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2013年6月

2013年6月29日 (土)

「尖閣は日本が盗んだ」鳩山元首相発言に思う

 鳩山元総理が訪問中の中国で「尖閣は日本が盗んだ」という中国側の主張を受け入れるかのような発言をしたことが問題になっている。中国側としてはまことに「有難い」発言であったろう。

 現在の緊迫した日中関係は、もともと鳩山政権発足の時にその萌芽を見せている。鳩山政権は当時の小沢幹事長などを含めて「親中反米政権」だと発足当初から見られていた。実際、鳩山政権では沖縄の基地問題、丹羽大使起用問題、小沢大規模訪中団等明らかに中国政府に「迎合」したかのような行動が見られた。この段階で中国側は日本を甘く見た。一度このような迎合をやってしまえば、後から「正常」な関係に戻ろうとしてもそれは中国にとっては「後退」を意味するものになってしまう。鳩山元総理以降の歴代民主党政権も現在の自民党政権も決して「反中」ではないのだが、中国にしてみれば鳩山政権と比較してしまうから「鳩山政権よりも友好的ではない」と思うようになるし、態度も厳しくなる。

 日本国内での鳩山元総理に対する評価も地に落ちている感があり、民主党にしても鳩山元総理の居場所は最早無いのだろう。それでも、アメリカの元大統領のように「超然とした元首相」としていられればよかったのだろうが、鳩山元総理にはそれができなかった。日本国内の空気と違って中国に渡れば「友好人士」として暖かく接してもらえる。自国で厳しい立場に置かれている人に対して暖かく接することで自国シンパにしてしまう手法は何処の国でもやっていることだが、特に中国はこの手段に長けている。

 鳩山元総理の過去の発言を思い返すと、周囲にタカ派的な人がいたときには「改憲」など比較的タカ派的な発言をしていたし、周囲に新自由主義思想の人がいたときには小泉政権に対抗して「構造改革競争」をやろうと言っていた。今の鳩山元総理にとって中国関係者が周囲にいるから、今回のような発言をしているとも考えられるし、心底中国側の主張に「共感」してしまっている可能性もある。どちらにしても、日本にとっては危険極まりないことに変わりはない。

 結局、鳩山元総理は「中国」と「中国人」を最後まで理解できなかったのではないか。一方的に迎合するだけでは、決して中国人からは尊敬はされない。戦略的に「暖かく迎えられる」ことはあるかも知れないが、真の「友好」にはならない。中国人と接してみて思うのは、彼らはプライドが高いということで、彼らと対等に接するためにはこちらもプライドを持って理論武装することである。考えてみれば当たり前のことだが、人は高い立場の人と接することができる方が総じて「満足」するものだ。「上司を出せ」とクレーマーが叫ぶのも、それが解決につながるからではなく自己のプライドを満足させることで引くことができるからである。私だって、話をするならば小役人よりは大人(たいじん)の方がいい。卑屈な人間と対等に付き合うことは自分を卑屈な人間と同格の立場に貶めることになるが、大人と対等背付き合うことは自分を大人の関係まで高めることにつながるものである。

 卑屈で迎合しかしない鳩山元総理と対等に付き合うということは、中国人にとって自分をあのレベルまで貶めることになる。鳩山元総理のこのような発言は今に始まったことではないが、このような人物が「日本」の内閣総理大臣だったということそのものが驚きに値する。

 

2013年6月27日 (木)

中間層の拡大という視点は評価できるが・・・

 民主党が参院選の公約の柱として「中間層の拡大」を打ち出した。「中間層の拡大」という視点自体は、日本を再生させるという点でアベノミクスよりも根本的なところ、即ち日本の背骨を強化するということにつながるから、視点としては相応に評価できる。

 しかし、民主党自身が「本気」なのか私は未だ懐疑的な目で見ざるを得ない。それは、2000年代中盤から国民の期待を集めながら政権を握った途端に尽く裏切った民主党政権の前科前歴による。

 確かに、民主党は政権獲得前は「国民の生活が第一」をスローガンとして掲げていた。政策の個々の具体的な中身については今も昔も具体性に乏しい点が多かったが、もともと陽の東西を問わず野党暮らしの長い政党の政策はそんなものである。問題は、政権獲得後の民主党政権の行動だった。

 民主党は政権獲得直前の選挙ではどぶ板や有力な圧力団体を味方につける戦術を取った。これ自体は選挙戦術としては有効であったかも知れない。しかし、この結果として民主党そのものが圧力団体の顔色を伺わなければならない政党、すなわち自民党と同じ土俵に立ってしまうことになった。それでも、民主党には小泉自民党政権下で鬱積した国民の期待が集まり、中間層への配分と言う政策転換を求める層、従来自民党を支持してきた圧力団体・地域団体、それに自民党政権に飽き足らず更なる急進的な市場主義改革を求めるネオ・リベラリズム支持者を「自民党政権への不満」という一点に結集することで2009年総選挙の圧勝につながったと考える。

 しかしながら、これだけ水と油の支持者をかき集め、さらに財界にまですり寄った結果、民主党は政権獲得当初より経済政策についての独自性を喪っていた感がある。当時の小沢幹事長が幹事長室に陳情等の権力を集中するに至ったところなどは「密室政治の復活」そのものであり、漠然と若い政治家の多い民主党に期待していた有権者の期待を早くも裏切ることになった。国内向けの経済政策で利害の異なる支持団体から支持をかき集めていた以上、「中間層」かさ上げ=弱肉強食の是正に踏み込めるわけもなく、結果的に独自色を中国韓国との外交に見出し、対米関係を史上最悪の状態に陥らせる一方融和と譲歩を重ねた結果中国韓国等特定アジア諸国の攻勢を招く結果になったのは民主党が政権獲得前に予測されていた最悪の事態そのものであったと言えよう。

 そして、民主党の若手の中心となっていた松下政経塾出身者とそのシンパはもともと新自由主義的な思考の持ち主であり、外資企業出身者を公募等で多く議員にしてきたこともあって、経済政策は迷走しつつも経済界からの要望に屈する形で進められ、自民党政権との違いを明確に打ち出すことは結果的にできなかった。むしろTPP参加等で自民党政権と同じく弱肉強食路線すら進んでしまった。これでは、中間層も含めて小泉政権等一連の「構造改革」で苦しみ続けた結果民主党に期待した人々にとって裏切られたと感じられるのは当然の事であったと言えよう。

 民主党がこの前科を反省した上で、政策転換して「中間層の拡大」を打ち出したのであれば十分に評価できる。もともと、我が国の経済的な強さはエリートはともかくとして中間的な立場として経済の現場で働ける良質な労働力を持っていたことにあった。これは歴史的に見てもエリート階級が国をけん引する一方で国民全体としてみれば初等教育すらままならなかった明治時代に比べて進学率が上がり中間層が生み出された大正時代から、それが拡大していった昭和初期になるに従って工業化が進み、経済成長と国民生活の向上が戦前においても見られたことでも明らかなところである。

 しかし、民主党の動きを見ていると、政権与党時代の「失敗」「政策ミス」を十分に反省しているとは思われない。むしろ、新自由主義的な政策が「アベノミクス」として復活したので、選挙目的での批判の口実として持ち出してきたのではないかと疑わざるを得ないのだ。あれだけ期待を受けて政権与党に就きながら、ほとんど有効な手を打てず迷走した挙げぐ自滅したこともあるから、そう簡単に信用されないのは当然であろう。

2013年6月25日 (火)

0増5減を評価する

 国会で衆議院の区割りを変更し「0増5減」とする法案が成立した。私は最大の問題は一票の格差を放置することであると考えているので、この措置を評価したい。

 民主党はあくまで衆議院議員の定数を大幅に削減することを主張して譲らなかった。確かに与野党は過去にそのような合意をしていたから、民主党が自民党を批判することに全く理がないわけではない。しかしながら、議員定数の削減は政策上の問題であるのに対し、一票の格差は憲法上の問題であって、両者の質も次元も全く異なるものである。

 議員定数を決めるのは国会であり、国会には広範な裁量権が与えられている。例えば衆議院議員の定数を600にすることも300にすることも自由だ。さすがにバチカンの立法府並みに「数人」にしてしまったら問題だろうが、余程極端なものでなければ許容されると見ていい。一方、一票の格差は憲法上の人権問題だから、格差が生じることは原則的に許されない。国会が格差を許容することも基本的にはできない。

 言うまでもなく、格差是正の方が定数削減よりも圧倒的に重要なものであることは論を待たない。これを同列に論じていた民主党の言い分は、何が憲法上重要なのか理解していなかつたのではないかと言わざるを得ない。

 確かに「議員を減らせ」「政治家は無駄」とよく言われることだから、自分を「削減側=改革者」の側に位置づけ、反対派を「守旧派」にすることは政治闘争の上では有効である。民主党は自分たちをそうした位置づけにすることを狙っていたのだろう。もちろん、「消費税などで国民に負担をお願いするのなら政治家が身を切るべき」という理屈は言っているが、貴族制の存在しない我が国では政治家も国民であり、政治家と言う確立された階級があるわけではない。何より、「無駄」「馬鹿」と批判しようがそうした人物を選出してきたのは他ならぬ国民自身である。

 私自身は日本が議院内閣制の統治機構を持っていること、スポイルズ・システムが確立していないことを考慮すれば、議会は行政府への人材供給源・人材養成所として性格を持つから、議会が純粋な立法府としての性質しか持たない国に比べて議員定数は相応に多くてしかるべきだと考えている。議院内閣制の国家で議員定数を減らせば、立法府も行政府も機能不全を招くことになり、ひいては両者の形骸化につながりかねない。国政を担う人材をどこでプールして育てるのかと言う問題もある。

 「アメリカのように民間で経験を積んで即戦力として政治家になればいい」という意見もあるが、アメリカであっても現実のところ議会の中心となっているのは日本以上の「高齢・多選」議員である。違いがあるとすれば、日本では議事運営はベテラン議員が名実ともに中心となって行うのに対して、アメリカでは「上院仮議長代行」に見られるように議員になりたての若手議員が議事運営のポストに就いて学ぶ機会があるくらいであろう。

 「民間で経験を積んだ」政治家が政府や議会のポストに就いて自分たちの「お友達」への利益誘導を行っているのはアメリカ政治でも大いに問題になっているところだし、民間経験豊富と言っても所詮は行政の素人であるが故に内政外交で失敗を犯した閣僚や大使など挙げればきりがない。「アメリカのように民間で経験を積んで即戦力として政治家になればいい」というのも、所詮は幻想に過ぎないと言わざるを得ない。

 ともかくも、一票の格差是正が行われることは評価に値する。違憲状態を修正することを第一義とした与党側の判断が妥当であったと考える。

2013年6月23日 (日)

ワールドカップより福祉を

                         ブラジルの国旗

 ブラジルでは大規模なデモが続き、事態を重く見たルセフィ大統領は訪日を中止した。ブラジル本国のみならず、日本にいるブラジル人もデモを起こしている。

 経済発展著しいブラジルだが、発展途上国の常として国内は汚職が蔓延し貧富の差も拡大している。2014年のFIFAワールドカップ開催に反対し「ワールドカップより福祉を」という主張が出るようになるのももっともなことだ。実際、日本でも2000年代にワールドカップと万博を相次いで開催したが、それが一般市民の福祉の向上に役立ったかと問われれば疑問である。今や「国際的なイベント」は「国際的な企業」が受託するのが普通である。我々が考える「地元企業」が受託できるとすればそれは下請孫請けとしての立場であって、国家的イベントとして国民の税金をもって投下した資本は地元に大して還元されない。誘致に尽力した地元関係者が唖然とする間もないというのが現実だ。

 ブラジルと言えば伝統的な「サッカー王国」であった。ワールドカップ優勝も多く、貧困層の若者たちはサッカーボールに「人生の夢」「成功への夢」を託したものだ。しかし、国が経済発展していく中で国民もよく言えば利口になってきたということだろう。同時に、「ワールドカップ」「サッカー」でまとめられる時代ではなくなってきたわけだ。ブラジル国民はサッカーやワールドカップなどという一時の熱狂よりも、堅実な社会資本整備や教育体制・福祉の充実を求めるようになってきている。特に、経済発展から取り残されてはいるものの従来の貧困層ほど無知ではない人々にとって、国への要求はサーカスではないということだろう。

 スポーツイベントを権力側の「目くらまし」にできなくなるというのは今回のブラジルに限ったことではない。国が発展し知識層が増えていけば、自ずからそのようになるものである。今から2014年ワールドカップ開催を返上するのはブラジルにとって難しいだろうが、ブラジルにとってサッカーで国民を纏めるのが難しい時代になりつつあるということを指導者層は自覚すべきでないか。

 無論、オリンピックを誘致している日本とて無縁な話ではない。

2013年6月21日 (金)

インターネット選挙解禁

 ようやく、参院選からインターネット選挙が解禁される。私はかねてよりインターネットを選挙運動に使えるようにすることが必要だと考えてきた一人であるので、今回の法改正を歓迎したい。としても、課題もまた少なくない。

 政治家の「成りすましツイッター」などは既に問題になっているが、一方で何処までを「成りすまし」として取り締まるか難しいところだ。例えば、かつてネット上に「ニセ首相官邸」というホームページが存在し、政府与党の政策をパロデイにしていた。パロデイとして書かれた「商品券を国民に配布します」というニセ首相の政策がいつの間にやら本当に「地域振興券」として実現されてしまい、「ニセ首相」が謝罪するという一幕もあったのはご愛嬌である。「成りすまし」の取締範囲を広げると、こうした政治に対する皮肉やパロデイも封殺されてしまうことになりかねない。

 未成年者や外国人は選挙運動はできないことになっているので、候補者のツイッターをリツイートすると公職選挙法違反になってしまう可能性がある。一方で、意見表明したりネット上の討論に参加する自由はあるわけだが、発言の中身を「選挙運動でない」とどのように線引きするかも難しいところで、なんでも駄目だということになれぱ言論活動全体が委縮することになりかねない。

 既に各党・各陣営ともにネット対策を進めているようだが、どうも見ているとメディア対策と同じく、良いイメージを売り込むという「イメージ戦略」の方向に進んでいるような感がある。インターネットと言う政治家と候補者が直接やり取りすることで政策や識見をより知る機会になるかというと、どうもそのような方向には行かないのではないかと思われる。私もかつて「政策や識見よりもどう見られているかを考えた方がいい」と言われたもので、実際にあまりそれを実践しなかったから駄目だったと言えるが、別の見方をすれば上手く見せればそれはいいわけだ。インターネットがそのツールとして利用されることになるのではないか。そうすると、結局のところ政治家と有権者の距離は離れたままになる。

 義理人情かイメージかという二者択一ではあまりにも情けない。としても、アメリカでも事情は同じで「あのしょぼくれたリンカーンが大統領になれた時代が懐かしい」などと言われる始末で、かつての名政治家の多くが現代の選挙では「勝てない候補者」になつてしまうようだ。

 いずれにせよ、インターネット選挙は解禁される。有権者の側としても積極的な情報発信を行い、政治家に情報発信を促すことが先ずは必要なのではないか。双方が委縮し、イメージ戦略に走るだけでは何のために解禁するのか分からなくなってしまう。街宣車の二の枚で「敵陣営もやるから、とりあえずうちもやる」「中身のないネットの宣伝だけが蔓延する」ということになりかねない。

2013年6月19日 (水)

若者の自殺問題は労働問題である

 長らく3万人を超えていた年間自殺者数が若干減ったものの、二十代三十代の若者の自殺は高い水準が続いている。

 無理もない。若者を取り巻く環境は年々過酷になるばかりだ。正規雇用の職に就くのは簡単ではないし、正規雇用に就いたところで「ブラック企業」であれば心身を病んで使い捨てられる。非正規労働ならば尚更のことで、派遣労働者ともなれば派遣先では使い捨て可能な資材か備品扱いで人事部門が人間として管理することすらなかったりする。。無論、そうした職場でのし上がっていく者がいないわけではないがごく少数だし、しかもそのような人物は往々にして能力よりも世渡り、慈愛よりも恫喝力に長け、他人を踏み台にすることを厭わないタイプが多い。こうした連中が出世して「指揮命令者」に就くわけだから、普通の若者にとっては過酷な職場のままで続くことになる。

 規制緩和や競争力の強化によって、確かにチャンスを得た若者がいないわけではないが、むしろその「煽り」を食らい不利益を「自己責任」として甘受せざるを得ない立場に追い込まれた若者の方が圧倒的多数ではないか。高齢者雇用や女性の社会進出と言えば聞こえがいいのだが、格別保護の対象にならない若い男性にとって世の中は年々住みにくくなるばかりだ。

 いくら「発展途上国よりいい生活」「飢え死にしないだけまし」と言われたところで、将来の見えない状態が延々と続くことをそれで納得させられるわけもない。実際に先の見えない状態の中で非正規労働に従事し続けている若者を自分の立場が「恵まれている」と経営側が納得させるのはまず不可能に近い。無論、表面上は「立場」として納得し感謝する「ふり」はせざるを得ないだろうが、大抵の場合腸は煮えくり返っている。それが多くの場合反発にならないのは何をしても自分の前途やまして社会などは変わるわけもないという諦念であろう。

 若者の自殺問題は労働問題である。家庭生活や恋愛、結婚などの問題も最終的には職業生活を中心に組み立てられるものである。決して、「絆」などという言葉を使ってヤンキー的な人間関係の中に放り込みそれで人間関係が密になれば自殺は起きないなどという安直な考えで解決できる問題ではない。残念ながら、我が国の労働問題への取り組みは後退するばかりだ。政治や官公庁のみならず、労働組合すら決して十分な取り組みを行っているとは言えない。学者の世界でも労働問題の分野は年々人材が先細りしている感があり、労働現場を見る労働問題の研究者は軒並み高齢者で、若い学者は経済学的な数字を追って満足する傾向にある。これでは問題の改善のための「提言」すら学識経験者の間ですら出てこなくなるのは時間の問題ではないかと思えてならない。

 残念ながら政権担当能力のある各党の政策はより規制緩和と競争を激化させることを意図した内容のものが中心であり、自民党などは来る参院選に自社で過労自殺を起こしたことを何ら反省していない人物を公認候補として擁立する始末である。こうなると、むしろ若者の自殺は適者生存や敗者退場のダーウィニズムに基づく市場原理の帰結として「問題ではない」と考えているのではないかと疑いたくなってくる。この考え方自体はそれはそれで一つの筋は通っているが、さすがにそれは心の中で思っていても口には出せまい。

 いずれにせよ、見通しは暗いと言わざるを得ないし、若者の自殺はこれからもどんどん増えていくだろう。しかしながら、それは政治家や企業だけが悪いのではない。そうした国家体制・社会体制を選択したのは国民であるし、ブラック企業をマーケットで存続させているのも消費者たる国民である。私自身、自殺や過労死防止は政策として「暗すぎる」と打ち出すことを止められたものだ。周囲に屈した私自身も深く反省しなければならないが、一般有権者も自殺や労働問題に対して自分自身の問題としてもっと目を向けてもらいたいものだ。

 今や若年層の「転落」は一般国民であっても無縁ではない。自分の子供は大丈夫だと思っている人が一番危ない。優秀で人格識見とも問題ないような人物が、何故か定職に就けなかったり企業内で酷い目に遭わされるのが珍しくないのである。かつてなら、それでも「窓際族」などと出世には縁がなくとも組織の中で生きる道があったが、今やそれも難しい時代だ。多くの非正規労働者と接してきたが、自分が非正規労働者に転落したことに戸惑いを感じている者も少なくないし、親が嘆いているという話もよく聞くことだ。崖っぷちは常に身近にあるものである。 

2013年6月17日 (月)

大阪でのオスプレイ訓練は妥当か

 大阪市の橋下市長と大阪府の松井知事がオスプレイの訓練を大阪に誘致することを表明している。橋下市長の「魅力」は誰も思いつかないような突拍子もないことを表明して世間の耳目を集めることだが、またもや来たかという感がある。

 沖縄の基地問題では、常に沖縄と反基地派は「そんなに日米同盟が重要なら本土に基地を受け入れろ」と言い続けてきた。実際には地理的問題もあって本土に同じ機能の基地を用意すれば済むという問題ではないこともあって、岩国等若干の例外はあっても依然として沖縄の基地負担は大きい。大阪のオスプレイ訓練受け入れ表明は、「維新」として沖縄の心証を良くしようという狙いがあるものと思われる。

 実際にはオスプレイは海兵隊機である以上海兵隊員の陸戦訓練と一体でなければ意味はないだろうが、離着陸訓練や飛行訓練などは別段沖縄で行わなくてもいいわけだから、大阪でもできないことはない。もっとも、受け入れる側の大阪のリスクは非常に高い。

 私が大阪大学の大学院にいた頃は池田市に下宿していたが、毎朝頭の上を飛ぶ飛行機の音で目が覚めたものだ。私が下宿したアパートは新しい建物でかなりきちんとした防音がなされていたが、それでも音は響いてきた。伊丹空港騒音訴訟は法律を学ぶならば一度は読まされるが、訴訟に訴えざるを得なかった住民の心情は私自身体験としてよく理解できる。加えて、大阪大学豊中キャンパスの最寄駅は阪急では「石橋」になる。その一つ手前の「蛍池」で阪急と大阪モノレールが接続しているのだが、阪急電車の車窓からは住宅街スレスレに伊丹空港へ降下していくジェット機を見ることができた。なかなか迫力がある眺めではあるが、騒音に加えて飛行機事故は離着陸時に多発している。危険極まりない。

 都市部に隣接した空港はもともとリスクを孕んでいるものだ。普天間基地にしても、もともと基地があった周辺に住宅地が押し寄せてきて「世界一危険な基地」になってしまった。民間機の離着陸でも十分リスクがある中で、更にリスクを加えるというのはいささか無茶なのではないか。

 更に、橋下市長と松井知事は訓練誘致に積極的だが、訓練地として挙げられている八尾市の田中市長は反対している。何の検討もせずに即座に反対表明したことを橋下市長から早速非難されているが、訓練の代替地は検討されなければならないとしてもこれでは維新勢力が牛耳る「府」が基礎自治体に強権を発動しているようにも見えてしまう。かねてより「維新」の主張する「道州制」は、強力な道州政府に権力が集中しやりたい放題になりかねないという指摘がされてきたが、今回の動きだけ見てもそれを杞憂であるとは言えないのではないか。

2013年6月15日 (土)

何が「150万円」増えるのか?

 安倍総理が行っている「成長戦略」の説明が迷走している。政府の「成長戦略」では「国民総所得の150万円の増加」だが、安倍総理は「年収」「国民の平均の所得」「平均年収」と言葉を変え、「150万円」だけを一人歩きさせようとしている感がある。

 増える増えると言われても、それが本当に国民生活の向上や一般家庭の所得、労働者賃金に反映されるか考えると、悲観的な見方をせざるを得ない。何故ならば、従前の小泉政権第一次安倍政権下でも「好景気」であったが、その恩恵は一般国民においてはあまり感じられないものであった。実際、この時期を含めて賃金は下がり続けていたのが実態である。

 これに対して、政権側は「努力不足」と言い放っていたものだが、それが通用しなくとなると「構造改革が不足していた」と言い出し、挙句には「賃金水準を維持できるだけありがたいと思え」というようなことを主張する経営者まで現れた。こうした過去の動きから、アベノミクスを楽観視することは極めて困難ではないか。

 目標数字を設定し、それを達成できれば強力な説得力になる。恐らく、それを見込んでの政治的目的のための「150万円」という数字を打ち出したのだろう。しかし、数字と言うのは「魔物」である。企業でも評価される数字を達成することに拘ると、大抵の場合評価されない部門は滅茶苦茶になる。これと同じことが公共部門で起きれば、我が国がどうなるかは推して知るべしであろう。

2013年6月13日 (木)

可愛くてついやってしまった

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 可愛くてついやってしまった

                ウラジーミル・プーチン

 

 ロシア共和国で未成年者に対する「同性愛の宣伝」を禁止する法案が可決された。ロシア下院議員450人のうち棄権1票を除いて全員が賛成に票を投じたというのだから、民主主義国を名乗っているにしては不自然極まりない。同性愛が「非伝統的な性関係」かどうかはともかくとして、法案では「非伝統的な性関係」を未成年者に広めることを禁止することをもって、同性愛を事実上狙い撃ちにしたものとされている。

 アメリカでもキリスト教保守派を中心に同性愛を断罪する向きがあり、実際に先の共和党大統領候補であったロムニー前マサチューセッツ州知事は若い頃同性愛者に対して暴力を振っていたことを誇っていたことを選挙中にリベラル派から叩かれたことは記憶に新しい。としても、「ソドミー法」は既に過去のものであり、基本的には同性愛という性的嗜好は本人の判断に委ねられている。むしろ先進諸国では同性愛カップルの法的保護や同性婚まで法定化されようとしており、ロシアの動きは明らかにこうした潮流に逆行しているものと言える。ダイレクトに同性愛を禁止しているわけではないが、真綿で首を絞めるように規制をかけていく意向であろう。

 プーチン大統領はかねてより強権的な政治姿勢を取ってきており、欧米諸国からは非難されいるが、ロシアでは「強いロシア」の復活としてむしろ好意的に受け止められているという。こうした傾向の中では、議員と言えども表立った反対はできないのだろう。実際、プーチン大統領に反対する言論を取った政治家や財界人やマスコミ関係者が不自然な死に方をしたり逮捕されたりしているのは最早周知の事実だ。

 ただし、プーチン大統領自身が少年のシャツをまくってキスをするという、日本で言うところの「ショタコン」趣味としか思えないようなスキャンダルを起こしている。普通の国なら「未成年者に対してわいせつな行為」「異常性愛」扱いされて失脚は免れないところだが、現代のツァーリであるプーチン大統領に対して誰も何も言えなかったようでウヤムヤになってしまった。「可愛くてついやってしまった」という、弁解なのか正直なのか分からないような言葉を残している。ご自身の暴走を棚に上げて・・・というところだが、こうした矛盾する行動が容認されるのも独裁国家の特質である。文化大革命の最中も西欧文化排撃が叫ばれながら、江青らは輸入されたビデオの鑑賞に興じていた。

 ロシアのこのような動き自体、民主主義が後退している証拠と言え、我が国としても警戒していくべきことであろう。

2013年6月11日 (火)

米中首脳会談

 習近平国家主席とオバマ大統領が初の首脳会談を行った。国家主席就任直後のスピード会談は、アメリカにとって中国が「最重要国」になりつつあることを意味するものと言える。二日間で8時間という会談時間だけ見ても、安倍総理がアフリカ諸国の首脳と相次いで行った「首脳会談」とは全く異なる中身であることは確実だろう。

 確かに、サイバー攻撃などをめぐって米中間に考え方の「差」があることは事実だが、両首脳がこれだけ時間を取って会談を行ったということは、単に握手と写真撮影だけではない「信頼関係」が築かれたものと見ていい。民主党政権は伝統的に中国共産党政権に近かったが、オバマ政権もその伝統を踏襲していると言える。尖閣諸島についても中国に配慮した言葉を選んでいるように思われる。

 安倍総理は日米関係の緊密ぶりを強調するが、アメリカと言う国が過去に行ってきた外交政策を知っていれば安穏としてはいられない。南ベトナムや国民党政権はアメリカと蜜月だったが、最後はアメリカは冷酷に見捨てたではないか。TPP参加もそうだが、アメリカの「ご機嫌取り」をしていてもアメリカとの関係強化にあまり意味がないであろうことは歴史が教えるところだ。

2013年6月 9日 (日)

中国ジョーク

 国際会議にて。

 「日本はどうして過去の過ちを反省せず、周辺諸国からの反発を受けても軍備を強化し、島々の防衛という名目で軍艦をうろうろさせて周辺諸国を脅かすのでしょうか」

 「中国のマネ」

2013年6月 7日 (金)

陳水扁前総統が自殺未遂

 台湾の陳水扁前総統が収容されていた病院で首吊り自殺を図り看守に止められるという事件が起きた。機密費横領等の汚職を指摘されて闘争中の陳前総統だが、死んで身の潔白を証明するつもりだったらしい。加えて、民進党に出していた復党届が拒否されたことも理由であると報じられている。逮捕後はすっかり精神的に参ってしまっているそうで、「台湾の子」と呼ばれた2000年の台湾総統選挙の「熱気」を鮮明に記憶している自分としては凋落ぶりに驚くしかない。

 陳前総統は当時野党だった民進党の「クリーン」なイメージを利用し、2000年の総統選挙では国民党陣営が連戦副総統と宋楚瑜前台湾省長に分裂していたことにも助けられて僅差で総統に当選した。2004年の総統選挙では当初劣勢が伝えられていたが、投票直前に「銃撃事件」が発生し、これまた僅差で再選を果たしている。

 2000年の政権交代直後は民進党政権にはクリーンなイメージがあったが、汚職や機密費使用など様々な疑惑が噴出するようになり、2004年の総統選挙では国民党のブルー陣営と民進党のグリーン陣営を皮肉って「藍色対モズグリーンの対立」と揶揄されている。今の馬総統もこの手の話と全く無縁と言うわけではなく、台北市長時代の機密費流用の疑惑が総統就任前からあるのは周知の事実だ。

 退任後にろくな死に方をしていないのは大韓民国大統領だが、台湾の総統もそれに近くなりつつあるのは残念でならない。実は李登輝総統も総統時代から金銭疑惑が囁かれていたのは台湾ではよく知られている。「清貧の学者」だった筈の李総統が退任後は「豪邸」に住んでいるわけだから、疑いの目を持たれても仕方がない。フランスからのラファイエット級フリゲイト購入をめぐっての疑惑では台湾海軍の大佐が謀殺されるなど「闇」は深いようだ。

 もっとも、李・陳・馬の各総統が私服を肥やす目的だけで不正をしていたのかというと、それは「否」であろう。台湾は経済的な発展と民主化を実現はした。しかし、国際社会では中国の外交攻勢と経済発展もあって孤立状態であることは今も昔も変わっていない。このような中で台湾側が情報発信を行い諸外国と「実質的な外交関係」を維持するためには並々ならぬ努力が必要である。必然的に、それはエージェントやロビイストを使って相手国の政府要人や議会に工作活動を行うことになる。普通の国でも行われていることではあるが、台湾の場合は正式な外交関係をほとんどの主要国と持つことができないから、どうしても裏ルートで行わざるを得ないが、これには金がかかってしまうことになる。

 独裁国家で国民党一党独裁時代ならばどのような金の使い方をしたとしても問題にはならなかった。党と国家は一体であり、「党国体制」のもと「党庫が国庫に通じる」とさえ言われていた。しかし「民主化」の進展に伴い、不透明な金を堂々と使えなくなる。加えて民主化は選挙や政治活動に多額の資金を必要とするようになる。票を取らなければやりたいことは何も実現できないからだ。かくして、「国のため」に総統は裏金を作り、使わざるを得なくなる。孤立状態にある民主主義国として、このような金と無縁でいることは今のところ避けられそうにもない。

2013年6月 5日 (水)

尖閣諸島「棚上げ案」に乗るのは危険

 中国は尖閣諸島について「棚上げ」を落としどころにしたい意向だという。冷え込む日中関係は中国に進出した日本企業の経営にも影響を及ぼしており、経済界から一刻も早い日中関係の改善を求められている日本政府としてはこの提案に飛びついて尖閣諸島の国有化などを凍結したい誘惑にかられていることだろう。しかし、この提案に乗ることは大変危険である。

 そもそも、かつて尖閣諸島に対して突如「領有権」を主張した中国が漁民に仕立てた人民解放海軍の将兵を送り込んでトラブルを起こしたとき、落としどころとされたのが「棚上げ」であった。そして、日本が「棚上げ」されていると思い込んで転寝をしている間、中国は着々と海洋進出の準備を整えていたのである。

 尖閣諸島周辺に中国海軍の艦艇が出没していることが毎日のように報道されているが、この傾向は軍事雑誌を読めば分かるのだが1990年代には既に恒例行事になっていた。何もしなかったのは日本政府である。中国は少しずつ尖閣諸島を周辺を「自国の影響下」に置こうと努力を続けてきた。そして、今に至っている。

 ここで「棚上げ」に逃げれば、日中関係は一時の小康は得られよう。しかし、その先はどうか。中国は尖閣諸島だけでなく沖縄も含めて「自国領」という主張をはじめている。中国は「棚上げ」で日本が安穏としている間に、沖縄を「自国領」とする証拠を集めて国際社会で喧伝し、沖縄でひそかに中国併合派を養成し、艦艇を押し立てて沖縄周辺海域を散歩することで自国の影響下にある水域とするのは目に見えている。

 今回尖閣諸島を「棚上げ」にしてしまった場合、次に尖閣諸島が日中間で問題になるときは尖閣諸島実効支配権は中国に移っていることだろう。

 過去に「棚上げ」に乗った結果どのような結末を招いたか、思い返すべきだ。中国側の提案に安易に乗るべきではない。

2013年6月 3日 (月)

みんなの党の「国家公務員5万人削減案」は狂気の沙汰

 みんなの党は参院選の公約として、「国家公務員を5万人削減する」という案をまとめた。同時に、公務員の待遇を切り下げ、首切りや降格も思いのままにできる制度を導入するという。まことに、狂気の沙汰としか言いようがない。

 諸外国に比べても決して多くはなかった国家公務員はこの十数年で大幅に削減されてきた。にもかかわらず、国が行う仕事量はあまり変わっていないか、むしろ国民の多様な要求に応じる形で増えているのである。必然的に公務員はより多忙になるし、こうした境遇に置かれればより近視眼的かつお役所仕事に逃げ込むようになるのは道理である。お役所仕事を変えるために「物申す」のは相応の待遇が確保されているからできることであって、「嫌なら辞めろ」はもとより民間企業のように上司のご機嫌を損なえば首が飛ぶような組織では、改革など望むべくもない。それは終身雇用制度を喪った日本企業が坂道を転がるように転落していく姿を見ていれば誰にでもわかる。これを国家公務員の世界に大胆に持ち込もうというのだから、日本の転落を加速させたいと言われても仕方がない。

 国家公務員の削減に伴って、従来から行われている「民間委託」が加速することになるだろうが、別に「民間の知恵」が行政に取り入れられるわけではない。残念ながら、お役所仕事をそのまま行うことが受託した民間企業の使命になるし、お役所仕事に反すれば待っているのは契約解除だ。そもそも、民間企業にとってお役所は「お役所様」であり「職員様」である。「お客様」であるお役所の意向に逆らうことなどできるわけもない。このような関係ではお役所側の人間も仕事の中身ではなく上がってくる数字に一喜一憂することになる。かくして、お役所仕事の「ひずみ」は民間委託された企業の非正規労働者(民間委託は数年ごとの入札で決まるから、正規雇用は絶対に増えない)が吸収し、無理を重ねた上の低賃金労働で心身ともにボロボロにされて使い捨てられていくことになる。

 残念ながら、昨今の「公務員削減」によって、公務員はますます「特権階級」と化しているし、その特権を守るために従来以上に守旧的になりつつある。これを更に締め上げてみたところで、ますますやる気のある人間がいなくなり、お役所仕事を続けるお役人タイプばかりが割合としては増えていくことになる。「官製ワーキング・プア」の存在は以前から指摘されているところだが、これに民間委託と相俟って、正規公務員の仕事は国民に奉仕することではなく、「上がってくる数字を見て一喜一憂するブラック企業の管理者的存在」となる。

 昨年の社会政策学会ではもつぱら「非正規公務員」に焦点を当てた早川征一郎・松尾孝一両先生の研究発表が行われたが、非正規公務員に加えて民間委託されている民間企業の非正規労働者も含めて、公務員削減の歪が社会的弱者の使い捨てによって誤魔化されているのは明らかだ。

 みんなの党の公務員削減案は公務労働の現場を検討してみると、もう狂気の沙汰としか思えない。

2013年6月 1日 (土)

小泉進次郎氏の佐々木洋平氏擁立批判は高齢者差別ではないか

 自民党が大日本猟友会会長の佐々木洋平氏を参院選の比例候補に擁立することになったが、佐々木氏が御年71歳ということで、小泉進次郎青年局長が党の70歳定年制に抵触するとして異議を述べている。

 確かに、佐々木氏は年齢的には高齢者だが、そもそも「定年制」そのものが先進諸国では「年齢差別」に該当する。実際、小泉氏らが「アメリカでは」と持ち上げるアメリカの連邦上院などはは日本以上に高齢議員が闊歩している。最近亡くなったダニエル・イノウエ上院仮議長は日本の議会からはとっくの昔に消えた「戦争経験者」であったし、サーモンド上院議員などは100歳を超えるまで議席を持っていた。

 20代30代の候補者には左程社会経験があるわけでもないし、目立つような実績があるわけでもない。私も実績がないことを散々批判されて落選したわけだが、若い候補者の場合は実績よりももっぱら「将来性」が問われる。社会のシステム上、実績を挙げられるのはやはり最低でも四十代後半からというところだろう。大企業や全国組織を持つ団体ならばそのトップに立てるのはやはり五十代後半から六十代である。年齢だけで単純に切ってしまえば、社会的実績を挙げた上でその経験を政治に生かそうという人々を最初から排除してしまうことになる。長久手市の吉田一平市長は60代半ばになってから当時の町長選挙に挑戦して当選しているが、年齢的にはともかく福祉施設経営者としての実績は町内のみならず国内で高く評価される存在であった。年齢差別はこうしたキャリアの持ち主まで政治に挑戦することを排除するものとなってしまうのである。

 また、肉体的な年齢と頭の中身は必ずしもイコールではない。高齢者になるのを待つまでもなく20代30代で年寄りに毒されて田舎の封建的な思考に凝り固まっている者もいれば、60代70代であっても国際的な視野と進取の精神に富む者もいる。

 仮に定年制を肯定するとしても、それは「新陳代謝」が目的で、年齢による政治参加のチャンスを排除する意図では無かった筈である。仮に自民党がそのような意図をもって定年制を作ったのであれば、それは高齢者差別と高齢の政治家=悪というポピュリズムに迎合したものと言わざるを得ない。

 そもそも、人のピークには個人差があるし、チャンスもそうである。小泉青年局長は政治家の家に生まれ、関東学院大学を卒業後アメリカに留学し、CSIS客員研究員を経て父親の地盤を引き継いで20代で衆議院議員になった。こうしたサラブレッドを西欧では「金の匙を咥えて生まれてきた」と言うのだが、誰しも小泉議員のように頭がいいわけではないし、イケメンであるわけでもない。血統や地盤にしてもそうだ。小泉氏の言い分は、若くしてすべてを持っている(厳密には美人妻と子供は未だのようだが)恵まれた男が、高齢者を年齢差別しているだけのように見えてならない。

 小泉氏ら所謂「世襲議員」は、有権者が選んだのだから問題はないと言い続けてきた。その理屈でいえば、例え100歳であっても有権者が選べば問題はない筈である。初出馬が71歳であるだけで政党の候補者選定システムから排除するのは非常に問題があると言えるし、小泉青年局長はアメリカで何を学んできたのかと「見識」「知性」を疑われても仕方がない。

 そもそも、自民党の候補者選定システムがきわめて曖昧でよく分からないもので、政党助成金という「公金」を受け取っている以上、その過程は透明性のあるものにする必要がある。「比例代表制」も「小選挙区制」も制度趣旨は選挙の前に政党の候補者選定レベルで候補者を選別して国民に提示するというものであった。透明性を確保したくなければ、政党は公的な存在という地位を返上して純粋な私的団体に戻ってはどうか。

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