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2013年3月17日 - 2013年3月23日

2013年3月23日 (土)

伝統的家族観は維持できるのか

 自民党が安倍総裁のもとで復古的・保守的な価値観を打ち出している。これはアメリカの保守派にも共通して言えることだが、伝統的な家族観を重視すると、必然的にマイノリティーに対する許容性は失われる。

 伝統的な家族観に基づいた政策を打ち出したところで、若い世代にそうした家族観を受け入れる余地があるのかと言うと、これは困難と言わざるを得ない。私自身は祖父母も含めた家族の中で育ち、本質的には保守的な家族観・価値観に親しみを感じている一人である。としても、若い世代として見ると、いくら親しみを感じていたところで、伝統的な家族は最早築くところか維持することすらできないのである。

 日本であっても欧米であっても、家族の核となるのは夫婦関係である。アメリカの保守的な価値観の上で同性愛者が忌み嫌われるのは単にキリスト教で同性愛を禁じているだけではなく、伝統的な家族関係そのものを作ることができないといことにある。いずれにせよ、夫婦関係すなわち結婚(婚姻に比較的近い契約関係も含む)ができるかどうかがまず第一となろうが、若い世代にとって結婚は簡単なことではなくなつている。

 若い世代の所得の低下や雇用環境の不安定化は以前から指摘されているところである。伝統的な家族観では介護や教育などを社会ではなくもっぱら家族に大きな役割(又は負担)を求めているものであるが、それには相応の収入が必要となる。この点、かつての農村社会では一家総出で農作業に従事しなければ生きていけなかったから、家族は良くも悪くも団結せざるを得なかったが、一方で次男三男の中には本家存続のため農奴的役割を負わされた者が少なくなかったのも事実だ。都市化・工業化の中で日本の重点が都市部に移ったのは高度成長期だが、そこでは男は会社、女性は家庭というのが大まかな枠組みとなっていた(無論、女性も男性ほどではないにしろ短時間労働者や非正規労働者として働くことは一般的ではあったが)。その中では男性には相応の所得が得られる環境が必要であり、この点男性優位の企業組織となった背景はある程度説明ができる。

 ところが、男女平等の取り扱いが進められるようになると、当然企業内での立場は男性だからと言って優位とは言えなくなる。景気低迷も相俟って、男性の資力はかつてに比べて非常に低いものとなっている。結婚した場合、共働きになるのは当然の帰結と言えよう。

 この点、共働きを「贅沢をしたいからだ」と非難する向きもあるが、これは失当である。社会的承認だけでなく、現実的に雇用環境が不安定になれば、リスクは分散せざるを得ない。夫の失業で収入を全く絶たれないようにするためには、妻に相応の稼得能力が必要となることは子供でも分かる話だ。そうなると、妻を家庭に閉じ込めることは事実上不可能と言うことになる。夫婦ともに長時間労働・過密労働に従事することを当然とする風潮からは、むしろ伝統的な家族観は葬りさられるべきものとして政策誘導されていたのではないかと思われていならない。

 そもそも、今や結婚自体簡単ではない。「お見合い」は既に今の若い世代の親の世代で既に絶滅危惧種であったが、高度成長時代には職場が結婚相手を見つけるに少なからぬ役割を果たしていた。しかしながら、企業社会そのものが変容する中で、今や職場にそのような社会的役割を求めることは不可能だ(使用者としてもリスクを抱え込むことになるので職場恋愛を歓迎すべきではない)。

 職場恋愛は職場における人的軋轢を生まないでは済まない。度が進むとセクハラという重大問題となるが、そうでなくとも気まずくなれば仕事に支障を来すし、今や日本企業はそうした若さゆえの過ちまで許容できるような寛容な状態にはない。職場恋愛のメリットは結婚相手を探すに当たり、日常的に顔を合わせ虚飾では生きていけない職場と言う場で男女ともに相手を探し、とりわけ男性にとっては経済力や将来性を問われる場所となっていた。しかしながら、今や経済力そのものが低下しているし、非正規労働者にとっては将来どころか一箇月先の事すら定かではない。これでは女性の側が分別をはじめから放棄してしまうのは無理からぬところだ。加えて男性側も結婚に向けた自信など簡単に持てるわけがない。

 一時期「婚活」という言葉が流行り、「結婚できないのは努力が足りないから、結婚できなかった者は不利益を受けて然るべき」という風潮が見られたものの、若者の置かれている現状を何ら改善することなく煽ってみたところで大した効果はなかったと言える。現に、「婚活」という言葉があまり使われなくなる一方、「婚活疲れ」という言葉さえ生まれている。

 伝統的な家族観の正面を持ち上げるのは結構だが、そもそも伝統的な家族観にも負面はあったわけだし、現実問題として伝統的な家族を維持することは難しいものになっている。そうすると、伝統的な家族観を自民党が持ち上げれば持ち上げるほど、そのようなものに手が届かない若年世代の恨みを買うことになるのではないか。

2013年3月21日 (木)

WBC決勝戦

 サムライジャパンが敗退したWBCは決勝戦でドミニカとプエルトリコが対決し、ドミニカの優勝で幕を下ろした。日本の三連覇が達成されなかったのは残念だが、あまり日本ばかりが優勝しすぎると国際大会として他国にとっては魅力がないものになりかねないから、WBCを長い目で見れば悪いことではないのではないか。

 日本が敗れた大会ではあったが、特に台湾との一戦は日台両国の国民に感動を与えた。台湾のナショナルチームは伝統的に「中華隊」と呼ばれているが、中華隊はサムライジャパンを追い詰めどちらが勝ってもおかしくない試合を展開している。もともと北東アジアでは日韓の野球チームが特に強かったが、台湾も腕をあげてきており、今回のWBC決勝は南米国同士の対決になったが、近い将来北東アジア国同士の対決が見られることを大いに期待したい。

2013年3月19日 (火)

怖いものを撤去して何のための原爆資料館か

 広島の原爆資料館が展示方法を変更するにあたり、従来展示していた被爆直後の広島市民の蝋人形を撤去するのだという。参観者から「怖い」と指摘されることが多いからと言うのがその理由らしい。まことにアホらしい。怖いものを撤去して何のための原爆資料館か。

 私が最初に広島の原爆資料館を参観したのは確か小学校2年生、1987年のことだったと記憶している。当時は資料館の建物も古いままで展示室内は何処も薄暗く、説明版なども今とは比較にならないほど充実していないものだった。としても、展示品全体を通して原爆被害の恐ろしさはひしひしと感じることができ、その世はホテルで眠ることができなかったのを記憶している。特に衝撃的だったのが被爆直後を再現した蝋人形だった。

 次に広島を訪れたのは就職活動をしていた2001年の事だった。原爆資料館そのものは建て替えられて綺麗な建物になり、展示室内も明るい雰囲気に改められていた。展示資料は確かに見やすくなり説明も充実したものになったが、一方で資料館全体からにじみ出る「恐怖」のようなものは大幅に失われたように思えてならなかった。そうした点で、蝋人形が残っていたことはいいことであった。蝋人形の展示されているブースはかつての展示と同様に照明が落とされ、我々がともすれば忘れがちな「恐怖」を訴えかけられる場所として残っていた。蝋人形は多くの参観者に強烈な印象を植え付け、長年にわたり原爆被害の悲惨さを雄弁に物語り続けてきたのである。

 それを撤去しようというのだから、何を考えているのか分からない。確かに、資料を客観的に参観者に示すことは資料館として大切なことではある。原子力や核兵器についてヒステリックになることは好ましいことではない。しかし、同時にあの場所は原爆の悲惨さを体感する場所でなければならない。怖いものを撤去して何のための原爆資料館なのか。再考されるべきであろう。

2013年3月17日 (日)

奨学金返済の滞納増加に思う

 奨学金返済の滞納が増加している。昨年度の滞納額は10年前の3倍、4700億円に達したというのだから凄まじい。

 この問題には二つの側面がある。ひとつは学生の親の世代の資力の低下、もうひとつは学生の就職の問題である。もともと、我が国では賃金は「人たるに値する生活」が目標とされており、これを具現化するかたちで賃金制度が設計されていた。年齢とともに賃金が上昇していくシステムがそれで、家庭を持って子供を育てて行くの併せて増える負担に対応できるように賃金を増やしていたものだ。しかし、十数年前からは賃金を「成果に応じて支払うもの」という定義づけの方が重みを持つようになり、一部の大企業の正規雇用労働者を除けば賃金は「上がらない」ことがむしろ普通になりつつある。これでは、子供に十分な教育投資ができないから、奨学金に頼るのは必然だ。

 それで卒業したとしても、就職は厳しい。大学出に見合う「椅子」の数には自ずから限界があるから仕方がないと説明されたとしても、冷や飯を食わされる側として納得できるわけもない。就職できたとしても、企業優位の社会ではパワハラに代表される企業内の問題によって心身を病む労働者も少なくなく、こうした人々も冷や飯を食わされることになる。行き付く先は派遣に代表される非正規労働の世界だ。

 「努力が足りない」「能力がない」と自己責任論で一刀両断される非正規労働者だが、実態はそう単純ではない。確かに脱力的な者や日本語の読み書きすら覚束ないような者がまま見受けられるのは事実であるにしても、一方で能力の高い者もまた少なくない。傍に他の人がいないときに彼女らとよく話してみると、大学院で専門教育を受けた経験があったり、有名大学を出ていたと恥らいながら告白されたりする。彼らは非正規労働者に身を落とした自らの立場を恥じ自信を喪失しているが、その原因は彼らにあるというよりも就職先の運不運にあるところが大きい。そして能力的には無視できないものを持っている。無能ではなく活用される先を喪っているところが大きい。いずれにせよ、教育投資に見合う賃金を得られないというリスクは高まっている。税金や社会保険料を引かれた可処分所得が10万円そこそこでは、奨学金の返済などできるわけもない。一人暮らしなら文字どおり生きていくのがやっとであろうし、親と同居の者は多少は恵まれていると言っても親の資力も低下している時代だから生活は楽ではない。

 奨学金を借りて一生懸命勉強したところで報われないばかりか「借金」になってしまうということが一般化しつつあるが、これでは国民が学ばなくなるのは道理というものだ。国民全体の知識レベルの低下は避けられない。一部のエリート層へ教育投資をすればいいという意見もあるが、我が国の「強み」はエリートではなく中間層の質の高さにあったことを考えれば、エリート偏重の考え方は国家の自滅を肯定する危険思想であると言わざるを得ない。

 現在の奨学金滞納の問題は返済義務を負う者の意識の問題ではなく、奨学金を借りざるを得ない或いは返済できないような状態を放置している構造上の問題である。国は外国人留学生を厚遇するなど決して教育分野への支出を疎かにしているわけではないのだが、自国民への教育を軽視していると疑われても仕方がないような施策も少なくない。高等教育を受けた者に見合うだけの椅子を用意するのは難しいわけだから、せめて高等教育を受けたことが借金にならないようにするくらいのことをする配慮は必要であろう。

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