« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月

2011年10月31日 (月)

内容を理解しているのか

 野田総理はTPP参加を国際会議で表明し、国際公約とすることで事実上の動かし難い既成事実を作りあげ、それを使って強行突破を計る構えのようです。歴代政権が良く使ってきた手であり、最近では安住財務大臣が「消費税引き上げ」を約束してきて物議を醸しました。「国際的な信用」を守るという大義名分を振りかざし、反対派を抑え込もうと言う腹なのでしょう。

 私はTPPには参加しても我が国の大多数の「国民」には利はほとんどないと思っていますが、TPPに関して賛成派と反対派ともに本当にTPPを理解して意見表明しているのかと言うと非常に怪しいものがあります。

 TPP参加反対派の中心は農協です。農協が多くの反対署名を集めました。確かに、TPPによって農産物の全面自由化がなされれば、日本の農業は大打撃を受けるでしょう。政府は農業の大規模化や国際競争力のある作物への転換を要求していますが、これとて一歩間違えばかつての小作農や農奴制の復活、プランテーション化による歪な農業になりかねず、この点農協の言い分は理解できます。しかし、どれだけの人が反対する意味を理解して署名しているかと言うと、非常に疑わしい。

 賛成派にしても、自分達にチャンスがあると思い込んでいるようですが、そう簡単なものではない。かつて、「郵政民営化」や「小さな政府」ができれば、チャンスが開けると思い込んで多くの若者が自民党に票を投じましたが、自民党は若者に対して拳骨を持って臨み、若者層が転落して行ったことは周知の事実です。制度的にチャンスがあるように見えても、強力なプレイヤーとして参入することそのものが容易なことではなく、そこで成功者になるというのは更に難しい事です。そして、失敗した場合の保障については自分達の手で否定してしまったのだから、救われる道もない。

 また、ルール作りに関して言えば、日本人は昔からルールを守ることには熱心でも、ルールを作ったり改善したりすることは明らかに不得手です。TPP参加によってルールを有利作る側に回るべきだという意見がありますが、過去の実績から考えると絶望的であり、更にルール作りに参加して有利にできる人材が確保されているような明るい見通しもない。何となく、これ自体が欺瞞であるように思われます。

 TPP問題に関しては、兎角に農業問題にすり替えられてしまっている感があり、国民は何が何だかよく分かっておらず、「自由化」の響きに対する期待か恐怖心で何となく賛成とか反対とか言っているだけなのではないかと思われてなりません。

 

2011年10月29日 (土)

大王製紙事件

 大王製紙の前会長がグループ企業から判明しているだけで106億8000万円巨額の借り入れを行い、59億3000万円が未返済となっており、大王製紙側が前会長を刑事告発する事態となっています。一方で、前会長側の弁護士は創業家排除であると主張しています。

 これだけの金額を、子会社も含めて取締役会を通すことなく調達していたのですから、会長職に加えて創業家というものの威光は絶大だったのでしょう。その分、本来支出に必要な手続きを行わず、支出したことを口止めすらしていたのですから、自分の財布と企業の財布の区別ができていなかったと責められても仕方がありません。

 自分の財布と会社の財布の区別ができていないケースは中小企業を中心にそう珍しいものではありませんし、創業家でなくても上司が部下に使用を申しつけているようなことも、やはり公私の区別がついていないという点で同じようなものです。無論、創業者や創業家側にも言い分はあるでしょう。特に中小企業では創業社長が文字通り「体を張り」、私財をつぎ込んで会社を運営し、中には自殺の道を選び生命保険で会社の債務を清算する人もいる。育てた自分の会社への愛着は、部外者には想像もつかないものがあるのでしょうし、そうやって育てた意識が強ければ、必然的に「自分のもの」「自分の家のもの」という感覚になってしまうのも無理からぬところはあります。

 しかし、道徳的にも峻別されるべきですし、株式会社となり大企業となった以上は、社会的な責任も非常に大きいものになります。創業家はともかく一般の株主に説明できないようなことをするということは、株主に損害を与えることになります。また、会社を私物化すればあおりを受けるのは労働者ですが、大企業ともなるとかなりの数の労働者が影響を受けますし、その家族も生活もあります。それらを背負っていると言う自覚に欠けていたのではないかと言わざるを得ません。

 会社法の特別背任で刑事告発され、恐らくは民事刑事の司法手続き上で真相解明が進むものと思われますが、経営者の側も今一度身辺を点検する必要があります。また、このような不正行為が行われてしまう土壌、要求できてしまうような土壌についても、当然見直す必要があります。会計監査だけでなく、今後は企業組織・体質そのものの適正チェックというものも観念されてよいのではないでしょうか。

2011年10月27日 (木)

大阪秋の陣

                          

 われわれはドイツ国民に無理強いをしてきたわけではない。

 …国民が自分のほうからわれわれに委任したのだ。…つまりは自業自得ということだ。

                        1945年 4月21日
                        第三帝国国民啓蒙・宣伝大臣 ヨーゼフ・ゲッペルス

                        (フリッチェ国民啓蒙・宣伝省ラジオ局長に対して)

 大阪府知事選挙に池田市の倉田薫市長が立候補することを表明しました。これで、橋下大阪府知事辞職に伴う大阪府知事選挙と平松大阪市長の任期満了に伴う大阪市長選挙の候補者が出揃ったことになります。

 「大阪都構想」を掲げる橋下知事としては、ダブル選挙に持ち込むことでマスコミの耳目を集め、反対派を「守旧派」「官僚主義者」として糾弾することで選挙を有利に進めるつもりなのでしょう。知事を辞職して市長に立候補し落選でもすれば、いくら有力地域政党とトップとは言っても公職を失い政治的影響力が落ちることは必至ですから、橋下知事の大阪市長立候補はそれなりの勝算があってのことであることは容易に想像できます。一方で、大阪維新の会が擁立する松井府議会議員は一般的な知名度も格段に低く、そもそも橋下知事自身が「独裁者」を志向する意思を明確にしていることから考えれば、橋下市長松井知事となれば、橋下氏は市政と府政双方で絶対的な権力基盤を獲得することができるでしょう。

 橋下知事は「大阪都構想」を打ち上げていますが、この構想自体はそれほど真新しいものではありません。大阪大学大学院時代に地方自治法を教授いただいた村上武則先生(現在近畿大学大学院教授)によれば、戦後幾度となく浮かんでは消えていたそうです。それでも、高度成長期までは大阪は日本経済の中心地であり東京と張り合っての「都構想」でしたが、大阪経済の衰退とともに口の端にのぼることも少なくなりました。

 橋下知事の「大阪都構想」が従来のものと異なる点は、従来の都構想が東京に張り合うと言う類の色彩が強かったのに対して、橋下知事の構想は府と市を一体化し、そのトップに君臨することで独裁者となり、全権委任状態を作りあげた上で「改革を強力に推し進める」ことを志向している点にあります。目的ははっきりしていますが、どのような改革をするのか、その改革が本当に大阪府民と大阪市民に資するものかは限りなく怪しいものがあります。「敵を作り戦うヒーローを演じる」ためであると少なからず疑惑の目が向けられるのも仕方がないことでしょう。

 確かに、政令指定都市は「基礎自治体」としては非常に大きく、住民自治の観点からはかなり市政そのものが遠い存在であることは確かです。そうした点では、現在の大阪市を構成する各区を東京の特別区と同様に基礎自治体に格上げすることでよりきめ細かな行政ができるようになる可能性があります。一方で、巨大な大阪市を分割することにより、大阪府との関係において「巨大な府と弱小基礎自治体」という図式になれば、府の影響力は更に強大なものになるでしょう。府の長に独裁的権限を与えることもできますし、仮にそのようなことをしなくても、政治的影響力の点から府の長の威光には簡単には逆らえなくなります。

 大阪では橋下知事の人気は非常に高いのですが、どうして支持するのか聞いてみると

 「橋下さんは頑張ってはるから支持する」

 と言う。では何を頑張っているのかと問うと

 「テレビに出ている」

 ということが実は非常に多い。せいぜい、「役人と戦っているから」という答えを引き出せればいい方です。橋下氏を熱烈に支持し、統一地方選挙では大阪維新の会を躍進させた大阪府民も、実のところ何をしているのか分かっていない人の方が圧倒的多数なのではないかと思えてしまいます。

 大阪の経済は衰退の一途を辿り、大阪はお笑いはともかくとしてそれ以外のことについては全般的に「自信を失っている」ように感じます。歴史的に見てそうした時期には、合議で物事を決めようと言う意欲すら失われ、独裁者を大衆が求める傾向にあります。橋下知事の志向ともマッチングしていると言えます。

 名古屋市の河村市長はいち早く橋下氏支持を表明しています。市長選挙では橋下知事が河村市長を応援しており、ともに「反中央政府」で連帯しているとアピールしてきました。しかし、河村市長の志向も橋下知事と似たところがあって、地域内で独裁的な権力を欲しているところは極めて良く似ています。そして、名古屋市民は河村市長を熱烈に支持したわけですが、名古屋と名古屋を含む愛知県もまた昔日の経済力を失い、落日の色彩が濃くなってきています。

 「大阪秋の陣」は、大阪都構想の他には個人に独裁的な権力を委ねるか否かも争点なのではないでしょうか。それも含めて、決めるのは大阪府民であり大阪市民です。民主的な選挙で独裁的な権力を委ねた事例は古代ギリシアにはじまり、近現代でもナポレオン三世やヒトラーなど決して例外的なケースではありません。有権者が望めば可能であり、それは有権者の意思なのです。それが吉と出たケースもないわけではないので、そのような選択肢も「アリ」なのでしょう。ただし、独裁的権力を与えれば、抑制する者は誰もいなくなりますから、負の方向に走り出した時は誰も止められません。破滅に至ろうが自業自得ということになります。大阪都構想以上の「大ばくち」と言えましょう。

2011年10月25日 (火)

東トルコ大震災

               トルコの国旗  トルコの国章

 トルコ共和国東部で大地震が発生しました。今もなお捜索が続いているようですが、先ずはお見舞いを申し上げます。

 野田総理は早速援助隊派遣の用意があるとトルコ政府に申し入れたそうですが、トルコ政府は外国の救助隊を受け入れる用意はないと表明しています。地震の発生したトルコ東部はクルド人勢力との紛争を抱えた危険地域ですので、救助隊の安全を完全には保障できないと言う問題もあるのでしょう。

 トルコ経済は中国や韓国の企業が進出している関係で、実は日本で喧伝される程日本は身近な存在ではないと言われていますが、伝統的にトルコ人は日本に対して好印象を持ち、先の東日本大震災でも多くの支援が寄せられました。1999年のトルコ大震災では、日本から輸送艦に仮設住宅を積んでトルコに送る等、エルトゥールル号事件以来、ある意味で両国の関係は悲劇に見舞われた際に助け合ってきた歴史とも言えます。

 日本自身が東日本大震災の被災国という状態ですが、出来る限りの支援はすべきでしょう。

 なお、東トルコ大地震によって改めて認識させられたのは、トルコが「地震国」だと言う事です。あのハギア・ソフィアも地震でドームが崩落したことがありますし、温泉が多い等は日本と似たところがあります。この点では親日国と言われる台湾も同じです。日本は台湾に原発を売り、またトルコに原発を売ろうとしていますが、今回の東トルコ地震の状態も踏まえて、提案して行く必要があると思います。

 

2011年10月23日 (日)

企業の発展途上国脱出は本当に生き残りの道となるのか

 非正規雇用の正規化、社会保険適用対象者の拡大、労働者派遣法の見直し等において、いつも財界側が主張してこられたのが「それでは人件費が高くなり過ぎて日本ではやっていけない。海外に逃げる」というものでした。民主党は2009年の総選挙では格差の解消などを訴え労働条件に不安を持つ人々からの支持を一定数獲得したように思われますが、政権交代後この分野に関してはほとんど手をつけていません。むしろ、自民党政権時代の政策の延長線上で更なる規制緩和や市場主義化を求める動きすらあります。

 そうは言っても、企業の海外脱出は着々と進んできました。無論、企業側としても「生き残り」を考えれば甘いことは言っていられません。いくら美辞麗句を並べたとしても、本音の部分では重要なのは利益であって、祖国愛や郷土愛などは利益追求の前には簡単に吹き飛んでしまいます。残念ながら、それが現実です。最近まではそれでも「根は日本に残す」という企業が普通でしたが、人材登用等を見ていますと、将来的には本社機能も海外に移し、日本と言う地には格別拘らないことになるのではないかと思われます。外国で生まれ育ち教育を受け、外国で採用されて勤務する幹部社員が日本で生まれ育った幹部社員と思い入れが違うのは当たり前のことでしょう。

 かつては韓国や台湾や香港に進出したものでしたが、今やそうした地域が先進国化したこともあって、より賃金の安い中国やインドに、更にはタイ、マレーシア、インドネシア、ベトナムなど、移動先は増えています。発展途上国としても、先進国の企業が進出してくることは技術の移転や雇用等を期待することができますから、税制面やインフラ整備等で優遇措置を講じてくれるわけです。

 しかしながら、今回のタイの大洪水を見ていますと、外国企業を優遇するだけの政策では限界があると言わざるを得ません。いくら工業団地一角を先進国並みに整備したとしても、周辺地域が水浸しになるような治水治山政策では、結果的に意味をなさないことになるからです。工場は無傷でも、従業員の住むところが流されてしまっては、もちろん工場は動きません。工場地帯だけではなく、広く基盤が整備されていない国への進出は、相当なリスクがあることだと言えます。そうした工場に生産を集中していた場合、災害によって大きな打撃を受けることになります。

 先の東日本大震災においても、被災地の工場が被災したことで全国的世界的に生産が滞ると言う事態に陥りました。今回のタイの大洪水も踏まえて、企業側もリスク分散を検討することになろうかと思います。一方で、真剣に考えるべきなのは、「税金が安い」「人件費が安い」ということは、一般的にはそれだけ社会基盤の整備が遅れていたり、労働者の能力が劣っていたりと、リスクも非常に高いと言う事です。安売りには理由がある。日本では「当たり前」であることが期待できないことも普通であることを考えると、発展途上国脱出で本当に「生き残り」ができるのかは疑問に感じざるを得ないところです。

2011年10月21日 (金)

カダフィ大佐が死亡

                     Muammar al-Gaddafi-09122003.jpg

 独裁政権が崩壊したリビアで、出身地近くまで逃走して最後の抵抗を続けていた元独裁者のカダフィ大佐が国民評議会に追い詰められ死亡したと言う報道がありました。「アラブの春」と呼ばれる一連の革命において、リビアではカダフィ大佐が当初から強硬姿勢で、国際法で禁止されている傭兵を使って自国民を殺害し、反政府勢力を空爆するなどの残虐行為が行われてきました。ニュースでは、大佐の死亡に歓喜するリビア国民の様子が映し出されています。

 カダフィ大佐の遺体はモスクに安置されていると言う報道もあり、これが事実だとすれば大佐は既に死亡しておりその後はそれなりの取り扱いをされているということになりますが、そもそも本当に死亡しているのか現時点ではよくわからないところがあります。死亡の状況についても、銃撃戦で殺害されたという報道もあれば、生きたまま拘束後国民評議会によって銃殺されたという報道もあります。詳細はまだ分かりません。大佐はムスリムですから、少なくとも生きて虜囚の辱めを受けないため自決するようなことはなかったことだけは確かであると思われます。

 暫定政権である国民評議会は、カダフィ大佐を拘束して裁判を行う予定でした。その裁判が本当に「報復」でないものになったかと言われると極めて怪しいものがありますが、少なくとも独裁政権の悪事の一端は解明できたかもしれません。しかし、これで多くの謎が闇に消えた事になります。

 一方で、拘束後射殺したとかなぶり殺しにしたということになると、革命勢力の手は早くも血まみれになったということになります。適正な手続きなしに人殺しをしてきた独裁者と同じことをしているのであれば、独裁者と何処が違うのかと言う事になる。かつて、カダフィ大佐も「革命派」として登場してきただけに、今の革命派が独裁政権となり、同じ事になるのではないかという危惧が頭から離れません。独裁政権を倒すからこそ、少なくとも政権掌握後はクリーンハンズでなければならないのではないでしょうか。

2011年10月19日 (水)

仙台にパンダは必要か

                   

 仙台市の奥山恵美子市長が、中国の程永華駐日大使に対して、パンダのカップルを貸し出してくれるよう要請したことを明らかにしました。外務省もこの動きを後押しし、野田総理と胡錦濤主席の会談のテーマとして取り上げる方向で調整するようです。

 子供に夢を与えることが目的ということですが、パンダはタダではありません。飼育費用を別にして、毎年レンタル料がかかり、更に死亡でもすれば賠償金も払わなければなりません。パンダは国際取引が認められていないための「レンタル方式」ですが、中国にとっては事実上の「パンダ・ビジネス」になっています。このため、レンタル料が捻出できないとして、パンダのレンタルを打ち切った国すらあります。ところが、日本へのレンタルについては、何故かこれがいつの間にか「中国の善意」にすり替わってしまうのです。

 高額のレンタル料を払ってまで、今被災地にパンダが必要なのか。私は疑問に感じます。東北地方は震災によってもともと悪かった経済が更に冷え込み、原発事故はいつ終息するかも分からない。ようやく仮設住宅に入れたと言う人も多く、本格的な復興にはまだまだ長い時間がかかります。パンダを優先させて一般市民は仮設住宅で凍えていろと言うのでは本末転倒です。

 鳩山内閣菅内閣の時代に比べれば、野田内閣発足後の日中関係は冷え込んでいると言えます。中国のパンダ外交に乗ることで、状況を変えようと考えていたとしても不思議はありません。今やパンダのレンタルは「ビジネス」意外の何物でもありませんが、表面的には「日本政府が中国政府にお願い」をして、中国政府が「中日友好のため、格別の温情をもって」貸して下さるものということになっています。つまり、この点で日本は中国に「借り」をつくることになってしまいます。

 確かに、パンダは「珍獣」ですから、動物園の客集めの動物としてはこの上ない存在です。「客寄せパンダ」という言葉もあるくらいですが、これでは動物園を「野生動物の展示施設」ではなく「見世物小屋」の延長であることを動物園自身が認めてしまうことではないでしょうか。大体、パンダを「レンタル」方式としているのは、研究目的以外には基本的にパンダを中国国外に持ち出すことが国際条約で認められていないことに対する苦肉の策で、研究を目的とせず「見世物」にすることがはじめから明白な今回のパンダ・レンタルは、被災地云々以前に希少動物保護の観点からもなされるべきではないのではないでしょうか。

 仙台は私にとっても縁のある土地ですから、一時の「人気取り」と「中国の国家戦略」に乗って、軽率な判断をしてしまわないよう祈っています。もっとも、こうした「夢」を売られると、現実主義的な対応が住民にウケないのは簡単に予測できることで、「子供に夢を」とか「地域に夢を」と言われて実際に夢を見ている人たちに冷静な判断は難しいかも知れません。政治家の側としても、こうした「夢事業」に反対すれば、有権者から白い目で見られることでしょう。しかし、夢想に耽ったツケに思いを致す時、行政府立法府で政策決定に携わる立場の方々には賢明な選択をしていただきたいと思います。

2011年10月17日 (月)

反格差デモ

 ニューヨークに端を発した反格差デモが世界中に広がっています。この動きを「怠け者だから負け組になる」とか「格差は仕方がない。働けよ」と批判する向きもありますが、本人の努力云々以前に構造的な問題として負け組を大量生産するシステムが「自由経済」「市場主義」の名のもと推進されてきた事実がありますから、従前のような逃げ口上で不満を宥められるとも思われません。

 「格差解消=社会主義」という安直な発想も未だに根強いものがありますが、少なくとも今回の反格差デモで社会主義体制への移行を要求しているとか社会主義革命を起こそうとしているわけではないようです。あくまでも、資本主義体制の枠内で貧困や格差の縮小を要求していると見るべきでしょう。

 気を付けなければならないのは、反貧困や格差解消という動きを「ならず者の暴動」扱いしてまともな対応をしてこなかった国が、二十世紀半ばには共産匪賊に乗っ取られてしまったり、ファシズムの台頭を招いたという歴史的事実です。むしろ、福祉国家へ移行した国の方が、経済も含めて生き残る事が出来たのです。人々の不満は鬱積すれば、より過激な解決策を求める方向に移行するという傾向がありますし、いつの時代にも大衆を煽りたてて野望を実現しようとする指導者には事欠かない。大阪や愛知で独裁者的傾向を示す首長が人気を集めているのも、大阪も愛知も経済的に行き詰まりを見せているという状況と無縁ではないでしょう。

 無論、今回のデモには実際にならず者が過激派が入り込んで暴れまわっているところもありますし、暴徒化したところもあります。そういった暴力的な手段が肯定されるべきではありません。

2011年10月15日 (土)

すき屋強盗事件

 牛丼チェーンの「すき屋」が、業界ではダントツのトップなのだそうです。残念ながら売上や顧客満足度ではなく、夜間に強盗に入られることでのトップですから、企業としては不名誉な話以外の何物でもないでしょう。無論、一番悪いのは言うまでもなく強盗に入る犯人ですが、企業として犯罪に対応できる姿勢であったかと言うと、実は疑わしいのです。

 強盗に「入りやすい」原因のひとつが、夜間勤務をアルバイト一人でこなしているということが挙げられています。強盗とは「財物を強取」することですから、複数人を相手にするより一人を相手にした方が目的を達しやすいことは言うまでもありません。

 問題は、すき屋は警察によってかなり前からこの問題を指摘され強盗に入られ続けながら、対策をしてこなかったということです。これでは、企業としての社会的責任のみならず、労働者に対する安全配慮義務を果たしていなかったと言われても仕方がない。無論、客が巻き込まれないとも限りませんから、客までも危険に晒していたことになります。

 牛丼業界は激戦です。一人でまわしていたアルバイトを二人にすれば、人件費は単純計算で二倍になります。人件費削減という至上命題がある以上、簡単に人は増やせなかったのでしょうが、これでは安全よりも儲けを重視していたと言われても反論はできないでしょう。加えて、すき屋はかねてより不払い残業や解雇で労働トラブルを起こしており、訴訟の際には従前黙認していた店舗での残った御飯を食べたことを問題視して解雇理由として挙げる始末。企業として、労務管理面に問題があるのではないかと思えてなりません。

2011年10月13日 (木)

公的年金支給開始年齢の引き上げについて

 かねて噂はありましたが、厚生労働省が公的年金の支給開始年齢を68歳から70歳程度まで引き上げることを検討していることが明らかになりました。数日前、在職老齢年金の支給停止額を引き上げることで高齢者の就業を促進することを検討していることが報道されましたが、実はこの伏線だったのではないかと思えてしまいます。

 この他にもさまざまな提案がなされており、それらをまとめると

 1、年金の支給開始年齢を引き上げる。

 2、年金の支給額を削減する。

 3、年金保険料を引き上げる。

 4、現在段階的に行っている65歳までの年金支給開始年齢引き上げを前倒しする。

 ということになります。言うまでもなく、これらが同時進行的に行われることもあり得るでしょう。互いに矛盾する案ではないからです。

 まず、公的年金の支給開始年齢引き上げ案について考えてみましょう。

 公的年金の支給開始年齢を引き上げるということは、年金が受給できる年齢に達するまで何らかのかたちで働いて収入を得る必要があるということになります。恒産を枕に無為徒食を重ねることができる高齢者は決して多数派ではありません。

 昭和61年4月に現行の年金制度に改正された際、年金の支給開始年齢は原則65歳となりましたが、その時点では未だ定年延長や再雇用は遠い日の話であり、これらの措置を講ずる義務が企業に課されるようになったのは法改正から二十年近くを経たつい最近の事です。それでもなお、現時点で何らかの形で65歳まで働くことのできる企業はまだ全体の半数に満たない。恐らく、目途としては同じようにまず年金各法の支給開始年齢を引き上げ、その上で企業に再雇用や定年延長を求めていくという手法が取られるのではないかと思われます。高齢者の活用と言えば聞こえはいいのですが、これは決していいことばかりではありません。多くの弊害が既に指摘されています。

 まず、労働市場の中では需要に限界があり、労働者側としては少ないパイの奪い合いにあっているということです。これによって高齢者の雇用を確保する一方で新規採用が抑制された。その結果どうなったか。若い世代の仕事がなくなり、あっても労働条件劣悪な非正規雇用ばかりとなりました。高齢者雇用ばかりが原因とは言えませんが、高齢者の雇用確保のために若い世代が割を食ったのは確かです。高齢者の活用とか、高齢者の就労促進と言う事は、若い世代に不利益を被らせることと同じであり、それを隠していることは国民に対する背信に等しい。

 当然ながら、この結果として組織の新陳代謝は進まないことになります。組織の抱える閉塞感ともまた、無縁ではないでしょう。若い血が入らず、居座り組が多いわけですから、沈滞化しないほうがおかしいわけです。高齢ながら柔軟な思考の持ち主というのもいないわけではありませんが、ともすれば人は年を取るほど保守化・現状維持思考になっていくものです。

 年金の支給額削減に関しては、既に受給権のある高齢者から激しい反発が予想されます。政治的に見ても「票田」である高齢者層を政策決定権を持つ政治家が敵に回すわけもありません。高齢者は数も多い上に、投票に行く層であり、高齢者を敵に回して選挙に勝つのは極めて難しいからです。そして、実際に高齢者に甘言を弄する者が選挙に勝利しているという冷徹な現実がある。

 加えて、現在の国民年金は40年間保険料を納付して満額受給できるようになっても788900円でしかありません。厚生年金や共済年金に加入していたり、付加保険料や国民年金基金に加入していた場合にはこれを上回る年金を受給することができることになりますが、それでも生活を支えるだけの年金を受給するのは容易なことではありません。ただでも現役時代に比べて足りないと言われている年金支給額を大幅削減すれば、年金制度に対する信頼を更に失墜させることになる。最低限度の生活を保障する年金すら受給できないとなれば、これは福祉でカバーせざるを得ないことになります。年金の支給額削減は、するとしても大きな幅で行うのは難しいと言わざるを得ません。

 現役世代の保険料を引き上げるという手法については、ターゲットとなるのがより若い世代となることもあって、他の方法に比べればハードルは低いものとなります。恐らく、年金の支給開始年齢が引き上げられるような場合でも、同時に保険料引き上げもなされるでしょう。何故なら、取れるところから取るということを考えた時に、政治的に文句を言わない若い世代に負担を負わせることが最も手っ取り早いからです。既に、現在第三号被保険者となってる専業主婦に保険料負担を求めたり、パートタイマーの強制加入を促進する方向に動いているのは、伏線であると思われます。

 しかし、保険料を引き上げるとしても、最早若い世代に絞り取られることに耐えるだけの体力が残っているかと言うと、極めて厳しいものがあります。まず、若い世代は雇用が不安定であり、既にして厚生年金や共済年金の被保険者になることのできない人たちも増えています。国民年金も、納付できないような経済状況の若年者が激増しており、仮にここで保険料を引き上げたとしても、更なる未納か免除申請者を増やすだけの結果になりましょう。少子化は確かに問題ですが、現役世代の体力低下はそれだけが問題ではありません。

 支給開始年齢の前倒しとなると、生活設計を大幅に見直さなければならないことになります。仮に年金法改正で前倒しが行われたとしても、労働関係諸法令の改正はどうしても後手に回るでしょうし、負担を「押し付けられる」と感じる企業側は簡単には「国際競争」を理由として定年延長や再雇用の義務化には応じないでしょう。そうなると、更に若い世代の雇用を「食う」かたちで解決せざるを得ない。かといって、現役時代の貯蓄で対応するにも限界があります。

 バブル崩壊以降の歴代政権は、財政再建や景気回復、経済構造改革と言った個々の問題には熱心でしたが、成長産業の選択や投資など、パイを増やすことにはあまり熱心ではなかったように思われます。むしろ、財政再建や財政健全化を錦の御旗として、パイを縮小させる方向に動いてきたとさえ言える。今後も、この傾向は変わらないでしょうから、劇的に状況が改善するのは難しいでしょう。

 恐らく、上記の4つは全て何らかの形で行わなければならなくなるのではないかと考えられます。加えて、消費税増税も議論の対象となることは間違いありません。全く何の負担もない層を作ってしまうのは余りにもバランスを欠くことに加えて、もはや一つだけの選択肢では対応できない。問題は、何処に比重を置く=負担を押し付けるかであり、それはこれからの政権と国会が政治的判断から決断を下すことになるのではないかと思われます。ただし、既に暗号状態になっている年金制度が更に分かり難い複雑怪奇なものになることは避けられず、その分かり難さが更なる年金制度不信を住む可能性が高く、理由づけもきちんとしてもらいたいものです。

2011年10月11日 (火)

外国人一万人を日本に無料招待

 観光庁が、外国人を1万人日本に無料招待するという企画を打ち出しました。観光庁の審査に通ると往復の航空券が支給され、口コミによる宣伝効果を期待しているのだそうです。どうも、民主党政権お得意の「ばら撒き」の臭いがしてなりません。

 世界には一生に一度も「海外旅行」に行けない人々が珍しくありません(難民となって国外に出ることは多々ありますがこれは旅行ではありません)。一生に一度の日本への海外旅行ということになると、思い出作りの機会は提供できますがリピーターには到底成り得ませんし、自力での日本旅行が不可能なほどの賃金レベルの国ではいくら口コミで宣伝したとしても、それで日本への旅行者が増えるとは思われません。

 もし、日本旅行に呼ぶのなら、発展途上国から中進国の青年以下の層に限定すべきだと思います。将来、国家の主導的立場や中堅層となる若者に短期間でも日本を見せることは、日本に対する好印象につながるでしょうし、将来ある若者ならば、「これから日本と関係のある仕事に就いて日本にまた行こう」とか「今度は自力でお金を貯めて日本に来よう」という気になるでしょう。将来のある程度決まってしまっている中年やリタイアした層を招待するより、日本の「発信」としては効果的ではないでしょうか。

 この点、アメリカは数十年前から「留学生」として発展途上国の指導層候補者を受け入れて、親米派をひそかに育て続けてきました。アメリカ発の市場原理主義・新自由主義が世界に蔓延した原因は言うまでもなくこうした留学生出身者が主導的役割を担うポジションに就いていたことが大きい。はるか将来の国益を見据えて留学生を受け入れて来たアメリカの手法は見事です。日本ももう少し、こうしたやり方を見習ってはどうでしょうか。

2011年10月10日 (月)

辛亥革命百周年双十節

               中華民国の国旗       中華人民共和国の国旗 

 今日は、中国で辛亥革命が勃発して百年の記念日にあたります。辛亥革命によって清王朝が崩壊し、アジアで最初の共和国である中華民国が誕生しました。10月10日は十が二つ並ぶことから「双十節」として、台湾では国家の誕生日であり建国記念日と同じような扱いになっています。

 台湾併呑を目論む中国としては、両岸双方の「共通点」を謳い上げることで「中華民族意識」を高揚させ、台湾を取りこむきっかけにしたいという意図が見え見えの記念式典でした。胡錦濤国家主席は台湾に対して「同じ中華民族」の意識を前面に出した演説を行いましたが、自由や民主と言う問題には全く触れていません。また、中国も台湾も国内には少なからぬ少数民族を抱えていますので、漢民族以外の民族にしてみれば、中華民族意識に訴えたところで知ったことではないでしょう。

 そもそも「台湾人は中華民族とは異なる」という定義付けをしてしまえば、「中華民族」という共通の基盤もなくなるわけですから、中国政府の言い分はもろ刃の剣というところでしょう。

 考えてみれば、辛亥革命によって成立した中華民国政府を大陸から追い出し、中華民国を事実上否定することで成立した中華人民共和国側が、辛亥革命の正当な後継者を名乗るのも変な話です。確かに共産党政権の元で中国は数字の上では強国の地位を取り戻したかに見えますが、自由も民主主義もなく、国内の格差は拡大を続けています。そして、社会福祉政策は不十分なままで整備が遅れている。台湾がその実効統治区域内にせよ三民主義を達成したと認められるのに対して、大陸は三民主義の何も達成していないし、そもそも民主化する意思が中華人民共和国建国の精神として「ない」(中華人民共和国は「共産党の指導」体制を憲法で銘記し「永久与党」の地位を保障していますから、民主的な政権交代と言うものは観念されていないわけです)のですから、それで辛亥革命の正統な継承者を名乗っているのは全く不自然な事です。

 孫文は台湾では「国父」と呼ばれ、大陸でも「革命の先駆者」という位置付けをされていますが、大陸ではあくまでも毛沢東の「露払い」としての地位に留まっています。実際、毛沢東は建国時点では孫文を尊敬していたかのような発言をして元国民政府の関係者を懐柔したものでしたが、実際には孫文を腹の中で馬鹿にしていたという告白をしています。また、大陸がいくら孫文を持ちあげたとしても、台湾では中華民国という中国の系譜を継ぐ政府そのものを廃して形式的にも中国の枠組みから脱却しすべきだという意見も根強いものがあり、この台湾独立論によれば孫文は台湾でも「国父」ではなくなります。つまり、中国政府の台湾に対する呼びかけは、あくまでも「中国」という共通の枠組みがあることが大前提になっており、それ以外の枠組みを台湾が選択した場合には言葉で対処できない。そのため、中国は軍拡を続け台湾を恫喝し続けているわけです。

 中国側が経済利権と民族意識を利用した「本音」と「建前」の攻勢に加えて軍事的圧力を強める中、「大陸寄り」と目されてきた馬英九総統は双十節で軍事パレードを復活させましたから、こうした点で大陸に妥協することは考えていないように思われます。少なくとも、台湾人が一時の感情に流されて勝ち取った自由と民主主義を放棄するとは思えません。一方で、冷戦時代から両岸では水面下の対話も続けられていましたので、単純に双方の言葉や態度だけでは推し量れないものもありますが。 

 私が疑問に思えるのは日本の右派勢力の台湾に対する評価で、台湾の自由や民主主義を褒め称え、自由や民主を考えてもいない中国と台湾は別の国だと主張する。しかし、彼らが日本で主張している思想は「日本国憲法無効論」や「大日本帝国憲法復活論」であり、自由や民主主義や人権思想よりも伝統主義に則った封建的な価値観を高く評価しています。この点で、日本と台湾が運命共同体だと言いながら、評価がダブル・スタンダードになっているわけです。こうした点から、本当に台湾を評価していると言うよりは、中国に対するアンチテーゼとして中国に対抗している台湾に親近感を覚えているだけなのではないかと思えてなりません。

 日本では江沢民前国家主席がまだ生きていて辛亥革命百周年の記念式典に出席したことが専ら取り上げられていますが、これはあくまでも中国共産党内部の権力闘争の話で、台湾側のニュースは意図的に無視されている傾向があります。「辛亥革命」という歴史上の事件も、大陸と台湾では位置付けが異なり、更に台湾では統一派・独立派・現状維持派でまた位置付けも異なります。清朝崩壊から百年が過ぎましたが、中国近辺の争いはまだまだ終わりそうにないことは確かです。

 辛亥革命を多くの日本人が支援していたことは今ではよく知られています。ひとつのキーワードとして、彼らは隣国である中国の近代化に期待し、日本とともに列強に対抗するひとつの「軸」と考えていたように思われます。少なくとも、日本を武力で恫喝するような封建的な独裁国家を望んでいたとは思われません。

2011年10月 9日 (日)

被災地新設企業に対する法人税免除は本当に被災地復興に資するのか

 訪米中の古川元久経済財政担当大臣が母校のコロンビア大学で行った講演の中で、被災地復興のため東日本大震災の被災地に設ける復興特区の中で、新規に立地する企業に対して法人税を5年間免除する等、日本で前例のない思い切った措置を考えていると述べました。被災地に企業を引っ張ってくることで復興につなげようとしているかに見えます。しかし、この方法で本当に被災地が復興するのかについては検証してみる必要がありそうです。

 まず、新たに被災地に来る企業に対してのみ減税が適用されると言う点です。つまり、被災した地元企業は地元においては多少の税の減免策は既に取られているものの相対的に不利な条件で競争することを余儀なくされることになるわけです。

 また、企業進出を促すことが正しいとしても、インフラは整備しなければならない。電気や水道などは当然ながら安定的に供給することが最低限の条件でしょうし、製造業ならば道路や港湾なども相応に整備する必要が出てきます。それらも、単に「ある」というだけでなく、少なくとも繁忙期に備えたものでなくてはなりません。それらを整備する費用は国や地方自治体が出すしかありません。一方で、企業は減税対象ですから、インフラ使用の対価は支払わなくてもいいわけです。

 国や地域の負担が、将来的に復興に繋がればとは思います。財務省は被災地で雇用をする企業に限定する等の条件を付そうとしています。しかし、過去の例から見ても「進出した企業」において、地元が期待する「地元民の正規雇用」はほとんどないというのが実態で、今回もまた同じ事になるでしょう。幹部社員や正社員は転勤によって他の地方から送り込まれ、地元民はせいぜい非正規雇用の口にありつければ御の字というところでしょう。そして、製造設備やインフラが古くなってきたり、減税の恩恵が薄れてこれば、すみやかに企業は撤退することになる。残念ながら、企業側の理屈としては、そのようなことをしなければ、生き残っていけないのです。当然、非正規雇用の地元民を転勤させてまで継続雇用する義務は生じないように契約をしているでしょうし、遠隔地への転勤を拒絶せざるを得ない労働者も多いことでしょう。

 減税対象を「被災地で現地住民を期間の定めのない正規雇用した場合」に限定すると言う事も考えられないではありませんが、恐らくはそれでは企業側は容易に切れないリスクを背負い込むことになりますから、そんなリスクを抱えてまで進出しようと言う企業は多くないように思われます。それでも、一時的・非正規であるにせよ、被災地で雇用はそれなりに増えるでしょう。そこに価値を見出すのであれば、この構想を推し進めるべきだと言うことになります。

 注目すべきは、古川経済財政担当相が、復興特区を「規制緩和特区」と捉え、それを全国に拡大したいと述べている事です。つまり、復興特区が労働規制の緩和や安全の緩和の先進地域となれば、それが全国に拡大されるということになる。中産階級以下の層にとって、それが本当に「好ましいこと」なのかと問われると、私は否定せざるを得ません。いい加減、規制緩和が本当にいいことなのかという根本的な問題にもメスを入れて欲しいものです。そうした根本的なところに思いを致さないならば、「国家戦略」は名乗らないでいただきたいと思います。

2011年10月 7日 (金)

アップルのスティーブ・ジョブズ氏が死去

                     

 アップルのスティーブ・ジョブズ氏が膵臓癌のため死去されました。大学を中退してコンピューターで起業し、瞬く間に大企業に育て上げた経歴は、まさに日本人のイメージする「アメリカン・ドリーム」そのものであり、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏らと並んで立志伝中の人物と言ってよいかと思われます。晩年に至るまで様々な製品開発に挑戦し、iPodやiPhonなどは今や街で目にしないことはないほどのものになりました。

 私自身は高校時代から一貫して窓際族(Windows)でしたので、リンゴ(Apple)の製品は特に使う事はなかったのですが、最近MP3プレイヤーとしてiPodを買ってみたところ、非常に使いやすく愛用しています。もともとはコンピューターのメーカーでしたが、パソコンに留まらない製品を生み出したことが、 この企業の更なる飛躍につながった感があります。

 なかなかアメリカでも破天荒な人物(独裁者と言う人もいる)として注目されていたようですが、こうした天才肌の人材が現れなければ、零からの飛躍というものはなかなかないのでしょう。ただし、アメリカでもIBMやボーイングやロッキード・マーチンなどの名門大企業では創業当時や技術屋はともかくとして、経営に携わっている人たちは天才肌というよりは秀才肌であり、こうした点は実は日本と大きな違いはないのではないかと思われます。日米の最も大きな違いは、日本では経営幹部候補生と言えども新入社員としてはじめは一般的な部門での勤務からスタートするのに対して、アメリカでは経営幹部はビジネススクールを出たその時から経営部門で勤務することが普通となっているというところかも知れません。このため、日本で見られるような高卒技術者叩き上げの取締役などは夢であり、トップ20くらいのビジネススクールを出て、先輩後輩のコネがないと経営幹部のコースに入るのは難しいのだそうです。

 今やアップルも大企業になりました。天才肌の経営者が退場していく中で、今後この企業がどのような道を歩むのか、注目したいと思います。 

2011年10月 5日 (水)

自民党の内紛に思う

 2009年の政権交代後民主党政権が迷走を続け、野田政権が発足した後も国民は民主党政権に厳しい視線を向けています。小選挙区制を軸にした二大政党制とは

 「自分の得点は相手の失点、自分の失点は相手の得点」

 という政治制度ですから、こうした場合自民党の支持が上がり、国民の期待が高まってもよさそうなものですが、そのような動きはほとんど感じられません。

 政策的な面から見ると、民主党に対する対立軸として持っていた筈の外交・安全保障問題や、教育について、明確に打ち出せていない。尖閣沖における漁船との衝突事件にしても、党として弱腰になっているところは民主党と同じです。もともと、尖閣諸島における中国の侵食は今に始まったことではなく、90年代から中国海軍の調査船が出没して調査を繰り返しており、それに対してほとんど何もしてこなかったのが自民党政権ですから、今の姿勢も無理からぬものがあると言われればそれまでですが。

 それに加えて呆れたのは、参議院幹事長選出を中心とする自民党の内紛です。これでは、本当に政権転落となった反省をしているのか疑問の目で見られるのも仕方がないのではないでしょうか。

2011年10月 3日 (月)

民主進歩党の蔡英文主席が来日

 台湾の最大野党民主進歩党の蔡英文主席が来日しました。来年に行われる中華民国総統選挙では民進党の総統候補となる蔡主席ですが、今回の訪日は日本政界との関係を密にし、また日本の親台湾派に対してPRする狙いがあるものと思われます。

 蔡主席は訪日前に日米との連携強化をより鮮明に打ち出しています。恐らくは、中国との関係改善を重視してきた馬英九総統に対して、対立軸を鮮明にしようとしているのでしょう。馬総統が就任してからは、中国と台湾の関係は劇的に改善されてはいますが、一方で台湾経済が中国経済に飲み込まれてしまい、技術や資金や人材の大陸流失も続いています。中国に飲み込まれると言う危機感が生じない方が異常と言うべきで、台湾が独立とは行かないまでも、多くの台湾住民の支持する「現状」を維持するのであれば、やはり日米との連携強化は欠かせないことになります。

 馬総統は台北市長時代から「親中派」と非難され続けており、このイメージを払拭するために先の総統選挙前には二度に渡り訪日し、その後もおおむね日本との連携強化路線を維持しているところから見て、程度の差ではないかと思われます。台湾独立派のイメージが強い民進党にしても、それなりに中国との話し合いや交流は進めているのですから。

 先の総統選挙では、国民党も民進党も候補者が新人であったこともあり、ともに対日対米関係重視をPRするために、訪日して日本の政界関係者のみならず一般市民とも交流の機会を持ちました。「親日派をPRしないと総統選挙に勝てない」と言うところが、「反日をPRしないと大統領選挙に勝てない」韓国との大きな差です。台湾の歴代総統は李登輝総統を持ち出すまでもなく、蒋介石総統にしろ陳水扁総統にしろ、日本との関係を一貫して大事にしてきていますし、蒋経国総統のように日本との関係がそれほどなかったように見える総統でも、日本の経済政策を取り入れています。蒋経国総統の十大建設にしても、田中角栄の「列島改造論」に触発されたのではないと言われているくらいですから(蒋経国行政院長から「日本列島改造論」を入手して送るように指示されたとの当時の駐日外交官の証言が残っています)。

 2012年総統選挙では、現職の馬総統が二期目を目指して出馬する予定ですが、日本と台湾は国交がありませんから、私人の身分であっても馬総統が訪日するのは現状から見て事実上不可能であり、この点では自由に動けて対日関係重視をよりPRできる蔡主席が有利とも言えます。1月の総統選挙に向け、台湾の動向に注目していきたいと思います。

2011年10月 1日 (土)

アラブの春の行く末は・・・

 チュニジア、エジプト、リビアでかつて「革命派」を名乗った独裁政権が民衆によって打倒されました。「アラブの春」と呼ばれている革命ですが、今まで独裁政権や封建王朝の支配するところであった中東・イスラーム諸国での民主化を要求する流れが加速しています。

 しかし、その流れがただちに民主的な政権樹立に繋がっているかと言うと、必ずしもそうとは言えません。首都のトリポリが陥落してもリビアでは内戦が続いていますし、エジプトではなかなか新憲法制定と民政移管の手続きが進みません。このような政情ですから、経済不安もまた革命前と同じく解消されていないか、むしろ深刻化しています。もともと、生活に苦しむ人々が富を独占する独裁者に対して起こした革命でしたから、その「分け前」を求めているわけで、とりわけ経済状態が改善されなければ人々の期待はただちに失望に変わることは簡単に想像できる事です。

 独裁政権が崩壊しても混乱が続く中、エジプトなどではイスラム原理主義勢力が力を伸ばしています。もともと、イスラム原理主義勢力は単なる宗教団体ではなく、その内部に統治機構から司法機関、教育福祉機関までの機能を含んだものですから、貧困層に対してPRする力は非常に強いのです。食えない人々に食を与え、教育を受けられない人々にはイスラームの範囲内で教育を受ける機会を与えている。一見すると福祉をばら撒いて人気取りを謀っているような構図ですが、生きていけない人々にとってはまさしく「地上におけるアッラーの代理人」というところでしょう。無秩序に代わり、シャーリアと呼ばれるイスラム法が一定の秩序をもたらすことも看過できない点です。婚外性交は死刑、同性愛者も死刑、窃盗犯の手を切り落とすなど、西欧近代法から見れば色々と問題点の多いシャーリアですが、無責任な悪人がやりたい放題を続ける少なくとも無秩序状態が続くよりはマシと考えることもできます。

 かつて、アメリカやイギリスの「傀儡政権」を打倒したエジプトやリビアの「革命勢力」が独裁政権を作りあげ、かつての「傀儡政権」と同じような統治を行うようになってしまったのと同じく、今回の「アラブの春」も、その後にイスラム原理主義勢力が実権を握り、イスラムの名の元に独裁体制を作ってしまっては元も子もありません。

 アラブ諸国に自由と民主が根付くのか、道のりはかなり険しいと考えるべきです。憲法で民主主義を謳い上げた日本ですら、未だに地方政界では封建的な人間関係が重んじられ、有権者もそうした票集めを左程疑問に思わず、「地元の名士」が力を持ち、老人を集めて「パンとサーカス」を与え票につなげているという噂が絶えない。中国語で言うところの「土豪劣紳・貪官汚吏」は決して無縁ではないのです。まして、アラブ諸国では日本とは比較にならないほど「部族の長老」の力は強く、普通教育のレベルも高等教育のレベルも比較にならないほど低い。大衆が都合よく動かされて衆愚政治に陥るか、選挙制度はともかく実態が部族同士の抗争になってしまう危険性は多分にあります。実際、アフガニスタンやパキスタンでは、長年の戦争によって中央政府の実効統治の及ばない地域が広がってしまい、そこでは各部族が「部族の理屈」でやりたい放題を行っています。

 「アラブの春」を後押ししたのは欧米諸国で、実際にアメリカやフランスはカダフィ勢力の陣地を攻撃するなどして実力行使にも出ています。しかし、その後に登場するべき新政権については「民主主義」を要求してはいるものの、民主主義の土壌となる一般市民の生活水準や教育程度の向上まで考えているかと言うと怪しいものがあります。先進国によるアラブ諸国の支援は、独裁政権を倒すまでで終わるのではなく、むしろこれからが重要と言えるのではないでしょうか。

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »