憲法記念日です。私は改憲の立場に属していますが、現在の「改憲派」の多数意見には率直に言って違和感を感じています。
改憲派の多数意見としては
・GHQによる押し付け憲法である
・権利の規定ばかりで義務の規定が少ない
・日本的な価値観が書き込まれていない
というものが主に挙げられます。
このうち、GHQによる押し付け憲法については、憲法制定の経緯を見れば明らかなところですが、内容に踏み込んだものではないし、憲法改正の直接理由にするのは難しいのではないかと思います。
権利規定云々は日本青年会議所の「憲法タウンミーティング」等でも繰り返し主張されていたことなのですが、これこそ近代的意味の立憲主義を全く理解していないと言うしかない話です。憲法によって「国家を縛り国民を守る」のが近代憲法の主たる目的なのですから。
ついでに言えば、社会奉仕を主たる活動としている青年会議所関係者はともかくとして、「権利規定云々」「義務云々」と言っている人たち、特に保守を名乗る政治家を見ていると、かなりの部分が自己中心、好き勝手、やりたい放題を繰り返し、弱者に対して義務規定を押し付けんとする姿勢が見て取れます。西欧のノブレス・オブリージュではありませんが、自ら率先して義務を果たし弱者の権利を守ろうとする者をほとんど見た事がありません(無論、ノブレスたる特権も我が国にないことは確かですが)。背後に、従順な国民作りという主目的があるのではないかと疑いたくなります。
憲法に日本的価値観が書き込まれていないという点については、これも間違いです。少なくとも勤労の権利義務に関しては日本人の持ってきた勤勉さを基礎として書きこまれた規定です。
近代人権思想に基づく規定は本来日本的なものではありません。しかし、日本はその歴史的な過程の中に人権と言う思想はそもそも存在しない概念でありました。日本には伝統的に思想の自由も信仰の自由もなかった。未だに「村八分」とか「ムラ社会」が残っており、選挙ではムラ社会的な飲み食いで毎回摘発者が出ているのが何よりの証左であると言えます。
インテリ層にしても、検察官や裁判官は自白偏重主義や秘密主義に未だに凝り固まっている。検察の証拠ねつ造事件や警察の拷問まがいの事件は記憶に新しいところです。法的素養のあると言われている人々ですらこれなのですから、一般市民の法的素養は実のところ欧米諸国に比べて低いとしか言いようがありません。したがって、日本の伝統にはデュー・プロセス(適正手続き)という概念もない。
私は選挙戦で「自主防犯組織の推進」とともに「適正手続き確保のための制度の整備」を訴えていましたが、「難しすぎる」「上から目線すぎる」と周囲の者に批判された記憶があります。しかし、日本にはデュー・プロセスという概念は、伝統的な価値観にはなく、一般的な価値観とも言えない状態です。かかる状態のままで自主防犯組織が拡大して行けばどうなるか。
「怪しい男がいたので、ちょっと捕まえて数発お見舞いしてやったら自白した。共同体にとって危険な犯罪者だから処罰してくれ」
というようなことになりかねない。適正手続きと言う人権法・刑事法の基本原則を欠いた状態に置くことは非常に危険なのですが、それをほとんど訴えることができなかった。大規模災害の際に警察が十分に機能しない状態になった場合など、市民の自主的防犯が治安維持の主体になった場合のことを考えると特に心配です。
憲法が西欧人権思想に基づくものである以上、日本的価値観が書き込まれる余地はそもそも低いものであったとしか言いようがありません。
アジア諸国で近代立憲主義に立脚した国はそもそも多くはなく、自由と民主が守られているような国は日本の他に韓国、台湾、トルコなど少数派と言うしかない状況です。言うまでもなく、韓国にも台湾(中華文明)にもトルコにも、西欧近代の人権思想と同等レベルの人権思想など存在してはいませんでした。日本も含めて、直接間接に西欧諸国の人権思想を「導入」したわけです。
アジアには西欧的な近代立憲主義と異なる価値観に基づく憲法を持っている国も多い。例えば、サウジアラビアがそうです。憲法はクルアーンとハーディスなので所謂「イスラム法」ですが、イスラム法は当然ながら男女は平等ではなく、拷問や公開処刑、更に奴隷化の規定もあり(実際に「法的な奴隷」は存在していないそうですが外国人労働者が実質的に奴隷のような扱いを受けています)、人権思想というものは存在していない。人権思想はベースになっているキリスト教とともに、イスラームとは相容れない価値観とされています。
中国や北朝鮮のような社会主義国の憲法も人権を保障してはいません。例えば、言論の自由に関して言えば、日本では総理大臣がバカだと公言して歩いてもただちに罪に問われることはありませんが(むしろ納得してもらえるかも知れませんが・・・)、アチラの国で最高指導者がバカだと批判したらどうなるか。これは日本でもよく知られている事です。
人権思想を「導入」したことは、何ら恥ずべきことではないと考えます。人権蹂躙国家になることの方が恥じるべきことでしょう。
次に、「護憲派」の主張についても検討して見ましょう。最近の護憲派が後生大事に掲げているのは「第九条」です。「九条の会」なるものもあちこちで作られています。
「9条と25条が憲法の根幹」
などという主張までされていますが、これも全くおかしな話です。
「近代立憲主義の意味での憲法」で重要なのは政府の交戦規定でも戦争放棄の規定でもありません。あくまでも人権の保障、特に自由権の保障です。この点において、第9条の「戦争放棄」は、あくまでも人権保障のための「手段」のひとつに過ぎない規定です。言い換えれば、戦争放棄で国民の人権を守る事が出来ないなら、転換することも容認されてしかるべきということになります。例えば、全く抗戦せずに北朝鮮の攻撃に屈して全面降伏するような場合、日本人はことごとく収容所に送られることになるでしょうが、そのようなことを座して認めるようなことはあり得ない。
25条は生存権を定めた規定であり、それ自体は重要な人権規定です。しかし、人はパンのみで生きているわけではありません。尊厳なき生存権というものは、実質的には無意味です。ドイツ基本法でも人間の尊厳の方が生存権よりも上位の概念とされています。生存権はあくまでも自由権を補完する規定と考えるのが自然ですから、これを「憲法の根幹」などと称してしまうのは、これまた憲法をまとも学んでいないことを自ら証明している事になります。
私は改憲派ですが、その主眼は政府・自治体機構の改革の面においてです。いくつか、改憲すべきと考える例を述べましょう。
「徴兵の義務」を書き込むことには反対ですが(仮に書き込んでも現在の義務規定と同様の訓示規定に過ぎないものになるでしょうが)、国軍の創設には賛成ですし、国家機構の中で軍隊の指揮命令や権限は明示されるべきです。
また、地方自治制度については憲法は二元代表制のみを定めていますが、住民自治と団体自治の原則のもとで、もっと自由な制度設計の余地が自治体側にあるべきです。地方自治の権利は多数説においては国家の元で分権されているということになっていますが、自然権に基づく前国家的権利であると構成することも可能であり、前者はともかく後者の立場に立つとかなり広範な制度設計が認められてしかるべきと考えられます。
現在の改憲派の意見も護憲派の意見も聞いていると、真に日本にとって必要な憲法の在り方を模索していると言うよりは、自分達の政治的立場の強化の方を優先している感が否めません。
まず、必要なのは冷静な分析と議論です。