« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月

2013年8月31日 (土)

年金ジョーク

 年金受給者が安倍総理に手紙を書いた。

 「年金が減らされてこのままでは首を吊るしかありません」

 総理からの返事。

 「吊るならば早い方がいいと思います。今後、縄を買えるだけの金額を支給できるかどうか保証できませんので・・・」

2013年8月29日 (木)

公務員出身者の資格試験優遇制度は廃止せよ

 国税局の職員が元同僚である税理士に税務調査によって得られた企業情報を教えていたことが問題になっている。言うまでもなく公務員の守秘義務違反だが、このような「癒着」はかねてより囁かれていたところで、「やはり」と思った人は少なくないのではないか。「国税OB税理士」を企業は重宝しているそうだ。課税処分をする側のOBであり一般的には先輩だから、何かと顔が利くのだそうだ。これだけでも十分「胡散臭い」話ではある。

 国税庁で一定期間勤務した公務員は税理士となることができる。社会保険庁出身者や労働基準監督署出身者は社会保険労務士で科目免除を受けることができる。資格試験では、公務員(日本年金機構を含む)出身者を優遇する規定がある。やはり、このような制度は公務員も専門職も疑いの目を向けられる原因になるから、廃止するのがしかるべきではなかろうか。

 そもそも、公務員を優遇する理由が既に薄れている。例えば、今や年金関係の業務は日本年金機構と直接の雇用契約を結んでいない労働者が徴収にしろ相談にしろ担っていることが多い。しかしながら、日本年金機構職員と同格の「義務」と「責任」を負って働いても賃金は大きな格差があり、加えて機構職員であれば受けられる社会保険労務士試験の科目免除の特権は与えられない。仕事の内容は大して違わないのに(無論、公務員様の側は違うと言うだろうが)身分で大きな差が生じる。少なくとも国家資格を与えるうえで、これは公正とは言えまい。

 公務員出身者がその地位を利用して一般受験生よりも優遇された状態で専門職の資格を得、その後は公務員時代に知り得た情報や官公庁の人脈を使って稼ぐ。これでは「天下り」と大差ない。また、今や一般企業では「業務で知り得た知識や情報は個人の物ではない」という情報漏えいに備えたリスク管理が定着しており、これが叩き込まれている。公務員出身者だけが「業務で知り得た知識や情報を私物化して良い」わけがない。

 税理士など専門職は、相応の知識とともに倫理も一般人とは異なる高度なものが求められている。また、バッジの重みというものもある。信用失墜行為をされれば、業界全体の迷惑となることは言うまでもない。

 OBに対する情報漏えいを防止する意味でも、安易にゲタを履かせるような制度は宜しくない。

2013年8月27日 (火)

潘国連事務総長の発言は問題

 潘国連事務総長がソウルで会見し「日本は反省しろ」という趣旨のことを述べ安倍政権を批判した。国連事務総長としては明らかに問題のある発言と言える。潘国連事務総長は韓国出身だから、韓国人として思うところは色々とあろう。しかし、歴史問題は日韓間の「懸案事項」であり、特定の問題について特定の国に肩入れする発言をするのでは、国連事務総長として明らかに行き過ぎだ。国連事務総長は出身国の利害を代弁する存在ではない。

 「反日でなければ人に非ず」という風潮のある韓国政界出身者である潘事務総長の中立性を疑う声は就任当初からあった。はからずも、この危惧が現実のものになってしまった。母国に対して露骨に肩入れするようでは、事務総長の仲介など信じる者はいなくなるだろう。伝統的に国連事務総長は中小国から選出されているが、これは大国から事務総長が選出されることで出身国への利益誘導を避ける狙いがあった。潘事務総長はこうした国連の伝統をも踏みにじってしまったことになる。

2013年8月25日 (日)

汚染水漏れ

 廃炉作業中の福島第一原子力発電所で高濃度の汚染水漏れが発覚した。公表されている以外にも何かあるのではないか、何か隠していることがあるのではないか、不安を感じている国民は私だけではあるまい。

 原発推進の安倍政権になって以来、原発や事故を起こした東電に対する風当たりは弱まったように感じられる。しかし、風当たりが弱まったからと言って、それで原発事故が終息するわけではない。もとより、原発関係は「原子力ムラ」と呼ばれ「ムラ」社会であるという批判があった。仲間内、共通の利害関係を有する者同士で庇い合っているのではないか。これは依然として疑いの目を向けられていると言ってよい。

 あの震災から二年数箇月経って思うのは、依然として日本社会の本質的な「ムラ社会気質」は代わっていないのではないかということである。むしろ、ムラ社会気質が被害を拡大させたのをあえて無視して、ムラ社会的な人間関係の方が「望ましい」という価値観すら生まれてきている。結局のところ、事故を起こした東電や原発を恨みこそすれ、その事故を起こした根源的な問題には無頓着と言うことだろう。後悔はしていても、反省はしていないということだ。とすれば、残念ながら事故はまた起きる。

 除染業者で相次ぐ労働社会保険諸法令上の違法が指摘されているが、元来原発請負業者に指摘されていたことと本質的には何等の違いもない。そして、抜本的な取り締まりは着手される気配すらない。これではやりたい放題やった方が勝ち組ということになる。政府は労働社会保険諸法令上の「ブラック特区」を作りたい意向のようだが、福島あたりが適当ではないかと勘繰りを入りたくなるところだ。本当に原発関係者が「過去の失敗」を反省しているのか、きわめて怪しい。むしろ、「運が悪かった」と思っているのではないか。

2013年8月23日 (金)

党から出て行ってくれ

 みんなの党の柿沢衆議院議員が離党届を提出した。ツイッターに書き込まれたその理由が凄い。何と、渡辺代表に「党から出て行ってくれ」と言われたから離党するというのである。先の江田幹事長懐妊騒動も含めて、結党以来躍進を続けてきたこの党の体質を疑うべき時期が来ているのではないか。

 「みんなの党」は渡辺代表のオーナー政党のようなところがある。しかし、党の創設に絶大な影響を及ぼしたからといって、党首の自己中心、好き勝手、やりたい放題が許されてよい筈がない。そもそも、「政党」は単なる私的団体ではない。日本国憲法に定める憲政そのものが政党の存在を前提としていることは多くの憲法学者の一致しているところである。当然、それなりに適正な「党内手続き」が存在していなければならない。しかしながら、今回の柿沢議員の離党は正式な「離党勧告」があったわけでもなく、渡辺代表が「出ていけ」と言ったから離党するというものであった。いささか「売り言葉に買い言葉」のようにも見えるが政党と言うのはそんなに簡単に出たり入ったりができてよいものであろうか。、

 この「政党」には「政党助成金」として相応の金額が活動費として支払われている。これは国民の税金だ。政党助成金を受け取っていない政党もあることはあるが、政党に対する個人献金が一般的ではない我が国では党の活動費として政党助成金は重要である。少なくとも国費から活動費を受け取る存在であるならば、相応の説明責任と手続きの整備は求められてしかるべきではないか。都合のいいところで「政党は私的団体で結社の自由がある以上、外からの介入は許さない」という考え方は最早許されない。

 「みんなの党」は政党の内部規律や手続きを法制化すべきだと主張していた。私もこの考え方には賛成である。政党助成金だけでなく選挙制度上も政党がこれだけ公的な存在になってしまっている以上、ブラックボックス化を容認すべきではない。まず、みんなの党がこれを機会に適正手続きを定めて実践されてはいかがであろうか。

2013年8月21日 (水)

禁煙学会の「風立ちぬ」批判は的外れ

 禁煙学会が映画「風立ちぬ」について、喫煙シーンが多すぎるとか、登場人物が喫煙していなくても心情描写ができた筈だという理由をつけて批判の声を挙げている。条約違反まで持ち出してくるのだから凄まじい。しかし、この批判はいささか的外れだ。

 私自身、「風立ちぬ」を最初に観たときから喫煙シーンが多いと感じていた。だが、当時の日本人男性にとって喫煙はごく当たり前の習慣であったし、当時の人間関係を描こうとすれば喫煙シーンが登場するのは不自然でもなんでもない。「風立ちぬ」そのものの感想にも書いたが、あの作品はあの時代を丹念に描いている。海軍の士官一種軍装の袖章が金色になっているのは明らかな間違い(実際には金色にすると金がかかるため紺地に黒の袖章を巻いていた)であったが、当時の階級毎の服装の違いをきちんと再現していた。

 軽井沢のシーンで登場人物たちがドイツ語で歌うシーンがあるが、あれも当時の高等教育を受けた人々は軒並みドイツ語教育を受けていたことが分かっていれば納得できるところだ。今でも旧帝国大学の法学部や医学部では第二外国語としてドイツ語が必修として指定されているところがあるようだが、当時の旧制高等学校の主流は理系でも文系でもドイツ語教育組だった。私自身は大学院では法学専攻でも大学自体は文学部で外国語の履修はかなり自由だったため中国語を選択している。しかし、法学部の学生は自由でもドイツ語を選択している者が多かった記憶がある。あの時代のエリートをよく描いたと言える。

 学生が喫煙するシーンが問題だとか、肺結核で寝ているヒロインの傍で主人公が喫煙するのが問題だとか言われているが、前者は当時の大学生が教室で喫煙するのは他の文献を見ても珍しいことではなかったわけだし、後者についてはヒロインが主人公を思う「心情描写」の点で重要だ。特に後者については煙草の代わりに飴玉が登場していたら、間違いなく雰囲気ぶち壊しとなっただろう。

 私自身は嫌煙家である。私が大学を卒業して就職した頃は大手企業で職場の分煙が進められはじめた時期であり、私の職場は分煙など全くされておらず、周囲が無遠慮に吐き出す煙に頭痛と吐き気を催しながら仕事をせざるを得なかったことは嫌な思い出以外の何物でもない。煙草の臭いそのものが嫌いなので、今は飲み会に出たら服はクリーニングに出している。しかし、アニメの中で時代描写や時代に即した心情描写の道具として使われている煙草までも否定するのはやり過ぎであると考える。「禁煙ファシズム」と言われても仕方がないところだ(もともと禁煙運動時代ファシズムであるナチス・ドイツ発祥であるが)。

 もし、「風立ちぬ」の喫煙シーンが「喫煙を促進・宣伝するもの」であり条約違反だと言うのであれば、「紅の豚」などは「海賊航空機を宣伝」していることになり、「千と千尋の神隠し」は「児童労働の容認」となり、「借りぐらしのアリエッティ」は窃盗、「コクリコ坂から」は虚偽の戸籍届出を容認した作品と言うことになってしまう。そんなバカな話はない。

2013年8月19日 (月)

尖閣の次は沖縄

 中国共産党の機関紙「人民日報」が、8月15日に「尖閣はおろか、沖縄も日本の領土ではない」という論説記事を掲載した。従来から、中国共産党は沖縄を狙っているのではないかと言われてきたが、こうなると日本は尖閣のみならず沖縄を守ることも現実問題として考えなければならなくなってきた。

 確かに、明治政府が成立して琉球処分が行われるまで、沖縄は日本と清国の双方に朝貢するなど、曖昧な位置づけだったことは確かだ。しかし、清国の一部であった沖縄を日本が武力で奪取したという歴史的事実はない。朝鮮半島や台湾は中国との戦争によって獲得又は支配権を得た地域だが、沖縄はそれとは全く異なる経緯で日本領土になっている。

 だが、尖閣諸島について言えば、中国は国際社会に声高に叫び続けるのみならず、1980年代から継続的に調査船を投入して「紛争化」を謀ってきた。これと同じことを沖縄に対して行えば、数年後には「沖縄を紛争地として認めなければ日中首脳会談は行わない」という文句が出てくることになるのは必至だ。

 加えて、沖縄の対中央政府及び対米感情は依然として最悪のままである。沖縄の世論に「日本もアメリカも琉球人を殺した。だから中国に」という動きを作ることは、それこそ中国共産党の得意とするところであろう。

 現実問題として、沖縄県民が日本を離脱して中国支配をただちに受け入れるとは思われない。しかし、沖縄県民の基地批判などは、中国にとって十分に使える材料である。百年前ならば「日本とアメリカの圧政に苦しむ同胞である琉球人民を救う」という名目で出兵できただろうが、少なくとも米軍基地が置かれ続けている限り中国としては簡単に手が出せない。とりあえず中国共産党としては、紛争地として国際的に認めさせることで日本を外交交渉で委縮させ、経済面等で譲歩を引き出せれば良いと考えているのではないか。

 いずれにせよ、ここ十年ばかりの間に日中関係は緊迫の度を増している。しかも、福田政権や鳩山政権を挙げるまでもなく日本が中国に対して場当たり的な譲歩や友好の姿勢を見せれば見せるほど、日本そのものが追い詰められている感すらある。インドだベトナムだと言ってみたところで、果たしてどれだけの提携ができるものか。加えて経済界は中国で幅広いビジネスを展開していることもあって、総じて中国共産党に対しては刺激することを避けるよう日本政府に求め続けてきた。日本が中国のペースにずるずると引き込まれている根本的な原因はここにある。もっとも、経済界を主導する大企業は「国際化」「多国籍企業」という言葉をかざして国外脱出を進めているから、日本としては保護する必要も次第に失せていくのではないかと思われるが、当面の影響力は絶大だ。

 これからの十年は、日本にとって更に厳しい時代になるのではないか。

2013年8月17日 (土)

「はだしのゲン」

 原爆を扱った漫画「はだしのゲン」の描写が過激だとして、松江市教育委員会が市内の全小中学校で教員の許可がなければ閲覧できない「閉架措置」を要請し、生徒児童への貸し出しも禁止していたことが分かった。市民の一部から「間違った歴史認識を植え付ける」というクレームがあり、教育委員会が改めて内容を確認した際に過激だという判断に至ったものと言う。

 このクレームの内容は、要するに「過激」というよりも「偏向的」というものらしい。確かに、「はだしのゲン」の内容は戦争中の日本と旧日本軍から天皇、また当然と言えようが原爆を投下したアメリカが「悪者」として描かれる一方、共産主義に走った教師や闇市で跋扈していた朝鮮人などは「虐げられてきたいい人たち」として描かれている。思想的に見て、左翼思想にかなり偏った作品であることは疑いようがない。原爆をテーマとしている以上、被爆後の残虐シーンが多いのは当然だが、日本軍が「大陸で行った蛮行」も登場する。残虐であることもまた、疑いようがない。

 しかし、この作品が一貫して訴えてきた「原爆の悲惨さと平和の尊さ」は、思想や立場の違いを超えて多くの内外の人々の心を捉えてきた。麻生太郎副総理兼財務大臣は靖国神社への参拝を欠かさず、出身の麻生財閥が戦争中に中国人朝鮮人を酷使していたことは有名な話で、作中で悪者にされいる吉田茂首相の孫である。作中で「悪者」にされている人々の「関係者」そのものである麻生副総理ですら、首相在任時には諸外国の首脳に積極的に「はだしのゲン」を勧めていた。左翼思想にしても、様々な思想があるのは事実であって、それを是とするか非とするかは一人一人が考えるべきことだ。それは小学生中学生の子供であっても同じことである。

 様々な意見や見方があることに触れ、考える力を養っていくことは平和教育に勝るとも劣らぬ重要なものだ。むしろ、戦争は国民が思考停止になった時に起こりやすい。私は「はだしのゲン」を閉架にして簡単に読ませないようにしていることは、平和教育の後退以上に「思考の低下」を招くものとして由々しき事態と考える。学校や教育委員会が読んでいい本と悪い本を決め、一方的に悪い本だと指定して読ませないようにつとめている姿は、言論統制や検閲すら連想させるものだ。一方的な思想や見方を子供たちに吹き込み、又はシャットアウトすることがどれだけ恐ろしい結果を生んでいるか、これは北朝鮮など国民が奴隷状態にされている国を見ていれば明らかだ。

 私は戦前の日本や太平洋戦争に全く理が無かったとは思っていない。靖国神社に参拝もしている。しかし、一方で小学2年生の頃に「はだしのゲン」を読み(最初は小説版であったが)、以後も長久手町の中央図書館で度々読んで、戦争や原爆の悲惨さ、戦争や原爆に翻弄された民衆の悲惨さについて学ぶことが大きかった。この作品は、できるだけ多くの子供たちにむしろ読んでもらいたいものだ。閉架にして読ませないという松江市教育委員会と小中学校の対応は、大いに問題があると言わざるを得ない。

2013年8月15日 (木)

終戦記念日

 8月15日は終戦記念日である。厳密には、8月14日に日本はポツダム宣言を受諾して終戦は決定しており、日本が降伏文書に調印したのは9月2日だから、8月15日というのは単に国民に対して戦争終結が昭和天皇による「玉音放送」によって伝えられたという日でしかない。としても、この日が日本史に与えた影響の凄まじさは空前絶後のものであり、日本国民がこの日付を忘れることは永遠にないだろう。

 台湾や韓国ではこの日をもって日本の植民地支配から解放されたとしており、「光復」と表現される。両国にとって、戦後の新たな一歩を踏み出した日として意義深い日となっている。

 日本にとって、8月15日は祈りの日だ。全ての戦没者に対して国民の多くが哀悼の意を表する。自宅で静かに祈る人たちもいれば、慰霊祭で、平和集会で、靖国神社で、千鳥ヶ淵で、護国神社で、教会で祈る人たちもいる。太平洋戦争の歴史的意義や、評価や、是非については意見が分かれるけれども、戦没者に対する哀悼の気持ちは共通したものである。そこに流れる恒久平和への想いもまた、私は同じであると思う。

 戦争は遠くなりつつある。戦争経験者は軒並み高齢化している。子供として戦争を経験した人々でも高齢化しているが、軍人として、工員として、妻として、母として戦争を経験した人々となると更に数が限られてくる。若い我々にとって「生きた証言」を聞くことのできる時間はもうほとんど残されていない。遠からず、「語り手」たちに頼ることなく戦争を伝えていかなければならない時代が来る。

 しかし、これは歴史の必然であって、誰にも止めることはできないものだ。また、当事者が去ると言うことは、より客観的に歴史を見つめ、歴史に学ぶ機会ともなる。これからの世代は遺されたものから学び取ることが重要になるだろう。それは同時に、あの戦争で日本が得た教訓をより普遍的なモデルとして後世に残し活用していく機会ともなる。そうしなければ、日本は犠牲を払っただけということになってしまう。これからより重要となるのは冷静な検証と研究であろう。

2013年8月13日 (火)

韓国議員が竹島へ

 韓国国会議員が竹島に上陸しようとしているという。李明博政権末期に引き続き、韓国の対日政策は相変わらずのままである。今回の韓国国会議員の竹島上陸は、国内向けの政治パフォーマンスの色彩が強いものの、韓国政界において今なお「反日」という立ち位置が絶対的な正義であることを実感させられる。

 韓国では日本に妥協することは「親日派」という「売国奴」とイコールのレッテルを貼られることになり、政治家であっても言論人であっても学者であっても職業的な死を意味することになる。ライバルが「反日」を叫ぶ以上、自分もやらざるを得なくなる。かくして、韓国は争って「反日」に突き進むことになる。反日活動がエスカレートするのは推して知るべしであり、今後も更にエスカレートしていくことは容易に想像できることだ。

 問題は、ここで日本が妥協の姿勢を示すことである。確かに、我が国と韓国は東アジアの数少ない自由主義国であり、対北朝鮮政策や南シナ海からインド洋に至るシーレーン防衛策など、現実には多くの共通した利害を抱えている。日韓関係が厳しいとは言っても、こうした日韓共通の問題に取り組む姿勢の火種が両国ともに消えていないことが救いだ。としても、現実主義的な立場で冷静でいられる人はそう多くはない。そして、戦後一貫して日本が妥協する度に韓国は竹島の実効支配を進め、日本海の名称は植民地支配で押し付けられたものと非難し、対日政策でより有利な立ち位置を示し日本から多くのものを引き出してきた。日本の政治家より韓国の政治家の方が一枚上手だったと言える。日本がここで妥協することは、同じことの繰り返しだ。

2013年8月11日 (日)

米がなければDVD?

 北朝鮮の金正恩第一書記が、食糧不足解消のために料理のDVDを作成するよう指示したという報道があった。その趣旨は、北朝鮮国民は米食に固執しており、パンなどを食べてもまたコメを食べてしまうことが原因で食糧不足になっているので、米以外の料理を覚えさせるために料理のDVDを作成するらしい。

 何やら「パンがなければ・・・」という有名な話を思い出してしまうところだ。実は、日本人も終戦直後は米がなくて苦しい思いをした。この時には、アメリカから大量の食糧援助を受けて乗り切った。アメリカ側もこれを機会に日本人をパン食にすれば小麦を安定的に売りつける先ができると思って大々的に食糧援助をしたのだが、学校給食の現場はともかくとして多くの日本国民にはアメリカの思ったほどパン食は浸透しなかった。小麦はうどんやラーメンに姿を変え、戦前に比べて日本人の食生活は豊かになっている。

 しかしながら、北朝鮮にはコメは無いが、代わりに小麦があるわけでもない。肉類もなく、飼料用穀物すら口にしている始末である。こんな餓死寸前の国民がわざわざ「えり好み」して米に執着しているとは思えない。

 DVDを作ったとしても、そもそもテレビとDVDプレイヤーはあるのか。いや、電気はあるのか。さながら、かつての共産圏のアクネドート(政治ジョーク)を聞いているようだ。

2013年8月 9日 (金)

長崎原爆の日

 本日は長崎原爆の日である。今のところ、長崎は最後に核兵器が兵器として使われた地である。多くの被爆者にとって、その最後に使われた地というのが永遠に続いてほしいとの願いは当然のとこであろう。

 としても、開閉器廃絶への道は遠い。日本の周辺諸国を見れば、むしろ核武装を強化しつつあるというのが実情である。冷戦は二十年前に終わったと言われているが、それはヨーロッパ中心の観点であって、極東地域では今もなお冷戦は続いている。事実上の鎖国をづける北朝鮮はともかく、それ以外の共産圏と西側諸国は少なくとも経済的な結びつきや交流は活発であるが、享受する自由には大きな差がある。軍事力をもって周辺諸国への影響力を行使するという手法は、今なお主流だ。

 長崎は私も好きな町である。家族旅行、修学旅行、転勤先からの旅行と何度も行ったことがあるが、長年に渡り諸外国との窓口だったこともあって異国情緒に溢れている。しかし、街を歩くとそこかしこに被爆地としての影を引きずっている。今日一日、長崎は平和への祈りに包まれるだろう。歴史の中で、その祈りが無に帰さないことを信じたい。

2013年8月 7日 (水)

謝罪報告の必要があるのか?

 先の参院選で東京都選挙区から無所属で当選した山本太郎参議院議員が18歳年下の妻と三箇月で離婚していたことを隠していたことを会見で謝罪した。公職者と雖も、果たしてこのような謝罪会見までする必要があったのだろうか。

 確かに、政治家は全人格が問われるものだ。それはバッジを付けた人は言うに及ばず、公職の候補者になろうとしたときから一般人とは異なる基準が適用されることになる。ある意味、プライバシーについてはタレントと似たところがあると言える。私は私生活上の乱れた部分が別段なかったこともあって、むしろ酒を飲んで遊ばないことの方が人格的に問題があると言われたくらいだが、遊ばないことを好ましくないと感じるか好ましいと感じるかどうかは有権者次第だ。しかし、それも評価基準にはなるようではある。

 山本議員が出会って一箇月で結婚し三箇月で離婚したことを公表していなかったことも、実際に選挙前或いは選挙中に公表されていたとしたら、多少は変化があったかも知れない。しかし、そうした私生活上のプライベートな部分について、わざわざ公表しなかったことを謝罪する必要があるのかと言うと、疑問に感じる。

 政治家と言えどもプライベートはある。結婚したからと言って、全ての政治家が円満な結婚生活を送れるわけでもなかろう。不倫をしていたとか畜妾していたとかであれば一般通念に照らして不道徳な行為であるから非難されても仕方がないが、単に配偶者と離婚したことが悪であるとは思われない。それを公表しなかったからと言って、謝罪する筋合いのものではないのではないか。

 一般に知られたくないこととしては、病気が挙げられる。癌を公表して最後まで政治活動を続けた山本孝史参議院議員のような人もいることはいるが、一般的には知られたくないことだから隠すか積極的に公表しないのが普通だ。それを「隠していて申し訳ありません」と謝罪会見をしたという話は聞いたことがない。

 タレントであれば、私生活の切り売りも商売の方法としてはアリである。離婚した話をマスコミに取り上げてもらうことで知名度アップを狙う例は枚挙に暇がない。山本議員が政治家ではなく普通のタレントだったとしたら、謝罪会見もアリだったかも知れない。しかし、政治家としてはする必要のない謝罪だったのではないか。

2013年8月 5日 (月)

日本前首相鳩山大陸謝罪之旅

 昨年の総選挙で衆議院議員を引退し、続いて民主党を離党した鳩山元首相は度々中国を訪れて中国共産党の指導者に接見してもらっている。引退したとはいえ「元首相」が中国寄りの発言を続けてくれることは中国政府として悪くないことだ。「元指導者は中国の言い分を受けて入れている。だから、日本の現指導者も受け入れろ」という宣伝に使える。

 鳩山元総理は総理大臣在任中から度々中国寄りの言動を続けたことで国内外の民主党政権に対する不信感を高める結果を招いた。このことが民主党政権の寿命を縮めた一因になったことは間違いない。首相退任後も中国政府の言いなりのような発言を続けており、古巣の民主党からも「鳩山氏の発言は党の見解とは異なる」という事実上の絶縁宣言を突き付けられる始末となった。

 国内で孤立を深める鳩山元総理はますます中国にすり寄るだろうし、中国政府が都合のいい人物として鳩山元総理を持ち上げ、宣伝に使うことは目に見えている。鳩山元総理は中国の市民層にはも「親中派」として評価されているし、日中関係が良好だった鳩山政権時代を懐かしむ声すらある。しかし、あの「日中蜜月」は中国側に日本側が無条件で譲歩するかのような誤ったメッセージを送ったことによるものではなかったか。あまりにも不自然な「日中蜜月時代」であった。中国政府に民主党政権がちやほやされた代償は大きく、自民党政権になった後も日米関係も完全に修復されたとは言い難い。

 政府与党が鳩山氏の言動を批判するのは当然のことだが、民主党としても鳩山元総理を批判しなければならないだろう。そうしなければ、民主党は「反省がない」と見られ、安全保障や外交での見識不足は相変わらずだと国民の信頼を更に失うことになりかねないからである。

2013年8月 3日 (土)

天空の城ラピュタ

 昨晩は「天空の城ラピュタ」がTV放映された。公開されて二十年以上になる作品だが、テンポの良い冒険活劇と分かり易いストーリーに加え、主人公やヒロインはもとよりムスカ大佐など深みのある悪役キャラクターまで揃っており、今なお人気は高い。私が最初にこの作品を観たのは公開翌年にTV放映された1987年の夏だった。瀬戸市にある母の実家に遊びに行ったときに曾祖母と見ていたが、余りの面白さに引き込まれ曾祖母が寝てしまった後も最後まで観た記憶がある。

 「ラピュタ」の作品としての完成度をより一層高めているのが久石譲の音楽で、特にラピュタで使われたサウンドは其々の場面と相俟って印象的なものが多い。

 もちろん、宮崎作品だけに単なる「冒険活劇」では終わらない。物語のクライマックスでシータの口を通して語られるラピュタへの批判は宮崎監督による現代文明への批判そのものである。

 最近のジブリ作品ではこのような冒険活劇は製作されていないが、それだけにこの作品の完成度が高かったということではないか。

2013年8月 1日 (木)

ナチスに学べ?

 麻生太郎副総理兼財務大臣が憲法改正について「ナチスに学べ」という趣旨の発言をしたことが問題になっている。麻生副総理としては「大騒ぎせず冷静な議論をしていくべきだ」という趣旨で喋ったと思うのだが、いささか例えが悪すぎるのではないか。

 意外に思われるかも知れないが、ナチス時代のドイツにはそれなりの言論の自由があったと回想されている。これは、ドイツ国民が知らず知らずのうちに服従と自粛を叩き込まれたためで、客観的に見れば独裁国家そのものだったのだが、ドイツ国民は「自分たちは自由だ」と思い込んでいたのである。

 ナチスの手法は巧妙だった。ヒトラーの「経済改革」に「反ユダヤ主義」など、巧みに国民の目を逸らしておいて権力掌握を進めていったのである。この点は、確かに独裁者になって国民を好き勝手にしたい者には魅力的であろう。しかし、反対意見を封殺して知らないうちに国民自ら牢獄に入っているようなやり方が自由主義民主主義を標榜する国に相応しいやり方でないことは言うまでもない。

 憲法改正は日本国民の問題である。周辺諸国は肯定否定言うことはもちろん自由だが、日本がそれに従わなければならない義務はない。特定アジア諸国は日本が弱体化してくれた方が色々と好ましいから、日本が弱体化するように誘導する発言をする。一方、フィリピンなどは日本の再軍備を北東アジアの平和と安定のために好ましいとすら言っている。しかし、だからといって特定アジア諸国の言いなりに改憲作業をする義務はないし、フィリピンなどが期待するように再軍備する義務もない。どうするかは日本国民が決めることだ。しかし、騒がれることが嫌だからこっそり改憲作業を進めるというのは、近代立憲主義的てな意味合いの憲法そのものの意義を喪わせることになる。

 どうも自民党関係者が改憲について語るとき、そこには人間の尊厳や基本的人権の尊重と言う憲法の根本的な部分が語られず、むしろ近代立憲主義としての憲法の意味を理解していないのではないかと疑わざるを得ない文句が並んでいることに不安を抱かざるを得ない。私は国軍明文化も集団的自衛権の行使も賛成しているが、人権思想を放棄することには絶対に反対である。

 戦後のドイツはナチス時代の反省から「戦う民主主義」など新たな価値を基本法に盛り込み、民主主義を破壊する者に対する抵抗の姿勢を示している。麻生副総理の発言は、ある意味では権力者の側の「本音」だったのかも知れないが、そうだとすれば民主主義国の改憲にあたる姿勢として相応しいものとは言えない。

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »