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2011年2月27日 - 2011年3月5日

2011年3月 5日 (土)

外国人からの献金問題について

 前原誠司外務大臣が、長年に渡り在日外国人から献金を受けていた事が明らかになりました。

 前原外務大臣は、本当に「知らなかった」のでしょうか。在日外国人でも、特に在日韓国・朝鮮人の方々は通名を使っている事も多いですし、外見的にも日本国民たる日本人と大きな差があるわけではありませんので、見分ける事は困難です。しかし、献金を受ける時に相手の素性を全く調べもせずに受け取ると言うのはリスクが高すぎると思います。献金には「善意」のものもありますが「悪意」のものもあります。献金を受けたから要求を断れなかったという汚職事件は後を絶ちません。政治家が自身のリスク管理を行うと言う観点から考えても、前原外務大臣は脇が甘かったと言わざるを得ません。

 また、献金する側も、制度上違法だと言う自覚はなかったのでしょうか。受け取った前原外相は知らなかったとしても、まさか渡した側が自身が在日外国人である事を知らなかったということはないでしょう。

 政治資金は、政治家が日常の政治活動を行っていく上で無視することはできません。パンフレットを配布するにも、インターネットで政策を訴えるにも、全くタダではできません。いくばくかのお金がかかります。しかし、そのお金を外国人からもらっていたということになると、日本の国益を守るべき日本の政治家が、特定の外国のために国益を損なう行動をやりかねません。献金されると、その人に強く出られないのは一般的な常識から考えても分かる事です。

 もっとも、自民党が民主党を批判できるかと言うと、難しいところです。外資系企業からの献金解禁に熱心だったのはまさに自民党であり、この点において、ともに「外国勢力の金をもって日本政界に影響を与える」という点では変わらないものだからです。

 外国勢力と結託して国内での政治闘争を有利に進めようとすることが少なからず見られますが、これは極めて危険なことです。内紛を繰り返していても外国からの侵略に団結する国は強いのですが、国外勢力と結託して内紛を行っているような国は、たとえ強国であっても亡国への道を歩むことになるのは歴史の教えるところです。

 政治家の側も慎重にならなければなりませんし、外国人の方々もこうした点をきちんと自覚していただきたいと思います。

2011年3月 3日 (木)

失敗続きの日本外交

 2010年は内憂外患と言うしかない一年でしたが、2011年になってもこの傾向は変わっていないように思います。特に、外交では鳩山政権に続いて菅政権も失敗を繰り返しており、国際社会における日本の地位を著しく低下させ続けています。
 民主党政権はいくら口先で日米関係重視と主張していても、実態は相対的に親中でありアメリカに対していい印象は持っていないように見えます。2009年に民主党は沖縄の基地問題に火を付けました。これによって、普天間基地移設問題での日米合意をひっくり返し、「合意は守られるべし」という国際法の最も基本的なルールを分かっていないことを露呈してしまいました。これでは、アメリカ政府が民主党政権に不信感を抱くのは当然の事です。
 先の尖閣諸島における事件も、民主党政権が沖縄を中国の勢力下に引き渡すかの如きシグナルを送ってしまった結果ではないでしょうか。民主党は「沖縄を一国二制度」にすると主張していたからです。そして、政府は船長以下の船員と漁船を釈放し、録画したビデオを隠し、ひたすら中国に土下座する外交を展開しました。
 韓国に対しても、既に日韓条約で解決済みの問題を蒸し返し、文化財の引き渡しまで約束してしまった。いずれ、韓国側が被害だ損害だと主張すれば日本は賠償を行わなければならなくなり、古墳から出土したようなものまで返還を求められることになるおそれすらあります。
 民主党政権の外交の失敗は、官邸の機能を充実させる云々と言う問題ではありません。民主党という政党の基本的な理念の問題です。
 もっとも、私は自民党がいいとは全く思いません。自民党時代に中国の海洋調査船が沖縄周辺海域を調べてまわっているのを放置していたことが、中国の浸透を招来したと言えるからです。また、自民党にも民主党と同様に中国に甘いことしか言わない「媚中派」がいます。また、自民党が今の段階で政権復帰したら、政権転落しないために麻生政権の末期以上になりふりかまわないことをやるのではないでしょうか。
 与野党ともに攻守が入れ替わっても「傾国」路線が継続されているのは本当に残念な事です。

「努力した者が報われる社会」という幻想

 「努力した者が報われる社会」という言葉は90年代から今に至るまでよく使われてきました。小泉構造改革の旗を振った人たちの大義名分にもなりましたし、今の政権も基本的にはこの考え方に立っています。
 ですが、冷静に考えてみてください。本当に「努力」をすれば報われるのでしょうか。答えは「否」です。少しでも世間を知っていれば分かると思いますが、努力しても報われない事の方が実は多いのではないかと思います。一方で、努力しなくても報われているタナボタ的な人もまたいることはいる。
 「努力した者が報われる社会」という言葉が蔓延した結果、二つの社会の病理とも言うべき問題を生じさせています。ひとつは、「報われていないのは努力しなかったからだ」という理屈が勝ち組によって唱えられ、負け組と自覚している人たちの諦念につながっているということです。「報われていないのは努力しなかったからだ」という理屈はもっともらしく聞こえるかも知れません。しかし、論理では「逆は必ずしも真ならず」とされています。例えば「英雄色を好む」の逆「色好みだから英雄」ということではないわけです。「報われていないのは努力しなかったからだ」という理屈は、結局のところ論理のすり替えに過ぎません。
 もうひとつは、「努力した者のだから報われて当然」という考え方が、倫理観や使命感を欠落させ、弱者に対する横暴なやり方につながっていると言う事です。これは特に大企業やベンチャービジネスで成功した経営者に典型的に見られますが、下層労働者や下請企業に対して忍従を強いたり、簡単に切り捨てる一方、役員報酬やストック・オプション等で多額の利益を得ている。しかし、多くの場合よく調べてみると、多くの人たちの努力してきた最後の収穫を得ていることが多いのです。
 台湾の陳水扁前総統は貧農に生まれながら苦学して台湾大学を首席で卒業し、在学中に弁護士となり、海商法を得意として経済的に成功し、その後政界に進出した人です。しかし、陳前総統は在職中に弱者に対して強硬な姿勢を取り、台湾国内で顰蹙を買った。貧困層から這い上がった分だけ、努力して成功したという自負が強く、それが結果として社会的弱者に対する無関心につながっていたと指摘されています。
 欧米では、こうした成功者は一方でノブレス・オブリージュの精神を叩き込まれていることが普通ですから、概して慈善事業に熱心です。アメリカでは、過去の世界大戦に際して、多くの財界人が祖国の危機を救うべく、無給に等しい状態で政府の為に働いてきました。彼らは「年俸1ドルの男」と呼ばれ、例えば海軍長官をつとめたフランク・ノックスやジェームズ・V・フォレスタル、陸軍長官をつとめたロバート・ポーター・パターソンはがその典型です。ところが、日本の財界人にはそうした姿勢は基本的には見られません。
 この背後には、報われた事はかなりの部分「運」が左右しており、そこで得た金銭や名声は社会の為に還元すべきだと言う義務感のようなものを持っているのと、そうでない日本との違いによるところが大きいように思います。ちなみに、アメリカで政治家が「ボランティア」でやっていけるカラクリとしては、こうした「成功者」が積極的に政府に入ったり、有能な人物を後押しすることが定着している事、政界を離れた後のセカンド・キャリアもまた充実していることが挙げられます。ですから、河村名古屋市長の言い分は、議会攻撃の為諸外国の制度の中から自分に都合のいいところだけ例に挙げているという不実なものとしか私には思えません。
 イスラム諸国の場合は、もっと徹底しています。啓示を信じ、預言者を信じ、宿命を信じるイスラムの考えでは、自らが財をなしたことはまさにアッラーの思し召しであり、私有財産とて本当の意味ではアッラーのものであり自分のものではない。だからこそ、イスラム諸国でも「喜捨」というかたちで社会還元が行われています。無論、この「喜捨」としてテロ団体に金が流れているとか、貧困層のゆすりたかりが常識化している点は問題ですが、少なくともアッラーに対しての謙虚な姿勢が暴走の歯止めになっていることは確かでしょう。
 ところが、我が国には欧米流の価値観もイスラーム諸国の価値観もありません。
 私は民主党政権が発足した当初、自民党政権が推し進めてきたネオ・リベラリズムに基づく勝ち組意識丸出しの政治手法が変わると言う期待を持っていました。しかし、鳩山政権時代は「与党なのだからやりたいようにやれて当然」という政治手法の元、当時の小沢幹事長が強硬姿勢を取り続けていたのは記憶に新しい。そして、菅政権も基本的には同様です。この背後には、努力して与党になったのだから、報われて当然と言う意識が民主党議員の中にあるのではないかと思われてなりません。その証拠に、過去の自分達の言動を棚に上げて、野党が悪いと言う事を繰り返している。これは、与党になったのは自分達で自分達が努力した結果国民の負託を得て多数派を占めているのだから、文句を言うなと言うことではないでしょうか。
 私は努力することは重要だと思っています。しかし、報われていない人々を「努力していない結果だ」として切り捨てる風潮は問題があると言わざるを得ません。
 我が国の政治・経済の迷走を思う時、まずは「努力した者が報われて当然」という思考が、本当に正しいのか問いなおす必要があるのではないかと思います。これは同時に、「報われていないのは努力が足りなかったからではないのか」と意気消沈し、これ以上の努力をどうしてすればいいのか分からず途方に暮れている国民を勇気づけ、日本を元気にすることにもつながるでしょう。
 「努力した者が報われる社会」という言葉は、ワンフレーズ・ポリティクスのひとつでもありました。分かりやすい言葉です。しかし、分かりやすいからと言って、それが正しいとは限らない。有権者の皆さんには、こうした詭弁・幻想を見抜いていただきたいと思います。

2011年3月 2日 (水)

学び続けたい

 「政治家は勉強していない」という指摘をあちこちで受けます。国会議員、閣僚や政党幹部ですら、憲法や法律ついて、かなり認識不足の発言をすることがまま見受けられます。何故なのでしょうか。
 私は、政治家が国政から地方政界も含めて、サボっているわけではないと思います。ただ、多忙な日々の公務や議会活動に忙殺され、十分に「学ぶ時間」を取る事ができないということは大きいのは事実でしょう。また、日本では多くの場合議員は大学卒が普通ですが、大学という知の現場から離れて当選するまでには長い時間がかかるのが普通です(まれに海部俊樹・小渕恵三両元総理や小沢一郎元民主党代表のように、大学院在学中のまま当選した方もいなかったわけではありませんが)。
 地方に行けば行くほど、大学教育は未だに「贅沢品」と見られます。まして、大学院ともなると、「講釈ばかり覚えてくる」と否定的な見方すらされることがある。しかし、大学と言うところには多くの情報が集まり、そうした情報の中には五年先、十年先の事を考える上で重要なものも少なくありません。
 例えば、私は大学で産業関係学を学びました。一般の方には馴染みのない分野だと思いますが、労働・人事労務などを総合的に研究する学問分野です。1990年代末には不景気とか就職氷河期と言われていましたが、ワーキング・プアとか非正規雇用はそれほどクローズアップされていませんでした。むしろ、世間では終身雇用が否定的に見られ、雇用の流動化が求められていた。そのモデルとなっていたのは言うまでもなくアメリカでした。しかし、大学には「アメリカの不都合な真実」の情報もたくさん入ってきていました。「派遣切り」とか「ワーキングプア」の問題は、私の記憶では2000年の前期には既にアメリカの事情を参考に、日本でも遠からず同じ事になるだろうと言われていたものです。
 私はまだ31歳です。もし、有権者から負託をいただけたとしても、その結果責任をも生きているうちに問われることになるであろうことは間違いありません。より良い将来を作っていくためには、目先の事だけではなく、十年二十年先を見据えた手を打っていく必要がある事を痛感しています。そして、そのためにはどうしても最先端の情報が欲しい。この点で、大学と言う学問の場は、決して「象牙の塔」としての価値しかないのではありません。その中には、実務家として活かせるものが沢山あります。
 私は一端はアカデミックな世界から離れました。しかし、政治活動を進める過程で、故郷と国の将来像を描くためにはアカデミックな世界からの情報はどうしても欲しいですし、私の頭の中に蓄積された情報も、アップデートしていかなければ直ぐに役に立たなくなります。ブレーンを抱えると言う手もありますが、最後はやはり自分の頭で考えなければ意味がありません。
 学ぶためには時間もお金もかかりますが、近い将来において何とか学ぶ場を確保し、新鮮な情報を政策として落とし込み、住民の為の政治に活用していきたいと考えています。

2011年3月 1日 (火)

リニモの利便性

 リニモの利用を活性化するためには、利便性をいかに向上させるかが重要な筈です。長久手町も含む愛知県は自動車での移動が常態化していますから、リニモとしては自動車を超える何らかの「利点」を示さなければなりません。
 名古屋市営地下鉄にマナカが導入され、これに伴ってリニモでも使うことのできたトランパスカードは販売されなくなりました。リニモでは従来も昼間割引のカードは使えませんでしたが、トランパスカードを使うことで地下鉄との乗り継ぎの際は楽でしたし、相応の割引も受ける事が出来ました。これがなくなってしまったわけです。
 リニモでは、新たに回数券の販売をはじめました。回数券は毎日特定の駅から特定の駅に移動する人にとっては便利なものに違いありません。しかし、「いつも藤が丘駅から古戦場駅まで乗っているが、今日は買い物をしたいから杁ヶ池公園駅で降りる」というような使い方をする時には不便です。
 マナカのようなICカードの導入のためには設備投資が必要です。一方で、切符も引き続き販売されますから、従来の自動改札機も維持しなければならない。リニモは慢性的な赤字に加えて所謂「使い込み事件」もありました。経営は極めて厳しい状態にあります。そうすると、回数券と言うのが一番手の届きやすい選択だったのかも知れません。しかし、利便性は確実に低下しますから、これで客離れが進めば、更なる負のスパイラルに陥る危険性は高いのではないでしょうか。

2011年2月27日 (日)

「政党法」の必要性

 株式会社も社団法人も法律によって組織に関して一定の制約を受けるシステムになっている。その制約が機能しているのかは論議のあるところではあるが、ともかくも会社法や一般社団法人・財団法人法を読めば、どのような組織が想定されているかはある程度分かる。もちろん、会社を作らなくても事業は可能だし、社団法人の法人格を取得しなくとも人の集まりを作ることについて基本的に制約はない。これらの法律が「結社の自由」や「営業の自由」を侵害している云々という人にはまだ会ったことがない。
 ところが、政党に規制をかけようとすると、あちこちから「結社の自由」とか「政治活動の自由」を理由とする反対の声が起きる。一方で、政党は単なる私的団体とは言えない。憲法学では我が国の議会制民主主義が政党政治を前提としていることは一般的な見解である。実際、比例代表区には政党に所属していないと立候補すらできないし、衆議院小選挙区も政党の候補者とそうでない候補者には選挙活動について大きな格差があらかじめ設定されているので、これも政党所属を前提とした制度ということができる。参議院地方区や地方議会議員は衆議院ほど政党所属を前提とはしていない制度ではあるが、無所属で参議院や都道府県議会、政令指定都市市議会の選挙を勝つことは難しい。何より、日常の政治活動で「政党」名目で行う事ができるというのは、政治献金云々を別にしても意外に大きいのである。また、政党助成金の名目で公的資金が政党に注ぎ込まれている。ここまで優遇されていて、それで「私的団体だから規制を受けたくない」と言うのは傲慢身勝手と言うものだろう。
 政党内の民主的規律や、候補者選定の透明性は必要だ。政党助成金を支出するならば、少なくとも政党法で一定の要件を満たすことを前提にすることは政党の透明化に資するだろう。もちろん、透明化したくない政党はそれでもかまわないが、助成金の交付で差異を付けることも許されるのではないか。
 最近、「みんなの党」が政党法の制定を提唱している。この党が本気で透明化したいのかは不明である。改革派を気取るポーズかも知れない。私はみんなの党が掲げる新自由主義路線には懐疑的であるし、90年代以降新自由主義派が改革派を気取って横暴な事をしてきたことが日本国民を窮地に追い込んでいるとすら思っている。しかし、政党法というアイデアは一考に値すると言えよう。

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