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2013年5月26日 - 2013年6月1日

2013年6月 1日 (土)

小泉進次郎氏の佐々木洋平氏擁立批判は高齢者差別ではないか

 自民党が大日本猟友会会長の佐々木洋平氏を参院選の比例候補に擁立することになったが、佐々木氏が御年71歳ということで、小泉進次郎青年局長が党の70歳定年制に抵触するとして異議を述べている。

 確かに、佐々木氏は年齢的には高齢者だが、そもそも「定年制」そのものが先進諸国では「年齢差別」に該当する。実際、小泉氏らが「アメリカでは」と持ち上げるアメリカの連邦上院などはは日本以上に高齢議員が闊歩している。最近亡くなったダニエル・イノウエ上院仮議長は日本の議会からはとっくの昔に消えた「戦争経験者」であったし、サーモンド上院議員などは100歳を超えるまで議席を持っていた。

 20代30代の候補者には左程社会経験があるわけでもないし、目立つような実績があるわけでもない。私も実績がないことを散々批判されて落選したわけだが、若い候補者の場合は実績よりももっぱら「将来性」が問われる。社会のシステム上、実績を挙げられるのはやはり最低でも四十代後半からというところだろう。大企業や全国組織を持つ団体ならばそのトップに立てるのはやはり五十代後半から六十代である。年齢だけで単純に切ってしまえば、社会的実績を挙げた上でその経験を政治に生かそうという人々を最初から排除してしまうことになる。長久手市の吉田一平市長は60代半ばになってから当時の町長選挙に挑戦して当選しているが、年齢的にはともかく福祉施設経営者としての実績は町内のみならず国内で高く評価される存在であった。年齢差別はこうしたキャリアの持ち主まで政治に挑戦することを排除するものとなってしまうのである。

 また、肉体的な年齢と頭の中身は必ずしもイコールではない。高齢者になるのを待つまでもなく20代30代で年寄りに毒されて田舎の封建的な思考に凝り固まっている者もいれば、60代70代であっても国際的な視野と進取の精神に富む者もいる。

 仮に定年制を肯定するとしても、それは「新陳代謝」が目的で、年齢による政治参加のチャンスを排除する意図では無かった筈である。仮に自民党がそのような意図をもって定年制を作ったのであれば、それは高齢者差別と高齢の政治家=悪というポピュリズムに迎合したものと言わざるを得ない。

 そもそも、人のピークには個人差があるし、チャンスもそうである。小泉青年局長は政治家の家に生まれ、関東学院大学を卒業後アメリカに留学し、CSIS客員研究員を経て父親の地盤を引き継いで20代で衆議院議員になった。こうしたサラブレッドを西欧では「金の匙を咥えて生まれてきた」と言うのだが、誰しも小泉議員のように頭がいいわけではないし、イケメンであるわけでもない。血統や地盤にしてもそうだ。小泉氏の言い分は、若くしてすべてを持っている(厳密には美人妻と子供は未だのようだが)恵まれた男が、高齢者を年齢差別しているだけのように見えてならない。

 小泉氏ら所謂「世襲議員」は、有権者が選んだのだから問題はないと言い続けてきた。その理屈でいえば、例え100歳であっても有権者が選べば問題はない筈である。初出馬が71歳であるだけで政党の候補者選定システムから排除するのは非常に問題があると言えるし、小泉青年局長はアメリカで何を学んできたのかと「見識」「知性」を疑われても仕方がない。

 そもそも、自民党の候補者選定システムがきわめて曖昧でよく分からないもので、政党助成金という「公金」を受け取っている以上、その過程は透明性のあるものにする必要がある。「比例代表制」も「小選挙区制」も制度趣旨は選挙の前に政党の候補者選定レベルで候補者を選別して国民に提示するというものであった。透明性を確保したくなければ、政党は公的な存在という地位を返上して純粋な私的団体に戻ってはどうか。

2013年5月31日 (金)

自民党のワタミ会長参院選擁立に思う

 自民党が参院選比例区の候補者としてワタミ会長の渡辺美樹氏を擁立する方針を固めた。渡辺氏は政治的な発信も多く行っている経営者であり、東京都知事選への出馬経験もある。選挙に出るということは容易なことではない以上、少なくとも公に尽くすという気構えはあるのだろう。渡辺氏は一代でワタミグループを築いた経営者であるから、成功者として一定の評価はされてよい。

 しかし、渡辺氏の経営手腕や経営者としての姿勢が兎角に批判されてきたのは事実である。経営するワタミグループにしても「ブラック企業」を挙げれば常に上位に挙げられる企業として有名だ。労働時間などの規制緩和を行えばブラック企業の合法化も十分可能なのだが、そうした方向性での「改革」がささやかれている中でワタミ会長の擁立は悪い冗談にしか聞こえない。少なくとも、自らの経営によって起こしてきた問題については説明する責任があるのではないか。

 最近は保守系論者を中心に「ブラック企業」を擁護する意見が目立つようになってきた。ブラック企業を規制すると「労働者が甘えて育たなくなる」とか「若者を鍛えるためには必要だ」というものである。しかし、過労死や過労自殺を肯定できるものでは到底ないし、自己責任だと言い張ったとしても一般国民はそれで納得はできまい。

 確かに、現在「ブラック企業」として名を挙げられている企業で行われている長時間労働等の「ブラックな事象」は高度成長期からバブル時代まで、別段日本企業としては珍しいものではなかった。しかしながら、その形成過程には議論があるものの高度成長期以降の日本企業は「長期継続雇用」を末端の現場労働者にまで適用し、長期的に渡り充実した保障を労働者に与えていた。だからこそ、労働者側も「滅私奉公」してもちゃんと見返りはあったわけである。NHKの「プロジェクトX」では寝食を惜しんで仕事に取り組む物語が多かった気がするが、あの時代の使用者側は家庭を守る配偶者や子育ての費用も含めたものを「賃金」として労働者に渡していた。だからこそ、労働時間や僅かな残業代を左程気にもする必要はなかったのだろうし、高い待遇で信用され仕事を任されれば仕事に面白さややりがいを見出すことはそう難しいことではなく「仕事以外の趣味をもてない」と不平を言わなくてもよかった。

 しかしながら、いくら働いても単純労働の繰り返ししか求められない、代替要員はいくらでもおり職場では透明な存在でしかない、独りで最低限度の生活を支えるのも難しいレベルの賃金で上がる望みもない、というのでは、高度成長期の正規雇用の労働者のような頑張りを求めるなど認識不足も甚だしい。まともな待遇を与えず、将来も保障せず、面白みのない仕事ばかり反復させるような経営者に対して忠誠心を抱くような労働者はむしろ精神的に問題があると見た方がいい。実際、非正規の現場を仔細に検討すると、非正規でありながら使用者に対して一方的に忠誠心を捧げている労働者は何処かしら人間性に問題があるか精神を病んでいるのが普通である。

 法改正により「ブラック企業」をブラックたらしめていた制度を改正し、問題ないようにしてしまおうという動きもある。渡辺氏の擁立が自民党のそうした「ブラック企業合法化」戦略の一環であるとしたら、ますますもって自民党政権は国民を窮地に追い込むもの疑いの目を向けざるを得なくなる。

2013年5月29日 (水)

民間人を危険に晒す「海賊対策警備員」構想

                  

 多くの日本人にとって「海賊」というのは映画やアニメの世界の中に登場する存在でしかないのかも知れないが、「海賊」は今も世界の海で暗躍している。ソマリア沖だけでなくマラッカ海峡にも出没するし、日本も海上自衛隊の艦艇や海上保安庁の巡視船を派遣して船舶護衛や警備を行っている。

 そんな中で出てきたのが、船舶に何と「民間警備員」を乗り込ませて海賊に備えようという提案だ。最初に聞いたときは何かの冗談かと思ったのだが、どうも政府は本気らしい。

 海賊と言えばサーベルを掲げて乗り込んでくるのが映画やアニメでは定番である。しかしながら、現代の海賊は自動小銃やロケット弾を装備しており、艦橋やレーダーなどを狙えば撃沈するのは無理にしても軍艦に一泡吹かせることも可能だ。当然、民間船舶は軍艦以上に防御システムなど持っていないから、低レベルな火器でも十分な脅しになる。海賊の目的は「丸ごと略奪」することであって人を殺したり船を沈めたりすることではないから、脅しが利けば目的達成だ。

 これに「民間警備員」が対応するのである。アメリカのように武器が民間市場に溢れている国ならばともかく、日本では民間警備員は銃器の携帯どころか所持すら許されていない。自動小銃やロケット弾で武装した海賊に武器なしで立ち向かうのは自殺行為であり、そんな警備員を乗せたところで略奪されるのは目に見えている。

 仮に警備員に銃器の携帯を認めたとしても、日本国内の警備員でそんなものを扱い慣れている者はいまい。射撃訓練すらままならないだろう。

 何より、「民間」警備員である。自衛官や保安官ならば、命がけで国民を守る義務があるし、負傷したり死亡したりしても国家が遺族のその後の生活を保障する。もともと我が国の公的年金制度は明治時代初期に海軍軍人に対して創設された「海軍退隠令」が最初だが、何処の国でも軍人警官は命がけで危険な任務に就く代わりに手厚い補償を受けることができる。しかし、民間警備員には国家は何の保障もしないのである。警備員を派遣する民間会社が何らかの保険には入るかもしれないが、私的保険は所詮は私的保険でしかなない。国家のバックアップもないし、国費の投入もない。物価変動には対応できないし、そもそも保険会社がなくなれば終わりである。

 最近の日本はなんでも「民間」に任せれば上手くいくという妄想にとりつかれているように思われる。この提案もその一つだと思われるが、民間人を危険に晒した上で何かあっても国は「知ったことではない」というのはあまりにも国家として無責任すぎる。

2013年5月27日 (月)

外国人医師の医療解禁は大丈夫か

 政府の国家戦略特区ワーキンググループは外国人医師の医療を解禁する特区創設をする案を公表した。外国人看護師の問題もそうだったが、本当に大丈夫かと疑いの目を向けざるるを得ない。

 医療は一見すると医療技術を売って金を稼ぐ商売である。そうした点では技術さえあればよく外国人医師でも技術のある人を呼んでこれば問題ないとの考えに行き付くのは理解できなくはない。しかし、一方で医療を行うプロセスでは患者との対話や説明も非常に重要である。こうした点で、外国人医師が対話や説明に不自由するであろうことは想像に難くないいし、医療過誤の原因にもなりかねない。加えて、医療とは生きることと同時に死を見つめる場でもある。大勢の日本人の死生観をどこまで理解し死生観に沿った対応ができるのかは文字通り未知数だ。

 巨大な医療法人が発展途上国から安く医師を集め、スケールメリットを利用した医療を行うことも考えられ、これは発展途上国にしてみれば国費を投じて育てた医師が国境を越えて出て行ってしまうことであり死活問題となる。日本の医師もより「金儲け」「競争」を意識しなければならなくなる。しかし、激烈な競争に投げ込むことが良い結果をもたらすという思想は最早幻想でしかない。

 「国家戦略」と銘打っているものの、国家戦略というよりは外国人医師の受け入れで得をする人たちのための改革と言う疑いを拭い去ることはできない。財界が移民受け入れを推進しているところから見て、これも外国人看護師受入れと並んで移民を既成事実化するための方策なのではないかと思われてならない。慎重な対応が必要であろう。

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