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2012年12月16日 - 2012年12月22日

2012年12月22日 (土)

改めて山本孝史議員に対する尾辻秀久議員による追悼演説を読む

 本院議員山本孝史先生は、平成十九年十二月二十二日、胸腺がんのため逝去されました。享年五十八歳でありました。誠に痛惜哀悼の念に堪えません。
 山本孝史先生は、平成十八年一月、国立がんセンター中央病院において、現在の医療では治ることのないステージ四の進行がんであるとの確定診断を受けられました。奥様には、何も治療しなければ余命は半年と告げられました。
 胸腺がんは非常に珍しいがんで、元々外科手術による切除が難しい上、他の臓器への転移も見られたことから、抗がん剤による化学療法が選択されました。
 自来、山本孝史先生は、末期のがん患者として、常に死を意識しながら国会議員の仕事に全身全霊を傾け、二年の月日を懸命に生きられたのであります。
 私は、ここに、山本孝史先生の御霊に対し、謹んで哀悼の言葉をささげます。
 山本孝史先生は、昭和二十四年七月七日、兵庫県芦屋市にお生まれになり、その後、大阪市南船場に転居されました。
 先生が五歳のとき、兄上が自宅前でトラックにひかれて亡くなられております。山本先生は後に、母が亡きがらとなった兄の足をさすっていた姿を今も鮮明に覚えていると書き残されています。
 山本先生はその後、立命館大学在学中に身体障害者の介助ボランティアを体験され、これをきっかけに大阪ボランティア協会で交通遺児育英募金と出会うことになります。交通遺児の作文集を読まれたとき、夭折した兄の無念さや両親の悲しみが一気に胸にあふれたと述べておられます。
 大阪交通遺児を励ます会を結成された先生は、活動を展開するため、全国協議会の事務局長に就任されました。交通遺児と母親の全国大会を成功させ、参加者とともに銀座をデモ行進されたと聞きました。
 先生の政治の世界における御活躍の基礎は市民活動にありました。
 山本先生は、大学卒業後、財団法人交通遺児育英会に就職され、その後、米国ミシガン州立大学に留学、家族社会学を専攻して、高齢者福祉や社会貢献活動、死の教育の在り方について学ばれました。大学院修士課程を修了された後、育英会に復職され、平成二年に事務局長に就任されました。
 災害や病気、自殺などで親を失った子供にも奨学金を支給したいと願っておられましたが、監督官庁の反対に遭い、縦割り行政を痛感されていた平成五年、先生に転機が訪れます。
 誘いを受け、日本新党から旧大阪四区に立候補され、ボランティア選挙、お金の掛からない選挙を展開し、当選されました。次いで、平成八年の総選挙には新進党から近畿比例区に立候補され、再選を果たされました。
 衆院時代の山本先生は、年金や医療制度の改革、介護保険の創設や残留邦人の援護などの問題に取り組まれました。また、当選の翌年から長きにわたって厚生委員会の理事の職を務められました。
 質問等の回数は、本会議での代表質問二回、討論二回、委員会での質疑七十回、質問主意書は医療問題、援護事業などに関するもの三十四本を数えます。
 特に、薬害エイズ事件の真相解明では、隠されたファイルの存在や加熱製剤承認後も非加熱製剤が使用され続けていた事実を明らかにされました。また、脳死臓器移植問題では、いわゆる金田・山本案と呼ばれる対案を提出され、国会論議を深めることに貢献されました。
 先生は、平成十三年、参議院に転じ、大阪選挙区から立候補され、当選されました。再び年金や医療制度の改革に取り組まれ、亡くなられるまでの間、参議院本会議での代表質問が五回、予算、決算、厚生労働などでの委員会質疑は五十八回に及び、質問主意書についても年金、社会保険庁問題などで十一本を数えます。
 この間、党務においては、民主党次の内閣の厚生労働大臣、年金改革プロジェクトチームの座長などを務められました。
 また、山本先生は、平成十五年、参議院民主党・新緑風会の幹事長に就任されました。幹事長在任中の平成十六年の参議院選挙は年金が大きな争点となりました。先生は、年金政策の第一人者であり、民主党の年金改革法案の実質的な立案者であったと伺っております。
 山本先生は年金論議を終始リードされましたが、政府の年金改革法案の代表質問に立たれた際、この壇上から次のように訴えられました。
 議場の皆様に申し上げます。年金改革はこの国のありようを決める大事業であり、そして、我々は国民の代表であります。年金改革とこれからの国のありようについて、この参議院において真摯に、真剣に、そして徹底的に議論しようではありませんか。
 使命感に満ちあふれた名演説でした。
 厚生労働委員会における小泉総理との白熱したやり取りは今も語りぐさとなっております。我が党は厳しい選挙戦を強いられることになりましたが、このときの躍進こそ、民主党が参議院第一党となる礎となっていると言えましょう。
 山本先生は、我が自由民主党にとって最も手ごわい政策論争の相手でありました。
 私は、平成十六年から十七年にかけて厚生労働大臣を拝命いたしておりました。その間、山本先生から、予算委員会で三回、厚生労働委員会において八回の御質疑をちょうだいいたしました。先日、会議録を読み返してみましたところ、百七十問ございました。その中で印象深いのは、平成十六年十一月十六日の厚生労働委員会の質疑でした。山本先生は、助太刀無用、一対一の真剣勝負との通告をされました。
 この質疑の中で、私が明らかに役所の用意した答弁を読みますと、先生は激しく反発されましたが、私が私の思いを率直にお答えいたしますと、幼稚な答えにも相づちを打ってくださいました。先生から、自分の言葉で自分の考えを誠実に説明する大切さを教えていただきました。そして、社会保障とは何かを御指導いただきました。昨日も、先生にしかられないように、社会保障には特に力を入れて質問をいたしました。
 山本先生は、平成十七年、参議院財政金融委員長に就任されました。新しい分野で活躍しようとなさっていたそのやさき、病魔に侵されておられました。
 山本先生は、平成十八年五月二十二日、医療制度改革関連法案の代表質問に立たれ、この壇上から次のように語り始められました。
 理想の医療を目指された故今井澄先生の志を胸に、私事で恐縮ですが、私自身がん患者として、同僚議員を始め多くの方々の御理解、御支援をいただきながら国会活動を続け、本日、質問にも立たせていただいたことに心から感謝をしつつ、質問をいたします。
 そして、最後に、がん対策法の今国会での成立について、議場の皆さんにお願いをします。日本人の二人に一人はがんにかかる、三人に一人はがんで亡くなる時代になっています。今や、がんは最も身近な病気です。がん患者は、がんの進行や再発の不安、先のことが考えられないつらさなどと向き合いながら、身体的苦痛、経済的負担に苦しみながらも、新たな治療法の開発に期待を寄せつつ、一日一日を大切に生きています。私があえてがん患者と申し上げましたのも、がん対策基本法を成立させることが日本の本格的ながん対策の第一歩となると確信するからです。
 また、本院厚生労働委員会では、自殺対策の推進について全会一致で決議を行いました。私は、命を守るのが政治家の仕事だと思ってきました。がんも自殺も、共に救える命がいっぱいあるのに次々と失われているのは、政治や行政、社会の対策が遅れているからです。年間三十万人のがん死亡者、三万人を超える自殺者の命が一人でも多く救われるように、何とぞ議場の皆様の御理解と御協力をお願いいたしますと結ばれました。
 いつものように淡々とした調子でしたが、先生は、抗がん剤による副作用に耐えながら、渾身の力を振り絞られたに違いありません。この演説は、すべての人の魂を揺さぶりました。議場は温かい拍手で包まれました。私は今、その光景を思い浮かべながら、同じ壇上に立ち、先生の一言一句を振り返るとき、万感胸に迫るものがあります。
 先生は法律を成立させただけではありませんでした。やせ衰えた体を押して、がん対策推進協議会を欠かさず傍聴されるなど、命を削って、立法者の責任を果たされました。
 山本先生は、昨年七月の参議院選挙にも立候補され、再選を果たされました。
 十二月四日、筆頭発議者として、被爆者援護法の改正案を提出されます。これが国会議員として記録に残る最後の仕事となりました。衆参両院で延べ三十七本の議員立法を提出されたことになります。国会議員こそ立法者であるとの信念を貫かれたのであります。
 先生は十二月二十二日、よみの国へと旅立たれました。先生の最後の御著書となった「救える「いのち」のために 日本のがん医療への提言」は、先生が亡くなられる直前、見本本が病室に届けられました。先生は、目を開け、じっと見詰めてうなずかれたそうです。そのときの御様子を、奥様は告別式において、次のように紹介されました。
 私は、彼の手を握りながら本を読んであげました。山本は、命を削りながら執筆した本が世に出ることを確かめ、そして、日本のがん医療が、ひいては日本の医療全体が向上し、本当に患者のための医療が提供されることを願いながら、静かに息を引き取りました。
 バトンを渡しましたよ、たすきをつなぐようにしっかりと引き継いでください、そう言う山本先生の声が聞こえてまいります。
 先生、今日は外は雪です。随分やせておられましたから、寒くありませんか。先生と、自殺対策推進基本法の推進の二文字を、自殺推進と読まれると困るから消してしまおうと話し合った日のことを懐かしく思い出しております。
 あなたは参議院の誇りであります。社会保障の良心でした。
 ここに、山本孝史先生が生前に残されました数多くの御業績と気骨あふれる気高き精神をしのび、謹んで御冥福をお祈りしながら、参議院議員一同を代表して、お別れの言葉といたします。

                       平成20年1月23日 参議院本会議

                       尾辻 秀久 (当時、自由民主党参議院議員会長)

 日本中が寒波に襲われ、各地で雪がちらついている。そんな中で、尾辻参議院副議長が辞任し後任に山崎元官房副長官が内定したとの報道がされた。尾辻副議長と言えば、私は山本孝史参議院議員に対する追悼演説が特に記憶に残っている。奇しくも、12月22日は山本議員の命日にあたる。

 平成20年1月23日に行われた尾辻議員による追悼演説では、与野党を超えてがん対策や自殺対策に取り組み、社会保障政策で時に対立した立場からの戦友でありライバルに対する深い哀惜の思いを読み取ることができる。尾辻議員による追悼演説は議会史に残る名演説と言われているが、それはこの二人の間で真剣なやり取りがあったからこそのことであろう。

 国会の「ねじれ」状態が続く中、やはり最終的には真摯な議論が必要なのではないか。そこから信頼関係が生まれ、対話によって政治は前に進むのではないか。数の力を振りかざしたり、民意民意と大騒ぎするだけでは権力闘争は華やかになろうが、結局は何も決まらない。

 私自身は生前の山本議員と特に面識はなかったが、多くの民主党関係者から山本議員の社会保障に取り組む姿勢は聞かされていた。山本議員は民主党の「黄金時代」「没落」を目にしないまま亡くなったわけだが、「社会保障の良心」としてある意味では幸運だったのかもしれない。

2012年12月21日 (金)

朴槿惠次期韓国大統領

                     朴槿恵

 19日に投開票が行われた大韓民国大統領選挙で、保守系のセリヌ党の朴槿惠候補が当選を果たし、第18代大統領への就任が決まった。父親の朴正煕大統領はあまりにも有名だが、これで韓国初の親子二代の大統領就任、韓国史上初の女性大統領ともなる。

 父親の朴正煕大統領が日本政財界と太いパイブでつながっていたこともあり、革新系であった文在寅候補に比べて対日政策は穏当なものになるのではないかと見られているが、親日をPRしなければ当選できない台湾の総統選挙と対照的に韓国の大統領選挙では反日をPRしなければ当選できない。李明博大統領にしても、政権末期には竹島に上陸するなど反日活動が目立ったが、このあたりは韓国の政権末期に共通する現象だ。新大統領は政権発足後当面は比較的にせよ対日関係を重視した政策をとることになるのではないかと思われる(政権末期はどうなるかわからないのはもろちん言うまでもない)。

 韓国の抱える問題は対日関係だけではない。北朝鮮は相変わらず脅威だし、国内は経済格差の拡大や若年層の失業など日本にとって「他国」とは思えないほどだ。朴正煕大統領はそれまでの韓国の政権が取ってきた反日政策を押しとどめて日本との国交を結び、日本との協力を重視することで多額の援助を引き出すことに成功した。これが韓国を世界の極貧国からOECDの一角を占める強国にした原動力である。父親がこれでは本人が意識しようとしまいが常に比較されてしまうことは確実で、新大統領にとっては大きなプレッシャーになるだろう。

 世襲政治家が一世政治家に比べてスタートラインに立つところからはじまりその後の政界内での扱いでも有利なのは日本でも中国でも同じことだ。若いうちから要職に就き、プリンスとして周囲の推挙もあって親よりも高位に上ることも多い。しかし、一方で二世三世の政治家が「偉大な親」を超えるだけの実績を挙げるのは簡単ではない。近隣諸国を見ても、台湾の蒋経国総統くらいのものではないか。

 それにしても、大韓民国大統領という椅子はあまり縁起のいいものではない。朴正煕大統領は側近に暗殺されたが、歴代大統領は失脚してで国外逃亡に追い込まれたり、逮捕されて死刑判決を受けたり、汚職疑惑で自殺に追い込まれたりと、あまりいい死に方はしていない。このような不吉な職に手を挙げることは、信念がなければやれるものではない。金大中大統領や盧武鉉大統領は親北朝鮮反日政策を取ったことで私としてはいい印象は持っていないし業績も評価できないが、信念だけは尊敬に値するものてあった。

 新大統領の手腕に注目したい。

2012年12月19日 (水)

ダニエル・イノウエ上院仮議長逝去

                   

 ダニエル・K・イノウエ少尉は1945年4月21日、イタリアのサン・テレンツォ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。

 重要な交差点を守るべく防御を固めた稜線を攻撃している間、イノウエ少尉は自動火器と小銃から浴びせられる射撃をかいくぐって巧みに自身の小隊を指揮し、素早い包囲攻撃によって大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵陣から40ヤード以内の場所にまで導いた。掩蔽壕と岩塊からなる陣地にこもる敵は、3丁の機関銃からの十字砲火により友軍の前進を停止させた。

 イノウエ少尉は自らの身の安全を完全に度外視し、足場の悪い斜面を最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで這い上がり、2個の手榴弾を投擲して銃座を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって第2の機関銃座を無力化した。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、至近距離で他の敵陣地と交戦し続けた。

 激しい痛みにも関わらず彼は後退を拒否して、敵の抵抗が破れ、部下達が再び防御体勢に入るまで小隊を指揮し続けた。攻撃の結果敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の勇敢かつ積極的な戦術と不屈のリーダーシップによって、彼の小隊は激しい抵抗の中でも前進することができ、稜線の占領に成功した。

 イノウエ少尉の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍の最も崇高な伝統に沿うものであり、また、彼自身やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな栄誉をもたらすものであった。

                                    議会名誉勲章の感状より

 アメリカのダニエル・ケン・イノウエ上院仮議長が17日に逝去された。イノウエ議員の88年の人生は、そのままアメリカにおける日系人の地位向上の歴史そのものに重なる。

 移民二世とハワイに生まれ、第二次世界大戦では祖国アメリカのために従軍して武勲を立てるも片腕を喪って医師への道を閉ざされ、その後法律を学んで州議会議員、連邦下院議員、連邦上院議員と駒を進めた。死去されるまで上院仮議長の地位にあったが、これは副大統領、下院議長に次ぐ大統領継承順位三位の職であり、職位そのものは実質的には名誉職であるものの日系人でここまで登った人はいなかった(これとは別に、上院議員として実力者であったことは言うまでもない)。

 イノウエ議員と言えば、第442連隊戦闘団での活躍がよく知られている。この戦闘団の壮烈無比な戦いぶりは当時のトルーマン大統領をして「諸君は敵のみならず偏見とも戦い、勝利した」と言わしめている。アメリカは日本と異なり「軍国主義」であったことはないが、軍人出身者が政財界で数多く活躍している。これはミリタリーとシビリアンの垣根が低いということも要因にあるように思うが、いずれにせよそうした中で戦場の英雄であったというキャリアは、肌の色などの違いを超えてアメリカ国民ならば誰しも一目置く。まさに、日系人はアメリカ国民として勇敢に戦うことでアメリカでの社会的承認を得てきたのである。第442連隊戦闘団は欧州戦線で兵力の半数以上を失っても戦い続けた。文字通り命がけの尽忠報国であった。

 移民国家であるアメリカでは、しばしば戦争の際に祖国に対する忠誠を示すことが地位向上につながる。私が第442連隊戦闘団と並んで思い浮かべるのは、南北戦争ではじめて正規の黒人部隊として戦ったマサチューセッツ第54連隊だ。どちらも前線で過酷な戦いを続け大きな損害を出したが、その引き換えとして彼らは自由と尊厳を得た。

 ただし、イノウエ議員は知日派であったが、すべての面で日本に対して無条件に加担していたわけではない。1980年代の貿易摩擦の際には日本叩きの急先鋒であった。こうした態度から日本国民の中には「あいつは日本人ではない」と言っている者もいないわけではないが、当たり前だ。イノウエ議員は日系人である前にアメリカ国民であり、アメリカ国民として行動したのである。あくまでも「アメリカ合衆国国民」であり「アメリカ合衆国の政治家」として見る必要がある。ただし、アメリカの政治家の中では対日関係を極めて重視する一人であったことは間違いない。

 イノウエ議員の逝去は残念だが、イノウエ議員の残した道を日系人たちが歩いていくことになるだろう。

 謹んで、ご冥福をお祈りしたい。

2012年12月17日 (月)

自民党の地滑り的大勝利で政権交代へ

 昨日投開票が行われた総選挙では自民党が小選挙区比例代表区ともに地滑り的な圧勝をおさめ、政権交代が確実となった。民主党は3年前の圧勝が嘘のように大物候補者が軒並み落選し、三分の一以下にまで議席を減らしている。第三極は議席を伸ばしたが、自民圧勝のため影響力はあくまで第三極にとどまるものとなった。全般的にみると、旧民主党勢力の「一人負け」の感がある。

 2005年、2009年に続き、第一党の地滑り的勝利をもたらすことになったが、これは得票数以上に制度的な面すなわち比較第一党に実力以上の議席を与える小選挙区制の特質が強く出たものと言える。もっとも、この制度は政権を安定ならしめるためにあえて実力以上の議席を得られるよう設計されているから、制度上は「安定した政権」になる筈である。

 もっとも、参議院はこれとは全く別であり、新たに発足する自民公明の連立政権も参議院では少数与党に留まる。かつて自公政権は3分の2の再可決を乱発することで難局を乗り切ったものだが、これが自公政権に対する「嫌気」につながり、2009年の総選挙で政権転落する一因となったが、このような手を使わざるを得なかった理由は間違いなく民主党の当時の国会戦術にあり、この戦術と同じことを最近まで野党である自民党が行ってきた。そして再び攻守が逆転となる。国会が「意見集約」の機能を作り出さない限り、制度の混乱と国民の信頼喪失はこれからも続くことになるのではないか。

 実際、自民党の政策を見てもかつての自民党と左程真新しさも感じられないし、過去の自民党政権の失敗を反省しているようにも見えない。 面白いのは保守に対する新保守たる位置づけになる維新・みんなの党が民主党を上回る議席を獲得していることで、石原代表の「第二極」ではないが、新たな枠組みになる可能性もある。ただ、そうなった場合は自民党は多少社会民主主義政党化しないと厳しいのではないか。無論、民主党の「存在意義」が問われることになるのは言うまでもない。 

 これだけ多くの政党が乱立した背景を考えると、単に政治家の政争にその要因を求めるには無理があるように思われてならない。国民の思考や政策が多様化しているのではないか。かつてのように企業と労働者は最早運命共同体ではないし、労働者の勝ち組負け組の格差は拡大する一方で同じ労働者だからと言って利益は一致しない。経営側も同様で、企業規模や分野によって考え方に大きな差が生じ、使用者だからと言って一致した行動は取れない状況にある。だからこそ、国会での議論と意見集約が重要となる。

 国民は政権に復帰する自民党公明党だけでなく、野党も含めた国会全体の動きを注視していかなければならないのではないか。

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