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2013年2月

2013年2月27日 (水)

「道徳」を教科にすることは必要か

 政府の教育再生実行会議は「道徳」を教科にすることを提言にまとめた。もともと、第一次安倍内閣の頃から「道徳」の教科化は保守派の望むところであったから、復古主義的な第二次安倍政権の嗜好に沿ってこのような提言がされること自体はそう不思議なことではない。

 だが、わざわざ「教科」にする必要があるのかと言うと、疑問に感ぜざるを得ない。我々が子供の頃から週一回は「道徳」の授業はあった。大抵は運動会の練習や漢字や算数の小テストに消えていた記憶があるが、若干は「道徳」の教科書(厳密には教科ではないため副読本らしいが)を読まされた。しかし、それだけのことであった。

 何をもって「道徳」であるかの中身を決めるのかは非常に難しい問題だ。この点、キリスト教文化圏であれば聖書が、イスラーム圏ではクルアーンが基礎となるだろうが、日本にはこのようなものは神道であってもそもそも存在していない。何より、特定の宗教的価値観を採ることは公教育の場ではできる筈もない。

 何が「道徳」で何が「不道徳」かの線引きはかなり困難なことで、例えば自由恋愛は西欧文化圏では問題にならないが、イスラーム文化圏では死に値する不道徳な行為となる。婚前交渉は日本でも保守派を中心に不道徳な行為であるとされているが、現実には自由恋愛の延長線上としてごく普通なことである。仮に自由恋愛や婚前交渉を不道徳な行為であると糾弾してみたところで、逆に守っている人の方が社会的少数派に追いやられるのみならず変わり者として社会一般から人格を否定されることにもなりかねない。

 協調性や個性にしてもそうだ。そもそも、我が国では協調性という名の下で個性や人権を抑圧する傾向にあった。個人として尊重された上での集団と言う概念そのものは存在しない概念であったと言ってもよい。実際、権力側に不都合なことになると「個性を尊重しすぎている」という言葉が権力側から毎度のように出てくる。

 恐ろしいのは、これを「教科」にしてしまうと、それは評価の対象になるということだ。どんな教科でも「点の取り方」というものがあって、現実にその教科に精通していたり興味を持っていたりするよりも、テクニックを身に着けた方が点が高くなることが多い。これが「道徳」でも評価されるということになると、其の者の人間性などとは別のところで「道徳の評価」がされてしまう可能性が高い。何より、道徳は精神面に直結するものだから、道徳の点数が高いから道徳的、低いから不道徳だと言われたら子供も親もたまったものではあるまい。

 そして、残念ながら社会は道徳的にはできていない。慶応大の竹中教授が毎年年初に海外に居住することで住民税の納付を免れていたという話があったが、このような手段は不道徳と一般的にはみなされようけれども合法ではある。何より、安倍内閣を支持している財界関係者の多くの企業では偽装請負や多重派遣などが半ば公然と行われてきたのではなかったか。アベノミクスを支持しているファンド関係者も同じことだ。こうした人々に支持されて存在している安倍政権が「道徳教育」ということ自体、いささか悪い冗談にしか聞こえないが、ビジネスの世界では道徳よりも幾ら儲けたかが重要であることは冷徹な事実である。

 そうすると、結局のところ「道徳」を教えたとしても、それを身に着けた者ほど人生で馬鹿を見ることになりかねない。何しろ、ハゲタカ・フアンドの関係者の中には大学に客員教授で招かれて「コツコツ真面目にやる奴が評価されるのはおかしい。あいつらは馬鹿だ」などと公然と学生に吹き込んでいるような者までいる。実際、労働問題を見ていれば、それは当たっている。そうなると、自ら人生を失敗する者を学校で量産することになりはしないか。

 また、子供という者は意外に大人をよく見ている。親も、子供に失敗をさせたくない。かくして、学校でいくら表面上の「道徳」を教えたところで、ちょっと知恵のある子供たちが面従腹背することになるだろうし、親も子供に対して失敗しないように「教育」を加えるだろう。

 「道徳」の教科化は、結局のところ「美しい言葉」を子供に垂れ流すだけの意味しかない科目になるのではないか。わざわざ「教科」にする必要があるとは思われない。

2013年2月25日 (月)

王毅新外交部長

 中国政府の次期外交部長について、元駐日大使で中国共産党中央委員の王毅国務院台湾事務弁公室主任を軸に調整が進められていることが報じられた。外交部で日本畑を一貫して歩み、知日派として知られる王毅主任が外交部長に就任することが日本として吉と出るか凶と出るか、それは日本政府次第である。

 知日派で日本勤務が長いということは、当然ながら日本の事をよく知っているし、日本の関係者とのパイプ太いということだ。これは日本側としては少なくとも日本側を理解する能力のある人物が交渉のテーブルに座ることを意味する。話が進めやすいということはあるだろうが、同時に日本の泣き所も知り尽くしているが故に、巧みに日本を追いこんでくる可能性も高い。すなわち、日本側のテーブルに誰が座るかで、王毅外交部長は吉とも凶とも出ることになるだろう。少なくとも、中国政府のご機嫌取りに終始した丹羽前駐日大使のような人物が座れば中国側に取り込まれていいように使われるのは間違いない。

 親中派の多かった民主党政権が政権末期には尖閣周辺海域での衝突が発生しているが、それでは自民党政権に代わってどうなったかと言えば、さしたる変化は見られない。むしろ、自民党は中国共産党中央と太いバイブで繋がっている公明党や中国ビジネスで中国政府のご機嫌を損ねたくない財界に支えられているから、彼らの意向を無視して対中強硬路線は実質的に取れない。中国側もこのことをよく分かっているから、日本政府を屈服させるチャンスと捉えているのだろう。日本側に安心感を与える策として王毅外交部長と言う人事を行うとも考えられる。

 従来の対中外交全般及び最近では丹羽前大使を任命しての失敗から少しは学んでいなければならないことだが、「友好」とは時には対決しなければならないこともあるし、言い争いもしなければならない。対中関係においては表面上の波風を立てることを恐れるあまり譲歩を繰り返し、何かあると日本が譲歩することが当たり前になってしまった。これでは中国に傲慢になるなと言う方が無理というものではないか。

 いずれにせよ、対中関係において「利益相反」を起こしそうな人物を対中関係の交渉窓口に置くことだけは絶対に避ける必要がある。

2013年2月23日 (土)

東浦町元副町長統計法違反事件

 我が長久手市は人口5万人を突破したことで2012年1月に町から市に移行した。今でこそ市町村は単に人口の大小を示す意味合いが専らだが、明治時代には都市化した都市部とそれ以外の農村地帯という人口以外の線引きもなされていたことを忘れてはならない。都市部と農村部の違いは人口の大小で安易に線引きできる話ではなく、住民の思考やメンタリティ自体もかなり異なる。これは日本だけの話ではなく、中国ではもっと差異が大きい。

 現在では合併して人口要件を満たせば市になれるとあって、一昔前までは合併がブームであったし、それによって実質的には寒村としか言いようのないところまで市になっていることが珍しくない。それでも、「郡部」の自治体関係者にとって「市制施行」はひとつの「夢」であるようだ。

 愛知県東浦町の元副町長が副町長在任時に国勢調査のデータを町ぐるみで水増しして「市制施行」を狙っていたのではないかとの疑惑が浮上している。容疑は統計法違反ということで、そもそもこんな法律で逮捕されるのかと今更ながら驚いているが、統計は施政を決めるのに重要なものだから、それを改ざんすることは重大な犯罪という考え方は理解できる。

 統計、特に人口統計は古来から洋の東西を問わず非常に重要なものとされてきた。古代ローマでは統計の最高責任者をつとめる「ケンソル」(財務官と訳される)の格式は国家のトップである執政官に並ぶもので、実際に執政官経験者が就任するポストであった。発展途上国がなかなか「信用」されない大きな原因は、統計が取れていないか、その統計に信憑性がないからだ。北朝鮮などに至っては、そもそも統計自体を公表していないので、実のところ人口がどのくらいかすら正確には分からない。中国にしても、人口統計が正確ではないということは周知の事実だし、経済統計にしても怪しいものだとされている。

 そう考えると、元副町長が主導した町ぐるみの統計改ざん行為が事実だとすれば、故郷を「市」にしたいという愛郷心から出たものであろうとは思われるが、日本の統計制度そのものの信憑性を揺るがす重大な犯罪であると言わざるを得なくなる。

2013年2月21日 (木)

主権があるから「TPPに参加しても聖域は守れる」は間違い

 やはりと言うべきか、政府与党はTPP参加の方向で調整していくようだ。自民党内には反対の意見が根強いものの、もっぱら農業団体関係で反対していると見られているだけに、一定の「聖域」さえ設ければ(=保護を明確にすれば)最終的には屈すると踏んだのだろう。加えて、安倍総理は懸念されている社会保障制度が破壊されることについて「主権があるから問題ない」という見解を示している。

 しかし、これは国際法を理解していない話としか言いようがない。まず、「聖域」を政府与党が設定してみたところで、交渉に参加した後に聖域を認めるかどうかは関係各国の合意によらなければならない。日本政府が設定した「聖域」を守れなかったから交渉から脱退するということは形式的には可能かも知れないが、従前の「手口」を見ていると交渉参加した後は「脱退は国際的な信用を失う」という言い分で実質的に脱退はできまい。そもそも、「聖域」なく日本の経済を食い物にできるからこそアメリカはTPPを主導しているのであって、「聖域」の設定など認めないのではないか。

 加えて、その「聖域」が仮に認められるとしても、どのような基準によるのかが曖昧模糊としている。「農家」は伝統的に自民党の票田だが、自分の票田を守るのでは政策を金で売った買ったと非難されるのは必至ではないか。そもそも、政権与党との近さ遠さでそのようなことが決まるのでは、「政治主導」かも知れないが明らかに公平には反する。

 TPPは「条約」であり、「条約」は本来ならばやりたい放題できる「主権国家」の行動を制約する性質を持っている。この点で、究極には「併合条約」を結んで相手国を取り込むこともできるし、逆に相手国に吸収されることもできる。つまり、条約によって国家は「自殺」することすら可能なのである。確かに主権があるから、条約を結ぶかどうか、つまり拘束される合意をするかどうかは基本的に国家の自由意思に委ねられている。しかし、一度合意を結べば、あとは法の原則である「pacta sunt servanda(合意は守られるべし)」だ。つまり、国家は自殺することもできる以上、TPPという主権を制限する条約を締結してしまった以上、条約の方が主権に優先することになる。ゆえに、日本政府が社会保障制度の保持を「主権の問題」と言ってみたところで、日本の社会保障制度が「参入障壁」と判断されてしまえばそれまでだ。別の言い方をすれば、我々は自らを庇護してくれる国家というものを自ら手放すことになりかねない。

 「自由競争」と「市場化」をすれば誰もが幸せになれるとここ二十数年吹聴されてきて、実際に日本はその方向に歩んだが、それで本当に多くの国民が幸せになったのか。TPP推進派の顔ぶれは、まさに今までの日本の主導権を握ってきた顔ぶれに重なる。じっくり考えてみる必要がありそうだ。その上で、国民が自ら首を吊る覚悟があるのであれば、それは国民の選択として尊重されなければなるまい。

2013年2月19日 (火)

SLあおなみ号

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 名古屋のあおなみ線をSLが走った。「SLあおなみ号」という名称で、JR東海のリニア・鉄道館が開館した時に河村市長が提案したことが実現したものである。

 ただし、「定期運行」は現実的には難しいだろう。煤煙の問題もあるし、蒸気機関車は電気機関車と異なって片方に向けてしか運転台がなく、基本的には終着駅に「転車台」を設けて機関車の向きを変えなければならない。機関車そのものを反対側に付け替える線路も必要だ。

 今回は京都の梅小路蒸気機関車館で動態保存されているC56型機関車を借りてきて運転することができたが、機関車の動態保存は極めて難しい。実は、京都に梅小路蒸気機関車館を作る際には奈良か滋賀あたりを定期運行することが計画されていたそうだが、煤煙の問題と機関車そのものを常時稼動させておくことが難しいということから結果的に断念されている。

 動態保存されている蒸気機関車を一時的に借りるか、或いは名古屋市が静態保存されている機関車を復活させてイベント列車としてたまに走らせることは可能ではあろう。蒸気機関車そのものを新造するのは容易ではなく、最近二十年ぶりに小型機関車が新造されたことが鉄道ファンの間で話題になったほどである。ちなみに、今回あおなみ線を走ったのは国鉄の作った蒸気機関車としては小型の部類に入るが、最近新造された蒸気機関車よりははるかに大型である。莫大な費用をかけてまで自前の機関車を持つだけの価値があるかどうかは疑問なところがある。

 河村市長はあおなみ線に「小田急ロマンスカー」を走らせることも求めていたようだが、こちらは更に厳しかろう。蒸気機関車以上に電車は部品確保が難しく、古い電車の動態保存は蒸気機関車以上に容易なことではないからだ。仮に動態保存する・できるにしても、ロマンスカーよりは名鉄のパノラマカーの方が名古屋らしいのではないか(ロマンスカーの中で婚活イベントでもやってラブロマンスカーとでもしゃれこもうと考えていたのなら話は別だが)。

 名古屋近辺では、明治村で明治時代の蒸気機関車が営業されている路線を走ることは最早できないものの動態保存されている。これに加えてあおなみ線で蒸気機関車が定期運行されれば鉄道ファンとしては楽しい。が、それだけで観光客を呼べるというのはいささか安直な考えではないか。

2013年2月17日 (日)

ロシアに隕石が落下

               

 ロシアに直径17メートルと推測される隕石が落下し、甚大な被害が発生していることが徐々に明らかになった。恐竜を絶滅させた(厳密には恐竜の一部である鳥類は生き残っているが)隕石が直径10キロと推測されているのでそれに比べれば小さなものだが、それでもNASAによればヒロシマ型原子爆弾の30倍に相当するというのだから凄まじい破壊力だ。十数年前に公開された「ディープ・インパクト」「アルマゲドン」を思い出した方も多いのではなかろうか。

 今回は人口密集地に落下しなかったが、モスクワやサンクト・ペテルブルグなどの人口密集地に落ちていたら壊滅的な被害を引き起こしていた可能性がある。何より、現在の技術では「巨大隕石」は探知できてもこのレベルの大きさの隕石は探知できないという。北朝鮮の核・ミサイル実験ですら、事前にイージス艦やPAC3を配備する時間的余裕があったが、隕石落下にはその時間もない。

 「何処に落ちるか分からない」という点で、隕石は人類共通の脅威と言える。映画のように宇宙の果てに宇宙船を派遣して破壊措置を取るのは夢物語としても、警報システムなどは検討されてよい。技術的に見ても、弾道ミサイル探知技術や偵察衛星の技術など、日本の安全を高めるに理のある技術開発も少なくない筈だ。

 また、46億年前に地球を作ったのは隕石であった。今回隕石の破片が広範囲に渡って散乱しているという報道があるが、この隕石の破片から新たな科学的データが得られることになろう。自然科学の面からも、大いに注目されることになるのではないか。

               

2013年2月15日 (金)

またも北朝鮮が核実験

ファイル:WMD world map.svg

 ミサイル発射実験に引き続き、またも北朝鮮が核実験を実施した。世界中から非難され、同盟国である筈の中国からも止められていたにもかかわらず実験を強行した背景には、やはり「三代将軍」の意地があったのだろう。

 北朝鮮が「異常な国家」だということは衆目一致したところであるが、この国は金正恩という世襲将軍のみ継承と維持が可能な状態にある。そして、軍の忠誠心を高めるためには瀬戸際外交を続けるしかない。ミサイル実験や核実験は、北朝鮮の現体制を維持するためのいわば「内向き」のものと思われる。実際に「ソウルや東京を火の海に」できるとはまさか北朝鮮首脳部も思っていないだろう。日本がやるかはともかく、韓国はいざと言うときに備えて巡航ミサイルを配備し北朝鮮に対する反撃の準備を着々と整えている。

 北朝鮮の暴走は、日本中国韓国と言った周辺諸国が政権交代・世代交代を迎えて身動きが取り辛い状態を狙い、有利な立ち位置を占めるために計画的に行っているものと思われる。韓国の新大統領就任はこれからだし、中国も胡錦濤体勢から習近平体制に完全には移行できていない。安倍政権は動き始めているが、安倍総理がもともと持っていた対外強硬策を財界と公明党の反対を押し切ってまで貫けるかどうかは未知数だ。

 日本が対抗措置・制裁に対して主導的な役割を果たすことができなければ、北朝鮮を実質的に野放しにすることにもなりかねない。日本の主体的な動きが注目されていると言える。

2013年2月13日 (水)

ローマ教皇ベネディクトス16世が退位へ

                     ベネディクト16世

 2月11日の報道で、ローマ教皇ベネデイクトス16世が2月28日をもって退位する意向であることが伝えられた。この報道には驚いた人が多かっただろう。私自身、最初は何かのネタだと思った。

 何しろ、教皇の自発的退位は制度としては教会法上に規定があるものの、実際に引きずりおろされず「自発的」に退位した教皇となると1294年に退位したケレスティヌス5世まで遡るのである。しかも、ケレスティヌス5世はいわば「嫌々ながら教皇にされた」人であり、長らく法王庁の中心に座り続け自らを選出したコンクラーベに首席枢機卿として出席していたベネディクト16世とは明らかに就任時からやる気は異なるものだった。

 ベネディクト16世は就任時78歳という高齢であったが、それでも保守派の代表格として「やる気」は十分にあった。価値相対化していた典礼や儀式などで、いくつかの復古的な傾向を示す一方、ヨハネ・パウロ2世から続いてきた他宗教との対話は継続して行い、コンスタンティノープル総主教とは歴史的な奉神礼を共にしている。としても、やはり86歳では寄る年波には勝てないと自ら感じたのであろう。

 一般的に教皇が死去すると「使徒座空位」となり、次の教皇を選ぶコンクラーベが行われる。教皇退位の際も「使徒座空位」となり、その上でコンクラーベが行われる流れは変わらないようで、後任教皇が選出されるまで教皇としての職務を続けるというものではないらしい。

 一方で、懸念すべき問題もある。教皇は古代以来「痴情における神の代理人」とされ、「教皇無謬説」まであるくらいの絶大な影響力を持ってきた。一般信徒や司祭どころか、枢機卿団ですら望めば総入れ替えするくらいのこともできた。皇帝や王と言った聖俗の絶対君主を破門で締め上げたことは「カノッサの屈辱」に代表される。しかし、後継者を指名することだけは絶対に許されてこなかった。しかし、生前退位は場合によっては退位時に意向を示すようなことで実質的に後継者を指名してしまう、或いは後継者を指名するコンクラーベに影響力を行使するということにもなりかねず、そうなれば古代以来積み重ねられてきた教皇選出のシステムがひっくり返ってしまうことになる。 

 ベネディクト16世は教義的には保守的な思考の持ち主で、人工妊娠中絶や避妊を禁止する姿勢を堅持し、クリスマスも「商業主義的だ」と批判していた。かといって、日本でクリスマスから商業主義を除いてしまったらクリスマスは復活祭や謝肉祭と同じくらいの知名度になってしまい、日本人のほとんどが意識しない日になってしまうだろうが、良くも悪くもこうした生真面目さがベネディクト16世の特色であった。しかし、こうした姿勢を今後カトリック教会が貫けるかは未知数だ。むしろ、神の道を説き続ける一方で社会とのかい離を招く恐れすらある。コンクラーベはこれからだが、保守派と改革派の間で綱引きが行われるであろうことは想像に難くない。

 また、カトリックの教義以外にも教皇が南米から選ばれる可能性も取りざたされている。教皇に選ばれる権利があるのはコンクラーベに参加できる80歳以下の枢機卿だけで、枢機卿自体は今も圧倒的にヨーロッパ出身者が多数を占めている。としても、ヨーロッパは近代化によって正教分離がなされ、かつて聖職者の供給源であった中流階級以上の次男三男は少子化によって減ってしまった。今や、カトリック教徒の「多数派」は南米であるので、南米地域の出身者が教皇に選ばれるのは何の不思議もない。しかし、南米のカトリックはある程度現地の伝統宗教からの影響も受けている。ベネディクト16世は復古的に典礼をラテン語で行うことを推進してきたが、これとは真逆の考え方だ。

 ヨハネ・パウロ2世帰天の後のコンクラーベはもちろん日本でも報道されはしたが、丁度郵政民営化のバカ騒ぎの最中であったため、大きな注目はされなかった。ヨハネ・パウロ2世の葬儀には各国とも元首クラスや首相が出席したが、日本からは格式としても政治的影響力からしても問題にならない川口首相補佐官が出席したのみだった。いささか、日本は「伝統」を声高に叫ぶ割には、カトリックという伝統ある巨大組織の持つ影響力を重要とは考えていないのではないかと疑わざるを得ない。

 先のコンクラーベには日本人枢機卿として浜尾枢機卿と白柳枢機卿の二人が参加していた。このうち、浜尾枢機卿は華族出身で今上天皇にラテン語を教授した人物でもある。が、二人とも帰天しその後は日本人枢機卿が任命されていないので、今回のコンクラーベには日本人枢機卿は参加しないことになる。

 様々な問題を抱えながら、どのような人物を新教皇に選出するのか、ローマ教皇の影響力は単に12億人の信者を統括する以上の絶大なものがあるだけに、バチカンの動きから目が離せない。

2013年2月11日 (月)

建国記念の日

                

 今日は建国記念日である。ただし、アメリカや中国など最近になってから政府を作った国と異なり、日本の建国記念日はあくまでも神話上のものに過ぎない。紀元前660年2月11日に神武天皇が即位した日とされている。

 「建国神話」は多くの国家・民族で今なお語り継がれている。例えば、ローマの建国神話ではロムルスが都市国家としてのローマを建国したのは紀元前753年4月21日とされている。古代ローマ時代には、この4月21日が建国記念日として盛大に祝われ、今もローマ市ではイベントになっていはいるが、古代ローマと現在のイタリアは何度もその間に断絶を経験している。現在のイタリア共和国の建国記念日は1946年6月2日だ。

 一方、建国神話を延々と引き継いでこれた我が国は侵略を受けるなどして政府が転覆されて支配階層が一度も雲散霧消していないという点で幸運なものだった。世界的に見ても、稀有な存在だと言えるのではなかろうか。

2013年2月10日 (日)

新年快楽 吉祥如意

 今日は春節、日本でいうところの旧正月の元旦にあたる。日本では太陽暦の正月を祝うのが一般的だが、中国台湾を含めて東アジア諸国では春節のこの日を正月として祝う国も多い。

 東アジア情勢は未だに混沌としている。経済的には発展を続けているとは言え、民主化はなかなか進んでおらず、制度的には民主化された国もポピュリズムに走り政治が混迷を極めていることが珍しくない。また、軍事的対立が続いていることも確かだ。

 伝統的な新しい年の始まりにあたり、ご多幸をお祈りしたい。

2013年2月 9日 (土)

今度はロシア空軍機が領空侵犯

 東シナ海で中国艦艇から護衛艦が射撃レーダーの照射を受けて大騒ぎしていたところ、今度はロシア空軍機の領空侵犯事件が発生し、航空自衛隊がスクランブルをかけるという騒ぎが起きた。

 残念ながら、「国際法」は違反行為に対して救済を申し立てることはできないことはないが、それを守らせる強制力は各国家に委ねられているというのが実情だ。力がなければ「やられっぱなし」にならざるを得ない。この厳然たる事実に苦しんできたのが、他ならぬ中国と韓国であった。彼らにしてみれば、かつて自国にやられたことと同じことを日本に対してやっているだけの認識ではなかろうか。

 外交・安全保障は民主党政権で大幅に弱体化した感があるが、自民党が政権に復帰しても実態はあまり変わっていないように思われる。確かに、防衛予算の増額はある程度実現したが、それ以外の安全保障を確保する組織づくり制度作りは実質的に手つかずのままだ。また、外交面でも国内向けのPRは別にして強硬姿勢は控えられる傾向にある。自民党政権になったとしても、支援を受けている財界と連立を組む公明党の意向は無視できないのであろう。

 日本周辺の諸外国が一気に日本に対して厳しい姿勢を取り始め、日本の政権交代後もそれが続いている。民主党政権と自公政権で「大きな違いはない」と見たからこそ、強硬姿勢を継続しているのではないか。だとすれば、日本の今後もいばらの道とならざるを得ない。「強い日本」というのも幻想でしかなかったということになる。

2013年2月 7日 (木)

中国艦艇射撃レーダー照射事件

 トム・クルーズ主演で大ヒットした映画「トップ・ガン」の冒頭で、主人公の僚機が「ミグ」にレーダーでロックされるシーンがある。今から見ると「冷戦時代」の緊迫感を感じさせる内容の映画そのものなのだが、日本近海で起きていることはこの映画の冒頭シーンを髣髴とさせるものだった。北東アジアでは、冷戦はまだ集結していないと考えるべきだろう。

 尖閣諸島周辺で哨戒中の海上自衛隊の護衛艦に対し、中国海軍の艦艇(フリゲイトと報じられている)が射撃用レーダーを照射したことが報じられた。レーダーでロックすることは発砲したときに正確に目標に命中させることができることを示すもので、これは中国海軍側の「威嚇射撃」と考えて差支えないのではないか。無論、威嚇でも実際に砲やミサイルを発射すると後々面倒だから、射撃レーダー照射と言う手を使ったのだろう。

 普通の国ならレーダー照射を受ければレーダー照射をやり返すだろうし、アメリカなら「自らへの攻撃と判断して反撃する」だろうが、日本ではそれは「ない」と見て中国側もこのようなことをやらかしたと思われるが、これを容認してしまえば「中国のやりたい放題」を容認することになりかねない。いつ攻撃されるか分からないのでは、出動する自衛官や海上保安官もたまるまい。

 言うまでもなく、与党でも公明党は親中政党であり、公明党に恩義のある自民党としては対中強硬政策を進めるのは簡単ではない。日本政府が「身動きできない」状態にあるうちに、中国としては既成事実を積み重ねておきたい意図があるものと思われる。日本政府は窮地にあるが、ここで相応の対応をしなければ、ますます日本は転落の道を歩むことになるのは必至であろう。

2013年2月 5日 (火)

体育に体罰はつきものなのか?

 大阪で体罰を原因として自殺者を出した高校は普通科ではなく体育科であった。そして、オリンピック女子柔道の監督が選手に体罰を加えていたことが集団告発によって発覚し、辞任に追い込まれている。体罰関係の告発で目に付くのは、明らかに運動部を含む体育会系の組織で体罰が長年黙認されてきたこと、及び体罰によって成長したと主張する者が多いことだ。

 もし「競争心」を「体罰」によって植えつけることができる、或いは「体罰」が「懲戒」であるならば、当然ながら文科系の部活でも大々的に行われたことが糾弾されてもいい筈だ。確かに、体罰として告発されるのは体育会系ばかりではないし部活関係だけでもないのだが、それにしても明らかに体育会系の比重が重いことは明らかに異常である。

 我が国では体育会系を尊重する気風が強く、体罰と言う名の暴力が問題視されない温床となってきたことは否定し難い。また、こうした気風は就職活動で「優遇」される体育会系とともに企業社会にも持ち込まれ、過労死や過労自殺の苗床ともなってきた。実際、過労死や過労自殺が争われた事件の事実関係を読むと、過労自殺のリーディングケースとなった電通事件など体育会系的な気質の組織が問題を起こす傾向が顕著に見られる。

 体育会系の組織や指導者の精神構造に重大な欠陥があるのではないかと考えているのは私だけではないのではないか。これを苦い教訓として、一過性の事件に終わらせるのではなく、こうした問題を長年黙認或いは放置してきた我が国の社会構造そのものについても見直す必要がある。加害者を処罰したり損害賠償請求だけで済ませるような程度の問題ではない。

2013年2月 3日 (日)

在トルコ米国大使館爆弾テロ事件

 トルコの米国大使館で爆弾テロが発生し、トルコ人の警備員が死亡する事件が起きた。いつものイスラム原理主義勢力による自爆テロかと思ったが、左翼過激派である「革命人民解放戦線」の犯行であるという。この団体は極端な反米欧・反資本主義を掲げているが、現状に不満を持つ若者の支持も集めていたという。

 エルドアン政権のもとトルコ経済は上向きだが、やはり恩恵はトルコ西部と都市部に集まり、東部アナトリアと農村部はなかなか恩恵に与れない。この構図はトルコ革命後にムスタファ・ケマル大統領指導の下でトルコが近代化に進んだ時と同じ構図だ。この時に近代化の恩恵を受けられなかった人々は多く、これらが1960年代以降にトルコの世俗主義が緩和されるとイスラム系政党の支持基盤となり、現在のイスラム系政党である公正発展党政権につながっている。

 何処の国でもそうだが、経済が上向いているという数字が出ていても、国民に広く恩恵が行き渡っているとは限らない。いくら「自己責任」「自助努力」を吹き込んでも、それを敗残者が理屈の上では納得していても、不満というものは簡単には消えるものではない。トルコの経済は順調に発展しているが、取り残される者たちが不満を抱くのはもっともな話であり、過激派が付け込む隙は十分にある。まして、イスラムは本質的に「富の再分配」を行ってきた組織であり、不公正発展に対するイスラムの怒りと結びつく親和性は十分にある。

 トルコが左翼革命やイスラム革命によって転覆される可能性は少ないものの、「富の不平等」に対する不満が噴出しつつあるのは事実だ。そして、イラン等「イスラム革命」は名目上はイスラムの怒りだが、その背後には欧米資本に経済を牛耳られ富の偏在が続くことに対する不満があった。現在の「イスラム原理主義勢力」伸長の苗床になってきたのも、単なる宗教上の「不信心者」ではなく富の不平等に対する不満であった。

 もともと、現在の公正発展党政権は富の偏在に対する不満を背景にして成立した政権と言える。この問題にどう取り組むか、エルドアン政権の大きな課題と言えるのではないか。

2013年2月 1日 (金)

韓国がロケット打ち上げに成功

 韓国が初の人工衛星搭載ロケット「羅老」の打ち上げに成功した。今や韓国製品は世界中で使われており「技術国家」としてはいささか遅い感もあり、実際にはヨーロッパや日本の技術を導入してようやく打ち上げに成功したと言われているが、少なくとも韓国が宇宙開発の分野で歩を進めたことは確かだ。衛星打ち上げビジネスはアメリカ、ロシア、ヨーロッパに続いて日本もH2Aロケットで参入を進めているところだが、韓国が国ぐるみでバックアップして衛星打ち上げビジネスに参入してくる日が来るかもしれない。

 ロケット技術はそのままミサイル技術につながる。もともと、ロケットと大陸間弾道ミサイルは共通の祖先から進化した「双子」と言うべき存在であり、だからこそ北朝鮮が「ロケット」と言い張ってもミサイル実験として警戒せざるを得ないわけだが、これで韓国も弾道ミサイルとは無縁の国ではないということになった。既に巡航ミサイルや対空ミサイルの開発実績もあり、大々的に世界中にセールスしている国である。さすがに「大量破壊兵器」扱いされる弾道ミサイルをセールスして歩くような真似はしないだろうが、武器開発の面でも技術力をPRする機会にはなる。

 今回の発射にあたってはロシアから技術者を招いて開発にあたっている。まだまだ消化して「自国の技術」にするには時間がかかるだろうが、ともかくも自国開発のロケットを打ち上げることができるようになったという政治的意義は大きいと言えるのではないか。

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