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2012年7月

2012年7月31日 (火)

祝・金メダル

                   

 ロンドンオリンピックで柔道の松本選手が日本選手団初の金メダルを獲得した。今回のオリンピックの柔道は色々と言われているところがあり、柔道には全く関心のなかった私としてもTV中継を見ていて首をひねるところが多々ある。それはともかくとして、日本発祥の競技で金メダルがもたらされたことは、日本人として嬉しいことだ。

 柔道では金メダル以外、全ての選手は必ず一度は負ける。唯一負けなかった者が金メダルだ。各級に送り込める選手は各国1名ずつだから、代表選手になるまでも狭き門であり、そこから世界の強豪と戦うのは心身ともに恐ろしい重圧だろう。

 表彰式を見ていて思ったのだが、金メダルを取った選手が喜んでいるように見えるのは勿論だが、次に喜んでいるように見えるのは銅メダルを獲得した選手のように見える。考えてみれば、金メダルと銅メダルは勝った直後に表彰式が来るわけだが、銀メダルは負けた直後に表彰される。このあたりの心理的なものはなかなか無視できないのではないか。日本勢は柔道では発祥国と言う事もあるのかマスコミも国民も金、金が連呼され、選手も銀メダルを取得しても「申し訳ない」が先に来る。これでは、銀メダルは負けを噛みしめる存在となっているように思われる。だが、言うまでもなく銀メダルであっても、称賛されるべきものだ。

 早寝するつもりだったが、深夜までTV観戦してしまった。これも、オリンピックの持つ魔力と言えるのかもしれない。

2012年7月29日 (日)

ロンドン・オリンピック開幕

                      

 7月27日(日本では28日朝)にロンドン・オリンピックが開幕した。既に競技の悲喜こもごもの結果が伝えられているが、実力とともに運もなければメダルを掴むことはできない。

 私がオリンピックで好きなのは、夏も冬も開会式である。開催国の「国柄」が見えるのと、参加国の選手団の表情も面白い。日本は夏も冬も大選手団を送り込むことが慣例となっているが、中には選手団が二人と言うような国もある。小規模な選手団は発展途上国に多いが、意外なことにバンクーバー・オリンピックではインドや台湾と言う経済的にも決して小国ではない国の選手団がヒトケタであった。確か台湾の出場者は2人であったように記憶している。

 かつての「整然とした」入場行進は今やもう見られないが、民族衣装で入場してくる国はある。また、経済的に豊かな国の大選手団ともなると、最近はデジカメ片手に入場してくる。今回の入場で笑ってしまったのは参加国首脳の態度で、起立して自国選手団にエールを送る者がいる一方で、写真撮影に夢中になっていて、慌ててデジカメを隣の人のポケットにねじ込んで手を振っている者がいた。北京オリンピックの際は当時の福田首相が起立すらせず顰蹙を買ったものだが、今回の野田総理はロンドンに行くことすらできなかった。

 それでも、今回の開会式は北京オリンピックで見られたような「CG」「口パク」などのスキャンダルが今のところ出ていないのは幸いである。ともかくも、四年に一度の祭典をTVで楽しみたい。

2012年7月27日 (金)

秋休み

 民主党のPTが、小中学校生に対して夏休みと冬休みを短縮し秋に5連休を設けることを盛り込んだ休暇改革の中間報告を出した。この休暇に併せて企業側にも有給休暇付与を義務付けることなどが提案されている。確かに、夏休みは長い。いささかだらける傾向も見られる一方、普段の小中学生は勉強に部活と忙しい。その点では、夏休みを短縮し秋に一定のまとまった「秋休み」を作ることはそれなりに合理性があると言える。

 しかし、その一方で大人が子供にあわせて休みを取ることは簡単ではない。有給休暇の付与を義務付けたところで、希望者が全員休むのは簡単ではないし、そもそも余剰人員が少ない中で休暇を強制した場合、小中学生の子供を持たない労働者に負担が生じることは必至だ(有給申請しても後回しにされる可能性は多分にある)。また、有給付与日数が増えるわけではなかろうし、増えたところで取得は簡単ではない。特に、秋休みに有給を強制的に振り分けた場合、他のところで休もうとすると支障が出てこよう(例えば、疾病や負傷などで休みたい時に既に有給が使い尽くされていることも考えられる)。

 最大の懸念は、これに併せて使用者側がそもそも有給を発生させないような雇用のやり方を増やしてしまうことである。そうなった場合、休みが増えたところで所得は減ることになる。若年層は時給制の非正規雇用が増加して今や主流ともなっており、これは労働日が減ること=賃金の減少につながる。そして、賃金そのものがそもそも低い水準に抑えられているから、平素の貯蓄もままならない。民主党は先の総選挙前の予想に反して最低賃金の引き上げには不熱心だから、収入に対する不安は高まるばかりとなろう。

 新たな権利拡大云々より、先ずは使えない現在の権利をきちんと使えるようにすることが先決ではなかろうか。休暇改革は我が国の労働を取り巻く制度や慣習を十分に吟味して行う必要があり、そこに思いを致さないならば重大な失態を招くことであろう。

2012年7月25日 (水)

夏の約束

 野田総理の任期切れに伴う民主党代表選挙は9月24日に予定されているが、民主党内でこれを前倒しする動きが出ていると言う。先の民主党議員総会では出席議員から野田総理は民主党代表の任期切れを待って「勇退」せよとの声も挙がっていたから、代表選挙をめぐりひと悶着は避けられそうにない。自民党の総裁選挙も同じ時期に行われることが予定されているから、二大政党の総選挙を戦う顔が決まることになる。

 それにしても、自民党政権時代を通じて夏の政争がすっかり我が国の季節行事になってしまった感がある。衆参の選挙も含めて夏に選挙・政争を行い、歓呼をもって迎えられた新政権も秋の深まる頃に失望の声が朝野に満ちる。これが十年来パターン化している。いささかひと夏の恋に似たようなところがあるが、若者がひと夏の恋を愉しむのならともかく国の舵取りがこれでは国の衰退は免れまい。

 今や内閣の寿命は今や一年に満たない。例外的に小泉内閣は5年余の長期政権であったが、この政権もまた夏に耳触りのいい約束をしては秋には破ると言う有様であったから、政権延命ができたのは幸運が重なっていたからだと言う皮肉な見方ができないこともない。

 新しく掲げられた約束、それをマニフェストと呼ぶかアジェンダと呼ぶかフラッグと呼ぶかはとかもかく、国民が簡単に飛びつくのは我が国の経済的な閉塞感から考えて無理からぬところである。政争を行う政治家が勝つことを第一に考えて耳触りは良くても問題のある約束をすることは古今東西変わらないところだが、破綻するサイクルが短くなってきているように思われる。簡単に馬脚を現す約束をする政治家が悪いのか、あっさり飛びついては直ぐ飽きる国民が悪いのか、悩ましいところだ。

 いずれにせよ、夏の約束の後遺症は重大だ。2005年総選挙で掲げられた「小さな政府」は政府政権が代わっても「改革」として基本的には継承され、その結果公的サービスの質の低下はもとより受託企業の不正や公務ワーキングプアの問題を続発させている。

 沖縄の基地をめぐる諸問題についても、2009年総選挙で鳩山民主党が掲げた「最低でも県外移転」に端を発している。これは日米関係を悪化させたという生易しい問題ではなく、北東アジアの国際的な力関係のバランスを崩し、国際対立を激化させるに至っている。普天間基地の移設を潰して周辺住民を危険に晒し続けているのみならず、日本を危機的な状態に追い込んでしまったと言わざるを得ない。現在のオスプレイ部隊の展開に関する争いも、民主党がかかる夏の約束をしていなければ、このような事態にまではならなかったのではないか。

 今年は民主自民の二大政党に加えて、衆議院の総選挙に備えて大阪維新の会や国民の生活が第一などの新興勢力も夏の約束を乱発しそうな勢いだ。少なくともできることとできないことをじっくりと吟味する必要がありそうだ。

2012年7月23日 (月)

抗議するのは悪ではないが・・・

 大津市のいじめ自殺事件で教育委員会や学校の対応に非難が集中している。事件の起きた学校は抗議の電話が殺到して仕事にならず、とうとう関係者用に新しい電話を設置し、更に一週間ごとに変更することになってしまった。

 確かに、学校側の一連の対応は非難に値するが、さすがに無関係の者が抗議の電話で殺到してきては、学校側としても困るだろう。抗議することは悪ではないが、手法については考えなければならない。

 大体、「抗議」の電話を受けるのは、大抵の場合どんな組織でも特に権限のない下っ端であることが普通だ。今では学校の事務方も非正規、契約した派遣会社から派遣労働者が派遣されている時代だから、抗議して罵倒してみたところで、電話を受けている方は組織の正式な構成員ですらない可能性も高い。そして、「上の者を出せ」と言われた時に備えて、上の者を出さないようにする教育くらいは受けているだろう。少なくとも、「上の者が出る」ことになれば、非正規労働者にとってマイナス評価となるのは必至だ。

 関係者以外の国民が国民の声として学校側に抗議することは悪ではない。しかし、業務が滞る事態を招いたり、電話に出た何の権限もない下っ端(下っ端ですらない労働者も含めて)を罵倒したところで何の解決にもならない。

2012年7月21日 (土)

東電下請け会社被曝隠し事件

 福島第一原発で東電の下請けとして事故処理作業を行っていた建設会社ビルドアップが、作業員の携帯する放射線測定装置に鉛のカバーをかけ、労働安全衛生法規則で上限の定められている被曝量を少なく見せかけていたことが明らかになった。

 原発労働者を集めるのは難しいことになっている。普通の原発でも危険性が指摘されているところ、福島第一原発とその周辺は汚染されており、多少賃金がはずまれたところで体に何が起きるか分からないのでだから、募集してもなかなか人は集まるまい。そこで、今使っている労働者をできるだけ長期間原発で働かせようと考えたのであろう。

 原発関係では中間搾取等違法行為の蔓延が囁かれてきたところだ。ただ、多くが噂の域を出ないものであったが、このように当局の手により摘発されるに至る例は珍しい。いずれにせよ、発注元の東電としても下請け孫請けの多層構造を作ったと言う事は、そこに東電本体のメリットがあると考える必要があり、その中で放射線により生ずる労働者の健康障害を東電が抱え込まなくても良いという点はあるのではないか。

2012年7月20日 (金)

シリア内戦

                      Bashar al-Assad (cropped).jpg

 内戦状態になっているシリアだが、アサド大統領側近の軍首脳が反政府勢力によって殺害される一方、シリア軍が一般市民に対して無差別虐殺を行っていると言う情報も入ってきた。欧米諸国はアサド政権を批判し退陣を求めているが、中東における拠点を失いたくないロシアはアサド政権への制裁に反対している。国内でチベットやウイグル問題を抱えている中国も脛に傷ある身だから、アサド政権への制裁は慎重にならざるを得まい。

 アサド政権が民間人虐殺にサリンやマスタード・ガス等の化学兵器を用いていると言う情報もあるが、事実だとすればアサド政権もいよいよ切羽詰まってきたということだろう。もし、アサド政権崩壊と言う事になれば、ミロシェビッチ大統領のようにアサド大統領は国際法廷に引っ張り出されることになるだろう。運が悪ければ、イラクのフセイン大統領のように絞首台に登ることにすらなりかねない。政権崩壊を食い止めるためなら、国民の命など惜しくも何ともないということか。シリアの国内情勢と先進諸国の思惑もあって、シリア情勢は泥沼化の様相を呈してきた。

 恐ろしいのは、アサド政権が崩壊しても新たな政権が樹立されることなく、イスラム原理主義組織や部族が軍閥化して国内に割拠し、戦国時代のような収拾のつかない状況になってしまう事だ。「地方分権」とか「地域主権」が実現されるわけだが、それぞれの組織や部族が自らの正義を掲げ利益を守るために果てしない戦いを続けることになりかねない。実際にソマリアは内戦によって中央政府が崩壊し、各地で部族のポスが独自の勢力を築いて内戦を続け、地域ボスの腐敗ぶりに嫌気がさした民衆の支持を得たのがイスラム原理主義組織で、地域ボスに絞られてきた国民は、今度はイスラムの名による圧政下に置かれることになってしまった。アフガニスタンやパキスタンも、中央政府の混乱によって地域を牛耳る部族が台頭しており、既に中央政府の統治の及ばない地域が相当生じている。アフガニスタンとパキスタンの国境沿いの「トライバル・エリア」が好例で、中央政府の実効支配が及ばないこの地域にアルカイダやタリバンが潜伏し、ビン・ラデインが長らく捕捉されなかったのもこの地域に身を潜めていたからであると言われている。テロリストの保護のみならず、国法よりも地域慣習や部族慣習が優先される結果、所謂「名誉の殺人」等も公然と行われている。アサド政権後のシリアも、かかる惨状になりかねない。

 アサド政権崩壊は間近と思うが、その後の国際社会がどのような支援をしていくのか。シリアが新たな国として生まれ変わるか、或いは戦国乱世に陥るかの分かれ目になると思われる。

2012年7月19日 (木)

平成24年警固祭

 今年の10月には二年ぶりに長湫地区で警固祭が行われる。私は残念ながら仕事の関係で、今回は参加することができない。まことに残念極まりない。

 この警固祭は「オマント」(馬の塔)と呼ばれ、本来は馬を神社に奉納することがメインであるが、鉄砲隊や棒の手の披露など見所は多い。特に勇壮なのが鉄砲隊による発砲で、鉄砲隊の人数は往時とは比較にならない程の規模に減ったとは言え平素簡単に見られるものではないだけに貴重である。

 ただし、この祭礼の規模は年を追うごとに縮小傾向にある。参加できる男子のほとんどが農民や地元で働いていた時代はともかく、現在では仕事の都合で参加出来ない者が増えた。これは地方の祭礼に共通して言えることだろうが、他の地域で全く知られていないと、他地域に在勤在住している者が故郷の祭礼に参加するのに職場の理解を得るのは難しい。京都の祇園祭や岸和田のだんじりのようなネームバリューのあるものならば別であろうが。火縄銃を担いで慣れない草鞋で練り歩くのも、野良仕事をしていた時代の人々ならばともかく、現代のオフィスワーカーになれば大変な肉体的負担となる。衣装から装備一式揃えるのもかなりの負担だし、仮に先祖代々の物が使えても(私は幸い父祖と大きな体格差がないため衣装をほぼ流用できた)、着るのも保管するのも一苦労だ。かつての祭礼は農村の日常生活の延長線上にあったが、今や日常生活とは隔絶した存在になっており、長湫が農村であった時代をタイムカプセルのように保存していると言える。

 また、警察による規制が年々厳しいものになっている。 この規制は主に経路に関するものと鉄砲にかんするものがある。

 行列が歩ける道路は、かつては市内の主要道路を使えたものが、今はほとんど使う事が出来ない。交通の問題はあるにせよ、京都の祇園祭などで市内の大通りを何日も使えるのとは雲泥の差だ。公道はパブリック・スペースである筈なのだが、この取り扱いの違いを見ていると、いささか警察に裁量を与え過ぎの感がある。

 鉄砲はもともと兵器であり、我が国では銃砲刀剣類所持等取締法によって世界でも稀に見る厳しい銃規制を敷いて銃器による犯罪を抑止している国である。その点では警察が鉄砲の取り扱いに神経質になる理由は十分にある。しかし、祭礼では鉄砲に対する規制が年々厳しくなり、発砲場所の制限はもとより、試射は前日に一発だけとなり、かつては恒例であった自宅を出る際に庭先で発砲することもできなくなった。見通しのきく主要道路で二列に鉄砲隊が並び、後列から順に発砲して行くと連続して響き渡る空砲が実に見事であったが、今やほとんどの発砲場所で鉄砲隊はスペースの関係で一列になる。見通しが利かないことも相俟って、不発があると間延びしてサマにならない。そして、私の知る限り警察側は鉄砲は危険だと言うだけで、規制を強化する合理的な説明まではしていないようだ。結局のところ、これもまた警察の「裁量次第」ということになる。

 我が故郷の警固祭だけではない。上げ馬神事が動物虐待に問われ、岩手の蘇民祭は公然わいせつ罪にあたるとして警察による規制が年々厳しくなっている。これらを一般的な違法行為と同視するが如き規制をおこなうことはいかがなものであろうか。不可解なのはこうした規制に対して司法の場で公然と異議申し立てをした記録が見られないことだ。例えば、公道におけるデモとその規制に関しては戦後多くの判例が積み重ねられている。それだけ規制される側の異議申し立てがあったということだ。明らかに過度で合理性に乏しい規制、それも法で明示されているならばともかく行政の裁量で行われているものに関しては、見直していく必要があるのではないか。

2012年7月17日 (火)

原発意見聴取会

 名古屋で行われた原発意見聴取会に電力会社や原子力産業の関係者が発言者として出席し意見を述べている。関係者も国民には違いないが、あたかも数年前に問題になった「やらせタウンミーティング」のようで、どうも釈然としない。ともかくも、原発が必要であると言う意見があるとしても、そうした意見を原発推進と密接に結びついている人の口から語られれば、中立性を疑われるから信用はされまい。

 過去にも原子力問題をめぐる住民説明会などに電力会社側が人員を送り込んでいたことくらいは可愛い方で、政府の審議会など原子力を規制する側にも人を送り込んでいた。これでは、そもそも中立性が保てると考える方が間違いと言う事になる。

 「行政が一方的に決めるのではなく、市民との対話が大切」という声は十数年前からよく聞かれるようになったが、対話に出てくる「市民」が何者なのか、じっくり考えてみる必要がありそうだ。少なくとも、その市民との対話だけで、全体の意見構造を把握できたと思い込んでしまうのは早計であることだけは間違いない。

2012年7月15日 (日)

ソユーズ打ち上げ成功

 日本の星出飛行士が乗ったソユーズの打ち上げは成功した。スペース・シャトルの引退した今となっては、日本人宇宙飛行士が宇宙に飛び立つためにはソユーズを利用しなければならない。

 1980年代の宇宙飛行について書かれた子供向けの本では、アポロやソユーズ等の旧来型の宇宙船に対して、新たに登場したスペース・シャトルの優位性が強調されていたのが印象に残っている。しかし、それから30年近くが過ぎた時、スペース・シャトルは退役し、「時代遅れ」になった筈のソユーズは生き永らえて、今も宇宙に人と物を送り続けている。ソユーズが開発された時代には「敵国」そのものであったアメリカも、スペース・シャトルの失敗と後継機開発の遅れにより、今やソユーズを利用しなければ宇宙開発が成り立たない。

 今となってはソユーズの技術は「旧ソ連の枯れた技術」であるが、その分コストは安く済むし、打ち上げの蓄積もある。その中には発射前にシャトルバスの車輪に尿をかけるという儀式のようなものもあるようだが、低コストで確実に打ち上げができることほど、現代の宇宙開発において頼られる要素はないのではないか。何しろ、金に糸目をつけなくても問題視されない中国と異なり、アメリカもロシアも今となっては潤沢な予算をつぎ込める状態にはない。

 アメリカが常に新技術に挑戦し続けているのは、まさにアメリカらしいと言えるのだが、一方で枯れた技術を使い続けていくロシアの姿勢は、かつての共産圏を走っていたトラバントを彷彿とさせる。

 日本でも内閣に宇宙開発担当相が置かれ、火星探査だとか色々な話が浮かんでは消えているが、日本の宇宙開発は派手さはなかったものの民生分野で着実に国民に役立つサービスを提供し続けており、一方で探査も学術に重点を置いたものとなっている。この点では、アメリカや旧ソ連のように「探検」が第一ではなかった。そう考えると、低予算で小型の探査機に何でもかんでも詰め込み、故障を続発させながらも帰還に成功したはやぶさ」プロジェクトは、ある意味日本らしい(良くも悪くも)宇宙開発の姿であったと言えるのではないか。

2012年7月13日 (金)

ブラック企業2012

 ブラック企業大賞企画委員会と称する団体が「ブラック企業2012」と称する投票の受付をはじめた。投票と審査により、その年で最もブラックだった企業を決めるとのことである。この不名誉な賞の候補には東京電力やワタミなど10社がノミネートされている。バス事故を起こした陸援隊もノミネートされているが、この10社は単に騒がれている企業名を並べたと言う気がしないでもない。

 ブラック企業という明確な定義があるわけではないが、一般的には法規なかんずく労働法を無視し労働者に苛酷な労務管理を行っているものとされている。そうした点では、飲食業界は社会保険の適用問題も含めて問題の多い業界であり、かねてよりワタミなどは不名誉な注目をされていた大企業であり、創業者が政界参入を志していたから、言っていることとやっていることが違うとして選定されてしまうのもやむを得ないところではあろう。すかいらーくやすき屋も同様であるが、一方で内定者に対して大量に退職強要していた企業はノミネートされていないから、ブラック横行と言われる飲食業界からどのように「選抜」したのであろうか。

 一方で、東京電力などは下請け孫請けのピンハネなどは原発事故以前から言われてきたところであるが、本体の正規雇用の労働者の労働条件はむしろ日本の労働者全体の中でもかなり良い部類に入る。労働条件を問題にしたというよりは、むしろ世間を騒がせていることをもってブラック企業入りさせられたように見える。この点は陸援隊も同様で、運送業界ではあれは普通だと言う意見もあるくらいである。

 それにしても、ブラック企業が蔓延していると言う日本であるが、一体これをどのようにしていくのであろうか。自由競争を推し進める考え方に立てば、ブラック企業に就職するのは労働者の自由であり、そこで悲惨な労働条件下に置かれてもそれは自己責任だと言う事になる。一方、ブラック企業を問題視するならば、それを阻止せねばならないが、誰がやるのか。労働者が訴訟なり労働審判なりで戦うには多大なリスクを伴う上に、裁判官は大抵の場合使用者側の裁量を広く認める傾向にあるし、何より証拠を揃えるのに圧倒的に労働者は不利だ。まだ、仮に使用者側が訴訟に負けたとしても、規判力は他の労働者に及ばないから、例えば不当解雇にしたところで勝訴した労働者を復職させればそれで足りることになっている(無論、他の労働者にも訴訟を起こされてというリスクはある)。

 それでは行政が歯止めをかけられるのかというと、今や「行政改革」によって取り締まり部門の人間は極度に不足している。労働基準監督官も警察官も検察官も歯止めをかける権限を与えられているが、行使されることはほとんどない。これが、ブラック企業側のやりたい放題を事実上容認する結果になってしまっている。

 何より、有名ブラック企業の他に、無名のブラック企業が山のように存在している。中小企業ともなればオーナーのやりたい放題は当たり前であり、その契約関係は使用者と労働者の契約関係ではなく、さながら主君と家臣である(それも、契約を重視するヨーロッパ型ではなく「君、君たらざれども、臣、臣たり」という日本の封建型の関係である)。このような有様では、我が国の企業社会の未来は暗いと考えるしかない。

 

2012年7月11日 (水)

護衛艦「たちかぜ」乗組員自殺事件

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 護衛艦「たちかぜ」乗組員の一等海士が上官によるいじめを苦に自殺した事件で、海上自衛隊が乗組員に対して行ったいじめのアンケート調査結果を隠蔽していたことが明らかになった。旧海軍に比べれば緩やかになったと言われてはいるが、密室である艦艇の中での陰湿な行為もまた旧海軍の伝統を引きずっていることは残念だ。

 もともと、軍事組織はいじめを起こしやすい傾向にある。軍人と言うと体育会系のタイプを連想する者が多いだろうし、実際にそうしたタイプも多いようだが、まさに体育会系はいじめを正当化し容認する傾向ある。これは体育会出身者が社会人となってからもイジメやシゴキを肯定して恥じることを知らないことからも明らかだ。

 ただ、最近では陸上自衛隊はともかく海上自衛隊や航空自衛隊では頭こそが第一になってきたらしい。高度な技術を身につけ装備を使いこなすには頭が何より大事なのだそうだ。実際、私が掃海艇を見学に行った時には、無論いかにも「海の男」という幹部がいる一方で、私よりも目の悪そうな幹部、小柄な私よりも更に小柄な幹部、肥満気味の私よりも更に太っている幹部が揃っており、案内してくれた先任伍長に「これで大丈夫か」と尋ねたところ、「頭の方が重要なのでこれも仕方がない」と言われたものだ。専門職化するということは、閉鎖的になりがちである。これもまた、いじめを産む土壌になりやすい。

 旧陸軍ではいじめによる自殺が多発しており、弾は後ろから飛んでくるとさえ言われていた。旧海軍も同様で、日本海軍の主力艦の何隻かはいじめに耐えかねた水兵が火を付けて沈めてしまった。軍隊のいじめによる自殺は、昭和初期には既に社会問題になっている。護衛艦「たちかぜ」事件の顛末を見ていると、これではまた乗組員が味方の艦艇を沈めてしまう事件が起きるのではないかとさえ思えてくる。

 自殺が多発する組織はどう考えても健全ではないし、改善の余地がある。それを隠蔽していることは、更に救いようがない。こうした軍隊を持つと言う事は、日本国の安全が脅かされると言う事だ。国家安全保障上の危機だが、どうも我が国は朝野を問わずそうした自覚に完全に欠けている。

 軍人と言えども人間であり、民主主義国の軍隊で人権無視は許されない。体質改善と再発防止のためには、大胆に外部の専門家を登用し、独立した立場で調査・改善活動を行わせるべきだ。例えば、アメリカ軍では法曹資格を持つ法務科士官や牧師資格を持つ牧師科士官が通常の指揮命令系統とは別に存在しており、一種の監視機能を果たしている。人事・労務問題に関しては幹部にそうした知識があることが当たり前で、文民の次官補クラスに労働担当が置かれ、幕僚にしても筆頭は作戦担当でも武器担当でもなく労務・人事担当だ。それだけ重きが置かれている。それに比べると、日本の自衛隊はお粗末だ。

 一方で、自衛隊での自殺事件に関して被害者側の代理人・支援者は往々にして自衛隊の存在そのものを否定したい左翼側であるから、防衛省・自衛隊としても、ただちにそうした人々の批判を受け止めるのは難しかろう。

 これは同時に、我が国社会の縮図ではないかと思える。「軍隊」は往々にして国民そのものを映す鏡となる。「娑婆」にいる我々一般国民としても、こうした事件を他人事と思う事は危険である。同時に、かかる自衛官により指揮命令を受ける「民間人」が今後増えていくことが考えられている。「民間委託」により、従来は自衛官が行ってきた業務を民間企業が行うようになってきているからだ。そうした場合、自衛官は言わば委託元の「正社員」であって、受託企業にとっては「隊員様」という扱いになる。彼らが受託企業の従業員(それもまた受託企業が結んだ契約により派遣会社から派遣されてくる者が相当数出てくることになるだろうが)に傍若無人な態度を取ったとしても、「職員様」を恐れる受託企業としては実質的に何もできまい。かくして、被害が民間に拡大する危険性を孕んでいる。国家公務員である自衛官の場合、訓練等で非人間的な扱いを受けたとしても「特別権力関係」などを持ちだして逃げる理屈がないわけではないが、受託企業の労働者相手となると、それは通用しない。受託企業の労働者は、国家と契約関係にあるわけではない。仮に法律で公務員並みの義務を負わせたところで、待遇は「非正規労働者」となることが必至だから(それは官公庁業務の「民間委託」の実態を調べれば簡単に見えてくる)、「忠誠心」を期待することも土台無理である。

 日本の安全を守るためにも、真剣に考えるべき課題ではないか。これを組織内の労務管理上の問題として労働条件審査・労務監査を行い改善策を提示する機会があれば、人事労務管理を専門とすることを長年志し学んできた者として、また国家安全保障に関心を持ち国防の重要性を認識する者として、是非参加したいと思っている。

 

2012年7月 9日 (月)

アフガニスタン支援は結構だが・・・

 アフガニスタン支援に関する国際会議が開かれ、各国は1.2兆円の拠出を行う事を決定した。日本も2400億(別に周辺諸国に800億)を出すことになっている。タリバン政権崩壊後10年が経過しつつあるが、アフガニスタンの混乱は続いており、事実上の内戦状態だ。これを放置することは危険である。

 問題は、タリバン政権崩壊後に発足した新政権も目立った成果は挙げられていないと言う事だが、タリバン政権の残党や部族社会がその足かせになっていることは以前から指摘されているところだ。また、どうしようもないものは汚職である。国際社会からの支援をつぎ込んでもつぎ込んでも、汚職が蔓延している国に対しては効果はない。政府要人と取り巻きを越え太らせるだけになってしまう。同時に、アフガニスタン国民が日本をはじめとする先進諸国を汚職役人の「仲間」と敵視するようになる危険性は極めて大きい。

 かつて、発展途上国への援助が途上国の支配層を巻き込んで「利権構造化」し、汚職の蔓延や富の偏在を引き起こしたことを忘れてはならない。現地政府の汚職を見逃すということがあれば、それは支援をしている先進国側にもそれで甘い汁を吸っている人たちがいるということにほかならない。

2012年7月 7日 (土)

尖閣諸島国有化宣言

             

 東京都の石原知事が東京都による購入を表明したことにより、尖閣諸島の所有そのものをめぐる議論が湧き上がってきた。従来、日本国政府は尖閣諸島を日本の領土と主張しながらも、その保持に関しては極めて消極的なところがあった。80年代末に始まり90年代に入って激増した中国海軍艦艇による周辺海域の調査をなすがままにさせ、ほとんど何の抗議も行ってこなかったのである。当時の軍事雑誌には中国海軍の動向も掲載されているが、日本が何のアクションも起こさないことは当時から識者の間ではおかしいと言われてきた。

 2000年代になると中国は「生存圏」獲得のために西太平洋にを自国勢力下に置く意思を隠そうとしなくなり、海軍の増強とともにまず東シナ海を「我が海」とするべく行動を開始するようになる。これに伴い、この海域では中国海軍が調査船のみならず艦隊を派遣して示威行動を繰り返すようになった。アメリカが沖縄から撤退できない理由も、この中国の動きとは無縁ではない。

 自民党政権から民主党政権になると、日本の態度は更に曖昧なものになる。もともと「親中派」と見られてきた民主党政権は、「セールスマン」としての資質しかない財界人を中国大使に任命し、与党首脳は北京詣でを繰り返した。政権獲得当時小沢一郎幹事長が大訪中団を率いて北京に渡り、中国共産党首脳に接見される際自身を人民解放軍野戦司令官に例えたことは、民主党政権の見識を象徴している。

 尖閣諸島沖で日本の巡視船が中国漁船に衝突された事件では、映像等の資料を国民に公表せず、被疑者を送り返して日本側が何も問題にしない形にしての幕引きを謀った。これでは、日本の据え膳に中国側が勘違いするのは当たり前だ。

 石原知事の尖閣購入発言に対しても、当初政府与党首脳は態度を曖昧にしており、丹羽大使に至っては「国交40周年にあたり友好を損なう」という中国政府の定型文まがいの発言までする始末。これでは、国民が石原知事の尖閣購入を支持するのももっともな話である。

 ようやく、野田総理が尖閣諸島を購入して国有化したい意向を表明した。これ自体は良い考えだと思うが、いささか遅きに失した感は免れない。政府の人気取りと思われても仕方がない。加えて、石原知事は「地権者は私にしか売りたくないと言っている」と政府のこの動きを馬鹿にしているが、政府が馬鹿にされるのは仕方がないとしても、もともと国による購入を希望していた地権者が何故石原知事にしか売らないと言っているのか理解しかねる(本当にそう言っていればの話しだが)。今や、中国脅威論・尖閣問題そのものが、中国や台湾でのそれと同じく政治的影響力を示すために道具になりつつある。尖閣購入に主導的役割を果たしたことでタカ派の支持が欲しいと言う事が見え見えではないか。親中派も親中派なら、反中派も反中派だ。もっとも、中国でも台湾でも同じことをやってナショナリズムを高め支持者を集める手法が半ば定着しているから、この点あまり周辺諸国に「大差」はない。

 ちなみに、今日は「七夕」であり、中国や台湾では2月14日の西洋的情人節(バレンタインデー)に対する東洋的情人節である。同時に、盧溝橋事件が起きた日であり、日中関係・日台関係(日華関係)ともに縁起の悪い日だ。

2012年7月 5日 (木)

いじめによる自殺と隠蔽

 大津市の中学2年生がいじめを苦に自殺すると言う事件が起きたが、この事件の調査の中で「自殺の練習」をさせられていたというアンケート調査結果があったにもかかわらず、これを公表せず事実上隠蔽していた事実が明らかになった。「またか」という気分にさせられる。

 この事件で遺族は損害賠償を求めて市といじめを行っていた生徒の保護者を相手に訴訟を提起しているが、被告側の答弁は「いじめの認識はなかった」「ふざけていただけ」というもので、いじめによる自殺事件も既に被告の答弁はワンパターン化していると暗澹たる気持ちにさせられる。そんな答弁を出しているのは、それで逃げ切れるという目算あってのことだろう。実際、職場のハラスメントを苦にした自殺も含めて、因果関係を立証して遺族が勝訴するのは至難の業だから、「原告の請求を棄却する」という判決を引き出すための法廷戦術としてはそのようなところに落ち着くのかも知れない。

 小中学校時代にいじめを受けた経験があるが、教師に申し出れば「自分で解決する意思が足りない」「そんな姿勢だからいじめられる」と言われ、同級生からは「チクった」と言われ、結局のところ救済先がないことに日々絶望していた記憶がある。私が死なずに済んだのは、放送委員会の委員や吹奏楽部でマネージャーをしており、別のところに居場所があったことが大きい。今から考えると、これは企業における過労自殺などを防止する施策としても理のあることであって、ハラスメントのある職場以外の「居場所」を持てるか否かが追い詰められないで済むポイントであるように思われる。そうした視野や視点を持つことができ、それが今の仕事につながっているわけだから、小中学校での経験は私の人生にとって役立っていると言えるが、同時に生き永らえた者としては、特に企業組織に対する働きかけを通じて、ハラスメントの防止と被害者救済を行わねばならないと考えている。本当は経験者として公共政策である小中学校でのいじめ防止にも取り組みたかったのだが、公的なポストにない私には土台政策的な影響力はないから、自分の手の届く範囲内即ち企業組織相手のことをでやっていくしかない。

 いずれにせよ、組織が存在する以上どうしても人間関係の摩擦は起きるものだ。それは、往々にしていじめに発展する。それをいかに防止するか、被害者を救済するか、そうした姿勢を組織運営に携わる者が持てるかどうかが、自殺と言う最悪の事態を防止する鍵ではないかと考える。

 ただ、今回の訴訟でも管理していた自治体や学校は隠蔽と言われても仕方がない振る舞いをしており、まだまだ道のりは長いと感じている。これは法と正義によりなされねばならない。学校に地域社会を関わらせるべきだと言う動きがあちこちであるが、私はこれに懐疑的である。地域社会が救済機能を果たせるかと言うと、そもそも法と正義より義理人情という思考で動いている地域社会そのものが排他性や強権的姿勢をもってハラスメントの元凶になってしまっている例がまま見受けられるからいささか難しいかむしろ状況を悪化させかねない。その証拠として、地方都市や田舎から若年層が脱出する傾向にあるのは単に仕事がないと言うだけではあるまい。絆と言うのは、時としていじめるがわの紐帯となるものである。実例として、名張毒葡萄酒事件を見るがよい。

 学校と言う場所は、日本のムラ社会によく似ている。明確な手続きがなく、合理性を吟味された規則はなく、就業規則作成時に労働者の過半数代表者に認められている意見を付すことすらできない。そこでの評価が人生を左右する。そして、その世界以外に引き出しを持つことが難しい。それでも、大人は逃げることができる。子供とは比較にならない資力があるし、能力があれば外の世界でより高いレベルの人生を送ることも可能だ。しかし、所詮庇護される存在に過ぎない子供にとっては、自らの意思で閉塞した世界を脱出するのは困難である。大人の脱出は経済的にも社会的にもより高いレベルの仕事を得られるチャンスがあるが、子供にとって学校からの脱出はその後の人生を棒に振るに等しい事になりかねない(実際、その後引きこもりの状態になってしまう者も珍しくない)。

 我々大人、特に組織運営に何らかの形で携わる者は、こうした事件を他人事のように思ってはならない。大人社会のより強烈な「移し鏡」であると言えるからだ。

2012年7月 3日 (火)

民主党分裂

 税と社会保障の一体改革をめぐり対立の続いていた民主党がついに分裂した。今までも五月雨式の離党はあったが、ここまで大きく割れたのは例がない。「壊し屋」と呼ばれた小沢元代表の面目躍如と言ったところか。

 ただし、今回の民主党の内紛と分裂劇に、国民の大半は極めて冷たい視線を向けているように感じる。二十年前の自民党分裂と新生党結成の時には新しい時代が来るとマスコミも好意的に見ており、あの頃の報道は中学生だったので記憶しているが、それに比べれば冷め切っていると言ってよい。

 新生党結党の時には規制緩和を主張し「新自由主義」を掲げた小沢元代表だが、その後の流転の中で「国民の生活が第一」と言うようになった。増税に関しても細川内閣の頃には「国民福祉税」の名の元税率7パーセントを深夜に打ち出したこともある。元来、「消費税増税論者」だった筈なのだが、どこで宗旨替えしたのだろうか。思えば、1996年の総選挙の時に突如「消費税を据え置く」「行政改革で増税分のねん出は可能」と言いだしたが、あの頃からか。いずれにせよ、増税に反対するものの代替となる財源に関しては曖昧な点が多い。

 国民の側もかつては甘い言葉に飛びついていたし、それは今も変わらない面がある。「大阪維新の会」にせよ「減税日本」にせよ、国民に負担増を求めなくても「特権階級」である公務員を叩けば財政再建はできるという幻想を国民に抱かせ、それはある程度成功した。しかし、その後の展望が開けているとは言い難い。票を集めるための「ビジネスモデル」としてはともかく、政策的には破綻していると言えよう。

 かつてはインパクトがあった小沢元代表の手法も、よりラディカルな橋下大阪市長や河村名古屋市長の前にはいささか霞んで見えなくもない。より過激なショーが開演している以上、かつては一定の固定客を集めることができた「小沢劇場」としてはかなりの客を持っていかれていると考えなければならない。小沢新党の展望は、かつての新生党結党の頃は言うに及ばず、自由党結党の頃よりも更に不透明と言うしかない。

 何より国民が小沢元代表に疑いの目を向けるようになったのは、2009年の政権交代後の民主党幹事長としての強権的な態度であったのではないか。幹事長室に権力を一元化し、暴走する鳩山総理の軌道修正をするどころか、民主党としてやっと掴んだ「権力」の配分を露骨に行った。詳細の分析は政治学者の手に委ねねばならないだろうが、それは民主党が批判してきた自民党政権下の権力構造そのものではなかったか。それまでは金銭的な疑惑が常につきまとったにせよ、剛腕として評価されてきた小沢元代表の評価が決定的に落ちたのはこの頃ではなかったと思う。

 私自身はデフレ状態の現時点で消費税増税を行うのは疑問を感じるが、さりとて「無駄を省けば何とかなる」という理屈はそれ以上に通用しないと考えている。小沢派の離党劇は、過去に国民に吹き込んだ理屈の再演以外の何物でもない。合従連衡と政争を見れば見るほど、国民は民主主義に幻滅して行くのではないか。

2012年7月 1日 (日)

オスプレイ配備に怒る沖縄

               大西洋で「バターン」から発艦した海兵隊所属のMV-22

 アメリカ海兵隊が垂直離着陸輸送機オスプレイを沖縄に配備することを計画しているのに対して、沖縄県では同機が試験飛行中に事故を多発させたことを理由として配備に反対している。実際のところ安全性が確認されている機体であったとしても、基地の機能強化・維持につながるものは何でも反対したに違いない。

 ただし、沖縄の反応がヒステリックとは言い切れない。何しろ、このオスプレイという機体はヘリコプターのように垂直離着陸を行い、飛行中は普通の飛行機のように飛行できる画期的な機体であるが、1989年に初飛行したもののその後は事故が多発し、実戦配備できたのは2005年のことだった。また、あまりにも事故が多かったため、本来ならば海兵隊が担当する「大統領専用ヘリ」マリーン・ワンの候補から早々に外される始末。しかも、オスプレイの配備先は住宅地のど真ん中に基地があると言う普天間である。これだけ悪条件が揃っているのだから、沖縄県民が不安になるのはもっともだ。

 オスプレイの機体自体は改修を繰り返して安全性を高めている。航空機にとって、開発中の事故を乗り越えて安全なものになったと言う例は多いので、初期段階での事故をもって永遠に危険だと言い切るのは拙速である。最大の問題は、やはり普天間基地の立地であり、これはもう何を配備しようが危険であることに変わりはない。

 本来なら、すみやかに辺野古に移転すべきだったものを県外国外をふりかざして沖縄県民に期待を持たせ、基地移設をぶっ壊したのは民主党政権であった。今回の事態も、結局のところ民主党政権が招来したと言えまいか。鳩山元総理は総理就任時に安全保証対する無知無能ぶりをさらけ出したが、これでも首相になれるのだから日本は異常な国だったと言えよう。

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