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2013年5月

2013年5月31日 (金)

自民党のワタミ会長参院選擁立に思う

 自民党が参院選比例区の候補者としてワタミ会長の渡辺美樹氏を擁立する方針を固めた。渡辺氏は政治的な発信も多く行っている経営者であり、東京都知事選への出馬経験もある。選挙に出るということは容易なことではない以上、少なくとも公に尽くすという気構えはあるのだろう。渡辺氏は一代でワタミグループを築いた経営者であるから、成功者として一定の評価はされてよい。

 しかし、渡辺氏の経営手腕や経営者としての姿勢が兎角に批判されてきたのは事実である。経営するワタミグループにしても「ブラック企業」を挙げれば常に上位に挙げられる企業として有名だ。労働時間などの規制緩和を行えばブラック企業の合法化も十分可能なのだが、そうした方向性での「改革」がささやかれている中でワタミ会長の擁立は悪い冗談にしか聞こえない。少なくとも、自らの経営によって起こしてきた問題については説明する責任があるのではないか。

 最近は保守系論者を中心に「ブラック企業」を擁護する意見が目立つようになってきた。ブラック企業を規制すると「労働者が甘えて育たなくなる」とか「若者を鍛えるためには必要だ」というものである。しかし、過労死や過労自殺を肯定できるものでは到底ないし、自己責任だと言い張ったとしても一般国民はそれで納得はできまい。

 確かに、現在「ブラック企業」として名を挙げられている企業で行われている長時間労働等の「ブラックな事象」は高度成長期からバブル時代まで、別段日本企業としては珍しいものではなかった。しかしながら、その形成過程には議論があるものの高度成長期以降の日本企業は「長期継続雇用」を末端の現場労働者にまで適用し、長期的に渡り充実した保障を労働者に与えていた。だからこそ、労働者側も「滅私奉公」してもちゃんと見返りはあったわけである。NHKの「プロジェクトX」では寝食を惜しんで仕事に取り組む物語が多かった気がするが、あの時代の使用者側は家庭を守る配偶者や子育ての費用も含めたものを「賃金」として労働者に渡していた。だからこそ、労働時間や僅かな残業代を左程気にもする必要はなかったのだろうし、高い待遇で信用され仕事を任されれば仕事に面白さややりがいを見出すことはそう難しいことではなく「仕事以外の趣味をもてない」と不平を言わなくてもよかった。

 しかしながら、いくら働いても単純労働の繰り返ししか求められない、代替要員はいくらでもおり職場では透明な存在でしかない、独りで最低限度の生活を支えるのも難しいレベルの賃金で上がる望みもない、というのでは、高度成長期の正規雇用の労働者のような頑張りを求めるなど認識不足も甚だしい。まともな待遇を与えず、将来も保障せず、面白みのない仕事ばかり反復させるような経営者に対して忠誠心を抱くような労働者はむしろ精神的に問題があると見た方がいい。実際、非正規の現場を仔細に検討すると、非正規でありながら使用者に対して一方的に忠誠心を捧げている労働者は何処かしら人間性に問題があるか精神を病んでいるのが普通である。

 法改正により「ブラック企業」をブラックたらしめていた制度を改正し、問題ないようにしてしまおうという動きもある。渡辺氏の擁立が自民党のそうした「ブラック企業合法化」戦略の一環であるとしたら、ますますもって自民党政権は国民を窮地に追い込むもの疑いの目を向けざるを得なくなる。

2013年5月29日 (水)

民間人を危険に晒す「海賊対策警備員」構想

                  

 多くの日本人にとって「海賊」というのは映画やアニメの世界の中に登場する存在でしかないのかも知れないが、「海賊」は今も世界の海で暗躍している。ソマリア沖だけでなくマラッカ海峡にも出没するし、日本も海上自衛隊の艦艇や海上保安庁の巡視船を派遣して船舶護衛や警備を行っている。

 そんな中で出てきたのが、船舶に何と「民間警備員」を乗り込ませて海賊に備えようという提案だ。最初に聞いたときは何かの冗談かと思ったのだが、どうも政府は本気らしい。

 海賊と言えばサーベルを掲げて乗り込んでくるのが映画やアニメでは定番である。しかしながら、現代の海賊は自動小銃やロケット弾を装備しており、艦橋やレーダーなどを狙えば撃沈するのは無理にしても軍艦に一泡吹かせることも可能だ。当然、民間船舶は軍艦以上に防御システムなど持っていないから、低レベルな火器でも十分な脅しになる。海賊の目的は「丸ごと略奪」することであって人を殺したり船を沈めたりすることではないから、脅しが利けば目的達成だ。

 これに「民間警備員」が対応するのである。アメリカのように武器が民間市場に溢れている国ならばともかく、日本では民間警備員は銃器の携帯どころか所持すら許されていない。自動小銃やロケット弾で武装した海賊に武器なしで立ち向かうのは自殺行為であり、そんな警備員を乗せたところで略奪されるのは目に見えている。

 仮に警備員に銃器の携帯を認めたとしても、日本国内の警備員でそんなものを扱い慣れている者はいまい。射撃訓練すらままならないだろう。

 何より、「民間」警備員である。自衛官や保安官ならば、命がけで国民を守る義務があるし、負傷したり死亡したりしても国家が遺族のその後の生活を保障する。もともと我が国の公的年金制度は明治時代初期に海軍軍人に対して創設された「海軍退隠令」が最初だが、何処の国でも軍人警官は命がけで危険な任務に就く代わりに手厚い補償を受けることができる。しかし、民間警備員には国家は何の保障もしないのである。警備員を派遣する民間会社が何らかの保険には入るかもしれないが、私的保険は所詮は私的保険でしかなない。国家のバックアップもないし、国費の投入もない。物価変動には対応できないし、そもそも保険会社がなくなれば終わりである。

 最近の日本はなんでも「民間」に任せれば上手くいくという妄想にとりつかれているように思われる。この提案もその一つだと思われるが、民間人を危険に晒した上で何かあっても国は「知ったことではない」というのはあまりにも国家として無責任すぎる。

2013年5月27日 (月)

外国人医師の医療解禁は大丈夫か

 政府の国家戦略特区ワーキンググループは外国人医師の医療を解禁する特区創設をする案を公表した。外国人看護師の問題もそうだったが、本当に大丈夫かと疑いの目を向けざるるを得ない。

 医療は一見すると医療技術を売って金を稼ぐ商売である。そうした点では技術さえあればよく外国人医師でも技術のある人を呼んでこれば問題ないとの考えに行き付くのは理解できなくはない。しかし、一方で医療を行うプロセスでは患者との対話や説明も非常に重要である。こうした点で、外国人医師が対話や説明に不自由するであろうことは想像に難くないいし、医療過誤の原因にもなりかねない。加えて、医療とは生きることと同時に死を見つめる場でもある。大勢の日本人の死生観をどこまで理解し死生観に沿った対応ができるのかは文字通り未知数だ。

 巨大な医療法人が発展途上国から安く医師を集め、スケールメリットを利用した医療を行うことも考えられ、これは発展途上国にしてみれば国費を投じて育てた医師が国境を越えて出て行ってしまうことであり死活問題となる。日本の医師もより「金儲け」「競争」を意識しなければならなくなる。しかし、激烈な競争に投げ込むことが良い結果をもたらすという思想は最早幻想でしかない。

 「国家戦略」と銘打っているものの、国家戦略というよりは外国人医師の受け入れで得をする人たちのための改革と言う疑いを拭い去ることはできない。財界が移民受け入れを推進しているところから見て、これも外国人看護師受入れと並んで移民を既成事実化するための方策なのではないかと思われてならない。慎重な対応が必要であろう。

2013年5月25日 (土)

社会政策学会

 東京の青山学院大学で行われた社会政策学会に参加した。前回の長野大学で行われたときは土曜日も仕事があったため仕事を済ませてから新幹線に飛び乗り、実質二日目しか参加できなかったのだが、今回は一日目から参加することができた。

 今回のテーマは「ジェンダー」なのだが、どうも私はこれがあまりよく分からないし正直言って興味のあるテーマではないのだが、それでも職場における女性の母性保護は重要な課題であることは確かなので、そうしたところで多少は役に立つのではないかと思って参加した次第である。

 興味深かったのは介護労働をめぐる問題で、国が介護事業者に対して課している「認定」の考え方は表面上の人員の頭数や一定の資格保持者の頭数で、このあたりの国の考え方は公契約受託企業に対して課されている基準の考え方と本質的に大差はないのではないかと思われる。すなわち、基準に適合するように人員を置いたり、基準に合致=金になることは真剣にやるが、それ以外の部分に関してはあまり重要視されない。しかしながら、重要視しないことが職場の問題を放置・拡大させる要因になり得る。国の考え方そのものを問い直す必要があるのではないかと感じた次第である。

 国は介護事業者に金を渡すことで介護労働者の待遇改善を図ってきたものの、現実には介護労働者の待遇改善にはほとんど影響を与えていない。賃金水準のみならず、キャリアの整備についてもほとんど進んでいない。このあたりは、国から介護保険制度で金を受け取る立場にある介護事業者に限定されず、国や地方公共団体等から金を受け取って事業を行っている事業者にほぼ共通した問題であると考えられる。

 いささか疲れているので考えがまとまっていないところはあるのだが、隣接分野の状態について報告を受けることができたのは、自分の取り組んでいる課題をリサーチする多くの示唆を得ることができ、有益であったとは言える。

 青山学院大学は渋谷という都心の真ん中にあるが、以外にも静かな落ち着いた雰囲気のキャンパスであった。同志社程ではないが古い建物もいくつか残っており、趣がある。学食は広く清潔感があり、「おしゃれ」という印象が強く残るものだった。青山学院大学も都心回帰を進めているところだが、単にキャンパスを都心に戻すだけでなく、大学全体の雰囲気作りにも力を入れることで学生を集めたい意向と思われる。ここまでおしゃれなら、若者に対するイメージはかなりよくなることは間違いない。国立の旧帝大もイメージアップに取り組んではいるが雲泥の差だ。あとは、学究が充実することが重要であろう。

2013年5月23日 (木)

公務員に「評価制度」を導入してもお役所は変わらない

 自民党は公務員に評価制度を導入し、三年連続最下位ランクの評価の公務員は免職できる制度を創設することを国家公務員制度改革原案に盛り込むことになった。「ダメ公務員を切れ!」という国民の声は大きいから、それに沿った案であると言えよう。

 しかしながら、そんな制度を導入したとしても官公庁は変わらないと見るべきだ。十数年前から「成果主義」がもてはやされたが、それで導入した企業は良い方向に変わったか。企業社会は良い方向に変わったか。答えは逆である。

 「成果」は一方的に使用者が判断するものだから、労働者は使用者に評価されるように振る舞うが、その中身がただちに会社や業績にプラスになるものとは限らない。上席者の面子を保ったり、組織の保身の方が優先されるから、評価される成果と評価に値する成果はイコールにはならないとみるべきだろう。更に、評価が相対評価である以上、周囲の人間は蹴落とすべき相手でしかなくなる。組織としての強さも失われるし、目立たない仕事を引き受けようという者はいなくなる。殺伐とした組織しか後には残らない。「お役所仕事」は改善されるどころか、むしろ主になっていくとみるべきだ。

 「成果主義」を導入し「悪しき日本型経営」を打破すれば「日本企業は伸びる」と喧伝され、実際多くの企業が成果主義を導入し日本型経営を破壊するようつとめたが、それと軌を一にするようにして日本企業の国際競争力は低下し労働者の待遇は下落するばかりであった。「成果主義」が組織にも社会にも資するものだという前提条件をまず疑ってみる必要がある。

 この十数年間企業社会で起きたことを公務員社会にあてはめれば、官公庁が変わらないことは容易に想像できる。周囲と軋轢を生じ、失敗のリスクを負ってまでお役所仕事を改善しようとしたらどうなるか。決して高い評価はされまい。それどころか、失敗は間違いなくマイナス評価になる。むしろ、やる気のある公務員の創意工夫まで潰すようなことになりかねない。

 いい加減、「成果主義」という幻想から目覚めるべきだ。執政政党である自民党がそのことに全く気が付いていないのであれば、これはもう亡国につながる悲劇としか言いようがない。

2013年5月21日 (火)

橋下市長の所謂「従軍慰安婦」発言

 橋下市長の「慰安婦」発言が波紋を呼んでいる。慰安婦問題は事実関係のみならずその認識をめぐって歴史学者の間でも争いのある微妙な問題であるが、これに加えて米兵の不祥事対策に「風俗」を活用しろと抱き合わせで主張しているのだから、「従軍慰安婦」を日本が国ぐるみでやっていたかどうかの事実関係の争い以前の問題として、橋下市長がそのような存在を積極的に肯定していると見られても致し方ない。

 加えて、維新の会の西村眞悟衆議院議員の「韓国人は慰安婦」発言はもう話にならない。確かに、韓国が買春で外貨を獲得していたのは歴史的事実である。先進工業国の一角を占めるまでになった今の韓国からは想像も出来ないが、朴正煕大統領以前の韓国は北朝鮮以下の経済レベルで、生産性の低い農業に依存するしかない世界の極貧国であった。このため、買春ツアーを受け入れるだけでなく、国外への出稼ぎも多く、この出稼ぎ労働者の中に買春で稼いでいた人々も相当数いたのは確かである。しかし、現在の韓国は最早そのような恥辱の歴史を過去のものとしているし、そもそも韓国人全てが買春をしていたわけではない。韓国人売春婦は確かに我が国でも頻繁に摘発される存在ではあっても、「大阪の繁華街で『お前韓国人、慰安婦』と言うてやったらよろしい」というのは道行く韓国人に「売春婦」と罵声を浴びせよと煽っているのと同じで、もう常軌を逸している。

 色々な歴史認識があることは認められてよい。韓国をはじめとする特定アジア諸国の歴史観が絶対的に正しいとは思わない。しかし、発言を全体的に観察してみると、これはもう歴史観の争い以前の問題ではないか。またぞろ「マスコミが悪い」と言っているところは、発言を「後悔」はしているが「反省」はしていない証左であると言えよう。

 橋下市長はともかくとして西村議員は注目されるはるか以前から拉致問題や領土問題に取り組むなど、決して政治家としての業績は低いものではなかった。注目されない問題に取り組むということは、政治家としては信念がなければできることではない。なぜならば、兎角に後援者というものは目立つものや大衆受けすることを政治家にやるよう求めるものだからである。それだけに、このような発言で品位を害していくのを見るのは残念だ。

2013年5月19日 (日)

映画「リンカーン」を観る

                    ファイル:Abraham Lincoln seated, Feb 9, 1864.jpg

アメリカ合衆国憲法修正第13条

 第1節 奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とする時を除く。

 第2節 議会はこの修正条項を適切な法律によって実行させる権限を有する。

 ステイーブン・スピルバーグ監督の最新作「リンカーン」を鑑賞してきた。この作品はリンカーン大統領の生涯の中でも最晩年、アメリカ合衆国憲法修正第13条が可決されるまでの駆け引きが描かれている。このアメリカ合衆国憲法修正第13条はその後日本国憲法制定の際に「奴隷的拘束・苦役からの自由むとして影響を与えているもので、人権保障上特に重要な考えのひとつである。

 奴隷解放宣言は出されたものの、南北戦争末期のアメリカ合衆国憲法には「奴隷的拘束・苦役からの自由」は条文としては明記されていなかった。アメリカは州に大きな権限が与えられているが、南部の州が合衆国に復帰した場合、引き続いて州法で奴隷制を存続させる余地がまだ1865年初頭の段階では残されていたのである。そこで、リンカーンは戦争前に奴隷制を廃止する憲法改正を行い、奴隷解放を確固たるものにしたかったのだろう。

 映画は政府内や議会とのやり取りを中心に話が進んでいく。あの時代にはまだ「ロビイスト」という言葉はなかった筈だが、反対派議員を丸め込むためにロビイストが暗躍するシーンなど、現代に繋がるアメリカ政治の特質など見どころ満載だ。服飾等もリンカーン大統領が身に着けていた懐中時計のチェーンに至るまで忠実に再現されているのには驚いた。作品の中で時計が時を刻む音が聞こえてくるシーンがあるが、これは現在も保管されているリンカーン愛用のウォルサムの懐中時計から音を拾ったものだそうである。

 見どころの多い映画だったが、南北戦争はともかくとして修正13条など知らない日本人にはいささか退屈に感じるかもしれない。

 それにしても当時「平等」を謳っていたのが共和党で、奴隷制度を存続させようとしていたのが民主党であったということである。現代のアメリカ政治では共和党の方が保守的・大企業優遇・弱者に冷酷と言われており、民主党の方が人権問題にはやかましいとされている。いつの間にか立ち位置が変わってしまっているなと、いささか皮肉な見方ができないこともない。

 なお歴史的事実として、リンカーン大統領の言う「人民」の中にはインディアンは含まれていなかった。リンカーン自身が民兵としてインディアンと戦っているし、インディアンに対するエスニック・クレンジングはリンカーン政権下で大々的に行われている。我々はともすれば奴隷解放宣言などでリンカーン大統領の「偉大さ」に目を奪われがちだが、リンカーンの人権思想は現代のそれとはまた異なるものだったことは覚えておいてよい。そうすると、あの時代の奴隷制支持者にしても絶対的に悪の存在だったと言い切ることは難しいように思われる。

2013年5月17日 (金)

琉球民族独立研究学会

 沖縄で沖縄に住む人々を日本人とは異なる「琉球人」として日本から独立しようとする団体は以前からないわけではないかったが、新たに琉球民族独立研究学会が発足した。それによれば、独立後はすべての基地を撤廃して世界中と友好関係を作るという。

 確かに、明治時代に入って決着するまで琉球の帰属は当時の清朝との間で揺れていたことは確かである。その後の沖縄の歴史を見ても、「沖縄県」でありながら本土の島とは異なる取り扱いがされたことも多く、太平洋戦争末期の沖縄戦では沖縄も「日本本土」であるにもかかわらず本土防衛の時間稼ぎのための捨て石と位置づけられ多くの犠牲者を出した。そして戦後は占領したアメリカ軍が東アジアにおいて戦略的価値が高い故に引き続き基地を置き続けて「基地の島」と化している。沖縄の人々が恨むのも信条としては十分に理解することができる。

 しかし、独立してみたところで上手くいくかというと、これは大変甘い見通しであると言わざるを得ない。

 まず、沖縄の独立を日本政府が認めたとする。日本の場合、憲法にもその他の法律にも領土の編入や割譲の規定はないのだが、「沖縄分離法」でも作って認めたとしよう。沖縄独立後は日本との関係は国と国との関係に変わるから、自衛隊の基地撤廃くらいは十分に可能である。しかし、沖縄で問題になっている「米軍基地」が撤廃される見込みはない。沖縄独立にあたりアメリカは「第三国」であり、いくら日本政府と沖縄政府が合意したとしても、アメリカが同意しなければ沖縄政府も従来の日本政府の負ってきた義務を引き継いでアメリカに基地提供の義務を負い続けると考えざるを得ないからだ。特定地域を独立させれば義務が消滅するなどという考え方は国際法の何処を探してもない。そうなると、沖縄が独立したとしてもアメリカ政府が合意しなければ、基地の撤廃は不可能だ。ちなみに、共産化したキューバでも革命政府はアメリカに基地撤廃を要求したものの、アメリカ政府は革命前の政府との間で締結された基地提供義務は継続しているとして撤廃に応じなかったのはよく知られているところだ。

 それに、運よくアメリカが「基地撤廃」に合意してくれたとしても、それで沖縄の地理的特性が消滅するわけではない。太平洋の要衝であり、周辺には資源も多い。既に1980年代末から中国の戦略として沖縄の確保が謳われており、既に沖縄の領有権の主張もはじめられている。当然、沖縄が独立しても中国としてはもともと琉球王国が清朝の「属国」であったことを理由として自国領だと主張するだろう。

 この点、台湾は海空の防衛力としては相応のものを持っているから、半世紀に渡り中国からの侵略を阻止して実質的な独立国として国を維持することができた。しかし、沖縄政府が相応の軍備を持てるとは思えない。米軍基地もなくなるのだから、中国として沖縄を「実力で回収する」ことはかなり容易になる。中国が武力侵攻してこなくとも、経済的に取り込んだ上で得意の宣伝工作で「中国への復帰」論を沖縄でばら撒けば、沖縄の方から中国への併合を求めるようにすることもそう難しいことではないように思われる。

 ただし、中国に併合されるとなれば、条件は香港よりは悪くなるだろう。今は沖縄で日本政府を批判することも米軍基地の前でデモを行うことも自由だ。多少の制約はあっても、まだ自由はある。しかし、中国に併合さされば沖縄の自由は程度の問題ではなく「あるかないか」の問題になってしまうだろう。もろちん、中国政府を公然と非難することも難しくなるだろうし、能天気な連中には「労改」送りが待っている。

 現実には、日本政府は沖縄独立を認めないだろうから、どうしても独立したければ独立後ただちに中国政府と外交交渉を行って国交を結び、同時に安全保障条約を結んで沖縄に中国軍を駐留させ、日本の独立阻止に対抗することだろう。しかし、これでは沖縄は「米軍の島」から「米軍と中国軍の島」になるだけで、もう本末転倒になる。

 独立論は話としては面白いが、実際に独立に踏み出したとしても、沖縄県民の求めているものは恐らく何も得ることができないのではないか。

2013年5月15日 (水)

韓国大統領府報道官セクハラ事件

 訪米中に在米韓国大使館の実習生に「セクハラ」を行ったとして更迭された尹元大統領府報道官だが、釈明で「文化的な差があった」と発言して更に顰蹙を買っている。

 確かに「セクハラ」に文化的な差が無いわけではない。フランスでは職場でのボディタッチは一般的な親愛の行為として拒否されない限り許されるが、アメリカではセクハラにあたるとされる。アメリカでは女性の部下を食事に誘うことであってもセクハラとされてしまうため、特に厳格と言えそうだ。

 元報道官は実習生の「腰を叩いて激励した」と主張しているが、見方によっては尻を触ったと言えるのではないか。ささいかなボディ・タッチすら厳しく糾弾される国で政府高官として疑われる行為をしたこと自体、認識不足であり高官失格であったと言わなければならない。

 韓国でボディタッチがどこまで許されているのかはよく分からないが、男尊女卑の儒教文化が国民生活に深く根付いている国であるところから見て、邪なるボディタッチが横行しているのではないかと思われてならない。先の大統領選挙でも独身女性である朴大統領に対して「欠陥品」というような品位を欠く攻撃が対立候補陣営からされたという報道もあった。アメリカのように厳格すぎる基準もどうかと思わないではないが、政府高官なり政党幹部は許容されているとしてもしないくらいの厳格さ、硬さがあってしかるべきなのではないか。

2013年5月13日 (月)

「女性手帳」は必要か

 政府与党は女性に対して結婚や出産のための体調管理や動機づけのため「女性手帳」を配布したいという意向を示した。果たして、これが手段として適切なのであろうか。

 確かに、女性の生殖のタイミングは男性以上にデリケートであるし、その時期も短い。男性の場合は五十代六十代になっても父親になる人が珍しくないのに対し、女性ではほぼ不可能に近く自然妊娠はまず望めない。そうでなくても「卵子の老化」は三十代半ばから顕著になるそうだから、それまでに出産をしておいた方が母子ともに命を救える可能性は高くなる。日本ではかつてほど出産のリスクは高くなくなってはいるものの、それでも命を落とすことが皆無になったわけではない。

 「産まない」という選択肢も当然あるわけだが、それも含めて人生設計に検討の機会を与えるためには啓発は必要なことであろう。今の女性は忙しい。学生生活は最早かつてのような「花嫁修業」や「相手探し」の場ではなく、就職してからも基本的にはフルタイムで働くことが当たり前になっている。恋愛の機会そのものは多くなっているにしろ、日々の忙しさによって結婚や出産のタイミングが忘れがちになるのは致し方ないところがある。

 しかしながら、全女性に手帳を交付するという手間に比べて、現実に結婚や出産が増えるのは別問題であろう。手帳の交付で「自覚」されるのであれば、年金手帳を交付すれば国民年金の納付率が上がってもよさそうなものだが、下がり続けているのは周知の事実だ。母子手帳のように、手帳の保持者に対して何らかの保護が具体的に与えられるわけでもない。官公庁で手帳の交付や管理の手間が増えるだけに終わるのではないか。

 そもそも、妊娠出産に有利な時期の「自覚」だけで解決するような問題であろうか。男性も含めた働き方や収入の動き、生活など全体的に見なければ解決への糸口は見いだせないのではないか。公的機関による啓発活動は大事だろうが、だからといって「女性手帳」を交付する意義は薄いと言わざるを得ない。

2013年5月11日 (土)

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い?

 安倍総理夫人が韓国のミュージカルを鑑賞したことをフェイスブックに書いたところ、首相夫人としてあるまじき振る舞い云々という非難の書き込みが殺到したことが話題となっている。昭恵夫人の「韓国好き」は今に始まったことではないが、それを非難するのはいささか筋違いというものではないか。

 確かに、韓国政府の対日政策は従来から一貫して程度の差はあれ「反日」であったし、韓国で日本に親しむということは政治家としては死を意味する。そうした韓国の態度を見ていれば、日本側も同じように「反韓」になって何が悪いという考えに達するのは心情的には理解できなくはない。

 しかし、韓国で「日本文化」を悪しきものと捉えてヒステリックに排斥を叫ぶようなことと同じことを日本が「韓流」に対してやるのは、結局のところ非難している相手と同じ「非難に値する行為」を行うことになる。私は韓国のヒステリックな反日は韓国の品位を貶めていると考えるが、日本でヒステリックな「反韓」を行うことは日本の品位を貶めることになる。逆に日本の「反韓」がだけが正義であちらの反日が悪だと言い切ることも出来まい。愛国心は「狂暴な美徳」と言われることもあるが、狂暴な愛国心は最早愛国心ではなく、単に祖国の名誉と品位を貶めているだけになると言わざるを得ない。愛国心に基づくことなら何をやっていもいいということになれば、これまた中国の「愛国無罪」と変わらない理屈になってしまう。

 かつて、反仏政策を取っていたドイツのビスマルク首相は、ドイツ・ワインではなくフランス製のシャンペンを愛飲していた。このことをドイツ皇帝に指摘されたとき「舌と愛国心は別物でございます」と言い返している。本当の愛国者ならば、そのくらいの度量や余裕があってしかるべきだ。

 昭恵夫人の韓流鑑賞を非難する意見は、結局のところ「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という安直な考えであって、このような態度が「愛国的」となるならば、極めて残念なことである。

2013年5月 9日 (木)

沖縄も中国領?

 中国共産党の機関紙「人民日報」が沖縄を「帰属が未確定」として中国に領有権があると示唆する記事を掲載したことが日中間で問題になっている。ただし、長年の尖閣諸島に対する日本政府の態度から鑑みれば、尖閣に対する一定の影響力を確保できたら次に沖縄が来るのは当然のことであり、「来るべきものが来た」と見る方が妥当だろう。

 そもそも、中国の「拡張政策」には明確な目的がある。実質的には中華帝国の復活だ。現在の中国政府がかつての中華帝国の継承者であって、冊封体制下にあった属国も含めてかつての中華帝国の版図を引き継ぐ権利があるという理屈に基づくものである。

 無論、リアリストの中国人・中国政府が単なる歴史上のセンチメンタリズムに基づいてその版図を再服しようとしているわけではない。努力して取ってみたところで何にもならない不毛の地だったり、貧困層の群れを自国内に抱え込むようなことになるのなら、中国政府とて取ろうとは思うまい。現実には中央アジアは資源の宝庫だし、ベトナム以南はシーレーン確保の上で中国にとっても重要だ。尖閣も含む沖縄地方は太平洋への出口であり資源も眠っている。

 中国の考え方が理解できないわけではない。19世紀から20世紀にかけて列強諸国に食い物にされ、属国であった朝鮮半島やベトナムは帝国の版図から実質的に離れていった。今なお広大な領土を持つ中国だが、最盛期の中華帝国に比べれば版図は縮小している。弱肉強食適者生存を根拠に列強に奪われた版図を、強者になった今こそ奪い返して何が悪いのか。少なくとも19世紀から20世紀初頭にかけての「理屈」としては間違いにはならない。あの時代は国家は戦争をする自由があったし、他国の領土を征服しても許されていた。日本が朝鮮半島を併合した時には、欧米諸国は「朝鮮は遅れた弱い国だか日本に征服されて当然」「遅れた朝鮮のためには日本に支配させた方がいい」という論調であって、「弱い国が不利益を被るのは当然」とされていた。これらの基準から言えば、中国は沖縄を征服する権利も正当性もあるということになる。

 しかし、現代は19世紀のそれとは違った正義や国際秩序が成り立っている。19世紀ならば正義でありむしろ人道的とさえされたことが、現代では非道な侵略行為となる。この国際秩序は二度にわたる世界大戦と冷戦と言う犠牲の上にようやく生み出されたものだ。それを簡単に捨て去れるわけはない。

 最近になってからようやく日本政府は尖閣諸島について言うべきことは言うようになってきた。しかし、長年に渡り沖縄周辺での中国の活動を「黙認」し続けてきたのは事実であり、財界を中心に中国の言い分を受け入れることこそが正しいと信じている人々もいる。これでは中国が自国の尖閣・沖縄支配を日本は最終的に受け入れざるを得ないと考えてしまったとしても不思議はない。

 中国政府に対する非難はされてしかるべきだが、我々日本の側に問題がなかったわけではない。むしろ、今の中国の攻勢を招いているのは歴代日本政府与党の失態ではないか。

2013年5月 7日 (火)

拡大するシリア内戦

 泥沼の様相を呈しているシリア内戦だが、今度はイスラエル軍が越境してシリアを空爆するに至った。シリア政府とイスラエル国内の反政府組織ヒズボラとの関係が問題だそうで、イスラエル政府は国内の反政府勢力に武器が渡るのを阻止する為の空爆であると主張している。

 シリアの北部では越境してトルコ国内に戦火が及んだため、先にトルコ軍がシリアを越境攻撃する事件を起こしており、シリア内戦は周辺諸国を巻き込んでますます混沌とした状態になってきている。

 難しいのは、戦争や紛争が泥沼化していくと、首脳同士で妥協を見出そうとしても支持者がそれを許さなくなる。反対勢力にとっては権力者を「弱腰」と攻撃するチャンスにもなる。いずれの国家・勢力とも、最早引くに引けない。

 大国の動きは冷静だ。アメリカにせよ中国にせよ、内戦が自国有利になるように動いている。だから、アメリカやヨーロッパは人道主義や民主主義を主張してシリアの反政府勢力に援助をするし、ロシアや中国はもともと縁の深かったシリアの独裁政権が倒れることは中東に対する影響力低下につながるから政府側を支援している。

 このままでは、シリア国民の意向を離れてますます泥沼化が進むのではないか。いずれにせよ、生み出される憎しみの連鎖を断つのは簡単ではない。イスラームは寛容な精神を説いているが、寛容な精神を説かねばならぬということは、即ち人はなかなか寛容になることができないからである。

2013年5月 5日 (日)

八重たん

                    

 「八重の桜」前半の舞台となっている会津に行ってみた。あまり長時間は滞在できなかったので鶴ヶ城と大河ドラマ館くらいしか見ることができなかったが、「八重の桜」の話題もあって観光客が押し寄せていた。

 鶴ヶ城の天守閣は戊辰戦争で半壊状態となりその後取り壊されてしまったため、現在の名古屋城と同じく実質的には「ビル」で内部は博物館になっている。内部の展示のほとんどは一般的な内容のものであったが、興味深かったのは会津の陶器である「本郷焼」は瀬戸から職人を招いてはじめられたものだそうで、こちらの「陶祖」は水野源左衛門になっている。この窯を継いだのが水野瀬戸右衛門なる人物だそうで、郷里の瀬戸にちなんだ名前を名乗っていたのには驚いた。なお、瀬戸市には「水野」という地名もあり、愛知に多い水野氏の名字のルーツのひとつと言われている。

 最近は日本全国でゆるキャラ、萌えキャラブームでいささか食傷気味だが、会津にも「八重たん」というキャラクターが作られ、袴姿も凛々しい(?)着ぐるみが歩いていた。同志社が先に「八重さん」というキャラクターを作ったがこちらは明治の洋装で、「八重さん」と被らずかつ会津らしくということになると「八重たん」になってしまうのだろう。会津では銃を取って新政府軍と戦い、京都では「悪妻」「烈婦」「鵺」と言われた女性だけに、「ゆるキャラ」「萌えキャラ」とはあまりにも新島八重のイメージとかけ離れていたたけに笑ってしまった。それでも、多くのグッズが売れているから「町おこし」には好個のキャラだったかも知れない(一応、会津は直江兼続なども縁の人物ではあるのだが)。

2013年5月 3日 (金)

憲法記念日

 憲法記念日である。にわかに「96条改正」が注目されるようになってきたが、そもそも憲法をどのように位置づけるかと言うところから考えてみる必要がある。

 近代立憲主義では憲法は人権保障のための規定であり、統治機構は人権保障のための機械、装置という位置づけがなされている。これに対して、憲法をもっぱら統治規定と捉える考え方もある。ざっくりと分類すれば、憲法理解として護憲派が専ら前者の考え方を取るのに対して、改憲派は後者の立場を取る。もっとも、私は9条を中心に改憲には賛成の立場だが、憲法理解そのものは憲法を人権保障規定と捉える前者の立場である。「改憲派」と言っても、その態様は同一ではない(だから、私はJC等改憲派の集会に出席してもどうしても違和感が残る)。

 かつては9条が改憲の争点だったが、最近では人権思想そのものが争点になりつつあるように感じる。すなわち、人権思想そのものを日本の伝統と相容れない考え方として否定し、伝統や義理、絆など封建的な価値観を重視する立場で憲法そのものを再編すべきだという主張が増している。近代立憲主義を否定するということになると、中国や北朝鮮の主張する「独自の伝統の上に立つ独自の価値観に基づく憲法」と本質的にどう違うのかと思ってしまうが、日本人そのものが意気消沈している時代に、古い価値観にアイデンティティーを見出そうという気持ちは理解できないでもない。

 憲法論議は、究極には我々が何を重視して生きたいのかということではないか。ただし、少なくとも私は個人の自由が尊重されず、社会保障制度の存立根拠を喪った国家が、例え国防力は有していたとしても長く存続できるとは思われないし、そのような国に誇りを持って生きることはできそうにない。

2013年5月 1日 (水)

メーデー

 本日はメーデーである。国際的には労働者の日となっていて祝日だ。ただし、我が国では労働者の団結や権利向上をことさら強調する日を祝日にすることは抵抗感があったのか祝日にはなっておらず、労働者も含めて勤労者全体に感謝する日として別に勤労感謝の日が設けられている。

 メーデーを祝日にすれば、今年のような「飛び石連休」はなくなるから、まとまった休みとなる。我が国の年次有給休暇の消化率は5割を切っているが、周囲が休まないとどうしても休めないという心理は如何ともし難い。それが職場の団結に繋がっているのなら、あえて有給消化にこだわらず祝日と言うかたちで休みを設けるのもひとつの方法ではないか。

 もっとも、労働者であっても祝日を必ずしも歓迎できないという声もある。正規雇用すなわち月給制の労働者であれば、祝日が増えても収入の面であまり大きな影響は受けない。しかし、非正規労働者は時給制が一般的で、働く日が減ればその分だけ収入も減る。最低賃金ギリギリのような状態の場合、祝日が増えることで月収が大きく落ち込み、生活がままならなくなるという危険性はある。

 この一面だけ見ても、「労働者の利益」というのは一様ではない。今後は労働者間の利害調整も必要になってこようが、今のナショナル・センターである連合は基本的には大企業の正規雇用労働者中心の組織である。いきおい、この層の利益代弁者となるのは避けられない。一方で、非正規労働者の多い企業にはそもそも労働組合が組織されていないことが多いから、何らかの救済を求める場合、労働者が単独で戦えなければ企業外の組合に頼るほかなくなる。

 「万国の労働者よ、団結せよ」というのも、最早幻想でしかないのではないか。そんな感じがするのは私だけではなかろう。

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