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2012年8月 7日 (火)

疑問符の付く広島の平和宣言

 昨日8月6日は、1945年に広島に原爆が投下された日である。広島では平和を祈る式典が行われ、多くの国内外の人々が戦争と核兵器の惨禍を思わずにはいられない一日であったろう。

 しかしながら、平和宣言をはじめとする広島から発信されるアピールには、いささか疑問を感ぜざるを得ないものが目立つ。既に昔から、核兵器や戦争に関しては兎角にアメリカを非難しアメリカと同盟観にある日本を非難する一方、日本を火の海にすると公言していた北朝鮮や中国、旧ソ連の軍拡に関しては批判を手控えていたことが指摘されていた。今夏については、広島と福島を同視し、原子力そのものを悪と捉えている感すらある。

 確かに、広島で起きたことは悲劇であったし、現在福島で起きていることは悲劇であることに間違いはない。しかし、広島と福島の惨禍は全く異なるものだ。福島で起きたのは天災と災害対応が後手に回った結果引き起こされたものであり、人災の面が強いにせよ政府も東電も福島の人々を皆殺しにしようと欲したわけではない。これに対して広島への原爆投下ははじめから都市と住民を抹殺することを意図して行われており、違いは明らかだ。

 戦争放棄や平和を唱えるだけで平和を維持することができないのは歴史が証明しているところだが、原子力の全面放棄を叫んでみたところで日本国民が石器時代に戻るわけにはいかない。代替エネルギーが電力需要を賄えるようになるまでは相当長期間かかるであろし、火力発電についてはCO2排出の問題がある。かといって電気を使わない生活を強要すれば産業と国民生活の破綻を招くのは必至だ。平和を叫ぶだけで平和が生まれるどころかむしろ独裁国家に付け入らせる隙を与えて来たように、原子力の全面放棄論もまた同様の結果を招来するのではないか。

 

 

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