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2013年2月27日 (水)

「道徳」を教科にすることは必要か

 政府の教育再生実行会議は「道徳」を教科にすることを提言にまとめた。もともと、第一次安倍内閣の頃から「道徳」の教科化は保守派の望むところであったから、復古主義的な第二次安倍政権の嗜好に沿ってこのような提言がされること自体はそう不思議なことではない。

 だが、わざわざ「教科」にする必要があるのかと言うと、疑問に感ぜざるを得ない。我々が子供の頃から週一回は「道徳」の授業はあった。大抵は運動会の練習や漢字や算数の小テストに消えていた記憶があるが、若干は「道徳」の教科書(厳密には教科ではないため副読本らしいが)を読まされた。しかし、それだけのことであった。

 何をもって「道徳」であるかの中身を決めるのかは非常に難しい問題だ。この点、キリスト教文化圏であれば聖書が、イスラーム圏ではクルアーンが基礎となるだろうが、日本にはこのようなものは神道であってもそもそも存在していない。何より、特定の宗教的価値観を採ることは公教育の場ではできる筈もない。

 何が「道徳」で何が「不道徳」かの線引きはかなり困難なことで、例えば自由恋愛は西欧文化圏では問題にならないが、イスラーム文化圏では死に値する不道徳な行為となる。婚前交渉は日本でも保守派を中心に不道徳な行為であるとされているが、現実には自由恋愛の延長線上としてごく普通なことである。仮に自由恋愛や婚前交渉を不道徳な行為であると糾弾してみたところで、逆に守っている人の方が社会的少数派に追いやられるのみならず変わり者として社会一般から人格を否定されることにもなりかねない。

 協調性や個性にしてもそうだ。そもそも、我が国では協調性という名の下で個性や人権を抑圧する傾向にあった。個人として尊重された上での集団と言う概念そのものは存在しない概念であったと言ってもよい。実際、権力側に不都合なことになると「個性を尊重しすぎている」という言葉が権力側から毎度のように出てくる。

 恐ろしいのは、これを「教科」にしてしまうと、それは評価の対象になるということだ。どんな教科でも「点の取り方」というものがあって、現実にその教科に精通していたり興味を持っていたりするよりも、テクニックを身に着けた方が点が高くなることが多い。これが「道徳」でも評価されるということになると、其の者の人間性などとは別のところで「道徳の評価」がされてしまう可能性が高い。何より、道徳は精神面に直結するものだから、道徳の点数が高いから道徳的、低いから不道徳だと言われたら子供も親もたまったものではあるまい。

 そして、残念ながら社会は道徳的にはできていない。慶応大の竹中教授が毎年年初に海外に居住することで住民税の納付を免れていたという話があったが、このような手段は不道徳と一般的にはみなされようけれども合法ではある。何より、安倍内閣を支持している財界関係者の多くの企業では偽装請負や多重派遣などが半ば公然と行われてきたのではなかったか。アベノミクスを支持しているファンド関係者も同じことだ。こうした人々に支持されて存在している安倍政権が「道徳教育」ということ自体、いささか悪い冗談にしか聞こえないが、ビジネスの世界では道徳よりも幾ら儲けたかが重要であることは冷徹な事実である。

 そうすると、結局のところ「道徳」を教えたとしても、それを身に着けた者ほど人生で馬鹿を見ることになりかねない。何しろ、ハゲタカ・フアンドの関係者の中には大学に客員教授で招かれて「コツコツ真面目にやる奴が評価されるのはおかしい。あいつらは馬鹿だ」などと公然と学生に吹き込んでいるような者までいる。実際、労働問題を見ていれば、それは当たっている。そうなると、自ら人生を失敗する者を学校で量産することになりはしないか。

 また、子供という者は意外に大人をよく見ている。親も、子供に失敗をさせたくない。かくして、学校でいくら表面上の「道徳」を教えたところで、ちょっと知恵のある子供たちが面従腹背することになるだろうし、親も子供に対して失敗しないように「教育」を加えるだろう。

 「道徳」の教科化は、結局のところ「美しい言葉」を子供に垂れ流すだけの意味しかない科目になるのではないか。わざわざ「教科」にする必要があるとは思われない。

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