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2012年10月

2012年10月31日 (水)

刑務所まで「民間委託」で大丈夫か?

 法務省が刑務所や拘置所の民間委託を拡大する方針を固めた。コスト削減や受刑者の処遇改善が目的とされているが、受刑者の処遇改善は兎角に「悪いことをしたのだから悪い処遇で当然」という考え方が世間に蔓延している以上法務省もそれほど重視はすまい。主眼はあくまでコスト削減と見るのが妥当だろう。

 しかしながら、法務省には危うさを感ぜざるを得ない。法務省は法務行政の元締めであり、その幹部は単なる官僚ではなく司法試験に合格して法曹としての専門教育を受けてきた検察官だ。にもかかわらず、法務省が「民間委託」した現場が悲惨な末路を迎えたという事実がある。

 そもそも、「民間委託」というものは甘いものではない。コスト削減が求められる一方、お役所時代の煩雑な手続き等はほぼそのまま守らなければならないし、むしろ受託業者側と官庁側の指揮命令(大抵表向きそんなものは「ない」ことになっているが)というのが加わるから、民間業者の方までが「お役所仕事」をやりだす。「お役所仕事」を改善することでコスト削減を図ろうというのが、こうした「改革」の目的だった筈なのだが、制度設計した人々の想いとは逆に、現実は「お役所仕事」が民間にまで拡大していく結果になっている。

 なぜ、このようなことになるのかと言えば、理由は簡単だ。役所時代の手続き上の事はそのまま民間委託の現場に持ち込まれるが、民間業者側にそれを「変える」力はない。民間業者にとって法務省や刑務所は「法務省様」「刑務所様」であり、職員は「職員様」である。つまり、「お客様」なのだから、お客様の面子を潰すようなマネはサービス業としてそもそもできない。それどころか、変にご機嫌を損ねようものなら、受託業者としては仕事ができなくなる。民間に官公庁業務のノウハウはないので、「職員様」の「ご指導」がなければできないものはできない。

 「お役所仕事」を見直すことでコスト削減を図るのは、口で言うほど簡単ではない。役所との間で事を荒立てずに利益を上げたい民間企業としては、仕事の進め方を変えるよりも、もっと安直な方法で利益を出す道を選ぶのは当然の事であろう。それが、民間委託で働く者の大半を1箇月から3箇月、せいぜい長くとも委託期間まで契約とする非正規労働者で固めることである。

 人的コストを圧縮するわけだが、大した規制もないのだから、いきおいここでは民間企業も本領を発揮できる。不払い残業は可愛いもので、酷い例では厚生年金の保険料折半を惜しんで全員を最低ランクの標準報酬で届け出ていたということもあった。こうした処遇では人の入れ替わりも激しくなるのが当たり前であろう。

 非正規労働者を使っている経営者と話すと、よく出てくるのが「権利ばかり主張しやがって・・・」という文句だ。決まり文句と言ってもよい。労働時間や残業代の事で文句ばかりだと嘆くのである。そして、「低賃金でも忠誠心をもって働いてきた人は多い」とか、長時間労働を受け入れる公務員や正規労働者を称賛して、「だから非正規は駄目だ」という結論に至る。

 しかしながら、正規労働者や正規の公務員の場合、金銭的には相応の処遇が保障されているし、将来の見通しもある。一方で、官公庁受託企業で働く非正規労働者の賃金は自給ベースで最低賃金ギリギリという者がむしろ普通なのである。残業代の10円20円にこだわるのは、それが入ってこなければ生活に直結するからだ。 労働時間をあまり直視しないで仕事の中に満足を求める余裕などないといってもよいし、与えられる仕事も数字をこなすことが求められて現場では大して顔の見えないものだ。そろいもそろって、仕事に「執着されない」状況が生まれる。必然的に、離職が多くなる職場の条件と一致する。

 これが刑務所で働く労働者の姿になるわけである。現在の正規の国家公務員身分の刑務官ですら、受刑者に買収されたり、或いは緊張状態のストレスを受刑者への暴行で晴らす事件が珍しくない。これが猫の目のように変わる非正規労働者となれば、もう何が起きるかわかったものではない。加えて、刑務所は「密室」である。

 法務省は民間業者に委託することで、「思いやりを持たせる」云々と言っているが、これも期待はできまい。反骨精神が旺盛な人でも存在が許されるのは、官公庁では上司の気分くらいでは簡単に解雇などはできないからだ。左遷されたとしても、それなりの処遇はなされる。しかし、民間では上司に逆らえば身分が失われることは珍しいことではない。何より、日精労働者を集めた職場では頭目も非正規労働者出身ということが多く、往々にして普通の企業で新卒の正規労働者として入って組織内で出世する者より元同僚に対して冷酷になるのが普通だ。これは、ひとつはほとんど数字で判断される非正規の現場でのしあがるのだから、他人を踏み台にして利用することに良心の呵責など感じていては心身が持たない。また、自分がのし上がってきた自負もあるから、部下が怠け者に見えて仕方がない。陳水扁前総統がタイプとしては近いが、いずれにせよ「思いやり」などとは程遠い人々ではある。民間らしい「要領」や「ごまかし」を覚えさせるためには宜しかろう(現実問題として、塀の外へ出た後のことを考えると、そうした能力はむしろ身につけさせておいた方が良いのかもしれない)。しかし、「思いやり」なぞ期待はしない方がいい。

 「民間委託」すれば済むと考えるのは間違っている。コスト削減が目的であるにせよ、民間委託は終わりではなく始まりにすぎない。法務省が表面的なコストに一喜一憂するようになれば(もうなっているのかもしれないが)もうおしまいだ。発展途上国の刑務所のように、不正蔓延の温床ともなりかねない。(無論、そのスキャンダルも含めて抑え込める自信があるのならば話は別かもしれないが)

 有識者会議で民間委託の推進を決めているが、本当に有識者の人たちは官公庁委託の現場を見ているのだろうか。今はちょっと調べればいくらでも情報は手に入る。述べたとおり非正規労働者で成り立っている職場だから、実際に働いてみることすら難しいことではない。事件は会議室ではなく、現場で起きている。いくら理想をもって民間委託を推進するにしても、その精神が現場まで行き渡るほど甘くはない。

2012年10月29日 (月)

展示内容は良いが方法に問題の多かった「ツタンカーメン展」

 東京の上野の森美術館で「ツタンカーメン展」を参観する機会があった。私は古代エジプト史は好きだから、こういう機会は有難かった。インターネットでも映像でもいくらでも見られる機会はあるが、やはり実物を見るというのは違う。

 ただし、今回の展示は内容的には貴重なものが多く素晴らしいものだったのだが、展示方法と言うと問題が多かった。

 驚いたのは、参観客が殺到しているにもかかわらず、明確な「順路」を作っていなかったことだ。係員があちらこちらに配置され、「自由に見てください」「空いているところから見てください」と言うが、空いていないのだから困る。人の流れを作らないとかえって混乱するということを、どう考えていたのだろうか。

 

2012年10月27日 (土)

ベルルスコーニ前首相に有罪判決

                  

 イタリアのベルルスコーニ前首相に脱税で禁固4年(実際には恩赦法により1年)の判決が下された。イタリアの政治家は兎角に脱税、口利き、収賄、マフィアとの親密な関係などスキャンダルが多いが、ベルルスコーニ前首相もその例には漏れなかったようだ。

 もっとも、イタリアではこうした「裏手口」というものは、むしろ「手腕がある」とみなされる傾向があるらしい。「狡猾である」というのは、褒め言葉であるという。そうした国民性から考えると、たまたま脱税でちょっと罪に問われたとて「運が悪かった」くらいにしか考えていないのだろう。

 賄賂は万国共通であるにせよ、先進国でこうなっている国は珍しいと言えるが、ベルルスコーニ前首相は少女買春疑惑など従来のイタリアの政治家と異なるカテゴリーの疑惑にまみれた首相でもあった。それでも根強い支持があるというが、イタリア男としては悪くない男なのかもしれない。

2012年10月25日 (木)

拉致問題担当相

 田中法務大臣が事実上更迭され、これに伴って兼務していた拉致問題担当相は藤村官房長官が兼務することになった。自民党政権時代以上に民主党政権になってからは閣僚の交代が激しく、特に拉致問題担当相はあっちこっちへ兼務が移り、しかも兼務していた閣僚が不祥事で辞任に追い込まれることが珍しくない。これでは、腰を据えた拉致問題への対応は無理なのではないかと誰しも思うのではないか。

 閣僚数がかつての20名から17名に削減される一方、国会出席などの負担は相変わらずで、閣僚と言えども選挙は激烈である。それはよくわかるのだが、それならば閣僚数を増やして拉致問題担当相を選任にするなどの方策が取られてもよい。重要なのは国政の舵取りであって、閣僚や副大臣の「数」ではない筈だ。

 拉致被害者や家族会との顔合わせをやるかやらないかで担当相が辞めているのだから、これでは信頼関係も築けない。また、拉致問題は各国・各省庁との調整も重要だから、それなりの経験がある人でなければ困る。かつての中山補佐官などは拉致被害者や家族に寄り添い続け、信頼を得て活動していた。「充て職」では絶対に勤まらない。

 これでは、日本政府が拉致問題に不熱心だという見方をされてしまっても仕方がない。

2012年10月23日 (火)

犠牲祭停戦を祈る

 間もなく、イスラム世界では犠牲祭の時期に入る。犠牲祭ではヤギやヒツジを殺してその肉を貧しい人々に周囲に広く分け与える。ラマダンと並んで重要な祭礼のひとつだ。

 この時期に合わせて、内戦の続くシリアでは政府軍反政府軍双方に、せめて犠牲祭の時期だけは停戦するよう呼びかけがされている。難しいとは思うが、犠牲祭停戦が実現することを祈りたい。

 シリア情勢は悪化する一方だ。内戦は日増しに拡大しているばかりでなく、戦火はトルコなどの周辺諸国にも及び、報復措置としてトルコ軍がシリア領内を攻撃する事態にまで発展している。

 最初は「民主化」と「自由」を求める運動だったものが、憎悪の連鎖と言うべき事態に発展している。これでは、誰が軍事的な勝利を収めたとしても、その後の統治は容易ではない。現在の日本はシリア情勢にほとんど手出しすることができていない。周辺諸国との摩擦でそれどころではないということもあるのだろうが、中東の安定が崩れることは日本にとっても重大事であることを忘れてはならない。資源供給という点だけ見ても、日本経済の浮沈に直結している。 シリア内戦が拡大して中東に新たな憎しみの連鎖が生まれることは、我が国の国益を損なうものだ。

 としても、日本が軍事力を持って内戦に介入できるわけもない。日本が行うべきは、終戦後の民生支援だろう。無論、何もかも与えられるほどの力はもはや日本にはない。しかし、我が国は焦土と化しながら今日の繁栄を築いた実績があり、これは反日と言われる中韓と手大いに評価しているところだ。「将来の自立につながる支援」こそ、日本に求められることになる。その日のためにも、シリア内戦に無関心ではいられない。

2012年10月21日 (日)

業務に起因する疾病・負傷と健康保険

 業務に起因する疾病・負傷は労災保険か労災保険が適用されていない場合には使用者が労働基準法の規定に基づいて面倒を見るというのが長らく基本原則であった。一方で、健康保険法では業務に起因する疾病や負傷は治療を行わないことになっており、インターンシップやシルバー人材センターなど「制度の谷間」に陥っている人々の存在が指摘されてきたところである。

 政府はこうした場合には健康保険で面倒を見る方向で健康保険法の改正に入るという。少なくとも「制度の谷間」で何らの保険も適用されず、「全額自己負担」にされてしまうことよりは、はるかに救済措置としては有効に違いない。

 問題は、こうした「救済」制度を導入することで、悪質な使用者の「労災隠し」の抜け道になりはしないかということである。既に、現在でも労災を適用すると入札で不利になるとの理屈から、土建業者が労災を隠して健康保険で治療させているとうのは各所で囁かれているところだ。労災制度が「骨抜き」にされないよう、警戒しなければならない。

2012年10月19日 (金)

アメリカ海兵隊員暴行事件

 アメリカ海兵隊員が沖縄で女性を暴行するという事件を起こした。沖縄では基地に勤務する兵士や職員が度々民間人相手の刑事事件を起こしており、特に女性に対する暴行事件は際立っている。これでは、沖縄県民の信頼が失墜するのももっともなことだ。

 事件を起こした海兵隊員は数日の沖縄滞在ということで、事件を起こした日にはグアムに戻る予定だったそうだ。こうなると、計画的な犯行ではないかとさえ思えてくる。少女を強姦したとしても基地の中に逃げ込めば米領に逃亡でき、実質的には無罪放免となる仕組みはいまだ健在である。軍人は一般市民より一等重い刑で処断されるのが普通であり、一般的には地位協定を結ぶのは軍人の犯罪を厳罰に処してもらえるからなのだ、沖縄に関しては逆になってしまっている。

 私は基地や軍隊が悪いとは思っていない。沖縄では基地があるから事件が起きるという主張がされているが、基地や軍隊が強姦事件を起こすのではない。今回の事件は安全保障上の問題とは切り離して考えられるべきだ。問われているのは正義である。女性を蹂躙するという凶悪犯罪を犯しても逃げられるような制度を残していることこそ厳しく問われるべきだ。日本の司法当局によって日本法による処罰がなされるべきである。

 日本に足を踏み入れる米国軍人に対しては、足を踏み入れる前に十分な教育が必要なのではないか。数人の過ちが、沖縄県民の反米感情を更に煽ることになれば、その先には基地撤去・米軍撤退と中国の支配領域拡大が待っている。アジアの平和と安定をも脅かしかねない。

2012年10月17日 (水)

上海在留邦人暴行事件

 上海繁華街の日本料理店で中国人を交えて食事をしていた日本人グループが、暴行を受けるという事件が発生した。反日デモは終息したと報じられているが、鬱積した不満はまだまだ爆発する余地を残していると言えそうである。

 もっとも、反日デモの「まっただ中」と言われている時期ですら、上海の中心部はどこもかしこも平穏であり、反日の影などどこにも見られなかった。私が日本人だと露見したこともあったが、親しく話しかけてくる中国人はいても、嫌がらせをしてくる中国人は皆無であった。それでも日本人に対する暴行事件や日本企業に対する襲撃事件は起きているのも事実であり、心ある中国人はこのような事態を情けなく思っている(もちろん、彼らも愛国心はきちんと持っているから売国奴などではなく、その点誤解をしてはならない)。

 国家間で対立が起きることは仕方がない。どのような関係であろうが、国と国との関係において必ず対立というものは起きる。良好と言われている日台関係や日土関係とて、何も対立がないということはない。しかし、相互に無辜の市民に危害を加えることは許されない。この点、日本でも「中国人を殺せ」というようなプラカードを掲げて行進している者がいるらしいが、これでは彼らの嫌いな中国デモ隊とやつていることは同じになってしまう。

 いずれにせよ、日中関係を政府間民間ともに断絶することができない以上、日本政府としてはまず中国政府に在留邦人の安全確保と犯人処罰を強く求めるべきだ。在外邦人の生命を守るのは、まさに母国の義務である。

2012年10月15日 (月)

社会政策学会

 長野県上田市の長野大学で行われた社会政策学会に参加してきた。といっても、土曜日は夕方まで仕事があったため全日程の参加は無理だった。土曜夜に上田市まで行って一泊し、日曜日のみの参加となった。かなりの強行軍になったが、労務管理や社会問題、年金制度など今後の問題解決のための有用な研究発表をいくつか聞くことができた。

 今回の学会では全国社会保険労務士会連合会の大槻前会長が一橋大学の石川博士と組んで労働者派遣法改正の問題について共同研究の発表がされたことが注目される。もともと、社会保険労務士は「手続きの専門家」として設置された経緯があり、手続きに習熟する一方で手続きの元である法制度の中身や、或いは制度そのものの研究は左程されてこなかったように思われる。しかし、学究的な視点を持たなければ、手続きという制度の運用面に携わることで気付く制度の問題や国民の要求するものを制度に反映することはできない。その法や制度の根本にかかわる部分を見つめなければ、法改正はできないのである。

 もっとも、アカデミックな視点がすぐに仕事の役に立つかというと、そのようなことは全くないと断言できる。すぐに役立つ知識の方が求められているのは確かだ。しかし、そのような姿勢では広く社会に対して貢献していくことはできない。制度の表面的な知識だけ詰め込んでおけば、機械的なはてはめを行うことである程度の仕事はできる。しかし、そこに安住しているようでは専門職としての資格はない。

2012年10月13日 (土)

入党の条件

                     ファイル:Bundesarchiv Bild 102-16196, Nürnberg, Reichsparteitag, SA- und SS-Appell.jpg

 大阪市の橋下市長が自ら代表をつとめる「日本維新の会」の党員について、党員資格に制限を設けたい意向を示した。「日本維新の会」では代表選挙で党員は所属国会議員や地方議員と同等の一票を行使することになるので、党員として「誰でもいいというわけにはいかない」という。また、橋下市長と異なる意見の持ち主が大量入党してこれば乗っ取られかねないという危機意識もあるのだろう。なかなか、画期的な試みとして評価したい。

 主要各党では、党員になる門戸は広く開かれている。自民党や民主党では建前上は「政策に賛同し・・・」などとなっているが、実際には数千円の党費を支払えば誰でも党員になることができる。党籍のある議員には党員集めのノルマがあるし、比例代表の名簿登載順位が党員獲得の数によって決められた結果名義借りが蔓延したことで参議院の比例区が非拘束名簿方式に変更された経緯もある。議員が個人後援会の会員に頼んで党費を納めてもらうというだけというのが実態に近いと言える。したがって、党員と言っても別段特別な存在ではなく、政策立案や意思決定に加われるわけではないし、公認候補になれるわけでもない。せいぜい代表選挙の時に国会議員の数万分の一程度の重さの一票を行使するくらいである。例外的に、共産党は入党のため一定の訓練期間が設けられているそうだが、かつては「鉄の規律」を誇った同党も党員の減少は深刻であるため贅沢も言っていられないらしい。

 いずれにせよ、日本の党組織は基本的に個人後援会が別の名前で出ているだけというのが実態に近いこともあり、党員の質について問われることはほとんどなかったし、党員も個人後援会員としての枠を超えて党員・党組織の一員として行動することもなかった。「一党員」は議員という地位に比べて、極めて低い地位しか与えられてこなかったのである。

 これが、議員と「対等」の投票権が付与されるというのだから、それだけも従来の政党の党員とは比較にならない厚遇だ。いきおい、入党に対しても厳密にならざるを得ないのは理解できる。

 しかし、はじめから「反党分子」を組織に入れない口実と見ることもできるし、「党費」という魅力的な金集めの手段を放棄できるかどうかは不明である。日本の政治制度は「政党政治」を前提としていると言われている以上、政党組織や党員の在り方はもっと真剣に議論されてもよい問題であった。今後の日本の政党の在り方を考える上で、今後の維新の「党員集め」に注目すべきであろう。

2012年10月11日 (木)

研究者増員と問題点

              

 クローズアップ・現代にiPS細胞によってノーベル医学賞を受賞する山中教授が出演し、その中で自身の属するiPS研究所の研究員の大半は非正規労働者で正社員は1割、今後はそういう人たちの場を作りたいという趣旨のことを述べていた。

 研究者にとっては歓迎すべき発言であろう。何しろ、今やどこの大学にも任期制の教職員が溢れ、分野を問わず若手研究者の就職難が問題になっている。任期制の臨時雇いである以上、プロジェクトが終われば椅子はなくなる。最近流行の産学共同にしても、企業側がもう金を出さないと言えばそれまでだ。自分の歩いていく道の先が長いのか短いのかは別にして、ともに断崖絶壁しかないとなれば、その道から外れたいと望むのはもっともなことである。かくて、最先端の研究を志すよりも、安定した身分と収入が得られる道に人が流れることになる(実際には、研究者志望であった者が公務員はともかく民間企業で上手くやっていくのは容易なことではないし採用も限定的ではあるのだが)。或いは、短期間で見かけ上の成果を挙げやすいものに流れる。そうした現状に鑑みれば、安定したポストを用意することで若手研究者に研究に打ち込む場を作りたいという山中教授の意見はもっともなものと言える。

 しかし、問題なのは常勤ポストに登用した場合の副作用である。このように非正規の教員が増えることになった原因のひとつが、教授というポストに安住して研究・教育に不熱心な教員を増殖させ、その高コストが大学経営を圧迫してきたことにあった。加えて、常勤ポストは無限ではないから、iPS細胞研究の部門で大量登用すれば、将来の採用枠を減らさざるを得なくなる。今「若手」を大量採用して入れ替わりがなけばそのまま高齢化していくことになるから、これまた研究組織の停滞化を招く懸念がある。更に、現在では最先端の研究でも、その後も最先端であり続けられるかどうかは分からない。今30歳とすれば、定年退職まで35年前後の職を保障することになろうが、35年後に同じ研究ができるとは理系の場合思わない方がよいのではないか。そうすると、大量の常勤ポスト採用に消極的になるのもまたもっともなことなのだ。

 ノーベル賞受賞の報奨金のように、研究費として一気に300億円が投じられるという。この研究費によって、常勤ポストが増やされることは確実であろう。非正規のままで最先端の研究者を据え置くことになれば、現実問題として待遇を餌に引き抜かれ情報やノウハウが流出するリスクもある。中国が90年代以降急速に軍拡を行うことができたのも、北朝鮮やイランがミサイルや核兵器を開発できたのも、ともに食うに困ったロシアの兵器技術者を引き抜くことができたことが大きい。

 先進諸国は新たな医療技術(イコール金のなる木ということでもある)につながることが期待されているiPS細胞技術の実用化のために競争を繰り広げている。アメリカや韓国などは、こうした分野に集中的に投資しようとしている。当然、好待遇での引き抜きというのは戦術として用意されているであろう。

 「国益」を考えてみたところで、食うに困る状態を放置して見返りを与えない祖国と、厚い待遇を与えてくれる外国を選択するとなれば、祖国を選ぶのは簡単ではない。そうでなくとも、理系の研究者はフオン・ブラウンを持ち出すまでもなく、生活を保障し自分の研究を全うさせてくれるのなら雇い先は問わないという傾向が文系に比べて強い。国益などを持ち出さなくとも、打算的な見方をしても、iPS分野での常勤採用は進むに違いない。しかし、それだけで我が国の研究者を取り巻く問題が解決するわけではない。

2012年10月 9日 (火)

祝・ノーベル賞

 京都大学の山中教授にノーベル医学賞が贈られることが決まった。iPS細胞について、世界的な研究をしている方だけに、受賞は時間の問題と言われていたものだが、これだけ早い受賞はこの分野での更なる研究が期待されての事であろう。

 iPS細胞は「実用化」されているとうわけではないから、これからが本当の仕事ということになる。山中教授は会見で国の支援に感謝されていたが、同時に支援はこれからも必要だ。今後の研究を支える若手研究者養成など、課題は決して少なくない。

 日本国民としても受賞を喜ぶだけでなく、大学という研究機関に対する国の支援について広い視野で考えることが必要であろう。多くの研究がある中で、光が当たる分野というのは成功する中でも更に一握りだ。大学の人件費が圧縮傾向にあることは良いことではない。

2012年10月 7日 (日)

「八重の桜」グッズ

 関西国際産業関係研究所の月例研究会で、大阪大学大学院の小嶌典明教授が労働者派遣法の改正について発表されるとのことで、久しぶりに同志社大学を訪れた。同志社大学は至る所工事中で、特に中学校移転跡の敷地には巨大な建物が姿を現しつつあり、キャンパスの景観は伝統的なレンガ色を基調としつつも大きく変わりつつある。

 来年の大河ドラマは創立者新島襄の妻である新島八重が主人公とのことで、早くも売店には「八重の桜」グッズが並んでいた。今のところはクリアファイルにキャラクターのイラスト入りのものだけだが、今後増やしていくらしい。

 大学がより美しく、快適になり、ドラマ等を通じて知名度が上がるのは結構なことだが、やはり大学というところは第一には学問の府でなければならない。外部の人の来るイベントは結構だが、やはり知的刺激を受けられる研究会や講演会こそが大学の行うべきイベントではなかろうか。

2012年10月 5日 (金)

外国人からの政治献金

 田中法相の政治資金管理団体が台湾人から献金を受けていたことが明らかになり、自民党の安倍総裁が早々に辞任要求を出すなど、余波が拡大しつつある。日本では外国人の政治活動そのものはかなりのレベルまで認められており、ここが全面禁止されている韓国や台湾、自国民の政治活動すら保障されていない中国と異なるところだ。としても、やはり制限はあって、外国人が献金をすることや選挙活動に参加することは許されていない。発言する自由は保障するが、国の方向を決める権利や、決める人々に対して圧力をかけることは許さないということだろう。何処の国でも、献金は政治家に影響力を与える効果的な方法であるからだ。

 外国人であることを知りながら献金を受け取っていたとなればこれはもう確信犯だが、難しいのは外国人が外国人であることを隠している場合もあり、通名を使っていれば見破るのは難しい。かつては帰化する際に日本式の名前を付けていたが、最近では外国籍の時のままの名前で帰化することもある。中台や朝鮮半島などの場合外見も似ているから、判別するのは困難である。

 外国人であることを隠して献金された場合、政治家の側で見分けることは簡単なことではない。献金の際の添付書類に戸籍謄本や住民票でも義務付けておけば宜しかろうが、献金する側にそこまで用意させるのも酷である。 

 2011年には前原外務大臣が外国人からの献金によって辞任に追い込まれ、当時の菅総理も辞任寸前まで追い詰められていた。震災によって立ち消えになったが、改めてこの問題が浮上してきたことは、外国人からの献金の是非も含めて検討する必要が大いにある。ちなみに、自民党も例外ではなく、福田元首相が受け取っていたことが判明している。

 

2012年10月 3日 (水)

「自信」が他者への「強圧」になりかねないことを自覚しているのか?

 新任の田中文部科学大臣が早くも政府方針と異なる意見を述べるなど、注目を集めている。記者会見では第一に取り組むのはエネルギー問題、第二に取り組むのは人づくりだそうだ。

 自殺問題は数年ごとに大きく取り上げられ、大騒ぎされると忘れられるというサイクルはあまり変わっていない。田中大臣はいじめ問題について、「自信を持つことでいじめを防げる」という趣旨のことを述べているが、根本的な考え方がこれでは、有効な対策は打てないのではないかと思われる。

 いじめの「加害者」を見てみると、自分に自信が全くないような者は加害者になることはまずない。人生に迷走し徒党を組んでいじめに走るものでも、いくばくかの自信は持っているし、むしろ小さな自信を守るために「弱い者いじめ」に踏み込む。まして、自分自身に強烈な自信がある者は、往々にして周囲を見下すようになるし、冷酷になりがちなものだ。強烈な自信家であって人徳者という例がもちろんないわけではないが、やはり少ない。

 私自身も反省をしなければならない点だが、自信のある分野で助言・指導を行うほど、弱者の側ではその姿が冷酷に見え強権的・強圧的に感じるものらしい。無論、私は言わなければならないし言うべき立場だから言うのであって、個々人を嫌っていたり恨んでいたりということではないのだが、そう感じてしまう者が皆無とは言えないだろう。自信を持つことはもちろん大切なことだが、「自信」は常に他者に対する「強圧」になりかねない。そこから、人間関係の軋轢が生まれれば、これはもういじめの苗床となる。

 現代社会において、自分に自信を持って生きることのできる者は幸いである。流動化する社会の中で、自分の立ち位置を得られている者は決して多くない。若年層ほど、自信を失って生きている者が多いし、実際にその方が楽に思えることもないではない。使命感も責任感も負う必要はないからだ。いじめはどの年代であっても、どの階層であっても起こり得る。エリート社員だからと言って社内のハラスメントと無縁ではいられないし、学究の徒であってもアカデミック・ハラスメントに脅えている者は少なくない。自信を持つ生き方のできるようにするということ自体、非常に難しいものだ。

 いじめ問題において精神論は毎度のように持ち出される。しかし、重要なのは組織の問題ではないか。いじめを起こし、被害を見過ごし、隠蔽しているのは組織に何らかの問題があるからである。被害を食い止めるためには、冷静な分析と判断こそが重要だ。「自信」云々という精神論だけで何とかなるような問題ではないのではないか。

2012年10月 1日 (月)

改憲は次期衆院選の争点となるか?

 自民党の安倍総裁が、次期衆院選の争点は憲法改正であるという考えを示した。安倍総裁は総理時代から「戦後レジュームからの脱却」を要求し復古的政策を掲げてきたから、自分の得意分野に引っ張り込んで戦いたいところだろう。

 しかし、安倍総裁は過去に同じ方法で失敗した。国民が憲法改正を遠い世界のように感じていることはもろちんのこと、「戦後レジューム」として糾弾の対象にされていたのが専ら国民の人権であった。これでは、いくら現在の憲法に不備があるとしても共感を得るのは難しかっただろう。支配層はともかくとして、中間層以下の人々にとっては現在の権利を放棄して戦前の体制に戻るメリットは何もないからである。

 ただし、安倍政権時代と異なって竹島や尖閣の問題に関連して日本に対する直接の脅威が迫っており、その点では憲法改正の必要性を感じている国民は増えているから、国の安全を守るという点において、改憲の共感を得られる余地はある。ただし、それと「抱き合わせ」になっているものが人権思想の否定であるとすれば、恐ろしい結果を招くことになりかねない。

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