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2013年3月

2013年3月31日 (日)

北朝鮮が「戦争状態に」との特別声明

                    北朝鮮または朝鮮の国旗

 北朝鮮が南北朝鮮は戦争状態にあるという「特別声明」を発表した。今後南北関係は「戦時に準じて処理される」と息巻いている。もともと朝鮮戦争は「休戦状態」であって戦争が終わったわけではないから、戦争を再開することもできないわけではない。

 ただし、本当に北朝鮮が「戦争再開」をやる決意があるのかは極めて疑わしいものと考えられる。現在の北朝鮮軍の戦備や北朝鮮そのものの経済状態から見て、北朝鮮が戦争を戦うことができる状態にないのは明らかだ。朝鮮戦争休戦時には南北朝鮮はともに焼け野原だったが南も「極貧国」であり、その点では工業化が進んでいた北の方がマシだったと言われている。しかし、今や南北の格差は著しく、北朝鮮として韓国には歯が立たないとみるべきだろう。また、朝鮮戦争の頃は革命輸出を目論む「悪の帝国」たる中国ソ連が北朝鮮の後ろ盾となっていたが、今やソ連は消滅し中国もすっかり金が第一という国になってしまい、昔日の面影はない。北朝鮮は事実上支援なしで戦わなければならなくなる。

 となれば、北朝鮮の「特別声明」は所詮いつもの「発作」だと捉えておいた方がよさそうだ。北朝鮮はいつも「東京を火の海にする」などとヤクザがチンピラのような脅し文句を言い続けてきた国である。無論、警戒態勢を怠ることは許されないが。

 

2013年3月29日 (金)

最優先すべきは一票の格差是正だ

 一票の格差是正を行わないまま執行された昨年の総選挙について、各地で違憲判決が相次ぎ、中には選挙そのものを無効とする判決を出す裁判所まで現れた。日本の歴史を見ても「違憲」判決すら少なかったから、これはもう異常事態と言える。

 一票の格差是正は国会で審議されてきたものの、常に「定数削減」と抱き合わせにされたことが是正を阻んできた。「一票の格差是正」を大義名分にしながら「議員定数の削減」を抱き合わせにすることで「議員の数を減らして改革をやった」と宣伝したい与党と、与党の得点がそのまま野党の失点となる以上反対する野党との調整がつかず、昨年はそのまま総選挙に突入してしまった。言わば、「改革をやったふりをしたい」ことが重大な違憲状態を生じさせてしまったと言える。

 議員定数が多いか少ないかは議論のあるところだが、その定数をどうするかは基本的には政策的判断だ。ある程度は政治的判断が許容される余地がある。しかし、「一票の格差」は憲法上の重大問題で、これを同列に扱うということ自体が常軌を逸している。この二つは重みが全く違うのだ。

 まず行われるべきは一票の格差是正だ。そのうえで違憲状態にある衆議院を解散し、改めて合憲状態で選出された議員により定数是正が必要ならば定数是正を行えばよいのではなかろうか。一票の格差是正が政争の具にされていることは、憲法の平等の精神を没却する重大問題である。我々国民の側も、議員の数を減らした増やしたというだけで「改革が進んだ」云々と短絡的に見ないようにすることも必要なのではないか。

2013年3月27日 (水)

中国共産党ジョーク

 中国共産党幹部の多くがスイス製の高級ブランド腕時計を着用していることが話題になっている。例えば、兪正声中央政治局常務委員は4320万円のパテック・フィリップ社製の最高級品を愛用していると指摘されてしまった。

 そこで、中共中央は釈明のためこんな声明を発表することにした。

 「みんな中国製だ。中国共産党幹部は国産品を愛用している」

2013年3月25日 (月)

我孫子市教育委員会内申書事前開示について

 内申書の記載ミスが相次いだ問題で、我孫子市教育委員会は高校受験に際し作成される内申書を事前に開示する方針を決めた。教員の書く「総合所見」は開示しないというが、将来的にはこれらも開示した上で生徒側の言い分も記載して高校に提出するような制度作りが必要であろう。

 日本では職場の評価も含めて本人に「開示しない」ことが当たり前ではある。しかし、こうした慣行が妥当かと言うと、私は妥当とは考えない。なぜならば、秘匿された状態の「評価情報」について、評価される側が何らの異議申し立ての機会もないというのは問題であると考えるからだ。

 米軍の場合、上司は部下に対する評価を部下に提示する。そのうえで、部下はその評価に対して同意するかしないか、そうしたものを付す。本人が同意しているかどうか、あるいは異議を述べているか、これは評価情報そのものを客観的ならしめるのに有効である。同時に、評価者の恣意的な評価を避けることもできる。

 特に「内申書」は「閻魔帳」と同視され、何を書かれるかという恐怖心で生徒を縛ったり、教員の理不尽な暴力等を問題にできない要因ともなってきた。体罰やいじめについても、教員のご機嫌を損ねると内申書に響くと言われて告発を我慢したのは私だけではない筈である。

 事前開示のシステムについてはこれから整備していくべき課題であろうが、事前開示という手法そのものを行うことについては大いに評価されてよいことと考える。

 

2013年3月23日 (土)

伝統的家族観は維持できるのか

 自民党が安倍総裁のもとで復古的・保守的な価値観を打ち出している。これはアメリカの保守派にも共通して言えることだが、伝統的な家族観を重視すると、必然的にマイノリティーに対する許容性は失われる。

 伝統的な家族観に基づいた政策を打ち出したところで、若い世代にそうした家族観を受け入れる余地があるのかと言うと、これは困難と言わざるを得ない。私自身は祖父母も含めた家族の中で育ち、本質的には保守的な家族観・価値観に親しみを感じている一人である。としても、若い世代として見ると、いくら親しみを感じていたところで、伝統的な家族は最早築くところか維持することすらできないのである。

 日本であっても欧米であっても、家族の核となるのは夫婦関係である。アメリカの保守的な価値観の上で同性愛者が忌み嫌われるのは単にキリスト教で同性愛を禁じているだけではなく、伝統的な家族関係そのものを作ることができないといことにある。いずれにせよ、夫婦関係すなわち結婚(婚姻に比較的近い契約関係も含む)ができるかどうかがまず第一となろうが、若い世代にとって結婚は簡単なことではなくなつている。

 若い世代の所得の低下や雇用環境の不安定化は以前から指摘されているところである。伝統的な家族観では介護や教育などを社会ではなくもっぱら家族に大きな役割(又は負担)を求めているものであるが、それには相応の収入が必要となる。この点、かつての農村社会では一家総出で農作業に従事しなければ生きていけなかったから、家族は良くも悪くも団結せざるを得なかったが、一方で次男三男の中には本家存続のため農奴的役割を負わされた者が少なくなかったのも事実だ。都市化・工業化の中で日本の重点が都市部に移ったのは高度成長期だが、そこでは男は会社、女性は家庭というのが大まかな枠組みとなっていた(無論、女性も男性ほどではないにしろ短時間労働者や非正規労働者として働くことは一般的ではあったが)。その中では男性には相応の所得が得られる環境が必要であり、この点男性優位の企業組織となった背景はある程度説明ができる。

 ところが、男女平等の取り扱いが進められるようになると、当然企業内での立場は男性だからと言って優位とは言えなくなる。景気低迷も相俟って、男性の資力はかつてに比べて非常に低いものとなっている。結婚した場合、共働きになるのは当然の帰結と言えよう。

 この点、共働きを「贅沢をしたいからだ」と非難する向きもあるが、これは失当である。社会的承認だけでなく、現実的に雇用環境が不安定になれば、リスクは分散せざるを得ない。夫の失業で収入を全く絶たれないようにするためには、妻に相応の稼得能力が必要となることは子供でも分かる話だ。そうなると、妻を家庭に閉じ込めることは事実上不可能と言うことになる。夫婦ともに長時間労働・過密労働に従事することを当然とする風潮からは、むしろ伝統的な家族観は葬りさられるべきものとして政策誘導されていたのではないかと思われていならない。

 そもそも、今や結婚自体簡単ではない。「お見合い」は既に今の若い世代の親の世代で既に絶滅危惧種であったが、高度成長時代には職場が結婚相手を見つけるに少なからぬ役割を果たしていた。しかしながら、企業社会そのものが変容する中で、今や職場にそのような社会的役割を求めることは不可能だ(使用者としてもリスクを抱え込むことになるので職場恋愛を歓迎すべきではない)。

 職場恋愛は職場における人的軋轢を生まないでは済まない。度が進むとセクハラという重大問題となるが、そうでなくとも気まずくなれば仕事に支障を来すし、今や日本企業はそうした若さゆえの過ちまで許容できるような寛容な状態にはない。職場恋愛のメリットは結婚相手を探すに当たり、日常的に顔を合わせ虚飾では生きていけない職場と言う場で男女ともに相手を探し、とりわけ男性にとっては経済力や将来性を問われる場所となっていた。しかしながら、今や経済力そのものが低下しているし、非正規労働者にとっては将来どころか一箇月先の事すら定かではない。これでは女性の側が分別をはじめから放棄してしまうのは無理からぬところだ。加えて男性側も結婚に向けた自信など簡単に持てるわけがない。

 一時期「婚活」という言葉が流行り、「結婚できないのは努力が足りないから、結婚できなかった者は不利益を受けて然るべき」という風潮が見られたものの、若者の置かれている現状を何ら改善することなく煽ってみたところで大した効果はなかったと言える。現に、「婚活」という言葉があまり使われなくなる一方、「婚活疲れ」という言葉さえ生まれている。

 伝統的な家族観の正面を持ち上げるのは結構だが、そもそも伝統的な家族観にも負面はあったわけだし、現実問題として伝統的な家族を維持することは難しいものになっている。そうすると、伝統的な家族観を自民党が持ち上げれば持ち上げるほど、そのようなものに手が届かない若年世代の恨みを買うことになるのではないか。

2013年3月21日 (木)

WBC決勝戦

 サムライジャパンが敗退したWBCは決勝戦でドミニカとプエルトリコが対決し、ドミニカの優勝で幕を下ろした。日本の三連覇が達成されなかったのは残念だが、あまり日本ばかりが優勝しすぎると国際大会として他国にとっては魅力がないものになりかねないから、WBCを長い目で見れば悪いことではないのではないか。

 日本が敗れた大会ではあったが、特に台湾との一戦は日台両国の国民に感動を与えた。台湾のナショナルチームは伝統的に「中華隊」と呼ばれているが、中華隊はサムライジャパンを追い詰めどちらが勝ってもおかしくない試合を展開している。もともと北東アジアでは日韓の野球チームが特に強かったが、台湾も腕をあげてきており、今回のWBC決勝は南米国同士の対決になったが、近い将来北東アジア国同士の対決が見られることを大いに期待したい。

2013年3月19日 (火)

怖いものを撤去して何のための原爆資料館か

 広島の原爆資料館が展示方法を変更するにあたり、従来展示していた被爆直後の広島市民の蝋人形を撤去するのだという。参観者から「怖い」と指摘されることが多いからと言うのがその理由らしい。まことにアホらしい。怖いものを撤去して何のための原爆資料館か。

 私が最初に広島の原爆資料館を参観したのは確か小学校2年生、1987年のことだったと記憶している。当時は資料館の建物も古いままで展示室内は何処も薄暗く、説明版なども今とは比較にならないほど充実していないものだった。としても、展示品全体を通して原爆被害の恐ろしさはひしひしと感じることができ、その世はホテルで眠ることができなかったのを記憶している。特に衝撃的だったのが被爆直後を再現した蝋人形だった。

 次に広島を訪れたのは就職活動をしていた2001年の事だった。原爆資料館そのものは建て替えられて綺麗な建物になり、展示室内も明るい雰囲気に改められていた。展示資料は確かに見やすくなり説明も充実したものになったが、一方で資料館全体からにじみ出る「恐怖」のようなものは大幅に失われたように思えてならなかった。そうした点で、蝋人形が残っていたことはいいことであった。蝋人形の展示されているブースはかつての展示と同様に照明が落とされ、我々がともすれば忘れがちな「恐怖」を訴えかけられる場所として残っていた。蝋人形は多くの参観者に強烈な印象を植え付け、長年にわたり原爆被害の悲惨さを雄弁に物語り続けてきたのである。

 それを撤去しようというのだから、何を考えているのか分からない。確かに、資料を客観的に参観者に示すことは資料館として大切なことではある。原子力や核兵器についてヒステリックになることは好ましいことではない。しかし、同時にあの場所は原爆の悲惨さを体感する場所でなければならない。怖いものを撤去して何のための原爆資料館なのか。再考されるべきであろう。

2013年3月17日 (日)

奨学金返済の滞納増加に思う

 奨学金返済の滞納が増加している。昨年度の滞納額は10年前の3倍、4700億円に達したというのだから凄まじい。

 この問題には二つの側面がある。ひとつは学生の親の世代の資力の低下、もうひとつは学生の就職の問題である。もともと、我が国では賃金は「人たるに値する生活」が目標とされており、これを具現化するかたちで賃金制度が設計されていた。年齢とともに賃金が上昇していくシステムがそれで、家庭を持って子供を育てて行くの併せて増える負担に対応できるように賃金を増やしていたものだ。しかし、十数年前からは賃金を「成果に応じて支払うもの」という定義づけの方が重みを持つようになり、一部の大企業の正規雇用労働者を除けば賃金は「上がらない」ことがむしろ普通になりつつある。これでは、子供に十分な教育投資ができないから、奨学金に頼るのは必然だ。

 それで卒業したとしても、就職は厳しい。大学出に見合う「椅子」の数には自ずから限界があるから仕方がないと説明されたとしても、冷や飯を食わされる側として納得できるわけもない。就職できたとしても、企業優位の社会ではパワハラに代表される企業内の問題によって心身を病む労働者も少なくなく、こうした人々も冷や飯を食わされることになる。行き付く先は派遣に代表される非正規労働の世界だ。

 「努力が足りない」「能力がない」と自己責任論で一刀両断される非正規労働者だが、実態はそう単純ではない。確かに脱力的な者や日本語の読み書きすら覚束ないような者がまま見受けられるのは事実であるにしても、一方で能力の高い者もまた少なくない。傍に他の人がいないときに彼女らとよく話してみると、大学院で専門教育を受けた経験があったり、有名大学を出ていたと恥らいながら告白されたりする。彼らは非正規労働者に身を落とした自らの立場を恥じ自信を喪失しているが、その原因は彼らにあるというよりも就職先の運不運にあるところが大きい。そして能力的には無視できないものを持っている。無能ではなく活用される先を喪っているところが大きい。いずれにせよ、教育投資に見合う賃金を得られないというリスクは高まっている。税金や社会保険料を引かれた可処分所得が10万円そこそこでは、奨学金の返済などできるわけもない。一人暮らしなら文字どおり生きていくのがやっとであろうし、親と同居の者は多少は恵まれていると言っても親の資力も低下している時代だから生活は楽ではない。

 奨学金を借りて一生懸命勉強したところで報われないばかりか「借金」になってしまうということが一般化しつつあるが、これでは国民が学ばなくなるのは道理というものだ。国民全体の知識レベルの低下は避けられない。一部のエリート層へ教育投資をすればいいという意見もあるが、我が国の「強み」はエリートではなく中間層の質の高さにあったことを考えれば、エリート偏重の考え方は国家の自滅を肯定する危険思想であると言わざるを得ない。

 現在の奨学金滞納の問題は返済義務を負う者の意識の問題ではなく、奨学金を借りざるを得ない或いは返済できないような状態を放置している構造上の問題である。国は外国人留学生を厚遇するなど決して教育分野への支出を疎かにしているわけではないのだが、自国民への教育を軽視していると疑われても仕方がないような施策も少なくない。高等教育を受けた者に見合うだけの椅子を用意するのは難しいわけだから、せめて高等教育を受けたことが借金にならないようにするくらいのことをする配慮は必要であろう。

2013年3月15日 (金)

新ローマ教皇フランチェスコ1世

                 

 12日にバチカンではじまったコンクラーベは、5回目の投票でベルゴリオ枢機卿を新たな教皇フランチェスコ1世として選出した。本命不在と言われながら、極めて早い選出が行われたことに驚いた人は少なくなかったのではないか。

 イタリア系移民の子孫ではあるがアルゼンチンの出身者で初の中南米出身の教皇である。フランチェスコという名前自体はアッシジの聖フランチエスコにちなむ名前としてヨーロッパではそう珍しくもない名前ではあったが、この名前を名乗る教皇もはじめてである。もともとこの名前の由来は「フランス人」というものだが、今や知る人も少なかろう。

 面白いことに、フランチェスコ1世は従来の教皇とは若干異なる経歴を持っている。現在では教皇に選出されるためには枢機卿でなければならず、枢機卿になるためには司教であるのが原則なのだが、司教になるには神学・聖書学・教会法の博士号取得者又は教授資格という資格が定められている。簡単に言えば「博士号がなければ教皇になれない」ということだ。先のベネデイクトゥス16世は神学博士号を持つ教理の専門家であり、ヨハネ・パウロ2世に至っては神学と哲学の二つの博士号を持っていた。世界的に見れは聖職者は弁護士や医師と同じくプロフェッションとして専門教育を受けるが(この点、我が国の神主や僧侶とは資格を認められるための学識の点で天と地ほどの開きがある)フランチエスコ1世もそうした教育はセミナリヨで受けのは確かだが、手元にある経歴を見た限りでは博士号まで取ってはいないようだ。実際には取得しているのかもしれないが、博士号を持たないとすれば近年では珍しい教皇となる。

 バチカンは「格差社会」の問題が問題として取り上げられるはるか以前から社会問題に対する関心を持ち続けてきた。貧富の差や福祉について述べた教皇の回勅としては「ノールム・ノヴァールム」が最初だが、これが出されたのは1891年である。新教皇となるフランチェスコ1世も社会的弱者の救済に力を尽くしてきた人物であるそうだから、バチカンが行き過ぎた資本主義に対する警鐘を鳴らす役割をこれからも果たしていく可能性は高そうである。

 一方で、同性婚については否定的な見解を示してはいるものの、一方で同性愛そのものについては認めるような発言をした過去もあり、カトリック教会がどのようにして「新たな問題」に対応していくのかについても注目される。先のベネデイクトゥス16世もヨハネ・パウロ2世も教義的には保守的であったが、転換点となる可能性もある。

2013年3月13日 (水)

武器輸出の緩和は必要である

 我が国は武器輸出に関しては極めて厳重な規制がなされている。このため、国際的に見ても高品質な武器製造ができる一方、国際競争力となると初めから話にならないレベルと言うのが実情だ。はじめから参入していないのだから当然の話である。

 日本が武器輸出に消極的なのは何も「平和憲法」のためではない。憲法が「平和憲法」でなかった戦前でも、日本の武器輸出の実績は乏しかった。艦艇であればタイや中国に小型艦を輸出した程度、銃器もフィンランドやオーストラリアに少数が輸出されたに過ぎなかった。機密保持などの問題があったにせよ、日本の「特性」と考えた方がよいのではないかとすら思えるほどだ。

 この結果として、日本の武器市場は携帯電話と同じく「ガラパゴス」状態となった。国際市場で競争する必要がなかったため、国際的な基準から見れば奇妙な点の目立つものであったとしても、国は高く買ってくれる。日本の防衛予算が決して低くない原因の一つは、高コストの兵器調達にある。

 しかしながら、戦闘機などはもはやアメリカであっても一国で開発するのが難しくなってきた。かつての航空大国てあったイギリスも今やF35をアメリカと、ユーロファイターをEU諸国と共同開発する状態になっている。中国はロシアの技術を導入しつつも「自国開発」をやりたい放題だが、あれは中国が潤沢な予算をつぎ込めるからで、概して先進諸国はもう金がない。日本としても例外ではないと認めざるを得ない。

 こうなると、武器の共同開発に踏み込まざるを得なくなるが、必然的に武器輸出の問題がからんでくる。日本で製造した部品を輸出したり、組み立てたものを売ることができなければ、そもそも共同開発は成り立たないからだ。

 武器輸出に伴うマイナスイメージは大きいが、コスト削減と技術継承のためには「やむを得ない」ものと割り切るべきではないだろうか。なお、左翼の大好きな「福祉大国」というのは、実はおしなべて武器輸出大国である。ドイツはフリゲイトや潜水艦で大きなシェアを持っているし、航空大国フランスは西側戦闘機市場ではアメリカと並んでよく売れている。イタリアやオランダやスイスやスウェーデンも武器輸出大国だ。これらの国々では社会保障と安全保障が表裏一体の関係にあるように思われる。

 残念ながら、日本が最早「衰退期にある大国」であることを認めざるを得ない現状では、国際的な共同開発に加わることで技術と雇傭を維持しつつ兵器の水準を高めていくしかない。頑迷な武器輸出規制は緩和されてしかるべきではないだろうか。

 なお、日本が武器輸出云々という話を出すたびにヒステリックな反応を示しているのが中国と韓国だが、この二か国も国が主導して大々的な武器輸出を行っている。ただ、売り込む先としては先進国ではなく中進国や発展途上国が中心である。特にアフリカの貧困に喘ぎながらも紛争を続けている国には中国製の武器が広く売り込まれている(イメージ的には「死の商人」そのものである)。少なくとも、「周辺諸国」が日本を批判できる義理ではなかろう。

2013年3月11日 (月)

東日本大震災から二年

 今日は東日本大震災から二年の日である。亡くなられた方々に哀悼の意を表したい。

 東日本大震災は多くの国民の生活を変えただけでなく、日本国民そのもののメンタル面にも大きな影響を与えたように思われる。ただ、その影響がプラスか否かはまだ一概に言えないところがある。中産階級以下の思考や行動が内向きになっていけば社会の衰退は免れないし、地域や家庭に重きを置くことは排他性を進める一方で進歩性を失わせることにもなりかねない。死が身近になったことで刹那的な生き方に走るようになれば、国がどうなるかは歴史を読めば分かる。

 東北は復興や除染の特需があると言われる一方で、それ以外の業種についてはあまり明るい話題は聞かない。その特需の分野にも真偽はともかくとして暴力団まがいの連中が食い込んでいるという話もあれば中間搾取が公然と行われているという話もある。被災自治体の人材不足も深刻だが、公務員になりたい若者が多いと言われている中で人材不足とはその背後には何があるのか。労働・社会政策からの分析が必要とされていることは言うまでもない。被災地への企業進出が推進されているが、その就業の中身もじっくり吟味する必要がある。

 災害や戦争から立ち直り、それを教訓として更なる飛躍を遂げた国家や民族がある一方で衰退を加速させた例も多い。震災を糧にできるかどうかは、これからの施政にかかっていると言えよう。

2013年3月 9日 (土)

物価は上がっても賃上げはない

 安倍総理の経済財政政策に対して強い影響力を持つイェール大学の浜田名誉教授が中日新聞のインタビューに応じた記事が掲載されたが、その内容は衝撃的なものであった。一言でいえば「大企業が生き残ることが必要だから、賃上げには期待するな」というものである。

 アベノミクスではインフレを誘発し、それによって経済規模を拡大させることで雇用を拡大し賃金を引き上げることで国民生活を向上さることが喧伝されていた。原発推進やTPP参加なども、すべてこの戦略のための行動である。当然ながらインフレが起きれば実質的な賃金は目減りする。したがって、賃上げとセットであることが国民を納得させる唯一の方法であった筈だ。

 しかし、浜田名誉教授は企業に体力を付けさせる必要があることから、賃上げを期待するなという趣旨のことを述べている。安倍総理の指南役がこんなことを言っているのだから、本当に政府与党が賃上げを含む労働者の権利向上の事を考えているのかますます怪しくなってきた。派遣の期間制限や直接雇用既定の撤廃や解雇の緩和、労働時間規制の緩和、最低賃金制度の廃止、社会保険の適用除外の拡大など、それぞれもっともらしい理由づけはされているが、本当にこれで大丈夫なのか私は極めて疑わしく思っている。

 確かに、理屈の上では国内経済は活性化し、拡大した経済は雇用を吸収し賃金も上昇することができる筈である。しかし、ここ十数年こうした路線を歩んできた結果生まれた底辺層の労働者とここ一年ばかり共に仕事をしてきた私としては、こうした路線に期待を持つことはとてもできない。

 賃上げ要求にしても、年収1000万円を2000万円にする話ではない。時給1010円を1020円にできるかどうかという話である。残念ながら、非正規労働の現場では労働者は皆おしなべて自分の前途に期待はしていないし、幸福な家庭生活を含む将来像を描けている者はほとんどいない。正規雇用への登用や、賞与や各種手当などの支給される立場すら、現実には夢でしかない。彼らにとってのささやかな期待は、若干時給が上がることで、一杯の飲み物を追加購入できることくらいだ。こうしたささやかな期待すら奪うようでは、どうして政府与党の経済政策を信用することができようか。

 経済政策を立案・遂行する者は、表向きに出てくる数字だけでなく、是非現場を見てもらいたいものだ。これではアベノミクスは誰のための、何のためのものか理解することすら難しい。無論、大企業生き残りのため底辺労働者を見捨てるというのも有力な選択肢の一つである。それならば、是非明言していただきたいものだ。

2013年3月 7日 (木)

「未来志向」の日韓関係

 就任したばかりの朴大統領と安倍総理が初の電話会談を行った。李前大統領の政権末期に日韓関係は悪化してしまったので、政権交代を機に仕切り直しというところである。

 ただ、ここ二十数年間の日韓関係の歴史は同じことの繰り返しだ。すなわち、新大統領は「未来志向」の日韓関係を作りたいと表明し、政権発足直後はおおむね良好な関係を構築する。しかし、「反日」を掲げなければ選挙に勝てない韓国国内ではそれが「弱腰」と映り、政権は次第に人気取りのために反日活動を活発化させていく。特に韓国は大統領の再選が憲法で認められていないため、任期終了直前はレームダックになる。韓国の大統領が「美しく辞める」ためには、政権末期の反日活動はもはや伝統である。実際、金泳三大統領も金大中大統領も盧武鉉大統領も李明博大統領もみんなそうだった。

 韓国側が「未来志向」を示したとしても、本当にその方向で行くのかどうかは怪しいものがある。日本の失敗は、韓国側が「未来志向」を示すとただちに譲歩したり経済支援をしてしまうところにあるように思われる。本当に韓国側が踏み出すまで、安易な譲歩や支援は控えるのが両国の「未来」にとって賢明な対応であると言えよう。

2013年3月 5日 (火)

HIV感染の新生児が治癒

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 アメリカのミシシッピ州で母子感染によりHIVウイルスに感染していた新生児に抗ウイルス薬を投与し続けたところ、ウイルスが確認できなくなり治癒したものと認められるという診療結果が明らかになった。HIVは短期間で死に至るような病ではないものの根治不能な「不治の病」と捉えられているだけに、衝撃的な話である。同時に、苦しむ患者にとっては新たな治療法の開発に期待の持てるニュースであろう。

 無論、今回の症例が一般化できるかどうかは慎重に考えなければならない。実験や医療は「追試」に成功してはじめて手法として認めることができる。例えば、戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏元受刑者は「脳幹論」と称して脳幹を鍛えればうつ病や癌が治癒すると主張しているが、国内外の研究機関で誰も「追試」に成功していないので当然ながら「トンデモ説」に分類されることになる。同様の症例に対して同じような手法で治療効果が認められることになれば、少なくともこのような件については母子感染した新生児を救うことができる期待が持てよう。

 思えば、天然痘は根絶され、癌などかつては「不治の病」であったものを人類は乗り越えてきた。HIV根治の突破口になることを祈らない者はいないであろう。同時に、HIVが感染を拡大してきた歴史に思いを致す時、人類はHIVを克服できたとしてもまだこれから新たな病に立ち向かうことになるのではないか。病との戦いはまさに人類の歴史と言える。

2013年3月 3日 (日)

シーシェパードは海賊である

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 日本の調査捕鯨船に対して過激な攻撃を加え続けている自称「環境保護団体」シーシェパードに対して、アメリカの連邦高等裁判所は連邦地方裁判所の判断を覆して「海賊」であるという認定を行った。シーシェパードの創設者であるポール・ワトソン容疑者を「常軌を逸した人物」と認定したことも含めて妥当な判断であると言える。

 シーシェパードの御乱行はよく知られているところだが、歴史的に見てこんな「海賊」は珍しい。海賊そのものは古代から延々と続く「職業」であり、近代には一旦廃れたかに見えたが、最近再びソマリア沖やマラッカ海峡に出没するようになっている。としても、古来から海賊になるのは「陸のまともな仕事では食えない」からであり、海へのロマンを求めて海賊になるというのは漫画や映画の世界ならばともかくとして、現実には「あり得ない」海賊の姿であった。「パイレーツ・オブ・カリビアン」や「ワンピース」の世界は、現実とかけ離れた海賊の姿である・・・筈だった。

 実際、ソマリア沖で捕まえてきた海賊は被害国や逮捕した国に管轄権があるということで、世界中で「海賊裁判」が行われ、ドイツでは実に500年ぶりということで注目されたが、そこで弁護側が主張しているのは「ソマリアでは食えないから海賊になるしかなかった」というもので、やむにやまれず海賊になっていく様子が伺える。

 ところが、「シーシェパード」は別に食えないから海賊行為をやっているという人たちの集まりではない。確かに、「環境テロ」をビジネスにしている連中の集まりではあるが、別段彼らがそれ以外の仕事の道がないというわけではない。彼らを海賊行為に駆り立てているのは、鯨類に対するロマンである。そうすると、海へのロマンを求めて海賊になったという稀有な事例であると言えないこともない。これはもう、数千年続く海賊の歴史に新たな一ページが加えられたと見なければならないだろう。

 今回は連邦高裁の判決なので、連邦最高裁に持ち込まれた場合どのような判決が出されるかも注目される。日本の最高裁は職業裁判官、検察官、弁護士、研究者、官僚の指定席がほぼ決まっていて、トコロテン方式に最高裁裁判官が就任しては定年退官していく感があり、最高裁判事の名前など一般国民は誰も知らない。しかし、アメリカの場合連邦最高裁判事は政治的にも重要なポストで、大統領が同性婚などの問題も含めて保守派を任命するかリベラル派を任命するかが常に注目されている。日本と違って終身だから、政権交代が起きても前政権の任命した判事が多数残っている場合、新政権の政策が「憲法違反」と判断されてしまうこともある。この「海賊裁判」も、まだどうなるか分からない。

 シーシェパードの海賊行為の被害国は「日本」であり、今回の「海賊裁判」も日本鯨類研究所が出訴したことにより争われた。残念ながら、欧米やオーストラリアなどの文化人を中心に、この「海賊」を支持し資金を提供している者が多いのも事実であり、日本としては今後は「海賊の資金源」を絶つことも含めて行動していかなければならないだろう。

2013年3月 1日 (金)

ローマ教皇ベネデイクトゥス16世退位・使徒座空位に

                     

 ローマ教皇ベネデイクトゥス16世が退位し、バチカンはトップを欠いた「使徒座空位」の状態に入った。従前、使徒座空位の間にはバチカンに世界中からカトリック信者が詰めかけて前教皇の葬儀が行われ、同時に弔問外交の舞台ともなってきたが、今回は自発的退位ということもあって静かな印象を受ける。もっとも、一般的に予告して死ぬ教皇はいないから教皇逝去は大事なのだが、自発的退位があらかじめ報じられていたから使徒座空位となるショックは小さいのかも知れない。

 かつては何年間も次期教皇が決まらないという「大空位時代」もあったが、現代ではおおむね一箇月以内にコンクラーベで新しい教皇が選出されている。ヨハネ・パウロ2世以来教義的には保守的な教皇が続いてきたが、次期教皇が避妊や人工妊娠中絶や聖職者の妻帯、ラテン語典礼などにどのような意向を示すのか興味深い。特に、今やカトリックの最大勢力となっている南米では「貧乏人の子だくさん」を地で行く状態になっている。カトリック信者の多いアフリカも同様だ。南米出身の教皇が生まれるとなれば、この問題に対して従来のように一方的に「許されない」というだけで信者の理解を得ていくのは難しいのではないか。

 なお、前教皇ベネディクトゥス16世は「名誉教皇」として「聖下」の称号を引き続き用いられる。体力的に教皇を続けられないとの自発的な退位であるから今回は「院政」は無さそうだが、進歩派が新教皇に選ばれた場合、前教皇の存在自体が教会改革の歯止めにもなりかねない。実質的に初の「存命の前教皇」がどのような役割を果たしていくのか、或いは日本当に何もしないのか。退位後の動向にも注目したい。

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