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2013年10月

2013年10月31日 (木)

第三次天安門事件?

 中国北京の天安門広場で車が暴走し炎上するという事件が起きた。中国政府はこの事件なのか事件なのか判然としない事象に対して神経質な対応をしている。この件を報道するNHKの衛星放送は中国ではカットされてしまった。

 中国政府が神経を尖らせるのは無理もない。天安門は建国以来の中華人民共和国の象徴的な場所であるとともに、権力闘争の場所であり、時の権力者に対する民衆の怒りの声を上げる場所でもあったからである。日本で「天安門事件」と言えば学生デモを戦車で蹂躙した第二次天安門事件を思い出す人が多いだろうが、その前の第一次天安門事件は周恩来総理の死を弔うための集会が徐々に当時の政権を牛耳っていた毛沢東主席+四人組(日本では専ら「四人組」が悪役にされているが、中国人に五本指を示すと分かる人は分かる)に対する批判集会に発展した。

 昨年の反日デモ騒動も、その実態は反政府・反中国共産党デモであった。かつて中国はソ連のフルシチョフ政権を修正主義者とを表立って批判できない時は「ユーゴスラビア修正主義批判」というかたちで間接的にソ連を批判していた。中国人の意思表示は表向きの態度とは別にその裏を読む必要があるが、このあたりの事情を熟知しているのは他ならぬ中国共産党幹部たちである。当然、「反日デモ」が「反日」でないことくらいは分かっていた筈だ。

 今回の事故?についても、それがいつの間にか第三次天安門事件になることを警戒しているのだろう。そうでなければ、中国政府が神経質になる説明ができない。同時に、現在の中国は貧富の格差の拡大や環境の悪化、労働者の人権無視など、一般市民の不満は鬱積しているというのが実情である。高度成長期の我が国にも同じような問題があったが、日本では自由選挙の中で政府を批判でき、労働組合が団体交渉やストライキを行うこともできた。その中で、支配階層や富裕層は富や権力を中産階級以下に分配することになり、これが日本の分厚い中産階級と、活発な消費を行い経済を回転させ日本企業を飛躍させる原動力となった。ところが、中国では高度成長が進んだにもかかわらず日本で見られたような反発したり要求したりする自由は全て抑圧されている。

 そして、現在の中国人は日本や韓国のみならず、海峡を挟んで交流が深まった中華民国・台湾という「もうひとつの中国」が自由を謳歌している姿を間近に見ることができるようになった。先の台湾総統選挙は現職の馬英九総統と民進党の蔡英文元行政副院長の間で争われ馬総統が当選したが、蔡主席が堂々と「敗北宣言」した姿は、「敗北宣言をする自由がある」ことをもって大陸人民に衝撃を与え、「台湾総統に親中派が当選した」という中国共産党の望んでいたネタはどこかに飛んでしまった。

 今回の事故は抑え込めるかも知れない。しかし、今の中国政府と中国共産党が何をやっても内外から疑いの目で見られていることは事実であり、中国での不満の爆発は時間の問題ではないか。中国共産党は近く中央委員会総会を行う予定であるが、ここで民主化に向けた舵を切れるかどうか、恐らくはプロレタリア独裁を堅持することになると思うが、どのような対応をするか注目される。

2013年10月29日 (火)

安倍総理のトルコ再訪

 安倍総理が再びトルコを訪問する。就任して1年足らずで二度目の訪土はかなり異例なのだそうだ。ボスポラス海峡に円借款で海底トンネルが作られているが、この竣工式に出席するとともに日本の原発輸出を確実にしたいという。

 トルコは一貫して日本に対して厚い友情を示してくれた国である。有名なところではイラン・イラク戦争でのトルコ航空機派遣だが、この他にも日本のOECD加盟で後押ししたのはOECD発足当初からのメンバーであったトルコだった。最近ではIOC総会で東京オリンピックが決まった直後、真っ先に安倍総理に駆け寄って祝意を示したのは敗れた側であるトルコのエルドアン首相だった。

 トルコとの関係強化は望ましい。しかしながら、あからさまな「原発のセールスマン」として行くのはいかがなものだろうか。かつて、池田勇人首相がシャルル・ド・ゴール大統領に「トランジスタのセールスマン」と言われたことがあるが、ド・ゴール大統領にしてみれば日本の首相とは広く国際的な問題解決を論議したかったわけで、単に日本製品を売り込みに来るだけならまともな話などしても仕方がないということだった。エルドアン首相はさすがにド・ゴール大統領のようなことは言わないだろうが、単に物の売り込みがメインなら、腹の中では軽蔑するに違いない。

 トルコは台湾と並んで世界でも有数の親日国だ。しかし、それに見合う態度を日本が示することがなければ、失望を招くのは必至であろう。

2013年10月27日 (日)

アメリカがドイツ首相の携帯盗聴

 アメリカがドイツ首相の携帯を盗聴し続けていた疑惑が浮上した。ワシントンでは政府による盗聴を批判するデモが行われている。

 もともと、アメリカが電子メールなどを「傍受」しているというのは周知の事実だ。メールの単語を拾っていき、そこからアメリカにとって目を付けるべき人物のアドレスを抽出するというシステムだという。私もアメリカにいる人物と「テロ」とか「アルカイダ」という単語の入ったメールをやり取りしていたから、ひょっとしたらアドレスが「登録」されているかも知れない。

 もっとも、外交戦にとって相手の手の内を知るのは重要なことであり、アメリカがワシントン軍縮条約や日米開戦直前の交渉で日本の手の内を知って対抗策を練っていたことはよく知られている。1920年代に国務長官をつとめたヘンリー・スチムソンは「紳士は相手の手紙を覗き見するものではない」と言って国務省内の通信傍受・暗号解読チームを解散させたと言うが、これは例外ですぐに復活している。

 どうもドイツ首相の携帯電話は10年に渡って盗聴されていたようだが、こうなるとむしろドイツ側が盗聴を警戒していなかったのではないかと脇の甘さを指摘する声が出てくるのではないか。日本も同様で、首相の携帯電話は「盗聴されている可能性がある」ことを考慮して行動する必要がある。

 ただし、他国の指導者の情報を得ようとするのは国益と言う点から正当化できるとしても、自国民の電話を政府機関が盗聴するのは人権の点から言って問題であろう。

2013年10月25日 (金)

贅沢司教

 キリスト教は清貧を説き、共産主義はそれを実践したw

                     政治ジョークより

 ドイツのリンツブルグ司教が住居の建設に少なくとも41億円を費やしたことについて、ローマ法王は司教に対して一時的に司教区を離れるよう命じた。司教を解任されたということではないようだが、清貧を尊しとする教皇フランシスコ1世にとってみれば贅沢三昧の聖職者を許すことは例え寛容を説く立場であるとしても許容できなかったのだろう。

 初期キリスト教会は別にして、中世のカトリックは西ヨーロッパでは「独占企業」だったから、聖職者は贅沢三昧をするのが伝統であった。何しろ、「宗教団体」というのは古典的な宗教だけでなく新興宗教も含めて、金集めとその運用の能力は目を見張るものがある。

 この司教が41億円をどのように手に入れたのかは定かではないが、信者からの寄進であったとしたら信者の方もたまるまい。運用して得たお金であったとしても、やはりそれは聖職者の贅沢三昧に使われるべきものではない筈だ。

 幸い、カトリックは今や西ヨーロッパでも「独占企業」ではない。聖職者が贅沢三昧では、いくら「地獄」で脅したとしても信徒の信頼を失ってしまうのは必至だ。信徒を逃さないためには、聖職者を「宗教官僚」にしてしまうのではまずいのだろう。

 西ヨーロッパやアメリカでは、福祉のかなりの部分を教会が担っていた。特にアメリカでは伝統的に社会保障制度を国や自治体が整備せず、「慈善」に多くが委ねられており、その担い手が教会であった。日本でも宗教法人は数々の特権が与えられているが、それは教祖や宗教官僚が贅沢をするためではなく、社会福祉の一部を担わせようという政策的意図があったのだろうが、少なくとも日本では破綻していると言わざるを得ない。人口比で見れば非常に少数派でしかないキリスト教関係者が教育や福祉で目立つのは、新興宗教も含めた仏教神道系の社会活動の貧弱さを象徴していると言えるのではないか。

 日本にも「坊主丸儲け」「地獄の沙汰も金次第」という言葉がある。カトリックの歴史は良くも悪くも堕落と自浄のせめぎ合いの歴史であったから、今回のフランシスコ1世の沙汰もまた、カトリックの伝統に則っているという皮肉な見方ができなくもない。

2013年10月23日 (水)

大学入試センター試験廃止

 政府の教育再生実行会議は大学入試センター試験を廃止し、新たに「達成度テスト」を導入するという。高校在学中に複数回受験するようにするそうだ。

 確かに、大学生の「質の低下」は問題である。しかし、その責任は大学だけにあるのだろうか。日本語力の低下などは高校、中学、小学校まで遡って対応を考えねば解決できまい。

 加えて、高校在学中に受けたテストまでが大学入試段階で参考にされるというようなことになると、従来のように「高校在学中に伸びた」学生などはかなり苦しくなる。私も高校入学直後の成績は大学と名のつくところに入るなど難しいような成績だった。大学受験対策は高校入学直後から始まるのは普通の事だが、実際に高校一年から受けた試験結果が合否に反映されるというようなことになると、高校三年間をそのまま「受験生」とせざるを得なくなるだけでなく、スタート段階で落ちこぼれた者のやる気を大いに削ぐことになるのは必至であろう。

 加えて、大学独自の試験は「人物を見る」ために学力試験を廃止することまで検討されている。こうなると、政府の方針に従わざるを得ない国立大学は達成度試験を基準に学生を専攻せざるを得ない。小論文や面接など、余程のものでなければ甲乙をつけるのは難しいからだ。

 入試制度の変更より、基礎学力をつけさせるための読書や討論の時間を義務教育の早い段階から設けることを検討すべきだ。達成度試験を導入したとしても、現状では大学と高校生の負担だけが増える。そして、一定の達成度試験の点数を取らなければ大学入学を認めないというような制度ではないから、大学には相変わらず教授に支障する学生が入ってくるのを止めることはできないのではないか。

2013年10月21日 (月)

豪華寝台列車ななつ星

 JR九州が運行を開始した豪華寝台列車「ななつ星」が話題を呼んでいる。今まで豪華寝台列車と言えばJR西日本のトワイライト・エクスプレス、JR東日本のカシオペア、JR東日本とJR北海道の北斗星があり、夜行バスに押されて夜行列車がほぼ全滅した今日においても高い人気を誇っている。

 このうち、北斗星とトワイライト・エクスプレスには乗車したことがあるが、実質的には乗ることが目的となっているトワイライト・エクスプレスはともかく北斗星は現在も本州と北海道の連絡列車として実用的な役割を担っている。北斗星は臨時列車ではなく定期運行されているということも予定を立てやすいという点でメリットが大きいだろう。トワイライト・エクスプレスは豪華列車だが、大阪から札幌までの移動を楽しむという側面が大きい。カシオペアも含めて、従来の豪華列車は移動手段の中にエンターテイメント的要素を組み込んだものであったと言える。

 ところが「ななつ星」は今までの豪華列車とは一線を画している。九州の観光地を「クルーズ」することが目的であって、観光地での乗り降りはもちろん、専用のバスまで用意されている。列車の運行ができなくてもバスで運行する、夜間は駅に滞泊するなど、「本当に寝台列車とする意味があるのか?」と突っ込みたくなる要素はあるが、列車の中で寝るということ自体が「非日常」なのだから、食事等のサービスも含めてそれらを楽しむ場と考えれば、付加価値もあるということか。

 「ななつ星」が話題を呼んだこともあって、JR西日本とJR東日本がそれぞれ同じようなクルーズ・トレインの運行を計画している。JR北海道もクルーズ・トレインを運行するメリットはあるだろうが、如何せんレールすらまともに保持できていない現状で豪華クルーズトレインなど打ち出したら企業イメージのアップどころか批難を浴びるのは必至だ。

 トワイライト・エクスプレスや北斗星は豪華列車とは言ってもチケットは取れないわけではなかったし、比較的安い個室や寝台も用意されている。北斗星は毎日一便ずつ運行されいるし、トワイライト・エクスプレスも繁忙期は毎日運行されている。運賃だけでく時間の都合も含めて、普通の人でも何とか手が届く豪華列車だ。しかし、「ななつ星」をはじめとする次世代の豪華寝台列車は運行が限定されているうえに、料金も従来とは比較にならないほど高い。なかなか、乗るのは難しい。

 何より、JR各社が新幹線の拡充に躍起になる中、在来線は次々と第三セクター化されている。第三セクター化では線路が分断されるだけでなく、線路の整備状況も概して悪化すると言われている。JR北海道のように全域に渡って線路が整備不良で脱線事故を続発させている恐ろしい所すらある。豪華列車を運行すれば間違いなく話題は集まる。しかし、「ななつ星」でも試運転では機関車の故障や客車が線路脇の物に衝突するなどのトラブルを起こしている。特に路線は「車両限界」というものを測定して「この大きさの車両ならば通れる」ということになっているのだが、それで設備と接触事故を起こしたというのは余りにもお粗末だ。安全が確保されていなければ、いくら接客サービスを向上させようが山海の珍味を盛ろうが、鉄道から国民は離れていくことになるのではないか。

 

2013年10月19日 (土)

関西国際産業関係研究所創立25周年

 所属している関西国際産業関係研究所の創立25周年行事が同志社大学で行われた。法的には同志社大学とは別の組織だが、同志社大学の名誉教授である中條毅先生が同志社大学を定年退職されると同時に設立され、現在も事務局を同志社大学内に置いて同志社と関係のある研究者が多くメンバーになっているので縁は深い。

 日本に「産業関係学」が根付いているとは言い難い。日本で唯一の産業関係学科である同志社にしても最近は実質的に「労働経済学科」の様相を呈しており、労使関係全体をどのように捉えていくか模索が続いているどころだ。いずれにせよ、少なくとも日本に産業関係学を導入したのは中條先生である。

 御年93歳だが、私の恩師である中田喜文先生の前任教授だから孫弟子、私は文字通り孫の世代だ。実に矍鑠とされており、最初の挨拶は立ったままされ、その後1時間の講演をこなされた。戦時下の同志社をテーマに論文も執筆されており、まだまだやる気なのは恐れ入る。私は中條先生から直接教えを受けたことはない世代であり、同志社を卒業後たまに出席する研究会で御挨拶する程度だが、すっかり顔と名前を覚えられ、こちらが激励を受けて恐縮することしきりであった。長生きするなら先生のように功なり名なりを遂げて健康でありたいものだ。

 研究会ではトヨタ自動車の宮﨑専務役員とパナソニックの中川常務取締役による発表が行われた。両者とも世界的な企業であるだけに、その基幹となる労働者の人材育成には工夫を凝らしている。日本はもともと就職ではなく「就社」と言われており組織内で無関係の部署に配置転換が頻繁に行われることが特色であるが、両者とも幹部候補には必要とされる視野を持たせるため複数の部署を戦略的に経験させるだけでなく、複数の国や企業に出したり、国内外の大学や大学院で研究する機会を与えている。単に今日明日だけ使えればいいという知識ではなく、もっと先に必要となる知識や視野を早い段階から身に着けさせることで、一回り大きな人材を育てようとしている。

 翻って、非正規労働者はどうか。業務に必要なまともな教育すら省略されて現場に放り出され、消耗しつくして使い捨てられることが普通である。非正規労働者から正規労働者に転換できたグループについても、その場の業務知識は相応の物を持っているが、幅広い知識や視野となると疑問だ。この点は単に正規労働者中心の企業と非正規労働者中心の企業との違いの他、企業側が与えている教育の質や、採用段階での学歴など複数の要素を考慮する必要がある。ただし、自分で実務を行うだけならばともかく、相応の組織を動かしていく立場に就けるのであれば、採用時の学歴や出自はともかくとして少なくとも大学レベルの教育を働きながら受けさせるくらいの事はする必要がある。

 厚生労働省は社会人が大学で学びなおすことを推進する法案を提出するそうだが、実現すれば企業人のレベルアップを期待できる。だが、トヨタやパナソニックと言った名の知れた大企業の総合職はともかく、それ以外となるとそもそも大学教育を含めた教育に価値を見出していない例も珍しくなく、実現にはかなりの困難を伴うのではないか。

 今回、改めてトヨタとパナソニックの「綱領」なども熟読し、直接両常務と話す機会を得たが、両社とも特徴的なのは「社会への奉仕」が前面に打ち出されていることである。両者ともに創設が戦前であることもあってともに「産業報国」という言葉が使われているが、それ以外にも社会貢献や従業員間の協調が説かれている。数字や競争という言葉はどこにも使われていない。

 もし、掲げられている会社の「社是」が利益や数字だけだったら、それを達成できなければそのまま労働者にとっては喪失感を味わうだけになる。達成したら、その手法や中身については吟味せず、数字だけに満足することになる。そうやって、表面的なデータだけなら上手くいっているように見える組織が崩壊することかは珍しいことではない。しかし、もっと高い次元の目標が掲げられていたとしたら、マイナスの時期もまた高い目標を達成するための必要な時期だとという気持ちを持てる。何より、仕事そのものが「社会に対して役だっている」という意識を持てるかどうかは重要なことだ。単に「会社に役立っている」だけなら、その会社との縁が切られれば終わりである。

 長く続いている企業には、やはりそれなりの理由がある。ITや人材派遣で急成長した企業の掲げているものを見ると、大変短絡的だし短絡的な理念や目標では人はすぐに離れてしまう。それでは長期的な人材育成はできないし、企業も長期にわたって存続することは困難と言えよう(もっとも、企業を長期に渡って存続させることに価値を見出さない考えもあるが)。

 尚、両社の方針には違いも見られた。トヨタが米国でのリコール騒動のこともあってあくまで品質には妥協しないという姿勢を示しているのに対して、パナソニックはあまり重要とされないところまで高品質にこだわると価格に反映されて高すぎて売れなくなる商品になってしまうので、品質に一定の妥協をする意向である。どちらも一理あるが、この違いが今後どのような違いとなって表れてくるか、興味深い。

2013年10月17日 (木)

評価に潰される組織

 社会政策学会でほぼ欠かさず拝聴している発表がある。西南学院大学の石塚准教授が行っているドイツ化学企業の評価制度をめぐる研究だ。第一次大戦前から20世紀中盤までの人事に関する資料がほぼ残っているため、かなり長期間に渡って個々人の評価まで変遷が追えるのだそうだ。

 石塚先生の研究はまだ途上にあるが、ひとつ私が感じたのは評価制度はもろ刃の剣であるということである。評価制度の運用だけで組織が疲弊してしまったり、実情に合わない評価制度によってモチベーションが下がったり人材が逃げ出したりと言う話はあちこちで聞く。だからこそ、長続きする企業は評価制度を恣意的にならない程度でそこそこ柔軟に運用するし、時代に応じて変えていく。それができる企業が生き残っていると言える。それができる組織にするためには、何が必要なのか。

 ここ二十年ばかり、評価制度を作って競争させればよくなるという考えが大流行していた。一人一人を詳細に締め上げれば業績は上がると。しかし、現実には日本企業は衰退を続けており、心身を害する労働者が続出している。メンタル面での労災認定は激増しており、今やオフィスは「窒息する場」である。

 私は歴史は好きだが歴史学者ではない。一介の実務家という立場である。しかし、色々な仕事をしていると、歴史こそ最も学ぶべき教訓が多い分野であることが分かる。組織を動かすために必要なのは歴史から学び取ることだ。経営者の多くは数字に執着し、数字に一喜一憂する。数字は確かに分かり易い。しかし、数字はかなり恣意的な解釈ができる。そして、数字に一喜一憂する連中の思考と言うのは、大抵そこまでである。学者ですら数字を並べ立てて発表を行った挙句、会場から「それで、あなたはその数字を並べて何が言いたいのか」と質問されると壇上で右往左往する者が珍しくないから仕方がないと言えば仕方がないのだが、数字に一喜一憂しているだけの経営者は所詮二流三流の経営者である。一流の経営者と話すと、彼らは歴史を語る。歴史から教訓を学び取り、それを活かそうとしている。この違いは大きい。

 

2013年10月15日 (火)

後世の検証なき「秘密保全法」は問題

 政府は秘密保全法を臨時国会に提出する予定だが、この法案の危険性については日弁連をはじめとして多くの識者が懸念を示しているところである。

 私は国家機密の保全そのものには一定の制度を設けるべきだとは思うが、政府与党の考えている秘密保全制度は単なる「国家機密のインフレ」で終わってしまうように思われる。何より、後世の検証機会が十分に保障されているとは言い難い。機密指定されたものは、そのまま闇に葬られてしまうだろう。

 アメリカの場合は国家機密も永遠に隠しておくことはできない。指定解除されれば誰でも見ることができ、「沖縄返還密約事件」もアメリカの情報開示制度によって事実であることが明らかになった。一方、もう一方の当事者である日本にはこの種の制度がなかったから、日本側の資料検証を行っても事実にはたどり着けない。

 日本はアメリカと異なり頻繁な政権交代は無く、政府中枢に入る政治家の多くは閨閥によって二重三重に結ばれている。これでは、過去の機密の暴露は自分たちの父や祖父の「恥部」をさらけ出すことになりかねないわけで、特に自民党の関係者が消極的になるのは人情として理解できなくはない。しかし、それを肯定してしまえば我が国は民主主義国ではなくなる。

 沖縄返還密約は私はあの時代には必要だったと思っている。アメリカが血を流して奪い取った沖縄を返還するのに裏で何の条件も付けないほうがむしろ不自然である。日本ではアメリカのベトナム介入をめぐって反米意識が高まっていた時代であり、左翼過激派の力は現代と比べようもないくらい強かった。密約がなければアメリカは返還に応じなかっただろう。

 機密で守られているものが「妥当」でったかどうか、最終的には歴史の法廷の手に委ねられるべきだ。しかし、現在の秘密保全法ではその検証が保障されているとは言い難い。いくらでも機密を機密として闇に葬ることのできる余地がある。これでは、権力のやりたい放題が容認されかねない。

 

2013年10月13日 (日)

社会政策学会

 社会政策学会の秋季大会が大阪経済大学で開催された。社会政策学会に参加するようになったのは、厳密には大学院生の立場を喪失して一介の社会保険労務士に戻ってからなのだが、労働及び社会保険の実務家として研究一筋の人達と意見交換を行うのは大変な刺激になるので毎回楽しみにしている。

 実務の世界では、ともすれば「決まったこと」はその通り通してしまう。いちいち考えていては仕事が進まない。しかし、制度や手続きの制定過程や趣旨を吟味していくと、現実の運用が当初の想定とかけ離れたものになっているのはまだいい方で、中には当初の法制定の趣旨と全く逆の制度になってしまったものすらある。私が今回の学会で興味を抱いたのは在職老齢年金制度に関連する話であった。

 現実には実務を深め、そこに「面白さ」や「やりがい」を感じていくためには、単なる制度運用の表面的な知識だけではなく、「なぜ」「どうして」を追及するアカデミックな視点を持ち続けることが必要である。単に右から左へ処理していくだけなら「専門職」ではなく単なる「職人」に過ぎない。

 確かに、年金にしろ労務にしろ、表面的な実務はそれほど勉強していなくてもできないことはない。ゆえに、この分野での「専門家」は不要であると言われることも多いし、社会保険労務士が単なる代書屋や機構業務の請負人程度の扱いしか受けられないことも珍しいことではない。実際、そのような能力しか持たない社会保険労務士も多いが、特にねんきんを含む社会保険関連業務では専門家としての待遇と格式は全く失われていることがごく当たり前に見られる。

 だが、我が国にブラック企業が蔓延し、年金制度に対する国民の不信感がピークに達していることに思いを致す時、表面的な手続きや説明を行うだけで、本質的な部分を理解し、そこまで立ち入った説明や処理を行ってこなかったことが今日の事態を招いていると言えはしないか。ただちに改善できるとは誰も思っていないが、専門家としてなすべきことをやっていきたい。

2013年10月11日 (金)

日雇い派遣の解禁問題

 「ワーキング・プア」問題の象徴として禁止措置が取られた「日雇い派遣」について、多様な働き方を理由として再度解禁される方向で議論が進み始めた。リスクの少ない景気の調整弁として日雇い派遣を活用したい経済界からの要望が一番の原因であろうが、短期の日雇いで働きたいというニーズも無視できない。日雇い派遣が禁止されても日雇労働そのものが禁止されているわけではないので従来の土木建築の日雇いならばハローワークの入口で集めてライトバンに乗せていくこともできるが、現在の公共職業安定所ではそれ以外のマッチングを行う機能はなく、民間の派遣会社に担わせざるを得ない。公務員削減や官公庁業務の削減が叫ばれている今日、マッチング業務を公共職業安定所が担うのは極めて困難であろうし、民業圧迫と非難されるのがオチであろう。

 仮に日雇い派遣を再び解禁するとなれば、「日雇い」という労使の需要を満たしつつ、とりわけ弱い立場になっている日雇労働者を保護する施策が必要となる。現行法では手数料、中間搾取の開示が求められているが、ビジネスで手の内を晒すことを規定については非常識な規定だと批判も多い。

 全般的な網をかける方法としては、まず最低賃金制度がある。派遣労働、特に日雇い派遣労働は失業というミスマッチのリスクをともすれば労働者側に負わせる制度である。となれば、リスクに見合うだけの賃金が上乗せされてしかるべきだ。即ち、最低賃金を通常の労働者よりも高く設定してはどうか。もちろん、この方式は直接雇用の労働者を派遣の方に転換する「エサ」だと非難される余地はあるのだが、リスクのみを一方的に派遣労働者に押し付けてしまう問題を幾分は是正できるだろう。健康保険については日雇いでも適用する制度があるが、厚生年金と併せて日雇い派遣であったとしても適用対象とする法改正を行う余地はあろう。

 日雇い派遣を受け入れる側についても、日雇い派遣が長らく職場での人権侵害の温床となってきた事実を鑑みれば、労務監査を義務付けるなど監視措置が必要となるのは当然のことである。現在のような問題を起こしている人間がそのまま「苦情処理担当者」でいられるような制度のままでは、何が起きるかは火を見るより明らかなところである。

 「使いやすい労働者」を欲する使用者の考えは理解できなくはない。しかし、それならば使いやすい労働者を使用するに当たり、相応の負担を行うのもまた当然のことである。私は日雇い派遣の実質禁止に問題があるという認識は持っているが、日雇い派遣だけが解禁されてリスクのみを労働者が負わなければならないという法改正だけは避けるべきだ。

 派遣労働の本質的な問題は、まさに派遣労働者が「資材」「物」と同格の扱いを受けることである。派遣元ではそれほどでもないこともあるが、派遣先では人ではなく数字という扱いしか受けないことが普通だ。このような現状のままで経済界の言いなりに「日雇い派遣」を解禁してしまえば、ますます職場で人間の尊厳は失われる。そして、ダンピングによって尊厳の低下はその他の派遣労働者、非正規労働者から正規労働者まで波及していくことは確実である。賃金だけでなく、人としての尊厳をもまた保てるようにすること、その負担は日雇い派遣を使いたい使用者側が負うべきものであることは言うまでもない。

2013年10月 9日 (水)

除染と言うブラックホール

 暴力団幹部が経営する「派遣会社」が除染事業に労働者を派遣して多額の利益を上げていた事実が明らかになった。仮に暴力団幹部が経営していなかったとしても、土木建築現場への労働者派遣は違法であり、この点でも問題がある。

 「除染してふるさとへ帰ろう」というスローガンのもとはじめられた除染事業だが、もともと参入にさしたる技術・技能が求められていなかったこともあって、造園業から便利屋までビッグ・ビジネスとして殺到し、相当悪質な事業者が入り込むであろうことは汚染地域の封鎖ではなく除染が打ち出された時から多くの識者が予測していたことであった。

 そして、残念ながらその危惧は現実のものとなった。除染事業者ではピンハネが横行し、労働局や労働基準監督署も多少の調査はやっているものの、労働者が多重構造の中で搾取されていることを阻止できないでいる。そして、暴力団が暗躍している。除染事業に投じられた多額の税金が何処に消えたのか、想像するだけで恐ろしい。

 除染事業はもはやブラックホールではないか。効果もはっきりしているとは言い難い上、リスクを完全に除去するには至っていない。しかし、「地域」という大義名分がある以上、最早やめることはできないだろう。田舎の社会や中小企業はそこにあるからこそ存続できるし生きていけるのである。他の地域に移されたり分散させられたりしてしまえば、「顔」で成り立っている地域社会は存続できない。他地域に移ることが容易なサラリーマンや若者と異なり、地域社会を支えている中高齢者や中小企業経営者が除染に拘るのは彼らにとって死活問題だからである。それは理解できる。それならば、要となる除染について、受託業者に相応の規制をかけるべきではないのか。

 今のままでは、除染という大義名分のもと、国民の資産を暴力団に献上していると非難されても仕方がないのではないか。発注者である国や自治体が不適切な事業者と人々を積極的に排除する注意義務を果たしてきたとは到底思われない。

2013年10月 7日 (月)

「決められない政治」で大混乱

 アメリカ議会で上院下院の対立が続き、予算案が成立せず連邦政府の機関が閉鎖に追い込まれる事態が発生している。日本で衆参の議決が異なる場合、予算であれば衆議院の議決が国会の議決となるし、その他についても衆議院が三分の二で可決すれば参議院の意見を無視することができる。ところが、アメリカにはそのような制度はない。結果、与野党がねじれている上院と下院で意見が異なる場合、一方が押し切ることはできないことになっている。

 つまり、時間をかけて妥協点を見いだせと言うことだが、妥協というものはすぐに見出せるものではない。となると、このような事態も起きてしまうわけだ。今回の対立の原因は、オバマ大統領が進める健康保険制度に対して野党の共和党が反対しているためである。二大政党制では「自党の得点は相手の失点、相手の失点は自党の得点」になる。まして、健康保険制度は共和党保守派に言わせれば「政府の介入を排除するアメリカ建国の精神に反する」そうだから、簡単に妥協するわけもない。一方、与党民主党としては健康保険制度の整備はクリントン政権時代から二十年来の課題である。貧富の格差の激しいアメリカでは日本のような公的医療保険制度が存在せず、5000万人が取りこぼされている。そこで発達したのがサプリメントやホメオパシーというまじないまがいの「代替医療」だ。日本ではアメリカは「手本」とされており、議員定数や地方議会制度などではすぐに「アメリカでは」と口火が切られるが、ヨーロッパも含めて先進国という観点で見た場合、アメリカはかなり異様な国である。

 日本であれば、すぐに「強力な政府」を求めるところだ。橋下市長が勢力を一時的にしろ広げたのも、現在の安倍政権が高い支持率を維持できているのも、小泉政権があれだけ続いたのも、日本人が議論よりも「決めること」を求めてきた結果であると言える。小選挙区制も含めて政治制度そのものを「合議」以前に多数派を形成しやすくする制度に転換を進めてきたところから見て、アメリカが「決められない制度」を変えないことを疑問視する声は当然出てこよう。

 しかし、アメリカはこのようなことがあっても、伝統的に合議を重んじてきた国である。もともと建国の際に共和制ローマを手本としてきたこともあって、「独裁的な手法」は建国以来毛嫌いされてきた。アメリカ合衆国大統領は絶大な権力を持っているように見えるが、合衆国議会もまた絶大な権力を持っている。この点は、議会は行政府の添え物という意識が強い日本とは根本的に異なる。

 そして、独裁者を本質的に毛嫌いする限り、アメリカは合議制度を変えることはないのではないか。例え「決められない政治」による混乱が起きたとしても、それによって独裁に道を開くよりは合議を重んじる制度を存置した方がマシであることは言うまでもない。

2013年10月 5日 (土)

国が出会い系事業に助成

 若者の非婚晩婚が問題になっている中、なんと内閣府は「出会い系事業」に助成を行う方針だという。まことに、物事の本質を理解していない愚挙としか言いようがない。公的機関が非婚晩婚対策を行うなら、他にやるべきことはいくらでもある。

 最近は「街コン」と言うのか、「まちおこし」「まちづくり」のイベントとして婚活を掲げているケースが目立つ。イベントもいささか「食傷気味」な今日、「結婚できない連中のためにイベントをする」という大義名分を掲げているわけだ。相当悪質な例も報告されており、こうしたイベントに助成を出すのでは、お祭り男やイベント屋を楽しませ儲けさせるだけの結果しかもたらさないのではないか。本音のところは「地域活性化」なのだそうだから、婚活云々はあくまでも予算獲得のための「口実」でそもそも本気で結婚できる環境づくりなど考えていないと疑わざるを得ない。

 このままでは「恋の魔法の使える魔法使い」や「キューピット」が実在したとしたら、彼らにも助成金を出すなどと言いかねない。

 若者の非婚晩婚の原因は彼らの置かれた労働環境にある。大阪大学大学院の小嶌典明教授の研究によれば、非正規労働者が増えたのは高齢者の継続雇用が原因であって若者が正規労働から非正規労働に転換しているわけではないそうである。非正規労働者と日常的に接し続けている私としてはとてもそんな実感はないのだが、統計では若者は非正規化していないという結果が出ているそうだ。となると、正規労働であったとしても労働時間や賃金上昇といったところに目を向ける必要がある。仮に激増した非正規労働者が高齢者であって若者の非正規労働転落が起きていないとしても、賃金をはじめとする労働条件は向上するどころかむしろ後退しているのが実態ではないか。何より、企業社会が労働者を搾取するだけ搾取して切り捨てる姿勢を強めている現在、労働者側は将来を描けない。正規労働者であったとしても使い捨てるという姿勢で使われては、尊厳も自信もあったものではない。

 実際、私の周囲を見ると非正規労働から正規労働に転換したり昇給したりしたことをきっかけに恋愛や結婚に「踏み出す」例が多いように感じる。逆に、非正規労働の男性の場合は同じ非正規労働の女性から相手にすらされないという厳粛な事実もある。この点、女性の場合は非正規であったとしても極端に「恋愛市場」「結婚市場」で不利になるということはないようだ。

 若者に不足しているのは出会いの場ではない。異性とは出会っている。しかし、恋愛や結婚に踏み出す自信も余裕もないというのが実態ではないか。更に恐ろしいのは、国が「出会いの機会までお膳立てしてやったのだから、制度上独身者が不利になっても自己責任」という態度を取りかねないことだ(現在でも独身者は税制上不利だが、この不利益をさらに拡大するだけでなく、例えば年金額のカットや賃金抑制などが考えられる)。非婚晩婚や少子化問題が労働問題そのものである以上、国がやるべきことは労働環境の整備であって出会い系事業をやることではない。

2013年10月 3日 (木)

山崎豊子さん逝く

 「白い巨塔」「沈まぬ太陽」「大地の子」など、数々の名作を世に送り出してきた作家の山崎豊子さんが亡くなった。ご冥福をお祈り申し上げたい。週刊新潮に連載中の「約束の海」が遺作となった。結末が永遠に読めなくなってしまったのは残念でならない。

 「白い巨塔」は何度もテレビドラマ化され、「野心的な外科医と良心的な内科医」という組み合わせはその後の医療ドラマではよく見られるパターンとなった。「沈まぬ太陽」で描かれた日本の航空業界の「闇」は、その後JALの破たんで現実のものとなった。

 しかし、山崎さんが描きたかったのは「人間ドラマ」であったと思う。大学医学部や航空会社はその舞台に過ぎないのではないか。一般企業にも官公庁にも人間ドラマはあるだろうが、大学医学部や日本を代表する航空会社の幹部であれば、その人間ドラマにより一般国民も大きな影響を受けざるを得ない。

 実在の人物に取材を行い、それをもとに虚実を取り混ぜて作品に仕上げる手法に批判がなかったわけではない。人物の描き方についても、一方に肩入れして書きすぎているという批判もあった。作品の描き方については、これから文学者が議論することになるだろう。しかし、様々な批判を含めて、後世に残す名作を数多く残された。

2013年10月 1日 (火)

ブラック士業

 明日からスタートするテレビドラマ「ダンダリン」は労働基準監督官を主人公にしたドラマなのだそうである。ブラック企業がこれだけ注目されるようになったから、ブラック企業と戦う労働基準監督官をドラマの題材として取り上げようということだろう。警察官や国税捜査官はドラマになるのは珍しくないが、労働関係の仕事と言うのはどうしても注目されない。世間の耳目が向くのは悪いことではなかろう。

 しかしながら、社会保険労務士の側としては手放しで喜べないところがある。既に全国社会保険労務士会連合会で問題になっていたが、このドラマにはブラック企業側として暗躍する社会保険労務士が登場するのだそうだ。社会保険労務士は「悪役」としてしか登場しないそうだから、資格そのものに対する悪いイメージが流布されてしまうのは免れない。

 「ブラック企業」の問題が世に広く騒がれるようになり、同時にブラック企業を支える弁護士や社会保険労務士が「ブラック士業」と指摘されるようになった。それでも弁護士は日本労働弁護団を中心として労働者側に立つ者も多いから労働団体も弁護士資格そのものに対する非難まではしていないが、社会保険労務士はもともと企業の労務管理や社会保険手続きを行うところから出発し現にそれが一番社会保険労務士の仕事としては大きいから、ブラック企業を取り上げた本の中では袋叩きにされている感がある。そして残念ながら、ブラック企業の手先の如き悪事を働く社会保険労務士が現実にいることも事実である。

 例えば、社会保険料は賃金に比例するのが原則で、社会保険料を下げたければ賃金を下げるしかない。しかし、「社会保険料を意図的に低く申告する」という手法を売り込んだ社会保険労務士は多かった。使用者側は社会保険料を減らしたくて仕方がなかったわけだから、これは「お客様の希望」に沿った対応である。しかし、社会保険料、例えば年金保険料を低く届出られていれば、厚生年金の受給金額は下がる。高い標準報酬のまま年金保険料を賃金から天引きし、低く届出て差額を懐に入れていればこれはもう詐欺だ。さすがに社会保険そのものから抜けるという手法は社会保険労務士の介入する余地がなくなるからそこまでは踏み込まない者が多かったようだが、いずれにせよ使用者の悪事に加担していたことは疑いようがない。実際、「思ったより年金が少ない」と言われて調べてみると、不正が行われていたのではないかと言う疑いのある事例は多々あるのだが、年金は受給まで時間がかかることもあって証拠を押さえるのはかなり難しい。それでも最近は日本年金機構が「ねんきん定期便」というものをばら撒いてくれるようになったから、それを端緒にして不正を調べるのは以前よりは容易になった。

 しかし、「ブラック士業」というのはブラック企業の手先になる専門職のみを意味するものではない。もうひとつ、全く別の意味でも使われている。

 弁護士が増えすぎたというの話題はニュースでもよく取り上げられている。かつては司法修習を修了して弁護士になったら、大抵は先輩弁護士の事務所に入って働きながら仕事を覚えていくというのが当たり前であった。しかし、弁護士の増員で就職できない弁護士が続出し、事務所に雇用されずスペースだけ借りて仕事をする「ノキ弁」(軒先弁護士)、資格取得後直ちに独立するというのも珍しくなくなった。就職できたとしても、大手事務所やチェーン店さながらに増殖している弁護士法人の場合、過酷な労働条件で長時間労働を行い、心身を害する例も多いという。

 社会保険労務士の場合、もともと業界そのもので事務所に入れて人を育てるという考え方が希薄だったこともあってか、開業登録と廃業が非常に多い。中小企業では労務管理や労働法の順守といったことはそもそもあまの重要視されていないこと、社会保険手続き業務は税理士が付随業務として行えること、企業の新規開業が減り続けていることもあって、社会保険労務士のパイは少なくなる一方である。

 年金関係の業務は社会保険労務士の仕事としては認知されているが、実際の年金受給手続きに社会保険労務士が介在する余地は少ない。年金事務所やコールセンターに聞けばタダで教えてくれるからだが、年金事務所窓口で業務を行う社会保険労務士は日本年金機構と直接の雇用契約すらない立場であり、時給ベースで1500円程度である。アルバイトとしては一見すると悪くないように見えるが、社会保険労務士会の会費や労働者ではないが故に発生する必要経費を支払って生活を支えるのは容易なことではない。加えて、そのような業務を続けたとしても顧問先の獲得等には結びつかない。機構は更に社会保険労務士を「活用」したい意向のようだが、このままでは社会保険労務士そのものが機構の下で「ワーキング・プア」化するのは免れないであろう。

 「ブラック士業」のもうひとつの意味は、生活もままならない士業ということである。国家資格を取得するには時間と費用がかかる。そして、取得してみたら大学同期で普通に就職した人々と比べてお話にならない程度の収入しかない。このような現状では、専門職と言ってもなりふりかまっていられず、ブラック企業にからめ捕られて悪の道に落ちていくものも多数出てくるだろう。「ブラック士業」の二つの意味は、ある意味では表裏一体のものである。

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