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2011年7月24日 - 2011年7月30日

2011年7月29日 (金)

北朝鮮問題を政権延命の道具にすべきではない

 民主党の中井元拉致問題担当相が「私用」で政府の拉致問題対策本部の職員を連れ、中国を訪問して北朝鮮の当局者と接触した事が問題になっています。中井元大臣はあくまで「私用」だったと主張しているようですが、そうすると同行したこの職員は「有給休暇」でも取っていたのでしょうか。もし、議員の私用に同行するに際して職員に「出張手当」でも支給していたと言うことになると、それもまた問題です。

 それはともかく、菅総理は北朝鮮と抜き差しならぬ関係にある団体に6000万円以上の寄付をしていたことが問題になっています。6000円位なら「お付き合いで寄付した」というようなことも言えるのでしょうが、6000万円ともなると、これは容易ならぬ関係であったと誰しも思うでしょう。韓国人から献金を受けていたことは震災発生であっさりと吹き飛びましたが、これも本来ならば内閣総辞職ものの責任問題であった筈です。中国・韓国・北朝鮮と言う特定アジア諸国との関係について、従来から民主党は弱腰で何か弱みでも握られているのではないかと言われ続けていました。それだけに、これらの国との関係で土下座弱腰と取られるようなことをすること自体、大きなマイナス・イメージになります。「やはり」と思われてしまう。

 自民党政権時代から、北朝鮮問題は「政権維持の切り札」にされてきた感があります。政権が危機に入る度に、幾度となく「何人かの拉致被害者を追加で帰してもらい、北朝鮮と国交を結ぶことで政権浮揚を謀る」という話がささやかれてきました。この方法では、他の拉致被害者は見捨てられることになりますし、核兵器やミサイルによる我が国への脅威は消えません。一方で、北朝鮮に対しては「過去の清算」という名目で、多額の援助がされると言われています。これは北朝鮮にとっては大変「美味しい話」です。拉致問題については既に北朝鮮は認めてしまっていますから、あと数人帰すことで残りの問題を全てウヤムヤにでき、多額の経済援助がもらえるのですから。日本にとっては、拉致問題の本質は何ら解決されず、多額の国費と技術が北朝鮮に流出することになります。つまり、日本で得られるのは数人の拉致被害者返還を除くと、時の政権の延命のみ。これを売国政策と言わずして何と言えば良いのでしょうか。

 小泉総理以来、時の総理の「電撃訪朝」による「政権浮揚」は幾度となくささやかれてきたことです。そして、中井元拉致問題担当相の動きは、菅総理の電撃訪朝のための地ならしと見れば、隠さなければならなかったことも納得できます。どのような弁明をしようとも、あまりにも「怪しすぎる」行動に、不信感を抱かない国民は少ないのではないかと思います。

2011年7月27日 (水)

調査捕鯨を中止するな

 水産庁の検討委員会は、調査捕鯨に関して外圧に配慮して規模の縮小や中止を併記した報告書をまとめました。捕鯨の中止や半永久的な「停止」も非現実的な話ではなくなってきたように思われます。既に、シーシェパードの執拗な妨害によって調査捕鯨船団を任務途中で呼び戻しているだけに、日本は外圧に屈するとのシグナルを送ってしまったに等しく、今後は更に調査捕鯨に対して執拗な妨害が行われることになるでしょう。

 もともと、グリーンピースなどは日本で支援しているのが左翼団体関係者だそうで、この左翼関係者と民主党支持者が重複しているという話もあります。「平和」とか「環境」と言われると思考停止してしまうような人たちが与党にいるわけですから、政府与党の動きが調査捕鯨縮小・停止へ向かう事はそう不思議な事でもないように思われます。

 しかし、これで調査捕鯨を中止・縮小するようなことをすれば、日本が掲げていた「調査」はその必要がなく、「鯨文化」も保持するほどのものではないということを自ら宣言したに等しい事になります。単に鯨肉の需要が増減したから規模を減らせと言うような単純なものではない。鯨肉の需要が増えたからと言って、調査捕鯨の捕獲頭数を増やせるような状況にはならないでしょう。報告書で「中止・縮小」と書いてしまったこと自体、日本の後退を世界に示すことになります。

 シーシェパードやグリーンピース等の環境テロ団体は、言うなれば暴力団です。ヤクザに一度譲歩すれば付け込まれるということ自体を知らないと言うのではまことに情けない。彼らにとっても、反捕鯨を利用した反日活動は欧米の企業や芸能人から金を集める絶好の口実になっている。一種のビジネスで、捕鯨がなくなっても、鮪ですとか、まだまだビジネスモデルを維持する=金集めの口実はあるわけです。捕鯨の中止だけで日本がテロリストから逃げ切れるとは思えません。捕鯨船団の次は鮪漁船が襲われることになるでしょう。

2011年7月25日 (月)

ノルウェーにおける爆破・銃乱射事件に思う

 ノルウェーの首都オスロと郊外のウトヤ島で22日に起きた爆破と銃乱射による死者は、23日までに計92人となりました。真相解明は今後の捜査を待たなければなりませんが、逮捕された被疑者は移民排斥主義者であり、キリスト教原理主義者であって、増え続けるイスラム移民を排斥するために移民受け入れを推進していた与党集会を襲撃したという報道もなされています。ノルウェーの移民は比率では人口の7パーセント程度であり、1割をイスラム系移民に占められているオランダに比べると低い数字ですが、それでもなお相当な摩擦は起きていると考えるべきでしょう。

 「多文化共生」「国際化」を声高に叫ぶ人は珍しくないのですが、決して簡単なものではない。宗教も生活習慣も異なる移民が入ってくれば、摩擦は避けられません。感情的なものならばともかく、移民に仕事を奪われたり、アファーマテイブアクション等で不利益な取り扱いを受ける側としては、生活の問題もかかってきます。宗教によっては世俗法を否定して、自分達の宗教に基づく法秩序を自治に準じて認めるよう要求するケースもあります。そうなると、国民国家の枠組みが破壊されることになりますが、その後に来るのは「多文化共生社会」ではなく、異なる価値観が衝突を繰り返すだけの「混沌」ではないでしょうか。

 労働力不足とか、より安価な労働力を求めて移民受け入れを唱えることは簡単です。そして、「国際化」「競争」「多文化共生」という言葉が後押ししてくれる。しかし、移民を受け入れた後の摩擦を如何に考えるべきか。答えは簡単ではありません。少なくとも、「国際競争力の強化」を主張している大企業が負担に応えるとは思われない。そんな負担をすれば、それがコストに跳ね返り、競争力が失われると大企業側は主張するでしょう。必然的に、移民受け入れに関するコストは政府や地方自治体即ち国民が負担することになります。国民の側にその覚悟があるのかと問われれば、現段階ではないと答えるしかありません。一部の政治家は「移民一千万人受け入れ」というようなことを主張してはいますが、大多数の政治家にとっては今のところ喫緊の問題として捉えられてはいないようです。国会議員レベルですらそのような状態ですから、地方政界となるともう問題外で、「沢山外国からお客様が来てくれれば町興しになる」程度の認識しかない。

 我が国には「キリスト教」のような、一神教ベースの宗教的排他主義は基本的に存在していませんが、それは宗教的排他主義を持たない者同士では成り立つ「理屈」ではあるでしょうが、全ての宗教との間に成り立つわけではありません。

 今のところ、我が国では極端な外国人排斥運動こそ起きてはいませんが、低所得者層を中心にナショナリズムに心の拠り所を求める人々が増えていることは確かです。外国人に対して暴力的な行動に出ないと言う保証はありません。比較的生活習慣が近いと言われる在日韓国・朝鮮人や在日中国人との間ですら、よく見ていると摩擦が広がっていると言うのが現状ではないでしょうか。

 勿論、外国人を受け入れると言うのもひとつの選択肢です。ただし、全ての外国人に「郷に入れば郷に従え」を要求することはできない。宗教的な背後関係があればなおのことです。未だに自治会関係者の中には「氏子にならないので困っている」などと言っている人がいますが、神社と言うのは宗教施設です。したがって、その構成員たる氏子になることを強制できる筋合いのものではないし、そもそも半ば公的な組織である自治会が特定の宗教に資するようなことをするのは好ましいことではありません。それでも、今までは多くの日本国民がある種の「無宗教状態」であったからよかったのですが、自分の宗教に厳格な人々の方がむしろ世界的には多数なのです。厳格なキリスト教徒やイスラム教徒にとって、「氏子になれ」と要求されて氏子になると言うのは、「異教」「多神教」という二重の意味で罪を犯すことになり、言わば地獄行きの切符を買うようなものだから受けいられるわけもない。従来の多神教的な村社会の価値観を全て放棄する位でないと、受け入れは難しいのではないかと考えざるを得ません。

 今回の事件の真相究明はこれからになりますが、遠い他国の話であると考えるべきではない。特に、今後地方行政・地方政治に関わる方ほどこうした事件から真剣に学んでいただきたいものです。

2011年7月24日 (日)

アナログ放送終了

 TVの地上波アナログ放送が終了しました。それにしても、本当にデジタル放送にすべきだったのか、視聴者にとって利のあることと言えたのか、検証する必要があるのではないかと思います。

 デジタル化によって、従前のTVは基本的に観られなくなりますから、「買い替え需要」を強制的に発生させる事が出来ました。また、デジタル化によって従前のアナログ放送のものより、録画したものの複製が困難となり、著作権に神経質になっているソフトウェア供給側としても、これは魅力のある話であった事でしょう(もっとも、インターネット上を調べるとデジタルで放送された番組がコピーされて流出している事例がまま見受けられますので、人の作ったコピーガードは人の手で解けると言う事でしょうが)。

 一方、消費者側・視聴者側としてはどうなのでしょうか。データ放送が楽しめるとか、多チャンネルが楽しめるというのが当初のウリではありました。しかし、テレビの特徴は新聞やインターネットと異なって、「読む」とか「アクセスする」とかいうプロセスを経ずに一方的に情報が垂れ流し状態で入ってくるところにあります。スイッチを入れてチャンネルを合わせておけばいいわけです。いいか悪いかは別にしてこれがテレビからの情報入手の特徴です。そうすると、わざわざ機器を操作してまでデータ放送で送られてくるデータを視聴者が欲していたのか、疑問符が付きます。

 また、双方向というウリについても、実際に双方向で行われている番組は限られています。多チャンネルに至っては、そもそも制作側が二の足を踏んでしまい、これも民放では実現できていません。最近はテレビ番組の制作費がどんどん削られているそうで、昼間テレビを付ければ健康食品のCMと韓流ドラマばかり。夜は芸人が出てきては消えている。情報入手方法が多角化している現在、相対的にテレビの価値は落ちていると言えます。必然的に広告費も削られ、それが番組制作費の低予算化につながっている。負のスパイラルに陥っているのが現状です。

 今回の地上波デジタル放送一本化は、「国策」で国民に無駄にもったいない機能を付加したテレビを持たせた。一方で、国民の側がメリットを享受しているかと言われれば疑問符を付けざるを得ず、近い将来にメリットを享受できる見込みもない。司法制度改革と同じく、政治的経済的な思惑が独り歩きして、結局「一番弱く発言権も小さい」ところに負担を負わせる「改革」をやったと言えなくはないでしょうか。

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