« 2011年4月3日 - 2011年4月9日 | トップページ | 2011年4月17日 - 2011年4月23日 »

2011年4月10日 - 2011年4月16日

2011年4月16日 (土)

非常時の医療従事者の確保について

 医師不足が叫ばれている中で東日本大震災が発生し、被災地での医療従事者の不足は深刻であると報じられています。医療従事者と言っても、医師だけでなく、歯科医師、薬剤師、検査技師、看護師など、多様です。医師だけ見ても、直接医療に携わる医師の他、今回のような災害の場合には身元を確認したり、死体検案書を書いたりする医師も必要になります。

 長久手町の場合、地域の医療中枢たる愛知医科大学があり、病院やクリニックも多数あります。分野も多岐に渡っており、非常時にはまずこれらの医療機関を効率よく運用する事が第一となるでしょう。そのためには、医療機関そのものが被災しないような対策、医療機器が正常に稼働するような環境の確保が必要になります。薬剤については、薬剤師会と連携して確保する協定がありますが、災害が長期化するような場合には、先に挙げた「自治体間の防災協定」(私はこれを「防災姉妹都市協定」と呼びたいと思います)によって、連携する自治体で取りまとめて供給すると言う事も検討されてよいでしょう。

 医療従事者の確保と言う問題は平時でも難しいのですが、余剰人員を緊急招集するシステムは検討されてよい。そして、看護師はそのシステムを構築する余地が大変多い専門職であると言えます。

 日本の看護師資格保有者のうち、実際に看護師としての業務に従事しているのは約半数に過ぎません。同志社大学大学院の中田喜文教授の調査によれば、正看護師で6割、准看護師で4割という結果が出ています。准看護師に至っては、看護師として稼働しているのは、半数以下なのです。厳しい実習を経て取得する免許でありますから、決して技術が習得されていないわけではない。離職の理由は今回の本論ではありませんので省略しますが、潜在的な供給源として期待はできると思います。

 実際、離職看護師の4割程度は看護師としての復職を望んでいると言う厚生労働省の調査結果もあり、また中田教授の調査では研修プログラムを受けさせることで、復職へのハードルが低くなるという結果も出ています。

 災害時に備えた、休眠状態にある看護師を活用する制度を導入することを、看護師会や看護学部などと連携して構築していく必要があるのではないでしょうか。少なくとも、活用できる人的資源が豊富に存在しているわけですから、これを放っておくのはあまりにももったいない話です。人的資源を有効に行かせるかどうかは、政治や行政が有効な制度を作れるかどうかにかかっています。

2011年4月15日 (金)

伝統文化の保存・承継の意義について

 グローバル時代は国際化の反面で、常に自分が何者かが問われることになります。特にヨーロッパ社会やイスラーム社会では伝統を尊重します。自分達の伝統を何も知らない、興味も関心もないというのでは、二流市民扱いを免れません。つまり、国際化社会では通用しないのです。

 私は警固祭に参加していますが、年々発砲できる場所は減り、参加者も少なくなっています。伝統文化は自治体にとって住民の共同体意識の基本になり得る重要なものでもあります。伝統文化の保存・承継は住民の権利ですから、これを守ることも自治体の役割ではないでしょうか。無論、政教分離原則は堅持しなければなりませんし、あまりにも非合理的な慣習も改める必要があります。

 古老らから話を聞くと、長久手町には現在残されているもの以外にも、多くの年中行事があったようです。興味深いのは、そうした年中行事が太平洋戦争が激化する頃を境に姿を消したということで、戦争中に行事の自粛要請があり、戦後の混乱の中で復活もされないまま忘れ去られたと想像できます。都市化は確かに多くの伝統行事を過去の遺物と化させてしまうものですが、行事の衰退を都市化に求めてしまうのは短絡的と言えましょう。

 新住民の伝統行事に対する無理解はよく嘆かれますが、一方で伝統行事の中心になっている原住民が新住民を広く迎え入れる態度を取ってきたのかと言うと、そうとは言えない面があります。また、説明責任を果たしてきたのかもよくわかりません。私自身は先祖代々数百年長久手に住んできた原住民そのものです。しかし、長久手の住民は長久手に住む者すべてです。移り住んできた時期が遅いか早いかだけの違いでしかありません。長久手の住民が伝統を持つことをひとつの「誇り」にできるよう、私は努力していきたいと思います。

2011年4月14日 (木)

教育環境の改善は簡単ではない

 子供により良い教育を受けさせたいと言うのは、普通の親ならば誰しも願う事であると思います。子育て支援とも関連して、住民からのこの分野での要望は根強いものがあります。特に、長久手町は住民の平均年齢から見ると子育て世代そのものであり、子育て・教育についての要望が多いのは当然のことと言えます。

 この二十年ほどの間、推進されてきたのは少人数教育でした。私も、少人数教育には賛成です。子供は画一的な存在ではなく、学力も含む能力を伸ばすためには各々の違いに対応した指導がなされることが必要と考えているためです。

 しかし、一方で子供たちの社会性の欠如が指摘されるようになり、体罰肯定論等過激な意見を公然と述べる識者も存在しています。中学校での武道必修化についても、社会性の改善を見込んでのものでしょう。ただ、私は武道の必修化でそのようなことはあまり期待できないし、体罰肯定論は問題外だと考えています。

 少人数教育の問題点は、かつてのようにクラスが多人数ではなくなり、多くの学友と接するチャンスを失ってしまう事だと言われています。しかし、学習のためのクラスを少人数にしておいても、運動会や文化祭などでクラスを合同したりすればどうでしょうか。クラスを「多人数」に戻さなくても、接する機会は増えていきます。

 或いは、縦割りと言いますか、学年を越えたチームに問題解決をさせるというのもひとつの方法です。先輩風を吹かせて横暴な事をやる者がでてくる懸念はありますが、後輩や若年者に指導しつつ一緒に何かに取り組むことは、コミュニケーション能力を向上させる有効な方法です。

 社会性やコミュニケーション能力を向上させ、個人の自律性と社会の公共性が生き生きと協和するようにするためには、 少人数教育を基礎としつつも多人数や、クラスや年齢の異なる者たちと一緒に取り組む機会を与える必要があります。

 委員会やクラブ活動、或いは部活動などはもっと活用できる場所でしょう。運動会や文化祭もそうです。かつて、愛知県は「管理教育」の嵐が吹き荒れた地域で、部活動などは体育会系の封建的体質を教え込み、余計な事を考えたり、疑問を持たせないようにする「没個性」の場所とすら言われていました。この点について、私は先祖返りは許容することはできません。

 個性を生かしつつ、集団で取り組む機会と言うものは、ともすれば体育会系の分野が想定されがちですが、文化系でも十分その機会を子供たちに与える事が出来ます。私は中学校の時には吹奏楽部でした。ひとつの曲を演奏するためには、個々のプレイヤーの技術を高めることも必要ですし、全体の調和も重要です。そして、私は音楽の能力が全く欠落していたためマネージャーになったのですが、裏方として組織を支えるという役割の重要性を学ぶ事が出来ました。東海大会にまで出場でき、コンクールの成果としても満足すべき結果となりました。「音楽」と言っても色々な切り口があり、直接音楽の能力がなかったとしても、それに関わって何かを作り上げることができ、そのプロセスを楽しむこともできます。

 少人数教育も多人数教育も、それぞれメリットとデメリットがあります。必要なのは、「白か黒か」ではなく、いかに組み合わせて双方のメリットを引き出していくかではないでしょうか。同時に、少人数教育だけ叫ぶのでは、必ずしも教育環境の改善につながらないことは確かです。

 少人数教育というものも、教育環境を向上させるための「手段」であると認識すべきではないでしょうか。

2011年4月13日 (水)

被災地の外にも目を向けるべき

 東日本大震災の被害に対して、第一に手を差し伸べるべきは被災地です。しかし、被災地の外の人々に対しても、政治や行政は目を向けていかなければなりません。

 毎日、地元を歩き、同級生や友人に電話をかけて話をしています。そうした中で、今回の東日本大震災の被害者は、被災地に限らないと言う事を痛感させられました。

 ある友人は、1月に自動車関係の会社に転職して試用期間中でした(この場合は労働法上の試用期間ではなく、企業内における試用期間です)。試用期間中は時給制で、正規採用される矢先に大震災が発生し、会社に仕事がなくなってしまった。ただちに契約解除とか解雇と言う事態にはなりませんでしたが、時給制ですから仕事がなければ賃金そのものも発生しないのです。

 大震災において大量に車が失われ、田舎では車が必需品と言う事もありますから、近い将来特需があるだろうと言われていますが、それが何時になるかは分かりません。当面は、金銭的にも身分的にも苦しい生活が続くだろうと言っていました。

 また、別の友人は電気工事業を営んでいます。取締役の肩書を持ち、経営者ではあるものの、毎日作業服を着て軽トラに乗って現場で作業をする職人です。復興支援のため、優先的に被災地に資材が回されている。このため、仕事を受注しても仕事ができない。大震災の影響とは言え、小さな企業では一度仕事を断ったり遅らせたりした場合、その後に仕事が来る保障はありません。

 そんな中でも、その友人は青年会議所で行った義捐金集めに真っ先に参加し、積極的に活動しています。支援物資集めと仕分け作業でも、現場で汗を流して頑張っていました。

 東日本大震災は、直接的には東北関東が被災地ですが、経済的被害の影響は全国に波及しています。被災地の外でも、大震災の影響を受けて苦しい思いをしている人々が沢山います。苦しい中でも被害者を気遣い、身を削って被災地支援に取り組んでいる方すらいる。こうした人々にもしっかり目を向けていかけなければならないと思います。

2011年4月12日 (火)

地域政党の党内手続きをめぐる問題

 先の名古屋市議会議員選挙では減税日本が第一会派となり、愛知県議会議員選挙でも日本一愛知の会と併せて相応の議席を獲得しました。大阪府議会では大阪維新の会が過半数を獲得し、大阪市議会においても第一会派となりました。既成政党に対する不満が地域政党に流れたと見ることもできますし、よりネオ・リベラリズムを掲げる政党や政治団体が風に乗る傾向が強いとも言えます。

 地域政党という存在そのものは、私は政治の多様性を確保するためにはあっていいと考えています。地域には地域の特色があり、国政レベルと同じ線引きをしてしまうというのはむしろ適切ではない。また、地方議員が国会議員の選挙のための「下請」的存在ではなく、地方自治体の立法府の構成機関として責任ある役割を果たすためにも、地方議会・地方議会の自律は欠かせない。そうした点において、地域政党は一定の役割を果たす事が出来る可能性があります。

 ただし、一方で不安な点も非常に多い。

 まず、現在の地域政党が基本的に「改革派首長対保身議会」という構図を首長が演出し、首長を支える翼賛機関的役割を期待されて成立し、その大義名分の元躍進したと言う事実を忘れてはなりません。この点において、地域政党は行政府に従属する存在になる危険性を常に抱えていると言えます。「公党」というよりは、「首長の私党」になってしまう可能性は残念ながらかなり高いのではないでしょうか。

 「首長の私党」の側面が強くなりますと、議会は首長の暴走を抑制できる存在ではなくなります。首長の提案に疑問を差し挟まないということになれば、多数を獲得している限り条例の制定改廃も自由にできる事になる。これでは、行政府に対抗する立法府と言う存在を自ら否定する事になります。権力分立が形骸化すれば、最早それは現代の「法の支配」のもとでの民主政ではありません(中国共産党や朝鮮労働党などが言う「民主主義」には含まれそうですが)。

 また、党内手続きが民主的か否かという問題もあります。そもそも、我が国の政党は国政政党の場合基本的には「議員政党」です。僅かな例外を除けば、国政政党で発言権を得るためには国会議員のバッジを付けている事が基本的な資格となっている。公認や推薦などの候補者選定手続きも曖昧であり、意思決定システムすら、決して明確とは言い難いというのが現状です。地域政党においても、候補者決定のプロセスや意思決定のプロセスは不明確なままであり、既存の国政政党以上にブラックボックス化している感があります。

 私は政党の意思決定や候補者選定のプロセスに関してはドイツのように政党法をもって一定の制約を課すべきだと考えています。政党は単なる私的な団体ではありません。日本国憲法は政治は政党政治を前提としていることは、憲法学者の間では通説です。そして、政党助成金と言う公的資金まで受け取っている。少なくとも、政党助成金をみ受け取る政党に関しては、一定の法的統制を受けるのを甘受すべきでしょう。地域政党においても、政党としての権利を認める一方、相応の民主的統制は課されてしかるべきであります。

 「地域政党は首長の私党だ」とか「翼賛議会だ」と言われたくなければ、地域政党に属する議員の皆様には、是非そのような面に目を向け、改革を進めていただきたいと思います。

2011年4月11日 (月)

愛知県議会に対して望むこと

 愛知県議会議員選挙の結果が出ました。地域政党がそれなりに議席を伸ばし、民主党が大敗する一方で自民党も議席を減らし、突出した存在がなく、ある意味では群雄割拠の状態になったように見えます。

 最大会派となる自民党も、日本一愛知の会に推薦されたグループとその候補者と戦って当選してきたグループがあり、一枚岩ではないと言われています。減税日本と日本一愛知の会が統一会派を組むことはともかくとして(そもそも、このふたつの地域政党も微妙な認識の差で争いになる可能性はあるように思いますが)、自民党が親大村知事派と反大村知事派に分かれて争うようになれば、県民は何が何だか分からないという状態になるのではないでしょうか。

 親知事の立場だから知事の言う事には賛成、反知事の立場だから知事の言う事には反対と言う、かつてのローマ教皇派と神聖ローマ皇帝派の不毛の対立のような真似だけはやめていただきたいものです。必要なのは、冷静な議論ではないでしょうか。

2011年4月10日 (日)

単なる「防災」の連呼で終わってはいけない

 統一地方選挙前半戦の投票日を迎えました。有権者の皆様には、賢明なる選択をされるようお願いしたいと思います。

 さて、今回の統一地方選挙前半戦は、愛知県の場合実質的には2月の愛知県知事・名古屋市長・名古屋市議会解散住民投票より始まったと言ってよく、当初は二元代表制や地方議会のあり方について、大きな争点になるものと思われていました。しかし、3月11日の東日本大震災で、全てが変わった。中国語で言えば「変天」です。

 その結果、候補者は一斉に「防災」を主張し始めました。私自身も、防災については言いたい事がかねてより多かったので、その点では喜ばしい事だと思っています。しかし、各候補者がどれだけ理解しているのかと言うと、怪しいものがあります。

 私は「防災」とは都市の「安全保障」のひとつであると考えています。この点で、単なる災害対策だけでは大きな意味はなく、都市の安全そのものをどのようにして守るか、有事の際にどのようにして市民生活を安定させ指揮系統を保持するかを検討しなければなりません。いくつかの点については、前々からこのブログでも書かせていただいています。

 ところが、残念ながら候補者の中には大災害が来るぞ来るぞと騒いでいるものの、どのようなポイントについて対策を取るのかについて曖昧なままの方が多く見えます。一方で、有権者の側も細かい消火栓の位置や避難所の位置を知らないからと候補者を非難しているところもある。無論、重要な問題のひとつではあるのですが、政治が主導すべきは安全を保障するシステムの整備である筈です。いずれも、根本的に同じなのは「目先」のことしか見えていないということでありましょう。

 私は災害対策は都市の安全保障として広い枠組みで考えていくべきだと思います。例えば、治安対策に関しては平時も重要ですが、警察の目や手が届きにくくなる災害時の治安維持のことも考えた上で整備する必要がある。これも、災害対策のひとつであります。

 私は交番を増設する事を推進していますが、大規模災害時には明らかにそれだけでは足りません。一方で、自主防犯組織は有難い存在ですが、構成員にどれだけ刑事法の素養があるのか、護身の実力があるのか(犯人逮捕については現行犯人又は準現行犯人の逮捕しか認められていませんからこの能力は第一義的な問題ではありませんが)についてはほとんど「不明」ですし、そうしたことを学ぶ機会を積極的に行政が提供していると言う話も聞きません。長久手町の防犯条例では、町は単に相互の連絡役としての役割を果たすとしか書かれていないのです。これでは、大規模災害時に治安が悪化した時、防犯組織の構成員が被害を受けることも考えられますし、その逆に「やりすぎ」になることも考えられる。市民を守るためには、そこまで考えて対処しておく必要があります。

 今回の選挙を、単なる「防災」の連呼だけで終わらせては死んだ方々も浮かばれませんし、生きている有権者がその後にぞろぞろ続くと言うことにもなりかねない。選挙が終わった後知らぬ存ぜぬでは、政治家の背信行為そのものと言うしかない。一方で、政治家に単に防災活動に顔を出せとか要求することも、また大した意味のないことではないでしょうか。重要なのは、選挙で選ばれた政治家が、市民の安全を守ると言う観点に立って統治機構というシステムをいかに整備・改善していくかということです。

« 2011年4月3日 - 2011年4月9日 | トップページ | 2011年4月17日 - 2011年4月23日 »