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2013年1月6日 - 2013年1月12日

2013年1月11日 (金)

いじめと体罰

 いじめによる自殺、体罰による自殺と、教育現場の問題に起因する子供の自殺が社会問題になっている。

 多くの事件で共通している対応は「隠蔽」「もみ消し」で、学校のみならず教育委員会等も巻き込んで同じようなことをやっているのだから呆れる。命が消えたという重大な問題を認識していないかのような組織防衛・自己保身だ。

 「いじめ」や「体罰」を正当化する意見も田舎や保守層の中には多いものだ。彼らの共通した言い分として注目すべきは「自分は体罰を受けても自殺していない」「いじめられたことで闘争心を身に着けた」と言ったものだ。それは、そういう人もいるだろうが、そのような扱いに耐えられず自死を選んだ子供が問題だったとでも言うのか。そうした意見の文脈からは、弱者に対する冷酷さすら感じられる。

 私はいじめと体罰に共通しているのは、ともに他者とのコミュニケーション能力の欠落であると考えている。日本では学校教育の場で自己表現を磨く機会は欧米の学校に比べて非常に少ないし、軽い価値しか与えられていない。学生だけでなく教員も同様で、いじめや体罰が起きる土壌を改善するためには、発覚したものを処罰しているだけでは何にもならないのではないか。むしろ隠蔽に走るだけだ。

2013年1月 9日 (水)

王羲之の模本発見

 東晋の王羲之と言えば中国では「書聖」とされ、その書は中国史の中の最高の芸術品とされている。もっとも、その真筆は東晋の時代から千数百年経った今となっては地上に全く残されていないとされている。このため、王羲之の書は模本であっても大変貴重なものだ。

 王羲之の書を最も忠実に写し取ったものとされているのが、台北の国立故宮博物院が収蔵している快雪時晴帖だ。あまりに貴重なので劣化を恐れ、故宮博物院でも限られた期間しか公開していないので、何度も台湾に足を運びながら本物は未だ鑑賞する機会を経ていない。

 今回日本で発見されたものは唐代に遣唐使が持ち帰ったものだと考えられている。唐代には王羲之の書は未だ真筆が地上にあり、より忠実な模写も可能であっただろう。ちなみに、王羲之の真筆は遣唐使によって日本にももたらされたとされているが、室町期の動乱で失われたとされている。

 「古物有霊」と言われ、特に王羲之の書を古来より絶賛してきた中国で王羲之の真筆が一枚も残っていないのには理由がある。唐の太宗は王羲之の書のコレクターで策謀まで使ってあらゆる王羲之の書を集めた。そして、自分が死ぬ時に何とそのコレクションを一緒に墓に納めるよう命じてしまったのである。バブル時代に名画を買って「自分と一緒に燃やしてもらう」と発言して顰蹙を買った金持ちがいたが、このあたりは考えることは同じになるらしい。太宗の墓そのものは現存しており発掘も何もされていないから、将来的には運がよれば王羲之の真筆が見つかるかもしれない。

 しかし、太宗の陵墓は発掘の予定は全くないという。秦の始皇帝陵と同じく、発掘を行えば「とんでもないもの」が山のように出土することは確実で、それを保存して研究する体制が整う目途が全く立っていないためだ。あの名高い「兵馬俑」ですら、全体を発掘してはおらず、むしろ兵馬俑に残された彩色の痕跡を守る必要性があるため発掘は中断状態にある。

 そうした状況を考えれば、模本であっても極めて貴重である。今回発見された模本は個人蔵のものだそうだが、広く鑑賞できる機会が提供されることを願ってやまない。

2013年1月 7日 (月)

意義の見出せない「安倍談話」

 菅官房長官が会見の中で、戦後を巡る安倍総理の新たな談話すなわち「安倍談話」を出すという意向を表明した。安倍総理は第一次政権より「戦後レジュームからの脱却」を主張しており(ただし、ここで排撃さるべき特権階級として想定されているのは実質的な特権階級であるご自身ではなく西欧人権思想により戦後恩恵を受けた層であるように思われるが)、その点では従前の戦後意識を転換する意味であれば「安倍談話」は大きな意味を持つことになる。話を聞いたとき、誰もが従前の「謝罪外交」路線を転換するために安倍総理の歴史観に基づく談話を出すものと思ったことであろう。

 ところが、「安倍談話」の内容は1995年に当時の村山総理が出した「村山談話」を踏襲するという。村山談話は日本を加害国と位置づけ、日本の行為を悪と自ら自己批判しアジア諸国に対して深く謝罪するという内容であり、安倍総理の歴史観とは対極に位置づけるべき自虐的な内容であった。その前提条件は「日本は悪」であり、明治維新から太平洋戦争に至る日本の歴史は弁解の余地も一片の正義もない侵略戦争の歴史であり、南京事件や従軍慰安婦問題など日本が国を挙げて組織的に行った犯罪かどうか曖昧なものもすべて日本の国を挙げた組織的犯罪と位置づけ、今なお対米従属し自衛隊を持ち国家意識を持つ日本は反省が足りないから日本は解体されるべき(この点村山総理は国連総会で「地球市民になりたい」という他国から見れば国家解体を意図していると取られかねない発言までしている)というものである。これらの前提のもとに「村山談話」は出たのだから、安倍総理が「村山談話」を踏襲して「安倍談話」を出すのであれば、歴史観や国家観の前提もまた村山総理のようなものになつていなければならなくなる。これは安倍総理の自己否定そのものではないか。従前の発言との整合性はどう説明するつもりか。

 安倍総理が従前の日本政府の歴史認識を転換するつもりであれば「安倍談話」は大いに意味がある。しかし、村山談話を踏襲し従前と同じことをなぞるならばそんな談話を出す意味はない。

 それどころか、「河野談話」「村山談話」でなお不満な勢力は、なお一層の「謝罪と賠償」を求めることになる。そもそも、過去の談話も「賠償」を欠いていたため特定アジア諸国の不満をむしろ煽る結果となってしまった。つまり、安倍総理が「日本を解体して被害者の言うがままに永遠に謝罪と賠償を行う」というようなことを表明してそれを履行しない限り、所詮何度でも同じことが繰り返される。そんなことをしたところで、日本には何の利益もないし、反省の表明として相手側に取られる余地は皆無だ。

 「安倍談話」を出したところで意義は見いだせない。それどころか、余計な期待を持たせ、謝罪と賠償を求め更なる反日運動に火をつけることになるのではないか。従前の歴史観を転換する内容のものでなければ、談話など出さない方がいい。

 

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