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2013年1月

2013年1月31日 (木)

国家安全・治安部門の人員増強は急務である

 自民党が政権に復帰して初の予算編成が行われた。色々な意見があるところだが、国家安全・治安部門の予算増強は素直に評価して良いのではないか。

 特に防衛関係の予算はここ十年来圧縮措置が取られてきた。このため、組織の「高齢化」や海外派兵に伴う人員配置に無理が生じ、特に国内部隊の負担が増えていた。自衛隊関係の自殺やハラスメントなどの事件は、こうした負担と無関係とは言えまい。厳密には自衛隊関係の予算を減らしてきたのは従来の民主党政権ではなくその前の自民党政権時代からなのだが、海上保安庁関係の人員拡充も含め、従来の「人をとにかく減らせ」の資政から方針を転換したことは評価されてよい。

 もっとも、人員増強は急務だが、単に予算を増やしたからと言ってただちに問題が解消されるわけではないことは頭に入れておく必要がある。一般企業でもそうだが、新人は教育しなければ使い物にならない。その教育は机上の教育と現場の教育の双方を施す必要がある。つまり、いきなり人員拡充したとしても「即戦力」などということはありえないばかりか、現在の隊員に新人教育と言う負担が増えることになる。そして、使い物にするためには一定の時間も必要だし、相応に雇用の見通しが立たなければならない。教育が終わって一人前になった頃には予算削減でお辞めいただくというようなことになっては、資源の無駄遣いのみならず士気も落とすことになる。

 アメリカでは「冷戦終結の対価」を求めた結果、冷戦後に大幅な軍備縮小が行われた。この過程で専門家が軍外に流出し、「民間警備会社」など傭兵まがいの組織が生まれ、紛争情勢を更に複雑なものにしている。仮想敵国にノウハウが流れていないとも限らない。

 また、先のアルジェリア人質事件でもそうだったが、自国民を守るためのどのような行動ができるかは、国際法・国際政治の詳細な分析と検討が必要であり、銃を持って戦う兵士を増やすだけでは駄目である。我が国は明治期はともかくとして、現在では国際法は大学や大学院でも「日陰」の分野になってしまっており、学んでいる者は少ない。私は大学院時代に国際法を学んだことがあるが、知的財産法や破産法などに比べて閑古鳥が鳴いていた。人員拡充をするならば、こうした理論面でのバックアップを行う人材も登用する必要がある。

 国家安全・治安部門の人員増強は急務である。同時に、単に頭数だけ増やすのではなく、総合的に組織の能力を向上させることをしなければ、国家に対して何の意味ももたたらさないものになるのではないか。

2013年1月29日 (火)

本当に52名だけか?

 愛知県教育委員会は体罰について調査を行い、県立高校では今年度52名の教員が体罰を行っていたことを明らかにした。この数を多いか少ないかと捉え方は人それぞれだろうが、私は氷山の一角ではないかと思えてならない。

 愛知県はかつて「管理教育のメッカ」と言われていたものだ。この言葉自体、労務管理を専門とする者として言わせてもらえば「管理」の名に値せず、メッカと言うのはムスリムに対する侮辱ではないかと考えるが、それはともかくとして後遺症は未だに残っているのではないか。全般的に自由になってきたとは言っても、依然としてトップレベルの偏差値を誇る進学校は自由でもそれ以外では制約が多いし、県立と名古屋市立との差異もある。

 私は偏差値で言えば極めて下位校の出身だった。ゆえに、締め付けは厳しかった。真面目に守ろうとしたが、今もその後遺症から心理的に完全に立ち直ったとは言い難いものがある。一方で、大学と大学院で私は愛知を離れていたが、ここで他の都道府県出身者や愛知県でも進学校出身者と接する機会を持って、その余りの格差に愕然としたものだ。青春時代に締め付け教育を受けるか、そうでない教育を受けるかは、その後の人格形成にきわめて大きな影響を与える。

 私が中高生の頃は既に体罰は表面上はなくなっていたが、それでも運動部では体罰なり暴言なりが行われているという噂は常にあったし、学校の体質が学生生徒を個人として尊重するよりも集団の規律を重んじ総じて威圧的であったことは否定し難い。体罰は「肉体に与える罰」というよりは、むしろ指導者のコミュニケーション能力不足から口頭や書面や態度による訓戒ができず有形力の行使に出るものと言えるから、いくら通達で禁止したとしても教員や風土も変わらなければ根絶できるものではなかろう。愛知県はもともと地元志向が強いから、教員になるのもまた愛知以外の地を知らない「管理教育の優等生」であったものが多かったように感じられる。逆に言えば、私自身の視野を広げ成長の機会を与えてくださった中学時代の森先生と高校時代の谷口先生は、ともにこうした教員養成の枠外から教員になられた方であった。この点では私はかなり運が良かったと言うしかない。

 小学校の頃は体罰がまだまかり通っていた時代であったが、今から思い返すと明らかにコミュニケーション能力未熟な教員ほど体罰に訴えていた記憶がある。まして、その体罰の基準にしてもデュープロセスすなわち悪事に対して適正手続きを踏んだうえでの懲戒行為ではなく、短絡的にいい悪いを決めつけて懲罰を与えるきわめて恣意的なものであった。私は日本人の法意識のレベルが人権保障上危険だと考えているが、このあたりが原体験である。

 県立高校でも氷山の一角と思うが、公立中学校や小学校ではこんな数ではないのではないか。加えて、愛知県は他の都道府県に比して体罰を 肯定する者が一般にも多いように思われる。もともと、体罰を伴う環境下で育ち地元志向が強い中でそのまま愛知で親になるのだから無理もないのかもしれないが、親の側が体罰を肯定してしまえば追い込まれる子供の側としては家庭にすら逃げ場がなくなる。思えば、いじめの自殺が多かったのも愛知県だが、これも教員側が威圧や暴力と言う方法を取り、子供がまともなコミュニケーションを磨く機会を失い短絡的な暴力に走った結果とも考えられ、無縁とは思われない。

 大阪での自殺から体罰の問題がクローズアップされているが、体罰やいじめというコミュニケーション能力の欠落した社会を取り巻く問題は短期間騒いだから解消するというものではない。体罰を行う教員やいじめを行う子供たちは、ある意味では不完全な教育の犠牲者と言える。長期的な体質改善を行っていくことが必要だ。一過性に終わらせては、また同じ事件を忘れた頃に引き起こすことになるだろう。

2013年1月27日 (日)

公務員の駆込退職は非難に値するのか

 各地で教員を含む公務員の退職金削減がはじまるのを前に、駆込み退職が相次いでいることが問題になっている。学級担任を持つ教員までが退職する事態となり、こうした欠員に対しては非正規の教員を臨時採用して充てるそうだ。こうした駆込み退職について、非難の声が挙がっている。自民党の片山さつき参議院議員などは「公務員の矜持はどうしたのか」などと痛烈な非難を浴びせている。たしかに、担任教員が年の途中で交代するのは子供にとっては問題が多いことは事実だ。

 一方で、公務員の側にも言い分があろう。公務員は特権階級だと思われがちだが、現在退職の時期を迎えている公務員は好景気の時代には民間に比べて決して高い報酬を得ていたわけではなく、公務員であることを馬鹿にされることも少なくなかったという。また、「天下り」を繰り返して退職金をたんまりせしめることができる公務員などたかが知れており、大多数は退職金と年金で老後を過ごすことになる。そうした人々が一転して特権階級だと非難されるようになった。退職金が削減されるのは退職後の生活にも大きな影響を与えるものであり、公務員といえども生活者である以上、一方的に矜持が足りない云々と非難することはいかがなものであろうか。

 そもそも、「官吏減俸」は昭和時代から行われてきたことだが、それで財政が好転することもなければ公務員の士気が上がることもなかった。むしろ、官僚組織を組織防衛に走らせるだけの結果に終わったとさえ言える。最近叫ばれている公務員の待遇切り下げも、同じような結果に終わるのではないか。どんな世界でもそうだが、使命感をいくら植えつけようとしても待遇の悪化まで受容するよう「洗脳」するのは非常に困難なことだ。

2013年1月25日 (金)

海外居留民を「棄民」にするな

 パレスチナが国連にオブザーバー参加するにあたり、イスラエルはもちろん反対したし、アメリカも議場の「パレスチナ国」の表記に不快感を示している。建国以来戦争ばかり続けてきたのがイスラエルという国なのだが、ユダヤ人はイスラエル建国まで二千年余に渡って自分の国というものを持たなかった。ディアスボラの中で、彼らは自分たちを庇護してくれる国を持たない悲哀というものを骨の髄まで味わった筈である。イスラエルが生存し続けているのは、まさにその恐怖心の裏返しと言っても過言ではない。

 イスラエルは自国を守るためには先制攻撃すら躊躇わない国で、イラク原子炉破壊作戦などは有名だが、この他にもハイジャックされた機の自国民救出のためにウガンダまで長躯特殊部隊を派遣して救出作戦まで行っている。ちなみに、このエンテベ空港奇襲作戦の指揮官として戦死したヨナタン・ネタニヤフ中佐はベニヤミン・ネタニヤフ首相の兄にあたる人物である。

 イスラエルは人口たった700万人という愛知県程度の人口しか持たない国だが、建国の経緯や人口の少なさなどもあって、自国民保護に対しての強硬姿勢は建国以来一貫している。

 今回のアルジェリアにおける人質事件において、日本人の犠牲者も多数出た。一方で、日本政府は最後まで「打つ手なし」の状態であった。イスラエルとはあまりにも対照的な態度である。これでは、海外居留民は自分たちが「棄民」にされていると感じても仕方がないのではないか。

2013年1月23日 (水)

オバマ大統領二期目就任式

 先のアメリカ大統領選挙で再選を果たしたオバマ大統領の二期目の就任式が行われた。深夜にもかかわらずテレビ中継に多くの日本国民までもが熱中した一期目の就任式の熱気は今は全く感じられないが、それでも大国アメリカを四年間牽引するのは引き続いてこの男となる。

 二期目の就任演説では、正直「ここまで言うとは・・・」という言葉が次々と飛び出した。格差是正や同性愛者の権利保障など、いずれもリベラル色が非常に強い。オバマ大統領の一期目は共和党主導の議会に足を引っ張られる形でなかなか上手くいかなかったが、二期目に臨む現在でも議会の状態はあまり変わっておらず、これは対決姿勢を鮮明に打ち出して強行突破を図るつもりではないかとも思えてくる。何しろ、共和党の姿勢は人によっても差があるものの、おおむね「政府介入を抑制」し「小さな政府」により「市場競争に委ね」「敗者自己責任」である。中産階級の復活を掲げるとうことは、それだけでも共和党の多数派を刺激せずには済むまい。中産階級復活のために政府が主導的に動くこと自体、共和党にとっては「無駄なこと」であり糾弾の対象になるだろう。

 また、アメリカで根強い勢力を持つキリスト教保守派、これは共和党の地盤でもあるのだが、同性愛者の権利保障はキリスト教保守派にとって看過し難い問題である。聖書にある「あなたは女と寝るように男と寝てはならない」という規定を重視し、同性愛者に対して権利保障するどころかむしろ差別的取扱いすら求めている。さすがに聖書通「同性愛者を死刑にする法律」の制定を求めているという話までは聞いたことがないが、オバマ大統領の発言が「神を冒涜している」と取られる可能性は高い。

 保守派との対決姿勢を鮮明に打ち出したことで、オバマ大統領としては世論に訴えて議会の流れを変えようという考え方があるのではないか。としても、アメリカは日本と同じく都市部はリベラルで田舎は保守的であるが、その差は日本とは比較にならないほど大きいものだ。未だに「天地創造」が信じられ「進化論」が否定されている地域があり、中には地球が太陽の周りを回っていることや球体であることすら否定している人々すらいるのである。そうした思考パターンは日本の田舎の頑固おやじの比ではない。これに宗教的なバックボーンまで加わるのだから、地獄に行きたくなければ引くに引けなくなる。

 日本にとって注意しなければならないのは、オバマ大統領が大切に思っている「中間層」はあくまでアメリカ国民としてのそれであって、日本で崩壊の途上にある「中間層」は考慮の対象ではないということだ。必然的に、日本から譲歩を引き出すことには執着することになるだろう。限られたパイを奪い合う以上、アメリカで雇傭を増やすために日本で雇傭を減らすような手を使うことも自国中心と言う考えからは正当化される。思えば、あの「年次改革要望書」も民主党のクリントン政権の時代からはじまったものだ。これからのアメリカの「要求」に注視していく必要がある。

2013年1月21日 (月)

アルジェリア人質事件

 アルジェリアでイスラム過激派による人質事件が発生し、アルジェリア政府は実力での解決に動いた。その間、日本政府は「平和的解決」を唱えるだけで、実質的に何もすることができなかった。この間の日本政府の動きを見ていて、かつてのペルー日本大使館人質事件を思い出した者も多かったのではないか。あの時も日本政府は「平和的解決」を求めるだけで、事件の最終解決は当時のアルベルト・フジモリ大統領が特殊部隊の投入を決め、実力によって成し遂げられた。

 自衛隊を派遣して実力で人質解放と言うのも選択肢にあってしかるべきであった。実際には、他国の領土内で自衛隊を行動させるというのは相手国の同意も必要であり、これは相手国にとっては一種の屈辱だから簡単にはいくまい。それでも、「選択肢としてある」ということは「打つ手なし」よりは大きな違いがある。

 現行法では、日本人を自衛隊の航空機や船舶で日本まで連れて帰ることはできるが、人質を実力で開放することまでは想定していない。法改正の議論が起きるのは当然の事であろう。

2013年1月19日 (土)

鳩山元総理大陸謝罪之旅

 政界引退した鳩山元総理が中国を訪問し、その言動が波紋を広げている。総理在任当時からアメリカでは頭のおかしい人と評されていたが、ますます酷くなるばかりだ。

 尖閣諸島に関しては「領土問題になっている」という中国政府の主張を受け入れろと表明し、南京大虐殺記念館にも事実上の贖罪に訪れた。中国政府も中国メディアも絶賛するのは当たり前だが、これでは中国の「いいなり」でしかない。

 鳩山元総理は相手に寛容になれば自分にも返ってくると思っているのかもしれないが、一般社会はもとより国と国との関係でもそういうことはあり得ない。むしろ、寛容さに付け込まれるのがオチというものである。私は人がいいからか色々と負担を引き受けては損ばかりしていることで周囲に半ば呆れられ半ば馬鹿にされることが多々ある。しかし、損をするのは自分自身であるし、仕方がないと諦めもつく。しかし、鳩山元総理は日本に損をさせ、日本を危険に晒しているのである。明らかに、自分で不利益を甘受するという範囲を超えてしまっており、これはもうどうしようもない。

 先にイラン訪問する際も、当時与党であった民主党内部からも懸念の声があった。今回の中国の旅は更に批判を招きそうだ。こうなってくると、鳩山政権当時の中国べったりの政策も、何かウラがあったのではないかと疑われても仕方がないのではないか。これはもう日本の政治家としては異常だ。

2013年1月17日 (木)

何故労働者は自ら会社を辞めるのか

 雇用状況は二十年余に渡り厳しさを増すばかりだ。解雇規制が緩和されるという話はあちこちでささやかれているし、解雇規制が緩和されずとも短期契約を更新しながら働く非正規労働者を使用者側が切るのは解雇によらずとも契約期間満了後に更新しないという方法で比較的簡単に可能だ。更新を繰り返したことで期間の定めのない労働契約になった云々というのは教室の中でならばともかく、現場でお目にかかることはまずない。

 「切られる」労働者は多いが、一方で自ら辞めていく労働者も少なくない。そして、その中には単に新しい仕事が見つかったとか、仕事が嫌になったというだけでない辞め方をしている労働者も多い。じっくり研究してみると、表面上に数字で表れる賃金等の労働条件以外にも、職場における存在意義や価値というものが相応の重さを占めているように思われる。即ち、多少賃金面で優遇されようが、職場において空気のような存在にされてしまうということは、それだけで自己の存在意義を見失うには十分であって、離職のリスクは確実に高まる。

 「外部労働市場」という言葉とともに、人までも看板方式になってきている今日、非正規労働者はもとより正規労働者であっても数合わせの意味しか持たなくなることは珍しくない。これでは、自己の存在意義を職場で見出すのは容易なことではなくなる。逆に言えば、存在意義を見出させれば、それは定着やモラールの向上につながるということだ。

 しかしながら、これを実務の世界で行うのは簡単ではない。何故なら、経営幹部になればなるほど、個々の労働者との接触は少なくなり、上がって来るのは「数字」だけになる。顔が見えない以上、労働者を「透明な存在」として捉えてしまうのは簡単で、常に自覚しておかないと表面上の数字に一喜一憂することになる。かくして、人を数字扱いする職場が生み出される。

 人は物ではなく労働は商品ではない。人が働くというのは、単に賃金を得るのみならず人生の上で何らかの意義を見出したがるものである。これは甘い考えではない。戦後の日本企業は、職場を労働者の自己実現・存在意義を見出す場の如く提供し、それによって大きな成果を引き出してきたのである。例えばQC等は欧米ではできなかったことだ。しかし、そうした労働者の人間としての尊厳や矜持に目を向けなくなれば、労働者の側も反応してはくれなくなる。

 職場において「透明な存在」となってしまった労働者にとって、離職のハードルは低くなる。経営側としては色々な価値観があるだろうが、有る程度労働者を定着させ資質を引き出し投じた資金以上の勝ちを引き出そうとすれば、使い捨てと言うのは得策ではない。「当たり前」のことから考えていく必要がある。

2013年1月15日 (火)

「レ・ミゼラブル」

                  

 映画「レ・ミゼラブル」を観た。この映画は同名のミュージカルを映画にしたものなのだが、舞台上で再現できないようなシーンも多く盛り込まれており、ミュージカルの世界をも損なわないようにしながら迫力ある作品に仕上げている。

 「レ・ミゼラブル」の舞台は2008年に当時国際戦略研究センターにおられた若林秀樹さんを訪ねてワシントンを訪れた時に野外劇場で一度見ただけだが、原作自体は小学校の頃から読んでいる。ただし、はじめて開いた小学校3年生くらいのときには内容がサッパリ分からず途中で投げ出した。歴史に興味を持ち「レ・ミゼラブル」の世界観を理解できるようになった小学校高学年の頃にじっくり読んで、その内容の奥深さに面白みを感じた記憶がある。

 私は当時から今に至るまでジャベール警部に親しみと言うか親近感を感じてきた。法と職務に忠実であろうとするが、最期には職務と情の狭間で自己の存在意義を失って自殺する姿は作品の中で冷酷な人物として描かれてきただけにむしろ人間臭いところが感じられる。少なくともジャベールのような人材がいなければ法の支配は成り立たない。映画ではラッセル・クロウが演じ、これはもう原作のジャベール警部そのもののイメージ通りだった。

 としても、やはり「レ・ミゼラブル」で重要なのはミリエル司教だろう。19年を牢獄で過ごし、「人を信じる」「人から信じられる」という感情を喪っていたジャン・バルジャンの罪を「赦す」ことで実のなる種をジャン・バルジャンの中に撒いた人物である。司教の慈悲の心がなければ、ジャン・バルジャンはあの後も犯罪を繰り返すだけの男のままであったろう。映画のラストシーンでミリエル司教が登場するシーンは感動的である。ジャン・バルジャンの「お迎え」にはフアンテイーヌも登場するのだが、迎えに来るのはミリエル司教だけにしておいたほうがジャン・バルジャンが必死に司教の慈悲と神の正義を実践しようとした生き方に対する解釈としては適切ではなかったかと思う。

 それにしても、改めてこうして観てみると「レ・ミゼラブル」の世界は決して現代社会と隔絶した時代の話ではない。作品の時代はナポレオンが敗れ去ってフランスに王政が復活した頃で、立憲君主制の元で従来の支配階級であった貴族に代わって経済力をつけた市民階級が台頭した時代であった。としても、これは今でいう「中産階級」とイコールではない。都市のブルジョワジーだから「資本家」と言うべきで、中の下の人々は革命の後も「レ・ミゼラブル」であった。革命で掲げられた「自由」にしても強者のやりたい放題を容認する自由でしかなかったのがこの時代である。マリウスらが「革命」をやろうとしていたのも、このあたりに原因がある。

 ただし、19世紀のあの時代は君主や国家権力からの「自由」を得るだけでも大きな犠牲が必要であった。それ以上の社会権や生存権は20世紀にならなければ多くの先進国ですら実現できなかったし、発展途上国では19世紀並みの自由権すら確保できでいない国も珍しくない。

2013年1月13日 (日)

蒋経国総統死去から25年

                 

 民主化の過程で混乱はつきものだ。 

                                      蒋経国(中華民国総統)

                                      (1910年4月27日~1988年1月13日)

 今日は台湾の蒋経国総統が死去してから25年にあたる。同時に、李登輝副総統が憲法の規定に従い国家元首の地位を引き継ぎ台湾生まれとして初の中華民国総統となった。

 日本では蒋経国総統の知名度は極めて低い。私にとってはトルコのムスタファ・ケマル大統領と並んで尊敬する政治家なのだが、台湾・中国に詳しい人以外で蒋経国総統の名前だけでも知っている人にはほとんど会ったことがない。蒋介石総統と李登輝総統はともに日本留学組で日本との関わりが深かったから日本でも知名度は高いが、蒋経国総統は数回訪日しただけで日本との接点はこれといったものはなかった。総統在任期間がちょうど日本との国交も断絶して日本自体が大陸に向いていた時期でもあった。こうしたことも、日本で極端に知名度の低い原因だろう。

 蒋経国総統の経歴自体、非常に複雑で矛盾しているように見える。蒋介石の長男として生まれるが、父親の反共政策に反発してソ連に留学し、共産党にまで入党している。帰国後は一応父親と和解して父の権力を支え後継者となるが、最終的にはそうした世襲・権威主義体制を自らの手で終わらせた。

 蒋経国総統の事績は台湾の歴史の上では大変重要なものである。「台湾を強国にした男」と言っても過言ではない。蒋介石総統の長男として生まれ、若き日には父親に反発してソ連に留学して共産党員となり、帰国後は父親と和解して父の権力を支え、後継者となった後は権威主義体制と権力の世襲を自らの手で終わらせて民主化への道筋を付けた。台湾の高度成長進める政策を推進したことで、台湾は実質的には先進国となった。最近は中国の経済に押されて斜陽気味ではあるものの、台湾経済は決して弱くない。

 台湾の経済発展は蒋経国総統の時代と重なるが、民主化については段階的な選挙の実施や戒厳令解除を行ったものの、一方で美麗島事件や中壢事件等の弾圧事件も依然として起こしている。美麗島事件では軍事裁判をメディアで公開して容疑者たちの政治主張が大々的に台湾中に伝えられるなど、今から考えるとどうも本気で弾圧したかったのか疑わしいようにも思えるのだが、いずれにせよ全面的な「民主化」までには至らなかった。国会の全面改選や憲法改正による総統の直接選挙などは李登輝総統の時代に成し遂げられたが、蒋経国時代に民主化へのレールが引かれていなければ李登輝総統とてあそこまでの成果を出すことは難しかったに違いない。

 李登輝総統が蒋経国が行政院長に就任した際に無任所大臣にあたる農業問題担当の政務委員に抜擢されたことが政界入りの契機となったのは有名な話しだが、現在の馬英九総統は蒋経国の英文秘書出身であり、呉敦義副総統も書いた論文が蒋経国の目に留まり「一緒にやろう」ともちかけられたことが政界入りの動機となっている。國民黨と対抗してきた民進党では、陳水扁前総統や蘇貞昌党主席、謝長廷2008年総統候補は美麗島事件の弁護士出身、呂秀蓮前副総統は美麗島事件の被告であった。今の台湾政界の大物で色々な意味で蒋経国とかかわりを持たなかった人物はいないといってもよい。

 対中関係も含めて、台湾政治からまだまだ目が離せないが、経済発展と民主化、そして台湾の実情が大陸に伝えられるにつれて大陸の社会もまた変わりつつある。昨年の総統選挙では敗北した民進党の蔡英文主席の敗北宣言が大陸に伝えられ、大陸住民に「自由選挙」と「敗者の堂々たる敗北宣言」ができることについて衝撃を与えた。中台関係では中国の経済的軍事的攻勢に台湾が飲み込まれつつあるように言われることも多いが、現実はそう単純ではない。複雑で矛盾しているように見えるのが中台関係と言える。

 

2013年1月11日 (金)

いじめと体罰

 いじめによる自殺、体罰による自殺と、教育現場の問題に起因する子供の自殺が社会問題になっている。

 多くの事件で共通している対応は「隠蔽」「もみ消し」で、学校のみならず教育委員会等も巻き込んで同じようなことをやっているのだから呆れる。命が消えたという重大な問題を認識していないかのような組織防衛・自己保身だ。

 「いじめ」や「体罰」を正当化する意見も田舎や保守層の中には多いものだ。彼らの共通した言い分として注目すべきは「自分は体罰を受けても自殺していない」「いじめられたことで闘争心を身に着けた」と言ったものだ。それは、そういう人もいるだろうが、そのような扱いに耐えられず自死を選んだ子供が問題だったとでも言うのか。そうした意見の文脈からは、弱者に対する冷酷さすら感じられる。

 私はいじめと体罰に共通しているのは、ともに他者とのコミュニケーション能力の欠落であると考えている。日本では学校教育の場で自己表現を磨く機会は欧米の学校に比べて非常に少ないし、軽い価値しか与えられていない。学生だけでなく教員も同様で、いじめや体罰が起きる土壌を改善するためには、発覚したものを処罰しているだけでは何にもならないのではないか。むしろ隠蔽に走るだけだ。

2013年1月 9日 (水)

王羲之の模本発見

 東晋の王羲之と言えば中国では「書聖」とされ、その書は中国史の中の最高の芸術品とされている。もっとも、その真筆は東晋の時代から千数百年経った今となっては地上に全く残されていないとされている。このため、王羲之の書は模本であっても大変貴重なものだ。

 王羲之の書を最も忠実に写し取ったものとされているのが、台北の国立故宮博物院が収蔵している快雪時晴帖だ。あまりに貴重なので劣化を恐れ、故宮博物院でも限られた期間しか公開していないので、何度も台湾に足を運びながら本物は未だ鑑賞する機会を経ていない。

 今回日本で発見されたものは唐代に遣唐使が持ち帰ったものだと考えられている。唐代には王羲之の書は未だ真筆が地上にあり、より忠実な模写も可能であっただろう。ちなみに、王羲之の真筆は遣唐使によって日本にももたらされたとされているが、室町期の動乱で失われたとされている。

 「古物有霊」と言われ、特に王羲之の書を古来より絶賛してきた中国で王羲之の真筆が一枚も残っていないのには理由がある。唐の太宗は王羲之の書のコレクターで策謀まで使ってあらゆる王羲之の書を集めた。そして、自分が死ぬ時に何とそのコレクションを一緒に墓に納めるよう命じてしまったのである。バブル時代に名画を買って「自分と一緒に燃やしてもらう」と発言して顰蹙を買った金持ちがいたが、このあたりは考えることは同じになるらしい。太宗の墓そのものは現存しており発掘も何もされていないから、将来的には運がよれば王羲之の真筆が見つかるかもしれない。

 しかし、太宗の陵墓は発掘の予定は全くないという。秦の始皇帝陵と同じく、発掘を行えば「とんでもないもの」が山のように出土することは確実で、それを保存して研究する体制が整う目途が全く立っていないためだ。あの名高い「兵馬俑」ですら、全体を発掘してはおらず、むしろ兵馬俑に残された彩色の痕跡を守る必要性があるため発掘は中断状態にある。

 そうした状況を考えれば、模本であっても極めて貴重である。今回発見された模本は個人蔵のものだそうだが、広く鑑賞できる機会が提供されることを願ってやまない。

2013年1月 7日 (月)

意義の見出せない「安倍談話」

 菅官房長官が会見の中で、戦後を巡る安倍総理の新たな談話すなわち「安倍談話」を出すという意向を表明した。安倍総理は第一次政権より「戦後レジュームからの脱却」を主張しており(ただし、ここで排撃さるべき特権階級として想定されているのは実質的な特権階級であるご自身ではなく西欧人権思想により戦後恩恵を受けた層であるように思われるが)、その点では従前の戦後意識を転換する意味であれば「安倍談話」は大きな意味を持つことになる。話を聞いたとき、誰もが従前の「謝罪外交」路線を転換するために安倍総理の歴史観に基づく談話を出すものと思ったことであろう。

 ところが、「安倍談話」の内容は1995年に当時の村山総理が出した「村山談話」を踏襲するという。村山談話は日本を加害国と位置づけ、日本の行為を悪と自ら自己批判しアジア諸国に対して深く謝罪するという内容であり、安倍総理の歴史観とは対極に位置づけるべき自虐的な内容であった。その前提条件は「日本は悪」であり、明治維新から太平洋戦争に至る日本の歴史は弁解の余地も一片の正義もない侵略戦争の歴史であり、南京事件や従軍慰安婦問題など日本が国を挙げて組織的に行った犯罪かどうか曖昧なものもすべて日本の国を挙げた組織的犯罪と位置づけ、今なお対米従属し自衛隊を持ち国家意識を持つ日本は反省が足りないから日本は解体されるべき(この点村山総理は国連総会で「地球市民になりたい」という他国から見れば国家解体を意図していると取られかねない発言までしている)というものである。これらの前提のもとに「村山談話」は出たのだから、安倍総理が「村山談話」を踏襲して「安倍談話」を出すのであれば、歴史観や国家観の前提もまた村山総理のようなものになつていなければならなくなる。これは安倍総理の自己否定そのものではないか。従前の発言との整合性はどう説明するつもりか。

 安倍総理が従前の日本政府の歴史認識を転換するつもりであれば「安倍談話」は大いに意味がある。しかし、村山談話を踏襲し従前と同じことをなぞるならばそんな談話を出す意味はない。

 それどころか、「河野談話」「村山談話」でなお不満な勢力は、なお一層の「謝罪と賠償」を求めることになる。そもそも、過去の談話も「賠償」を欠いていたため特定アジア諸国の不満をむしろ煽る結果となってしまった。つまり、安倍総理が「日本を解体して被害者の言うがままに永遠に謝罪と賠償を行う」というようなことを表明してそれを履行しない限り、所詮何度でも同じことが繰り返される。そんなことをしたところで、日本には何の利益もないし、反省の表明として相手側に取られる余地は皆無だ。

 「安倍談話」を出したところで意義は見いだせない。それどころか、余計な期待を持たせ、謝罪と賠償を求め更なる反日運動に火をつけることになるのではないか。従前の歴史観を転換する内容のものでなければ、談話など出さない方がいい。

 

2013年1月 5日 (土)

靖国神社放火事件被疑者引渡し拒否事件

 日本国内で靖国神社に放火した後韓国に出国し、ソウルの日本大使館に火炎瓶を投げ付けて服役していた中国人の男に対し、日本政府が日韓の犯罪人引渡条約に基づいて引渡しを求めていたところ、韓国政府はこの中国人が「政治犯」にあたるとして日本への引渡しを拒否し、中国に身柄を移すことを決定した。

 これでは、テロリストであっても政治犯との認定を受ける道が開けることになり、日本人に危害を加えても「過去の日本の犯罪に対する怒りからやった」と言えばそれでいいということにもなりかねない。

 安倍総理が対韓融和の姿勢を示したところまことに「分かり易い」反応が返ってきたと言える。竹島の日を政府主催の式典とせず、靖国神社にも参拝せず、尖閣への公務員駐在も見送るなど、選挙中の公約をことごとく反故にしてもなお中韓との融和を模索する姿勢を示した。しかし、過去にも述べたとおり当初からこうした姿勢では、中韓ともより日本に譲歩を迫り、より有利な立ち位置を獲得するよう動くことは確実であり、今回の犯罪人としての引渡し拒否もまたその流れの中にあると言えよう。

 それでもなお日本政府は「遺憾の意」こそ示したが、それ以上の行動に出る気配はない。朴新大統領の就任に合わせて融和の姿勢を打ち出し韓国にも姿勢の転換を求める方針だった日本政府としては、新政権発足後ただちに緊張状態になるのは避けたいという意図があるのだろう。中国との間でも、新指導部発足に合わせて関係改善を望んでいる。こうした日本政府の「足元」を見て中韓ともに今回は連係プレーを見せた。中韓ともに過去のことて大騒ぎすることで日本から譲歩を引き出したいという利害が一致していることは間違いない。

 発足間もない安倍政権が安易なシグナルを送った故に今回の事件を招いたと考えるのが妥当ではないか。中韓ともに、安倍政権は少なくとも参院選までは大胆な行動はできないと考えて、より有利な状況を作り出そうと懸命だ。それが分かっていながら今回の事態を招いたことについて、日本政府は余りにも情けない。

2013年1月 3日 (木)

正月番組に思う

 大晦日から三箇日の間は、NHKも民放も「正月番組」の編成を組む。しかし、どうもこの「正月番組」は総じてあまり内容のあるものではないと感じることが多い。ともすれば芸人を沢山出し、画面の中だけで楽しんでいる印象が強い。テレビの不振で製作費が削られているから仕方がないという話はよく聞くが、これでは見る気も失せるのではないか。

 新聞にしても決してレベルの高い記事は書いていない。某新聞の元旦の社説など論旨も支離滅裂な上に国際情勢をまともに理解していないままで希望的観測を書いたに過ぎないような内容で、このレベルの文章が「元旦の社説」となっていることに暗澹たる気分を抱かされた。

 テレビも新聞も依然として影響力の強いメディアではあるものの、事案を深く掘り下げることもなく、覗き見に近いスクープ合戦と記者発表されたことを報じているだけではインターネット媒体に敗れ去るのは必至というものではないか。

 この正月、久しぶりにあくせくせずにじっくりと文章を読んだりして過ごしているが、そのせいかマスメディアの動きが稚拙に見えならない。

2013年1月 1日 (火)

平成25年の元旦

 平成25年が明けた。日本にとっては昨年以上に難しい年になりそうだ。

 年末に安倍内閣が発足したが、対中対韓関係についてはどうもはっきりしない。国民の間に議論のある「原発増設」をいち早く打ち出した点も疑問だ。国民の間でも「何が正しいか」考えることができないまま、政権だけが自勢力の都合のいいことを優先させて走り出した感がある。

 経済的に厳しいことは言うまでもない。が、安倍政権の打ち出した経済対策は第一に公共事業となった。90年代後半から公共事業を大々的にやってきたが、それでも雇用情勢は悪化し続けた。まさか、「小泉内閣発足で公共事業を貫徹しなかったから不況になった」とは言わないだろうが、同じことになりはしないかと心配だ。かつて、公共事業はゼネコンから下請に広く富を流したものだが、90年代半ば以降は下請は原価割れのような状態でも受けざるを得ず、最後には社長が首を吊って清算することも珍しい事件ではなかった。公共事業の「トリクルダウン」にはあまり期待できないのではないか。

 無論、この姿勢は「構造改革」を推進するグループから非難を受けることは確実で、反動から小泉内閣の頃よりも更に過激な「改革」に舵が切られる可能性もある。

 ただ、見方を変えればこれが「先進国」なのかも知れない。日本には既に「追うべき国」はないからだ。フランスやドイツやイタリアなどは日本よりもはるかに長い「閉塞の期間」を生きている。閉塞感のある状態を異常事態だと思わず、常態と思うようにするのも生きるコツなのかもしれない。

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