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2011年6月19日 - 2011年6月25日

2011年6月25日 (土)

大村知事提案の政務秘書設置に賛成する

 私は大村秀章愛知県知事の政治理念や手法に必ずしも賛同しているものではないが、政治任命の政務秘書を設置する件については原則的に賛成できる。日本の首長は政治任用・政治任命できる余地が非常に少なく、これが官僚機構に頼らなければ挨拶ひとつ出来ないと言う事態を生んでいる。政治家が政策立案能力を高めるためにも、政治任用の制度を拡充する必要性があるように思われるからである。

 ところが、愛知県議会の自民党や民主党は「公務員削減に反する」などと言って反対しているそうだ。そもそも、「公務員削減」すら本当に正しいのか疑う必要があり、更に政治任用の秘書は首長の離任によって当然にその任を解かれるべきであるから、政治任用の知事秘書は従前の一般的な公務員と同じベクトルで考えるべきではない。役人を使わず「新たな血を入れる」意義は大きいのではないか。

 むしろ、政治任用された秘書が本来求められている政策的な面ではなく、専ら知事の選挙準備や政治活動のために使われるようになる事をいかに防ぐかが問題とされるべきであろう。また、猟官運動や情実人事の防止も検討されねばなるまい。

 実は、日本でも明治時代には政治任用の余地が大きい制度を採用していたが、これを政党が悪用したことによって情実人事や猟官運動が横行し汚職の温床となってしまった。当時は政党勢力に対抗した藩閥勢力が健在の時代であり、情実や猟官を理由として藩閥側は文官任用令を制定し、これによって政党勢力(=反藩閥勢力)が官僚機構に入ってくる事を阻止しようとしたのである。そうした点では、どっちもどっちだったと言える。

 大村知事が政策的な幅を広げるために政治任命の秘書を置くのであればよいのだが、国会議員の公設秘書のように税金を使って選挙の事前運動をするのであれば、これは議会に反対されても仕方があるまい。何しろ、政治任命の秘書がいようといまいと、知事は巨大な官僚機構を指揮命令することで政策立案もできるし政治的影響力を行使できる。一方の県議会議員には公設の秘書すらいない(私設秘書もいないことが珍しくない)。知事の政策立案能力なり政治力が強化される一方、議会に何もないのでは、さすがに均衡上問題なしとは言えないであろう。

2011年6月23日 (木)

沖縄戦慰霊の日

 6月23日は沖縄戦慰霊の日です。1945年6月23日に、沖縄を守っていた第32軍司令官牛島満中将が割腹自決し、日本軍の組織的抵抗が終わったとされています(厳密には歩兵第32連隊は終戦まで連隊長以下約50名が抵抗しています)。現在の米軍基地問題に至るまで、一連の流れは「沖縄の悲劇」として語られることが多くなっています。

 しかし、単に悲劇を語り継ぐだけでは十分ではないと思います。沖縄をめぐる問題は、単に本土唯一の地上戦と米軍基地だけではありません。

 現在の沖縄は東シナ海の要衝となっていますが、戦争末期まで沖縄は後方の一諸島に過ぎないものでした。日本の対米最終防衛ラインを考えてみますと、「絶対国防圏」と称したのはサイパンを含むマリアナ諸島でした。そのサイパンすら開戦後長らく「後方基地」扱いで、前線を思い切って下げた結果が「マリアナのラインで米軍を迎え撃つ」だったわけです。ですから、ましてや沖縄は戦略基地として大して重視されていなかったと考えるほかありません。

 現在の沖縄が睨むのは中国や北朝鮮と言った特定アジア諸国を含む東アジア諸国ですが、太平洋戦争当時朝鮮半島は日本の植民地でしたし、中国の沿岸部は南京を首都とする中華民国政府の支配下にあり、日本が戦っていた現在の台湾政府に連なる中華民国政府は重慶に首都機能を置き、戦線は中国奥地でした。

 沖縄の悲劇は、太平洋戦争では対米戦の前線が後退してきて準備不足のまま前線になってしまったこと、戦後は中国北朝鮮が問題を起こし続け、地理的に自由陣営の最前線基地としての役割を否応なく担わざるを得なくなってしまったところにあると思われます。

 もし、沖縄が太平洋戦争中に台湾並みに防衛が強化されていたとしたら、沖縄線は起きなかったかも知れません。実際、アメリカ軍の中では硫黄島を陥落させた後はただちに日本本土に上陸する案や、中国沿岸部に上陸して日本軍を重慶政府軍との間で挟み撃ちにすることが検討されていたくらいで、「相対的に見て出血が少なくて済む=防衛が甘い」ということが、沖縄の悲劇を招来したと言えます。

 また、迎え撃つ日本側も当初首里を最終ラインとする作戦が途中で変更され、避難民の多い南部へ退いて先頭を継続して民間人を巻き込み、また軍と県庁(=内務省)とが連携せず、結果的に民間人保護が後回しになり、10万人近い民間人の死者が出ています。

 沖縄の持つ地理的特性、パワーバランス上の問題、有事の際の民間人保護の問題等、今の日本が沖縄戦から学ぶことはまだまだ沢山あります。沖縄戦の失敗から学ばなければ、それこそ日本は悲劇の繰り返しを招くことになるのではないでしょうか。

NHK大河ドラマ「八重の桜」

         

 2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」は、同志社の創立者新島襄の妻であった新島八重を主人公とした物語になるそうです。新島八重は東北会津の出身で、東日本大震災への復興支援の意味を込めて、急遽制作が決まったとの事です。

 母校の創設者夫妻がNHK大河ドラマで取り上げられるのはまことに嬉しい事なのですが、この新島八重という女性は「悪妻」「烈婦」「鵺」と呼ばれ、新島の教え子からは「先生の結婚は大失敗だ」などということを言われていたそうです。さすがに、新島襄の妻についての「悪いうわさ」は同志社では教えてもらいませんでした。2009年4月22日に放送された「歴史秘話ヒストリア」を観て仰天した次第。

 もっとも、新島襄と新島八重のカップルの姿は、今ではごく普通に見られるものですから、100年ほど時代を先取りしていたと言えないこともありません。

 最近の大河ドラマでは、主人公が立場上顔を合わせることすらない他の歴史上の人物と面識があったり、気に入られたりしていたという設定がされていることがまま見受けられます。このままだと、八重も新撰組の某と面識があったとか、そういう意味不明な設定はやめてもらいたいところです。
 

 初期の同志社がどのように描かれるのか、襄との関係がどう描かれるのかなど楽しみなところです。

2011年6月21日 (火)

フォークランド=マルビナス紛争再燃か

 イギリスが実効統治していたフォークランド諸島(アルゼンチンではマルビナス諸島)にアルゼンチン軍が侵攻し、奪回するイギリスとの間で紛争が起きたのは1982年のことでした。

 当時のアルゼンチンは軍政下にあり、不況もあって、国民の不満を逸らすためには「勝利」が必要だったためだと言われています。同時に、イギリスはその数年前に正規空母を退役させてしまっており、イギリス本国から遠く離れたフォークランド諸島を軍事力で奪回することはできないと思われていたことも、アルゼンチンの侵攻を招く結果となりました。

 イギリスは正規空母を退役させたものの、シーハリアーやハリアーという戦闘攻撃機を運用できる軽空母は保有しており、また紛争地へ迅速かつ高速で展開できる原子力潜水艦も保有していました。補給艦や輸送艦も多数有していただけでなく、民間船舶を徴用できる制度もありました。先に退役した豪華客船クイーン・エリザベス2もこの時に陸軍部隊の輸送に駆り出されています。

 紛争勃発後イギリス政府は直ちに軽空母二隻を中心とする機動部隊を編成して送り込み、フォークランド諸島奪回に成功しました。

 ところが、イギリスは財政難もあって艦上で運用できる戦闘機も攻撃機も全て退役させてしまいました。新しい空母と艦載機が運用できるようになるまで10年ほどかかる見込みと言われています。水上艦も削減され、数年前に就役した揚陸艦もオーストラリアに売却。個々の艦艇の能力は向上している一方、自己完結した部隊を遠征させる能力は明らかに落ちています。

 アルゼンチン政府は今月、フォークランド諸島出身の男性に対し、アルゼンチンの「国民身分証」を付与しました。日本で言えば、「北方領土に居住しているロシア人に日本国籍を与える」と言うようなものですから、紛争再燃かと危惧されています。アルゼンチンとしては、最近のイギリスの特に海軍を中心とした大規模軍縮を見て、「簡単に取り戻しには来られない」と踏んだからこそ、イギリスを刺激する策を取ることもできたのでしょう。

 「力の空白」ができれば、新たな力が侵入してくるのは国際政治の理です。戦争を防ぐためには、少なくとも日本周辺に「力の空白」を作らないよう、日本が相応の努力をしていくことが必要であると言えます。

2011年6月19日 (日)

東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)

             諸君は皇軍のために祈れ

                         ニコライ・カサートキン(1836年8月1日~1912年2月16日)

          

 先日、御茶ノ水駅の近くを歩いていた時、「ニコライ堂」を見かけました。御茶ノ水に行ったのは全く別の用事であったのですが、用事を済ませた後多少時間がありましたので、参観してみました。

 正式名称は「東京復活大聖堂」と呼ばれるニコライ堂ですが、これは正教の教会です。西ヨーロッパはカトリックから一部が分裂してイギリス国教会やプロテスタントになりましたが、正教は東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノポリス(現在のイスタンブル)中心に主として東地中海世界で西のカトリックとは異なる教義や典礼を発達させてきたキリスト教の一派です。正教はコンスタンティノープルからキエフ公国(ウクライナ)を経てロシアに伝わり、日本に伝わったのは幕末の事です。

                  

 はじめて正教の司祭として日本にやってきたのがニコライ・カサートキン(亜使徒聖ニコライ)で、日本における正教の布教に大きな役割を果たしました。私は同志社大学の出身ですが、創立者である新島襄とニコライとは大変深い縁がありました。

                    

 ニコライは函館のロシア総領事館の司祭として赴任してきたのですが、当時新島も函館に来ており、両者は互いに語学や日本文化を教え合ったそうです。

 聖堂内部は撮影禁止でしたが、装飾のないプロテスタントの教会とはかなり異なって煌びやかであり、カトリックともまた違う独特の様式美がありました。

 また、東京復活大聖堂は日本における正教の中心地であり、日本正教会の主座主教聖堂であるため、普通の聖堂と異なって教会のドームの真下には一段高い「主教座」がありました。

 私はイスタンブールで、かつてコンスタンティノープル総主教座の置かれていたハギア・ソフィアを見学しましたが、ここはオスマン帝国に占領された際にジャーミー(モスク)に改修されており、近代になって無宗教の博物館になる際に発見されたモザイク画等を除けば、正教の教会であった施設はほとんど残っていません。

 私が参観した時、ニコライ堂の内部には棺が運び込まれ、葬儀の準備が行われていたところでした。今も「生きている」正教の教会を見学できた事は、ハギア・ソフィアのような博物館となったところを見学するのとはまた違った感慨がありました。

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