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2011年12月11日 - 2011年12月17日

2011年12月17日 (土)

野田総理ジョーク

 野田総理の福島原発の冷温停止宣言。記者会見をテレビで見ていた医師が一言。

 「野田総理には明らかに悪いところが二か所ある。それは舌だ」

2011年12月15日 (木)

老人栄えて国滅ぶ

 現在、年金の支給開始年齢は段階的に65歳に引き上げられているところですが、国は希望する労働者全員を65歳まで働くことができるよう、再雇用を義務付ける方向で調整に入りました。現在は60歳から特別支給の老齢厚生年金が支給されていますが、今64歳になる人をもって間もなく定額部分の支給が終了します。続いて報酬比例部分相当の支給も段階的に引き上げられていくことから、全くの無収入になっていまう者が続出することを懸念しての措置であると説明されています。

 現在提唱されている再雇用の義務化は、高齢者にとっては悪くない措置であると言えまます。働けばいくばくかでも収入になりますし、社会の中で役立っているという立ち位置も手に入れられる。承認欲求を満たせると言うのは、結構重要なものです。それなりの規模以上の企業では厚生年金の被保険者として働くことになるでしょうから、退職後の年金の上積みも期待できます。奥様方にしても、定年後夫が自宅でブラブラしていて面倒だと言う声が多いだけに、歓迎できる措置でしょう。

 ただし、企業側は使い道のない老人が増えることを懸念してこの提案には反対しています。老化は人によって個人差の大きいものですから、個人差を無視して強制的に再雇用させられるとなると、人員配置はかなり制約されることになります。老化も含めて体調は若い頃と同じではないのですから、事故や病気などを考えると、企業はより重い注意義務や配慮義務を負う事になりますから、そうしたコストも無視できません。老人を追い出したくて仕方がない経営者側の身勝手さをある程度抑制する必要性はあるものの、企業側にとってみれば老人激増で組織としての活力を失わせる懸念を抱くのもまた仕方がない事です。年齢が上の部下と言うのは、特に組織の体質が理性的ではない、端的に言って体育会系・封建的な組織の場合、スムーズな指揮命令は非常に難しいことになります。何しろ「先輩」だという理由だけで命令に従わせて盲目的な服従を強いることができたものが、その価値観がひっくり返ってしまうわけですから。かといって、権限も責任もない部下から上司に命令を出すと言うのも本末転倒で、組織としての統制を取れないことになります。

 もっと重大な問題は、こうした措置によって若者の行き場がますますなくなるであろうことは避けられないだろうと言う事です。「老人栄えて国滅ぶ」と言っても過言ではない。

 企業としても、支出できる人件費には限界がありますし、組織の中で労働者に与えることができる仕事の量と言うのも限りがあります。そこに、高齢者を強制的に雇用しなければならないということになると、若者の採用抑制や昇進・昇給抑制に走るのは当然のことと言えます。必然的に、若者にとっては仕事を得るチャンスも、昇進・昇給の機会も少なくなることになる。経済的な問題だけでなく、組織の中でしかるべき経験を積む機会そのものも失う事になりますから、長期的な目で見ると人材が育たないと言う事態になりかねません。

 これは、私の想像ではない。実際、高齢者雇用が叫ばれはじめた時代、不況とも相俟って若者の採用抑制が行われました。その結果、正規雇用に就けない若者が激増した。そして、こうした人々は非正規雇用のまま年を重ね、貴重な十代後半から三十代前半にかけて、組織の中で仕事の技術や技能を身に付けるチャンスすら失いました。結果、非正規のままで老いていくであろう「ロスト・ジエネレーション」が大きな問題となっています。国や自治体も就業支援をしたり資格を取らせたりしていますが、そうした人々にいきなり管理分野の仕事はできませんし、技術や技能のみならず体力にしてもより若い人々には敵わない。労働市場の中での永遠の負け組としての立ち位置に追いやられてしまっています。今回の高齢者の再雇用義務化は、更にこうした永遠に負け組となり、まともな仕事も生活も得られない若者を増やすことになりかねません。

 仕事に就けないと言う事は、必然的に厚生年金にも共済年金にも入る道は断たれます。これらは「被用者年金」ですから、労働者でない者が加入することはできません。こうなると国民年金に加入するしかなくなりますが、国民年金は給付水準が40年(480月)保険料を納付したとしても満額で788900円でしかありません。未納や免除期間があれば、この金額は更に下がることになる。大体、国民年金の保険料を納めることも、非正規雇用では容易なことではありません。若年者雇用の問題を解決しない限り、年金財政を更に悪化させ続けることだけは間違いない事です。

 何処に重点を置くかで、この問題は全く見方が変わります。高齢者側の利益を重視すれば、高齢者雇用は促進されるべきだと言う事になりますし、若年者の利益を重視すれば、それは得策ではないと言う事になる。そして、高齢者の方が政治的な影響力は大きい。選挙に行かない若年者は無視できても、高齢者を選挙で無視することはできません。若者に不利益を被らせても高齢者の働く場を増やしますと甘言を弄することが政治家にとっては当選への近道ですから、高齢者雇用の促進は政治的にも後押しされている。しかし、パイが限られている以上、若年者はますます不利益を被ることになります。

 少なくとも、経済のパイが増えれば問題はないのですが、どうも国も自治体もパイを増やすことにはあまり熱心な様子がありません。十数年前には工業の時代は終わりこれからは福祉の時代だなどと吹聴されたものですが、それで経済のパイは増えなかった。私の大学時代の友人に一橋大学で介護労働の問題を研究している男がいますが、彼の研究報告などを読むと、介護現場で行われているのは若年者の低賃金使い捨て以外の何物でもない。結局、若年世代が老人世代の福祉のために食い物にされているという印象を拭い去ることはできませんでした。

 年金受給世代が金銭的に裕福だとは私も思いません。実際、年金では生活できないと言う声は珍しくない。試算で月に数万円の年金を何とか増やせないかと相談者とともに知恵を絞ることは私にとっては日常の事です。しかし、若年世代はそれ以上に厳しい状態にあるように思います。二十歳になってから猶予と免除の連続で、試算してみると国民年金満額の三分の一になれば御の字と言う者はまだいい方で、延々未納と言うケースも多い。あと半世紀も経てば、65歳からの年金どころか、死ぬまで無年金という者も珍しいことではなくなるでしょう。国の将来のことを考えれば、若年世代に少なくとも職を与え、技能技術を身につける機会を与えるべきです。そうした措置を講じないまま、単に高齢者の再雇用義務化などすれば、若年世代は更なる窮地に追い込まれることになります。

 もっとも、今回の措置は高齢者の優遇と言う面だけでなく、年金受給開始年齢の更なる引き上げを視野に入れた措置と言われています。今までの国のやり方の延長線上で高齢者再雇用が義務化され、更に年金受給開始年齢が引き上げられれば、若年者の経済力が低下することで年金財政が悪化し、更に受給開始年齢を引き上げ、それが高齢者雇用の要求を生ずることで若年者の採用が抑制されると言う具合に、我が国は負のスパイラルで更に衰退への道を歩むことになるでしょう。 

2011年12月13日 (火)

行政処分と田舎の論理

 行政が行う「処分」のことを行政処分と呼びます。裁量の範囲内で行われるものですから、行政処分であれば取り消しや訂正を求める手続きがあり、公平性や妥当性などの問題もありますし通るかどうかはともかくとして、少なくとも異議申し立ては可能な制度になっています。

 これに対して、行政の裁量の余地がないようなものについては、これは行政に異議申し立てをしてもお門違い、門前払いを食らう事になります。しかし、同じように行政が行っていることから、何か文句を付ければ何とかなるのではないかという思いを抱く人もまた少なくありません。

 労働法や年金法の相談を受けている中には、行政に対して通るかどうかはともかくとして、異議申し立てを行う事を相談者に勧める場合があります。一方で、法律の条文通りの処理がされているような場合、これはもう打つ手がありません。法律そのものが違憲であるかと言うような訴えの道がないわけではないのですが、それはもう社会保険労務士との関与することではないのです。

 ところが、現実にはどうしようもないものを「何とかしろ」という相談は非常に多くある。そして、そうした人々の共通点としては「大声でわめきちらす」ことと「より上の肩書のある人に言えば何とかなる」と思い込んでいることで、こういう人から相談を受けた場合、最早法律家としての知識は役に立ちません。大抵の場合、わめき疲れてくれるのを待つかしないと言う事になります。

 私が接してきた感想から言えば、こうした「ゴリ押し要求」は田舎の人ほど強い傾向があります。そこそこの都市部の人であれば、現状を詳細に解説し、このような状態になっていることの法律根拠と、そうした法律の制度趣旨・目的を説明することで、不利益は不満ではあるものの納得していただけることが多いのですが、田舎の人になると、なかなかそうはいきません。法律の条文を持ちだそうものなら「誤魔化そうとしている!」と言われますし、制度趣旨や目的を説明する前に、大抵は「言う事が聞けないと言うのはオレを舐めている!」「オレの顔を潰すのか!」ということになります。大抵は聞きとり難い方言やなまりで喋られますから、言い分を聞きとるのは外国人と話すのと同じくらい大変です。

 一般的に、都市部よりも田舎の方が法律よりも慣習で動いているところがあります。法による支配よりも人間関係の濃淡や強弱で成り立っている部分が非常に多い。必然的に、そうした社会では「顔を潰す=敵対行為」であり、ゴリ押しをすれば流れが変わることも現実にはあるのでしょう。そうした世界では、より上の、決定権のありそうな人に直談判するというのも問題解決には有効な手続きなのかも知れません。喚き散らして畏怖させることも、交渉手段としてはそれなりに有効な方法なのでしょう。しかし、そうした田舎の論理を法律の世界に持ち込んでこられても困るのです。わめきちらすことで行政処分が変わることがあれば大いに問題ですが、それでもなお行政処分であれば処分ですから変わる余地がないではありません。しかし、法律の定めるものはどうしようもないのです。

 見方を変えれば、田舎の人が「顔」に拘るのも、顔が利くからこそ無理を通すこともでき、裏返せば顔がきかなくなることで不利益を被ることを本能的に知っているからではないかとも思われます。

 東日本大震災以降、「田舎」の人間関係や絆が見直される傾向にありますが、実際に多くの相談を受けている中で、本当にそれでいいのかと首をかしげざるを得ないことも多いのです。わめきちらせば何とかなると思っている人たちに権力を付与し正当性を与えることは、どう考えても公正な社会ではない。一方の人たちをわめき散らすがゆえに裁量権の範囲内ならばともかくとして、法そのものをを曲げて特別待遇を与えると言う事は、確実に他の多くの人々に不利益を与えることになるからです。「地域の和」や「絆」をもてはやしている人たちが、そういうところまで本当に見ているのかどうか、非常に疑わしいものがあるのではないでしょうか。

2011年12月11日 (日)

ロシア下院議員選挙不正事件

                   Vladimir Putin-3.jpg

 先に行われたロシアの下院議員選挙ではプーチン首相率いる与党が過半数を獲得したものの、ロシア全土で選挙の不正が行われたと言う疑惑が日を追うごとに高まっています。投票箱の中にあらかじめ票が仕込まれていた、反政府派の家のドアが釘付けにされていた、一人が同じ投票所で何十回も繰り返し投票できたなど、事実とすれば呆れるしかありません。

 旧ソ連をはじめとする共産主義国には「選挙」というイベントはありましたが、党の決めた候補者に対する信任投票でしかなく、しかも不信任票を入れることは非常に危険を伴うものでした。ロシアで起きていることは、まさにこの種の選挙への逆戻りを彷彿とさせるもので、反政府側のメディア弾圧やジャーナリスト暗殺事件など、ゴルバチョフ政権以来続いてきた旧ソ連・ロシアの民主化の流れは、プーチン政権になってから後退している格好です。

 選挙の不正は、しばしば独裁者失脚の引き金となる民衆暴動や革命を引き起こしてきました。一方で、ロシアで民主化暴動が起きて混乱することは、アメリカをはじめとする先進諸国も望んではいないように思われます。選挙不正問題に関して、目立った批判が首脳の間特にオバマ大統領から出ていないことがその証左ではないでしょうか。冷戦時代には想像もできないほど西側諸国との経済的関係が深まり、ロシア財界がプーチン首相の息のかかった財界人で固められている現状では、「儲け」を考えれば民主化を後押しするのは得策ではないと言う計算があるように思えます。

 また、ロシア人がどれだけ民主化を望んでいるのかも怪しいものがあります。ロシアの民主化の進展は経済の没落と軌を一にしており、プーチン体制になって強力な指導者の元経済が復興してきたことから、プーチン首相の人気も根強く、かつてのような貧困と、国際社会での弱い立場は勘弁願いたいと言う考えになるのも不自然ではない。スターリンを懐かしむ声すらあるのですから、ロシアにおける下院議員選挙不正事件の批判運動も、どれだけ多数の国民の声であるのかは今後の動きをじっくり見ていく必要があります。

 ただし、ロシアでは「強いロシア」が求められているのは確かで、国内の不満を対外政策で誤魔化してきた伝統に思いを致す時、対日関係では次期政権はより強硬な態度を取る可能性が高いのではないでしょうか。

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