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2011年4月17日 - 2011年4月23日

2011年4月18日 (月)

ブログの更新を停止します

 明日から町議会議員選挙がはじまりますので、ブログの更新を停止いたします。

 私は、個人的な見解としてはインターネットを利用した選挙運動を解禁すべきだと考えており、それを違法行為としている現行の公職選挙法は、自由な選挙運動を原則としている憲法に違反している疑いが濃厚であると思っています。

 しかし、現在の法は法であり、法令を順守した活動を行わなければ公人となる資格もまたありません。

 しっかりと活動を行い、これまでブログで述べて来た事、また有権者の皆様方と直に接して伝えられ、感じて来た事を、より公的な場所で発言して行けるよう頑張りたいと思います。

      平成23年 4月18日

               水野 カツヤス 拝

追伸

 事務所は開いています。そして、皆様方とお話しする自由はありますので、ご来所いただければ幸いです。

 場所は

  愛知県愛知郡長久手町打越509番地

  (町立西小学校の北 名古屋長久手線沿いで長久手郵便局と田中鮮魚の間です)

 となります。

防災姉妹都市協定の締結について

 既に周辺自治体の中でも他の自治体と防災協定を締結されたところがあります。我が長久手も、急ぐ必要はありませんが、他の自治体と防災協定を締結し、相互に助け合う体制作りをしていく必要があると考えます。

 大規模災害が発生した場合、大都市の中心部ですとか、極端に被害の大きい自治体はマスコミに取り上げられやすく、相対的にせよ物資が集まりやすく、救援の手も差し伸べられます。しかし、そうでなければ、被災地の声はなかなか届きません。しかも、災害発生時には情報が錯綜することが多々あります。そこで、被災地の外で「長久手だけを見つめてくれている」相手が必要なわけです。

 基本的な枠組みとしては、長久手の行政機構が広範囲に渡って破壊されてしまっているような場合(災害対策の資料を調べてみると、行政機構が広範囲に渡って破壊される程の状態にはならないとされており、私もその調査結果を信じたいのですが、「もしも」ということは考えておく必要があります)、特に支援物資や人員について、協定を締結している自治体に取りまとめて送ってもらうと言うことになります。大規模災害の際には行政機構が麻痺状態に陥る事が珍しくなく、物資を集積してもさばき切れないことが想定されますし、必要な物資や人員のスキルと送られてきた物資や人員のスキルとのミスマッチを防ぐ必要もあります。そうなったとき、被害を受けていない自治体が取りまとめて送ってくれれば、住民に必要な物資や支援が迅速に届くようになり、行政機構の負担も軽減することができます。

 もちろん、協定を結んだ相手の自治体が大規模災害や紛争に巻き込まれた場合、長久手が全力を挙げて助ける事になります。「情けは人の為ならず」は決して死んだことわざではありません。

 協定を結ぶ相手先の要件としては、ある程度長久手から離れたところにある自治体と言う事が第一の要件となります。三重県や静岡県の自治体の場合、東南海大地震でも起きたときには長久手以上に被害を受けて救援どころではなくなる可能性があるからです。福島第一原発事件のような放射能汚染のことも考慮すると、九州や北海道の自治体との締結も検討すべきだと思います。

 また、相手の自治体が過疎ですとか、財政状況が悪いような場合も、十分な救援を受けられない可能性が出てきます。一方で、相手先の自治体があまりにも巨大な被害が生じやすいような場合、長久手の対応できる範囲を超えてしまい、十分な支援を行う事が出来なくなる。そうなると、相手探しは何処でもいいというわけにはいきません。

 どちらかが極度に依存してしまうような関係では、人間関係と同じく長続きはしないでしょう。双方の自治体がWin-Winの関係を作れるよう、ある程度の時間をかけ、十分な話し合いをして、その上で協定を締結する必要があります。

 また、単に防災協定だけでなく、姉妹都市として幅広い交流を行うことで、町外の視点から意見交換をすることができれば、行政や議会の活性化も図る事が出来ます。例えば、職員の相互派遣だけでも、異なる組織に身を置く事で得るものは多いでしょう。だからこそ、私は「防災姉妹都市協定」を締結すべきだと考えているのです。

 長い目で見て、長久手の安全を確保できるような体制作りをすることこそ、政治の役割と言えるでしょう。安全が確保できないことには、福祉も経済活動もままならないことになるわけですから。

リニモ活性化の方向性について

 アメリカは車社会だと思われがちであり、実際にほとんどの地域では車がないと生きていけません。しかし、車社会から脱却して、公共交通機関が多用されている地域があります。それは、首都のワシントンDCです。

 私は3年前、当時シンクタンクの研究員をしていた知人の招きではじめてワシントンを訪れました。実は米領自体、足を踏み入れるのははじめてのことで、ハワイにもグアムにも行かずにいきなりワシントンに来る日本人は珍しいと言われたものです。

 その時に、ワシントンでアメリカ政府の中枢機関が置かれている地域をまわりましたが、基本的に地下鉄で用が足りてしまいました。宿泊させていただいた家はワシントンの隣のバージニア州アーリントン郡にありましたが、そこから地下鉄で毎日ワシントンに通いました。

 これは、ワシントンの再開発で地下鉄を再整備し、地下鉄の利便性と治安を改善し、ワシントン郊外の住宅地であるバージニア州やメリーランド州からの通勤に便利なようにしたためです。このため、ワシントンやその周辺では、車に頼らずとも通勤通学でき、車のシェアなどの動きが進んでいます。

 これは、リニモ活性化のために、大いに参考になる例だと思います。

 リニモの赤字が続いています。現状では、イルミネーション事業やイベント等行っていますが、抜本的に赤字解消につながってはいません。恒常的な需要を創出しない限り、単発的な打ち上げ花火では、状況は変わらないでしょう。

 名古屋への通勤の利便性を向上させ、宅地開発と連動すればどうでしょうか。長久手町のリニモ沿線に住み、そこから名古屋に通勤する。このスタイルが定着すれば、リニモは債務ではなく、有益なインフラとして活用することができます。

 リニモそのものは優れたシステムです。騒音はほとんどなく、高架の下で普通に会話していても、通ったことすらなかなか気が付かないくらいです。普通の鉄道では対応できない急なカーブや高低差にも対応できる。これを生かすか、殺すかは、まさにこれからの政策立案次第です。

 ただ、そのためには長期的な視野で取り組む必要があります。住環境を整備し、通勤の利便性を向上させることは、すぐに成果が出るものではありません。土地区画整理だけでも、簡単なものではない事は自覚する必要があります。十年先、二十年先のことを考えて、取り組むべきです。

町議会議員の定数をいかに考えるべきか

 議員定数の削減が、最近の「流行」になっています。そこで、町議会議員の議員定数のあり方について、考えてみたいと思います。

 議員定数削減派の主張は、議員定数を削減すれば無駄が減り、議員の資質も向上すると言うものです。一方、現状維持派又は増員派の主張は、議員には住民の声を届けるという仕事があり、議員定数が減ってしまうと、この仕事が難しくなると言うものです。どちらの主張も、一理はあります。

 しかし、定数を減らしたとしても、ただちに議員の資質が向上すると言う保証はどこにもありません。もし、議員が多いと資質が墜ちるのであれば、日本と比較して議員数の格段に多いドイツやイギリスの議会などは日本以上に無茶苦茶な状態になっていなければなりませんが、むしろ日本では手本とすべきだとさえいわれています。議員を減らす事が無駄の削減につながると言う意見についても、議会制度そのものを無駄な存在として否定する理屈と変わらないものになってしまいます。

 一方で、議員が増えたとしても、それだけでただちにきめ細かな住民の声が届く保証もまたありません。住民のニーズは多用であり、そのニーズの数だけ議員を揃えると言う事は現実的には不可能であり、結局一人の議員がある程度「まとめた」上で伝えると言う事にならざるを得ないからです。

 私は今後地方議員のあり方をどのように考えるのかによって、答えが分かれてくると思います。

 ひとつは、地方議員を自治体の立法や行政の監視を行う一種の専門職とする考え方です。この場合、地方議員の数は削減され、高度な立法活動や調査活動について賄えるだけのそれなりの支出を増やす必要があります。地方議員は制度上原則的にはパートタイムになっており、フルタイムとして制度設計させていませんから、改める必要も出てきます。兼業の禁止等、権力に比例して課せられる制約を増やすのも当然と言えましょう。

 一方で、地方議員はパートタイマーであり、住民の声を伝えるのがメインの仕事であると考えれば、高度な専門的知見を磨く必要などはそもそもなくなります。そうなると、副業として議員をすれば足り、必然的に歳費も削減できる事になります。

 私は、地方議員をめざす立場としては、専門職として取り組みたいと思います。今や地方自治体といえども国際レベルの問題と無縁ではいられませんし、処理すべき課題もひとつの自治体だけで解決できないようなものも多く、そうした中で広い視野に立って活動する必要があると考えるからです。また、住民の意見を総合的に調整する機能を確かに地方自治法上地方議会は持っていますが、情報収集に関してはある程度専門性を持つ行政府に委ね、最終的な判断に議会が集中するということで対応できるのではないでしょうか。ただ、そうした高度な活動をしていくためには、住民の方々も地方議員とはそのようなものだという理解をしていただく必要があるのではないかと思います。

 また、制度設計にまで考えを及ぼせば、アメリカの地方自治の場合、公選で選ばれるのは首長と議員に限られないと言う事も考える必要があります。アメリカでは教育委員は公選であり、判事や検事も公選で選ばれる場合があります。中には、死刑執行の見届け人まで公選で選ばれているところすらあります。

 確かに、アメリカは議員こそ少ないのですが、公選されるポストも多く、政治任命のポストも非常に多いのです。日本ではそうしたポストが少ないことも考慮に入れておく必要があります。また、日本では「この道一筋」という方が評価されますが、アメリカでは政治ポストを渡り歩くのが普通であり、議員を辞めた後に更に活躍する元議員も珍しくありません。

 更に、政治と行政、司法や経済界との行き来もするのが普通です。人材育成として、日本は新人議員が議席に座って勉強して行くのに対して、アメリカの場合は政治任命のポストに就いて勉強すると言うことが多いようです。いずれにせよ「即戦力」というものはアメリカであっても実際は幻想に過ぎない存在とは言えるでしょう。

 議員定数の問題に関しては、地方議員のあり方から、制度設計に至る部分までを総合的に検討して進める必要があります。今の賛否意見は、残念ながらあまりにも短絡的過ぎ、いずれを選んでも禍根を残す事になるでしょう。

 地方議員はいかにあるべきか。まず、そこから議論を始めるべきではないでしょうか。少なくとも、自分の当選のための保身や、或いは自分の身が安全だからという意図で削減案に賛否を示すのは論外です。

 (自由な制度設計まで視野に入れれば、アメリカの州議会のように二院制にしてしまい、専門的知見で立法活動に携わる少数精鋭の専門職議員と、住民の多様な声を反映させるための多くのパートタイマー議員と別個の議会を作ってしまうということなども考えられるます)

2011年4月17日 (日)

部活動等は学力向上の障壁か

 4月14日に書かせていただいた「教育環境の改善は簡単ではない」について、イベントや部活動が学力向上の障壁になるのではないかとの御指摘がありましたので、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

 確かに、一見するとイベントや部活動は学力を直接向上させる場とは必ずしも言えません。進学が基本的に「学力」で決まる事を考えると、学力向上につながらない場に子供を送り込む事に不安を覚える父兄が多いのも理解できます。

 ですが、教育は必ずしも学力だけが全てではありません。全人格の向上こそが目的ではないでしょうか。私が名古屋第一高校時代三年間担任としてお世話になった恩師は、しっかりと学力向上のための勉強をさせてくれましたが、一方で学校行事の手を抜くことは決して許しませんでした。私が高校時代、学力を高める一方でリーダーシップや思考について向上させる事ができたのは、この先生の方針のお陰であり、この恩師なくして今の私はなかったと言っても過言ではありません。

 また、社会人学生として大学院で学んで思ったのは、学ぶと言う事は決して遅すぎると言う事はないということです。学びなおす機会は、いくらでもあります。一方、人格は簡単には変わりません。

 かつて、管理教育全盛時代に部活動や学校行事は苛烈を極め、当時の話を聞いていると日本の話か北朝鮮の話かと思ってしまいます。しかし、一方でその時代に比べると学力の低下が嘆かれていますから、決して学力向上との両立が不可能であるとは思われません。むしろ、日々の勉強と異なる場に身を置く事で、新たな発見や将来設計のできる機会を与え、学力向上の動機づけになるのではないかと考えます。

 無論、私は管理教育に戻る事には絶対に反対ですし、部活動や学校行事が子供たちに苛烈極まる圧迫をするものであってはならないと思います。

 また、学習の場では少人数教育を推進する立場ですから、個々の子供にそれぞれ適切な教育を施すことで、全体的な学力も向上させられるのではないかと考えています。

「市民派」を名乗る根拠は何か

 「市民派」を名乗るのは一種の流行になっています。「市民派」を名乗るだけで、政治から距離を置いたフレッシュな存在に見えるから、選挙で無党派票を集めるのには有利になると言われています。

 では、「市民派」を名乗らない者は市民派ではないのか。私は「市民派」を名乗らない者も、市民派であると考えます。何故ならば、西欧型の民主主義政治システムを導入している国では、市民に支えられない政治家と言うものは基本的に存在し得ないからです。

 確かに、日本では選挙で「政府転覆」を公約に掲げたり、対立候補に「神である自分に逆らうのだから、腹を切って死ぬべきである」と要求することも自由ではあります。しかし、こうした候補者は当選することをはじめから意図していないことが多く、当選を目指しても実際に当選した例は皆無です。

 また、一人では選挙もできません。巨大な組織を作らなくとも、後援会長や出納責任者くらいは置く必要があります。そして、一票で当選できる選挙と言うものもまた、ありません。

 日本の公職者は、全て有権者から選ばれなければなりません。そして、その票を投じる有権者とは、市民階級そのものであります。中国や北朝鮮の議会ならば、「党」や「軍」が事実上指名してしまう議席もあります。しかし、日本の場合は警察官や自衛官とて有権者として自由意思で一票を投じます。

 そうなると、日本の政治家は全て市民に立脚しなければ存在し得ない。つまり、「市民派」以外の政治家はそもそも公職者として存在する事が出来ないのです。何故、わざわざ「市民派」を名乗られるのか、市民派でない政治家が日本に存在しうるのか、市民派と呼ばれる政治家の方に一度聞いてみたいと思うのですが、何故かその機会がありません。

 また、「市民感覚」や「住民目線」を訴えられる方も多いのですが、そもそも市民の感覚は教育程度や経済、経験等によってもかなり異なるもののはずです。また、政治家とて地方議員は住民でないと立候補することすらできないのですから、住民目線以外の何の目線が存在しているのでしょうか。政治家が「市民感覚からズレている」とか「住民目線を持っていない」と言いたいのかも知れませんが、政治家を選ぶのは住民なのです。

 左翼思想を持っている方が「市民派」を名乗られている例が目立つように思いますが、「左翼」と「市民」は全く別の概念です。

 色々な言葉が飛び交っていますが、政治家がその言葉の持つイメージだけを利用しようとしてはいないでしょうか。有権者も、言葉に飛びついてはいないでしょうか。

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