑屈な人間と対等に付き合うことは自分を卑屈な人間と同格の立場に貶めることになるが、大人と対等背付き合うことは自分を大人の関係まで高めることにつながるものである。

 卑屈で迎合しかしない鳩山元総理と対等に付き合うということは、中国人にとって自分をあのレベルまで貶めることになる。鳩山元総理のこのような発言は今に始まったことではないが、このような人物が「日本」の内閣総理大臣だったということそのものが驚きに値する。

 

2013年6月27日 (木)

中間層の拡大という視点は評価できるが・・・

 民主党が参院選の公約の柱として「中間層の拡大」を打ち出した。「中間層の拡大」という視点自体は、日本を再生させるという点でアベノミクスよりも根本的なところ、即ち日本の背骨を強化するということにつながるから、視点としては相応に評価できる。

 しかし、民主党自身が「本気」なのか私は未だ懐疑的な目で見ざるを得ない。それは、2000年代中盤から国民の期待を集めながら政権を握った途端に尽く裏切った民主党政権の前科前歴による。

 確かに、民主党は政権獲得前は「国民の生活が第一」をスローガンとして掲げていた。政策の個々の具体的な中身については今も昔も具体性に乏しい点が多かったが、もともと陽の東西を問わず野党暮らしの長い政党の政策はそんなものである。問題は、政権獲得後の民主党政権の行動だった。

 民主党は政権獲得直前の選挙ではどぶ板や有力な圧力団体を味方につける戦術を取った。これ自体は選挙戦術としては有効であったかも知れない。しかし、この結果として民主党そのものが圧力団体の顔色を伺わなければならない政党、すなわち自民党と同じ土俵に立ってしまうことになった。それでも、民主党には小泉自民党政権下で鬱積した国民の期待が集まり、中間層への配分と言う政策転換を求める層、従来自民党を支持してきた圧力団体・地域団体、それに自民党政権に飽き足らず更なる急進的な市場主義改革を求めるネオ・リベラリズム支持者を「自民党政権への不満」という一点に結集することで2009年総選挙の圧勝につながったと考える。

 しかしながら、これだけ水と油の支持者をかき集め、さらに財界にまですり寄った結果、民主党は政権獲得当初より経済政策についての独自性を喪っていた感がある。当時の小沢幹事長が幹事長室に陳情等の権力を集中するに至ったところなどは「密室政治の復活」そのものであり、漠然と若い政治家の多い民主党に期待していた有権者の期待を早くも裏切ることになった。国内向けの経済政策で利害の異なる支持団体から支持をかき集めていた以上、「中間層」かさ上げ=弱肉強食の是正に踏み込めるわけもなく、結果的に独自色を中国韓国との外交に見出し、対米関係を史上最悪の状態に陥らせる一方融和と譲歩を重ねた結果中国韓国等特定アジア諸国の攻勢を招く結果になったのは民主党が政権獲得前に予測されていた最悪の事態そのものであったと言えよう。

 そして、民主党の若手の中心となっていた松下政経塾出身者とそのシンパはもともと新自由主義的な思考の持ち主であり、外資企業出身者を公募等で多く議員にしてきたこともあって、経済政策は迷走しつつも経済界からの要望に屈する形で進められ、自民党政権との違いを明確に打ち出すことは結果的にできなかった。むしろTPP参加等で自民党政権と同じく弱肉強食路線すら進んでしまった。これでは、中間層も含めて小泉政権等一連の「構造改革」で苦しみ続けた結果民主党に期待した人々にとって裏切られたと感じられるのは当然の事であったと言えよう。

 民主党がこの前科を反省した上で、政策転換して「中間層の拡大」を打ち出したのであれば十分に評価できる。もともと、我が国の経済的な強さはエリートはともかくとして中間的な立場として経済の現場で働ける良質な労働力を持っていたことにあった。これは歴史的に見てもエリート階級が国をけん引する一方で国民全体としてみれば初等教育すらままならなかった明治時代に比べて進学率が上がり中間層が生み出された大正時代から、それが拡大していった昭和初期になるに従って工業化が進み、経済成長と国民生活の向上が戦前においても見られたことでも明らかなところである。

 しかし、民主党の動きを見ていると、政権与党時代の「失敗」「政策ミス」を十分に反省しているとは思われない。むしろ、新自由主義的な政策が「アベノミクス」として復活したので、選挙目的での批判の口実として持ち出してきたのではないかと疑わざるを得ないのだ。あれだけ期待を受けて政権与党に就きながら、ほとんど有効な手を打てず迷走した挙げぐ自滅したこともあるから、そう簡単に信用されないのは当然であろう。

2013年6月25日 (火)

0増5減を評価する

 国会で衆議院の区割りを変更し「0増5減」とする法案が成立した。私は最大の問題は一票の格差を放置することであると考えているので、この措置を評価したい。

 民主党はあくまで衆議院議員の定数を大幅に削減することを主張して譲らなかった。確かに与野党は過去にそのような合意をしていたから、民主党が自民党を批判することに全く理がないわけではない。しかしながら、議員定数の削減は政策上の問題であるのに対し、一票の格差は憲法上の問題であって、両者の質も次元も全く異なるものである。

 議員定数を決めるのは国会であり、国会には広範な裁量権が与えられている。例えば衆議院議員の定数を600にすることも300にすることも自由だ。さすがにバチカンの立法府並みに「数人」にしてしまったら問題だろうが、余程極端なものでなければ許容されると見ていい。一方、一票の格差は憲法上の人権問題だから、格差が生じることは原則的に許されない。国会が格差を許容することも基本的にはできない。

 言うまでもなく、格差是正の方が定数削減よりも圧倒的に重要なものであることは論を待たない。これを同列に論じていた民主党の言い分は、何が憲法上重要なのか理解していなかつたのではないかと言わざるを得ない。

 確かに「議員を減らせ」「政治家は無駄」とよく言われることだから、自分を「削減側=改革者」の側に位置づけ、反対派を「守旧派」にすることは政治闘争の上では有効である。民主党は自分たちをそうした位置づけにすることを狙っていたのだろう。もちろん、「消費税などで国民に負担をお願いするのなら政治家が身を切るべき」という理屈は言っているが、貴族制の存在しない我が国では政治家も国民であり、政治家と言う確立された階級があるわけではない。何より、「無駄」「馬鹿」と批判しようがそうした人物を選出してきたのは他ならぬ国民自身である。

 私自身は日本が議院内閣制の統治機構を持っていること、スポイルズ・システムが確立していないことを考慮すれば、議会は行政府への人材供給源・人材養成所として性格を持つから、議会が純粋な立法府としての性質しか持たない国に比べて議員定数は相応に多くてしかるべきだと考えている。議院内閣制の国家で議員定数を減らせば、立法府も行政府も機能不全を招くことになり、ひいては両者の形骸化につながりかねない。国政を担う人材をどこでプールして育てるのかと言う問題もある。

 「アメリカのように民間で経験を積んで即戦力として政治家になればいい」という意見もあるが、アメリカであっても現実のところ議会の中心となっているのは日本以上の「高齢・多選」議員である。違いがあるとすれば、日本では議事運営はベテラン議員が名実ともに中心となって行うのに対して、アメリカでは「上院仮議長代行」に見られるように議員になりたての若手議員が議事運営のポストに就いて学ぶ機会があるくらいであろう。

 「民間で経験を積んだ」政治家が政府や議会のポストに就いて自分たちの「お友達」への利益誘導を行っているのはアメリカ政治でも大いに問題になっているところだし、民間経験豊富と言っても所詮は行政の素人であるが故に内政外交で失敗を犯した閣僚や大使など挙げればきりがない。「アメリカのように民間で経験を積んで即戦力として政治家になればいい」というのも、所詮は幻想に過ぎないと言わざるを得ない。

 ともかくも、一票の格差是正が行われることは評価に値する。違憲状態を修正することを第一義とした与党側の判断が妥当であったと考える。

2013年6月23日 (日)

ワールドカップより福祉を

                         ブラジルの国旗

 ブラジルでは大規模なデモが続き、事態を重く見たルセフィ大統領は訪日を中止した。ブラジル本国のみならず、日本にいるブラジル人もデモを起こしている。

 経済発展著しいブラジルだが、発展途上国の常として国内は汚職が蔓延し貧富の差も拡大している。2014年のFIFAワールドカップ開催に反対し「ワールドカップより福祉を」という主張が出るようになるのももっともなことだ。実際、日本でも2000年代にワールドカップと万博を相次いで開催したが、それが一般市民の福祉の向上に役立ったかと問われれば疑問である。今や「国際的なイベント」は「国際的な企業」が受託するのが普通である。我々が考える「地元企業」が受託できるとすればそれは下請孫請けとしての立場であって、国家的イベントとして国民の税金をもって投下した資本は地元に大して還元されない。誘致に尽力した地元関係者が唖然とする間もないというのが現実だ。

 ブラジルと言えば伝統的な「サッカー王国」であった。ワールドカップ優勝も多く、貧困層の若者たちはサッカーボールに「人生の夢」「成功への夢」を託したものだ。しかし、国が経済発展していく中で国民もよく言えば利口になってきたということだろう。同時に、「ワールドカップ」「サッカー」でまとめられる時代ではなくなってきたわけだ。ブラジル国民はサッカーやワールドカップなどという一時の熱狂よりも、堅実な社会資本整備や教育体制・福祉の充実を求めるようになってきている。特に、経済発展から取り残されてはいるものの従来の貧困層ほど無知ではない人々にとって、国への要求はサーカスではないということだろう。

 スポーツイベントを権力側の「目くらまし」にできなくなるというのは今回のブラジルに限ったことではない。国が発展し知識層が増えていけば、自ずからそのようになるものである。今から2014年ワールドカップ開催を返上するのはブラジルにとって難しいだろうが、ブラジルにとってサッカーで国民を纏めるのが難しい時代になりつつあるということを指導者層は自覚すべきでないか。

 無論、オリンピックを誘致している日本とて無縁な話ではない。

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