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2011年8月7日 - 2011年8月13日

2011年8月13日 (土)

ハミド・カルザイ大統領不出馬へ

                      Hamid Karzai 2006-09-26.jpg

 アフガニスタンのハミド・カルザイ大統領が、次期大統領選挙に不出馬を表明しました。アフガニスタンの大統領は憲法で在任を2期までと決められていますが、他に有力な後継者がいないため、憲法を改正しての3選出馬が噂されていました。

 有力な後継者がいないと言う状況で、引退を撤回して立候補したり、或いは有力な後継者がいない状況をあえて作りだすことで多選批判を回避するというのはそれほど珍しい話ではありません。しかし、憲法の多選禁止規定を「変えて」立候補するような場合ですとか同じように改憲して任期延長を画策するような場合、成功しても失敗しても何故か晩節を汚すことが多いのです。

 例えば、ペルーのアルベルト・フジモリ大統領は、人気に乗じて多選禁止規定を変えて再選されましたが、独裁的傾向を示した揚句に亡命を余儀なくされ、現在は塀の中です。李承晩大統領やマルコス大統領も悲惨な末路を迎えました。

 翻って、ジョージ・ワシントン大統領は三選出馬を辞退してこれがアメリカ大統領の慣習となり、現在は三選禁止を法制化しています(厳密には2期つとめた大統領がその後副大統領になった上で大統領に昇格してもう1期つとめることは可能ですが)。ワシントンの引退が、アメリカにおける過度の権力集中を慣習的に予防する制度を作りだしたと見ることも可能でしょう。

 仮に有力な後継者がいなかったとしても、それならそれで育ってくるものです。要職を歴任してキャリアを積んでくるような大物も悪くないが、仮にそのような有力後継者がいないとしても、別段悲観するようなことはありません。「地位が人を作る」という言葉もあります。別段目立ったキャリアや経験のない若手でも、その地位に就いたことで学び成長する例はいくらでもある。ロシアのプーチン首相などはその典型例です。むしろ恐ろしいのは、後継者が育たないという名目の元で居座り続けた上での独裁体制です。独裁体制になればなるほど、後継者の育つ余地はどんどん少なくなっていきます。そうなった揚句に来るのは世襲です。

 エジプトやリビアが最初は革命政府として出発しながら、革命で打倒された政府より腐敗し人民を苦しめる結果になったのは周知の事実であり、こうした点でカルザイ大統領の不出馬はアフガニスタンにとって正しい選択ではなかったかと思います。勿論、こうした身の引き方が欧米諸国に好感を持たれるということも計算に入れているのでしょう。

 アフガニスタンでは現在も混乱が続いており、政府要人すら暗殺され、タリバンによって国土のかなりの地域が実効支配されてしまっています。民主化どころか、国家としての存立すら容易なことではありません。それでもなお、次期大統領として手を挙げる人物に期待したいと思います。

 

2011年8月12日 (金)

日本航空123便墜落事故から26年

 日本航空123便墜落事故から今日で26年になります。改めて、犠牲になられた方々の冥福をお祈りします。

 日本航空123便墜落事故が起きたのは1985年のことでしたが、私の記憶に残っている最初の「事件・事故」でした。「パパは本当に残念だ」という機内で書かれた遺書の一節が朝のワイドショーで紹介されたのを記憶しています。

 墜落事故の原因は大阪空港への着陸の際に起こした「尻もち事故」の修理ミスであったというのが定説となっています。私が大阪大学に通っていた頃、阪急の豊中と蛍池の間で、ジェット機が民家の上空スレスレを飛んで大阪空港に着陸するのをよく見ていました。大変狭いところへジャンボ機を離着陸させていたことが事故につながったと思うと、関空ができたことで大阪空港に降りるのは専ら国内線の中型機となりましたが、それにしても恐ろしい光景でした。

 ボーイング社の行った修理ミス、事故調査のあり方、日本航空の呆れた労務管理の実態、アメリカ依存の航空行政など、あの事故の遺産は決して少なくはありません。事故調査に関しては航空事故調査会は航空鉄道事故調査会となり、行政からの中立性をより確保する方向に動きましたが、国家レベルで見た場合この教訓が十分に生かされていないのは、福島原発事故における保安院の中立性が疑われる事態になったことでも明白なところです。

 日本航空に関しては、特に労使関係に関して様々な争いがありました。破綻した時には非常識な要求を続けた労働組合が悪者扱いされていましたが、そんな要求を唯々諾々と飲んだ使用者側も非常に問題があります。使用者側は団体交渉に応じ誠実に交渉する義務は負っていますが、交渉を妥結させる義務はなく、ましてや組合側の要求を呑む義務までは負っていません。このことを知らない経営者が実に多い事に驚かされます。組合の元委員長を海外の僻地に盥回しで勤務させ、果てはわざわざアフリカのケニアにワンマン・オフイスまで開設して島流しにしていたというのも明らかに常軌を逸していたと言うべきでしょう。

 破綻を端緒として、日本航空の経営再建が政府の支援で進められています。これに関して、全日空は「わが社は純粋な民間企業からスタートした」というコマーシャルを放送し、特殊法人からスタートした日本航空との違いを強調していました。しかし、歴史を紐解けば、全日空も経営破たん手前まで追い込まれときには、国と日本航空から支援を受け、社長から整備士まで日本航空と運輸省から受け入れるなどして経営再建を行った過去があります。

 日本航空の過去の過ちや事故について、ともすれば未だに「隠ぺい」しようとしているという話もあります。123便の残骸や遺品などについて、日本航空は処分を主張したが遺族の反対で「安全啓発センター」開設に至ったと言う経緯もあります。私も見学したことがありますが、実際に事故を起こした隔壁の実物を見、無残な姿になった座席を見、遺書の実物を見た時、活字や写真資料からでは得られない「何か」を感じ取りました。これを説明するのは非常に難しいのです。私自身、経験を最重要視する思想の持ち主でもありません。しかし、知識以外のものを感じ取る機会は非常に貴重です。

 「巨大システム」であり「安全神話」のあった123便墜落事故から26年過ぎ、今また「巨大システム」であり「安全神話」のあった原子力発電所が危機を迎えています。日本航空を含む航空業界が123便事故から学ぶのは当然ですが、事故の教訓は他の分野でも活かすことができるのではないか。航空機事故や原発事故は、それ以外の分野の者でも「他人事」ではありません。

長久手町長選挙ローカルマニフェスト型公開討論会を見て思う

 昨日は8月28日執行の長久手町長選挙立候補予定者による公開討論会が行われました。誰を支持する・支持しないということをこの場で書くわけにはいきませんし、各立候補予定者の言い分を吟味することもできませんが、三人の立候補予定者ともに様々な持ち味があり、それを有権者が知る上でよい機会にはなったのではないかと思います。

 様々な見方ができます。老練熟達の士が望ましいか柔軟な思考と将来性に重きを置くか、老練熟達としても政治経歴を重視するか、或いは民間経験を重視するか。また、素朴な保守思想に基づくものか、或いは素朴な左翼思想に基づくものか。新住民出身者が望ましいか旧住民出身者が望ましいか、経営者の経験が望ましいか労働者の経験が望ましいか、青年層の力を重視するか老年層の力を重視するか。古い血を尊ぶか新しい血を尊ぶか。具体的な政策を重視するか政治哲学を重視するか。いずれも、簡単に答えの出せる話でないことだけは確かです。場合分けをしてみれば、もっと多くのポイントを見出すことができるでしょう。

 聞き手の出自や経験によっても、各立候補予定者に対する印象や評価は大いに異なるものになっていることでしょう。同一人物に対して驚くほど高い評価をする人もいれば、驚くほど低い評価をする人もいます。ひとつの事績や才能は、肯定的にも否定的にも取られることがあるということです。これは聞き手の年齢や経歴や性別によってある程度傾向を読み取ることができるようにも思われますが、無論絶対ではありません。

 各立候補予定者に対してはそれぞれ批判がされています。ところが、Aという人物に対する批判を分析してみると、実は同じ事がBにもCにも言えると言う事が珍しいことではありません。特定の立候補予定者を支持するあまり、他の立候補予定者の批判をすることはよく見られる事ですが、ブーメランになってしまう虞があります(2008年アメリカ大統領選挙におけるマケイン候補の言動を思い返せばよい)。特定の立候補予定者の熱烈な支持者・運動員ならばともかく(批判するのも選挙戦術ではあります)、一般有権者としては批判だけでは建設的な選挙とは言えませんから、欠けているものをいかに補うかについて考えてみる価値はあります。

 ともかくも、有権者には選択の機会が与えられています。この機会を活かすか殺すかは、私たち次第と言えましょう。私は完全無欠な人間と言うものも全ての有権者に受け入れられる政策もない以上、補完するとすればどのような点か(無論、補完や助言を受け入れる余地があるか、受け入れるような人格かの検討も含む)もまた、考えを及ぼしてみたいと思います。

 何れにせよ、出席の上持論を披歴された立候補予定者の方々に、改めて敬意を表したいと思います。私のようにブログで情報発信するだけならば誰でもできることですが、立候補予定者として多くの有権者に自らの全てを吟味に供することは大変な覚悟と決断と勇気が必要なもので、簡単にできるものではないからです。健康に気を付けられて、8月28日を迎えられることを願ってやみません。

2011年8月11日 (木)

長久手町長選挙ローカルマニフェスト型公開討論会

 本日8月11日、長久手町文化の家(風のホール)において、長久手町長選挙立候補予定者による公開討論会が開催されます。主催は、社団法人愛知中央青年会議所です。

 立候補予定者の人物識見政策等を知る良い機会だと思います。

長久手町長選挙ローカルマニフェスト型公開討論会

日時:2011年8月11日(木曜日)18:30開会(18:00受付)20:33閉会

場所:長久手町文化の家 風のホール
   愛知県愛知郡長久手町野田農201番地

出席者

  大島 令子 氏

  かまた 進 氏

  吉田 一平 氏(吉の字は冠が士ではなく土の異体字)

 なお、会場の定員は300名で、先着順に入場となりますので、満員の場合は入場を断られる場合があるそうです。

2011年8月 9日 (火)

司法制度改革の失敗

 桐蔭横浜大学と大宮法科大学院大学が、法科大学院(ロースクール)を統合することを発表しました。実質的には桐蔭横浜大学に吸収され、大宮法科大学院は廃止されることになります。法科大学院制度が発足した当時、「社会人も法曹になれる!」ということを前面に打ち出し、法科大学院単独の大学として有名大学設置の大学院に並ぶ「難関大学院」であっただけに、関係者の方々はさぞ不本意な最後と思います。

 両校とも募集定員を大きく割り込み、合格者数・合格率も低迷していますから、学生を移すことに関してはそれほど支障はないと思いますが、膨れ上がった教員をどうするかが最大の問題になるのではないでしょうか。大宮法科大学院大学は第二東京弁護士会のバックアップにより、弁護士兼任の教員も多いですから「本業」に戻ればよいと言えないこともないのですが、専任の研究者にとっては首の問題があるだけに、統合は決して簡単ではないでしょう。

 それにしても、鳴り物入りで発足した法科大学院ですが、現実は大変厳しいものとなっています。2010年には合格者数3000人(それ以上もあり得る)とされていたのが、現実には2000名程度に留まっており、今後は合格者数をむしろ絞ることが確実な情勢となっています。法科大学院1学年の合計は6000名程度ですから、当初の想定ですら法曹になれるのは半数程度に過ぎないものだったのですが、これがせいぜい3分の1から4分の1になるわけです。卒業生のほとんどが専門職に就くことすらできない(更に、就けたとしてもそれで食えるかはまた別)専門職大学院と言う、まことに奇怪な存在となってしまいました。

 そこで、各大学院とも卒業要件を厳しくて「何割かは落とせ」という方針になっていますが、途中で挫折して「普通の道」に戻れるほど甘くはありません。一番価値の高い「新卒大学生」すら有り余っている状態で、年齢も高く企業にとっては「中途半端な余計な知識」を持っている者は尚更行く先はないでしょう。私の友人にも、音信不通になってしまった人は何人もいますし、運よく大学院を修了できていても、合格した人は数えるほどしかいません。平均水準から見れば知的エリートにあたる人々をすり潰して労働市場に受け入れられない人材を大量に作り出しているのですから、教育資源の使い方としてまことに非効率であると言えます。

 司法試験が激烈な試験であることに変わりはありません。見掛け上の合格率は上がっていますが、法科大学院入試の段階で絞られますから、実質的な法曹志望者に対する合格率は決して高くはない。「5年以内に3回」という受験制限もあります。そして、残念ながら大量の知識を詰め込み受験テクニックを身につけなければ合格は望めません。これでは、大学進学の段階で法学部に進み、法科大学院と併せて6年~7年勉強する人が有利になるのは当然と言えます。法科大学院制度を導入した時には「法学部以外の学部出身・社会人も法曹になれる!」というのが売り物でしたが、そうした人が合格したと言う話はほとんどありません。確かに、頭の極端にいい人というのはいますから、そういう人が合格することはあるでしょうが、非常に稀な例外です。従来のキャリアを捨てるかたちで仕事を辞めたりして法科大学院に入ってきた人たちの一部は休職制度を利用しており元の職場に戻れたケースもありますが、大部分の人たちは片道切符でしたから、その後の就職は容易なことではない。アルバイトで糊口を凌ぐ生活を送っている人も多いのです。

 それでも司法試験の合格者は長らく500人という時代が続いただけに、合格しやすくなったとは言えます。しかし、その時代に比べて裁判官や検察官に任官する枠はほとんど増えていないと言うのが実情です。司法制度改革で増えたのは事実上弁護士だけだと言っても過言ではありません。犯罪を摘発して起訴するかどうかを決め実際に刑事訴訟を遂行するのが検察官であり、民事刑事の訴訟を裁くのが裁判官です。裁判官も検察官も公務員ですから、削減の声はあっても増員の声はほとんどなく、関係者ですら増員は質の低下を招き、少数精鋭のエリートであると言うプライドもあって増員を要求していると言う話は聞いたことがありません。

 この結果、公判前整理手続き等の制度は導入されたものの、相変わらず裁判は長期間かかるものとなっています。特に民事訴訟は時間がかかります。私が大学院時代に恩師である山田長伸先生(大阪大学大学院特任教授・弁護士)の御好意で傍聴させていただいた裁判は、一回の期日で裁判官が着席して開廷してから閉廷するまで5分、次回は一箇月以上先と言うことで終わってしまい、書面の応酬があるとは言え、これでは長引くのも無理ないと感じました。弁護士以上に裁判官は多忙で、ボトルネック状態になっているようです。これでは、迅速な裁判と言う司法制度改革の目的は見事に失敗していると言わざるを得ません。解雇の裁判の場合、平均15箇月かかります。15箇月というのも第一審判決が出るまでの期間で、控訴・上告まで争えば更に時間がかかります。司法制度改革を推し進めた小泉総理は「思い出の事件を裁く最高裁」と名言を残しましたが、訴訟の間まともな仕事を数年間できない立場に置かれる労働者にとってはたまったものではない。訴訟に煩わされる経営者も同様です。

 検察官の数もほとんど増えていません。この結果、検察官は前にも増して厳選して起訴をすることになります。事件を起訴するか不起訴にするかの判断は検察官が握っており、検察審査会の議決による強制起訴という例外規定はありますが、発動されているのは小沢一郎容疑者の事件等ごくわずかです。そして、検察官が公判を維持する自信のない事件は、どんどん不起訴になっていきます。人命を奪うと言う最も悪質な殺人事件ですら、起訴されるのは7割から8割なのですから、後の事件は言うまでもありません。痴漢事件が目立つのは、簡単に有罪にできると言う検察官側のメリットもあるようです。

 検察官は労働事件に対する知識も乏しく認識も極めて低いものがあります。「傷害事件の被疑者は確かに私の会社の従業員でした。弊社は土木現場に労働者を派遣する仕事をしています」という内容の供述調書が傷害事件の教材の一部として配布されてしまったことがありました。講義の本筋とは全く関係がない話ではありましたが、教材を作った全国の刑事司法の超一流の専門家でも、労働者派遣法は知らなかったようです。こうやって育てられた人の優秀な人が検察官になる。これでは、労働基準法をはじめとする労働・社会保障関係法令で違法行為を繰り返したとしても罰せられることは殆どなく、悪質な事業主が悪質な違法行為を繰り返すのは当然の帰結と言えましょう。罰則がまともに発動されない法律は道徳の本と大差ないわけですから。

 実際、大事故を引き起こし運転手が懲役5年6月の実刑判決を受けた事件で、労働基準法違反に問われた企業側は略式手続で罰金30万円という判決でした。世間を騒がせるくらいの大事故でようやくこれです。被害者の報復感情としては不満の残る話でしょうし、この程度の罰則では甘く考える経営者の方がむしろ多いのではないでしょうか。

 司法制度改革をするしないにかかわらず、無責任な悪人を事実上野放しにするという事を肯定していいわけがありません。こうした点で、司法試験の合格者を増やす一方で検察官を大幅増員しなかったのは、不十分な改革であったと言わざるを得ません。

 司法制度改革は、法曹供給の面でも多用性を確保できず人的資源を無駄遣いし、迅速な裁判も実現されず、悪人が起訴すらされない。はっきり言って失敗であると考えます。まずは、政府与野党法曹三者に文部科学省はこれを認めるべきではないでしょうか。

 率直に言って、司法制度改革の問題は多くの国民にとっては身近な問題ではないでしょう。恐らく、政治家も地方議員はもとより国会議員でもほとんど関心はないものと思います。しかし、無関心でいればいずれ大きな代償を支払う事になるでしょう。何故ならば、司法制度改革の失敗は最終的に国民に押し付けられることになるからです。トラブルに巻き込まれた時、訴訟の長期化などと一緒に支払う事になりますが、訴訟に勝っても負けても失うものが非常に大きくなることだけは間違いないことなのです。

2011年8月 7日 (日)

国民年金追納制度について

 国民年金の保険料について、未納分であったものを10年に遡って追納できる制度を定めた法案が国会を通過しました。国民年金は原則として25年間納付しなければ老齢年金の支給を受けることができない制度になっています。この追納制度によって、老齢年金の受給権を得ることのできる人が増えると政府は説明しています。

 確かに、「うっかり払わないままだった」とか「昔は払うつもりがなかったが今は払いたいと思っている」というような人に対しては、こうした追納制度を設けることは救済に有効でしょう。しかし、そもそも何故これだけ国民年金の未納が増えたのか。その根本的な原因を解決しないことには、救済制度をいくら上乗せで作っても無意味と言う事になりかねません。

 よく言われているのは、年金制度そのものに対する信頼の喪失です。保険料を納付しても受給できないだろうから、納付そのものが無駄であると言う理屈です。少子高齢化が、この「ぼんやりとした不安」に拍車をかけている。大学の有名教授ですら、講義の最中に「年金制度は破綻します」などと話している者もいました(ただし、この教授は社会保障法や労働法の専門家ではありません)。確かに、年金財政が苦しいのは事実ですが、国庫負担の率の変更によって、制度そのものの維持のみならず現行の給付水準を維持することは可能です。法政策の問題ですので、やるかどうかは最終的には国民の意思になりますが。年金制度破綻云々と言っている人の話を聞いていますと、基本的な公的年金制度すらまともに理解していない者が少なくなく、酷いケースでは社会保険と私的保険の区別すらできていない者もいます。年金保険料を使って建設業界に金の流れる仕組みを作り、使われない施設を大量に建設する等の問題はありましたが、それはそのような利権構造を作ったことが問題であって、公的年金制度の本旨と直接関係はありません。

 公的年金制度に対する信頼云々以上に問題であるのが、国民年金の第一号被保険者が負担に耐えられるかどうかということです。国民年金には被保険者の区分があり、保険料を直接納付しなければならないのが第一号被保険者です。自営業者や学生、無職などの人々がこれにあたります。

 何故、国民年金の未納が増えたのか。これは1990年代より続く不況に大きな原因があります。本来ならば厚生年金や共済年金という「被用者年金制度」に加入できる筈だった層が、まともな就職ができずに被用者年金制度の枠からこぼれ落ちたということです。資力を失った人々が、国民年金の保険料を負担するのは簡単ではありません。

 ロスト・ジェネレーションという言葉があります。現在の日本では、1990年代末から2000年代初頭にかけて就職の時期を迎え非正規雇用で働かざるを得なかった人々を主に指しています。今回の追納制度をもってしても、恐らくこの人々は救済されないでしょう。何故ならば、未納であった時期と比べて懐具合が全く好転していないからです。むしろ、より若い非正規労働者や外国人労働者に非正規雇用の職ですら奪われつつあるのが実情です。

 「追納」制度を作るのは簡単ですが、過去に払えなかった経済状態の人々が、今払えるようになっているかというと疑問です。過去の保険料どころか、今の保険料すら払えない人々が増えているのが実情ではないでしょうか。無論、「人生一発逆転」という人もいないわけではないでしょうから、追納制度が全く無意味になることはないでしょうが、これで多くの人々が救済されると考えるのは大きな間違いであると思います。 

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