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2011年9月

2011年9月30日 (金)

中国ジョーク

 中国とラディッシュの共通点は?

 外側は赤いが中身は白い。

2011年9月29日 (木)

被災地における失業給付の支給期間再延長について

 厚生労働省は被災地おける失業給付について、120日延長していたものを更に90日延長することを表明しました。ただし、被災地以外での求職活動が条件となるようです。

 もともと、東北地方は景気の悪い地域でした。小泉政権の時代、労働規制緩和の構造改革を推進していた国際基督教大学の八代教授などからは「仕事がなければ東京か名古屋に行けばいい」と言い放たれていた。そこに、今回の大震災です。当面の復旧に必要な業種や、復興に必要な特殊技能の持ち主ならばともかく、そうではない労働者が職を失えば、再就職が簡単ではないことは容易に想像できます。

 失業等給付、所謂「失業保険」(この呼称は既に正式なものではない)は一般的な失業者であれば90日間分です。それを、120日まで延長しても、なお職に就けない人が4万人以上いるわけです。恐らく、多くの人々が地元で職を探していたものと思われますが、もともと経済の悪いところに震災が来ているわけですから、そこで職を求めると言うのもおのずから限界があるわけです。

 給付期間の再延長と言う異例の措置が取られる背景には、被災地での就職にこだわる者が多かったことがあったのではないかと思われます。「地域の絆」があるということは、裏返しとして就職先として地域に拘っている人が多いであろうことを意味します。しかしながら、経済状況や復興の現状に鑑みれば、被災地での就職にこだわり続ける限り失業期間は長引くでしょう。そして、残念ながら需要がない。失業期間が際限なく長期化し、そのために給付を延長し続けなければならないとなると、雇用保険財政が行き詰まるのは目に見えています。そこまでの負担を保険者や他の雇用保険被保険者や使用者に負わせるのは酷と言うしかありません。

 今回の大震災では「地域の絆」が注目されています。しかし、この「地域の絆」なるものは人と人との助け合いという好ましい面がある一方、特定の地域や人間関係に拘束されて行動の自由を制約され(或いは自覚しないままで制約してしまい)経済的破綻を招きかねない危険性をも内包するものです。

 郷土愛は尊重されてしかるべきものだと私自身は思っていますが、全てにおいて優先せよというのは明らかに無理があります。失業しても外での再就職を求めずに、被災地で消防団や自治会などの奉仕活動をしている人も少なくないようですが、このような犠牲的精神に頼るようなことでは、遠からず破綻が来るでしょう。東北地方には高齢者ばかりで若者の少ない地域も多いのですが、少ない若者が高齢者のために過度な負担をするということは、その若者たちの将来の道を閉ざすことになります。地縁や義理のために将来を捨てて地域活動をしているというのは、これは最早悲劇です。

 今回の国の措置により被災地外での就業が推進される結果、従前よりは就職先を確保できる可能性は高くなります。一方で、二度と地元に戻ってくることのできない労働者がかなりの数にのぼることでしょう。本来ならば、復興は被災地において雇用を生み出してこそ復興と言える筈です。しかしながら、雇用を生み出すためには時間がかかります。現在の自由主義経済下では、被災地に強制的に企業を留めたり移転させたりすることはできませんから、政府や自治体が雇用対策を行うにせよ、労働需要が生まれてくるためにはどうしても時間がかかる。それは、失業等給付でカバーされる期間では到底不可能です。個々の労働者が職業を持って賃金を得、生活して行かなければならないという事実に思いを致す時、被災地以外の地域での求職を条件とするのは、この際やむを得ない措置と言えましょう。

2011年9月27日 (火)

陸山会政治資金収支報告書虚偽記載事件

 小沢一郎被告の後援会である陸山会の政治資金収支報告書虚偽記載事件において、起訴された小沢被告の元秘書三名に対して、東京地方裁判所はいずれも有罪の判決を言い渡しました。恐らく、被告人側の控訴があるでしょうから有罪確定というわけではありませんし、事実認定の方法に法律家の間から疑問の声も出ていることからして、これだけでただちに小沢被告をも無責任な悪人であると言い切ることは早計であると言えます。

 むしろ、与野党ともに問題であると思うのは、かつての自民党と民主党の立場が入れ替わってしまったことです。両党とも、かつての自説をすっかりお忘れのようで。

 従来、汚職というものは長年与党であったこともあって自民党の専売特許のようなところがありました(無論、リクルート事件や秘書給与ピンハネ事件などで野党の議員が罪に問われたケースもまま見受けられますが)。その際、決まって野党であった民主党は「証人喚問しろ」「議員辞職しろ」「議員辞職勧告決議案を出せ」と主張し、自民党は「司法による手続きを曲げるおそれがあるので証人喚問は好ましくない」「政治家の進退は最終的には自分で決めるものだから、議員辞職を促すのは好ましくない」と言い続けていたものです。

 ところが、今回の陸山会事件では自民党が「小沢元代表の証人喚問を」「石川議員の議員辞職を」と求めているの対して、民主党がかつての自民党と同じ発言で逃げています。政権交代で攻守が変わったとは言え、両党とも余りにもご都合主義的であると感じているのは私だけではないのではないでしょうか。

2011年9月25日 (日)

双頭の(片方はハゲ)鷲の元に

               ファイル:Coat of Arms of the Russian Federation.svg

                    ロシアの国章「双頭の鷲」

 ロシアの国章は「双頭の鷲」と呼ばれています。この国章はロシア帝国から、ロシア帝国にキリスト教を伝えた東ローマ帝国、更にはローマ帝国にまで遡る由緒あるもので、同じローマ帝国の継承者を主張する神聖ローマ帝国からオーストリア帝国を経て、現在のオーストリア共和国にも鷲の国章が受け継がれています(ただし、国力の衰退を反映してか、オーストリアの国章の鷲はいつの間にか二つあった頭が一つだけになってしまいましたが)。

 ロシアのメドベージェフ大統領が、来年3月の大統領選挙においてプーチン首相を推薦したいと表明しました。これを受けてプーチン首相は大統領当選後にはメドベージェフ大統領を首相に任命したいとの意向を表明しました。ロシアでは与党が圧倒的優位の情勢であり、先の大統領選挙と同じく実質的には与党候補への信任投票になるものと思われます。

 憲法の三選禁止の規定により大統領職を退いて首相に就任したプーチン大統領と、就任当初から傀儡視されていたメドベージェフ大統領はロシアの国章である「双頭の鷲」にちなんで「双頭体制」と呼ばれる一方、両者の権力闘争もささやかれてきました。この権力闘争に利用されたのが我が国の北方領土であり、北方領土を自国領と主張するパフォーマンスを繰り返すことで、愛国心に訴え、「強いロシア」をPRすることで有権者からの支持を取り付けようという意図が露骨に見えるものでした。

 「双頭体制」とは言いながら、最高権力者は言うまでもなくプーチン首相でした。もともと、ロシアの制度では大統領が強力な権限を持っていたのですが、プーチン首相は首相就任に併せて首相の権限を強化する一方で大統領の権限を縮小しています。メドベージェフ大統領が大統領退任後もそれなりのポストで処遇されるかどうかもひとつの注目点でしょう。もともとアンバランスな「双頭の鷲」であり、メドベージェフ大統領が退いて本当に首相に任命されるかどうか、これは何とも言えません。仮にメドベージェフ大統領が首相に就任できたとしても、プーチン首相は再び大統領に強権を与える制度に改めるでしょうから、あまり実権はないものになるのではないかと思われます。プーチン首相の「メドベージェフ首相」発言は、とりあえず今のところ国家元首にある者へのお口で奉仕、リップサービスの可能性があるからです。

 実際、後継者だのパートナーだのと持ち上げられてもあっさり失脚して捨てられる例は古今東西左程珍しいものではありません。プーチン首相は1952年生まれ、メドベージェフ大統領は1965年生まれですから、両者の13歳という年齢差は微妙です。決して年が近いわけでもないが、大きく離れているわけでもないからです。この年齢差の場合、メドベージェフ大統領としてはプーチン首相の老いを期待している間に老いてしまい、後継者候補から除外されることになるのではないかと思われます。つまり、もし本当にメドベージェフ大統領が権力を望むのであれば、「老いを待つ」という方法は使えず、戦わざるを得ない。戦わないと言う選択をした場合、あとはプーチン首相の温情次第となりますが、危険視されて失脚させられる可能性は極めて高いのではないかと思われます。何しろ、一度は事実上最高権力者と肩を並べるポストに就いてしまったのですから。

 ロシアではプーチン大統領就任以降、権威主義的な体制が着々と整えられてきました。プーチン首相の大統領返り咲きが果たされれば、プーチン体制はますます強固なものとなるでしょう。プーチン体制の元で民主主義は後退し、権力者と財閥が組んで政治経済を牛耳る構造が生まれています。しかし、ゴルバチョフとエルツィンのロシアの民主化時代は経済低迷と国威の低迷時代に重なってしまっており、ロシア国民の側としてはむしろ「強かった」スターリン時代を懐かしむ声すらある。「強いロシア」を望む国民の愛国心を上手く利用したのがプーチン首相で、ロシアを強くするかわりに、民主主義や自由は明らかに後退しています。そして、ロシア国民はプーチン首相の手腕と姿勢を高く評価し支持していますから、結局のところロシアでは自由や民主主義に大した価値を見出していないのでしょう。それは同時に、合議によって意思決定するシステムに馴染んでおらず、むしろ強力な最高権力者に委ねたいと言う心理・国民性もあるように思われます(この点では、我が国の地方政治にも同様の問題があると言えます)。

 かつて、ソ連の最高指導者は「赤いツァーリ(皇帝)」と言われてきましたが、今やプーチン首相もツァーリと同視してもよいでしょう。ただし、ロシア帝国の皇帝やソ連の指導者と異なり、プーチン首相は体制を維持するためには国民の支持を必要としています。そのためには、「強いロシア」を演出する必要があります。チェチェン紛争や北方領土問題での強硬姿勢のみならず、軍拡路線への転換や、日本列島付近に爆撃機を出没させる頻度を増やしているところを見ると、経済面ではともかくとして安全保障面では日本に対する圧迫を強めていくのではないかと思われます。ロシアが北朝鮮のバックアップをしていることも忘れてはなりません。

 中国の軍拡著しく、ロシアも再び脅威となる日が近いということを考えると、日本としてはますますアメリカとの同盟関係を強化して行く以外に方策はないのではないでしょうか。民主党政権になって以降の日本の「反米」とも言える姿勢に対して、アメリカの識者の間では「極東から撤退してアラスカ・ハワイ・グアム・パナマの線まで後退すべきだ」という意見すら出ているそうです。あくまでも「少数意見であり、多数意見とはなっていない」そうですが、私がかつて懸念していたことが、不幸にも現実になるかも知れません。

 オバマ大統領は野田総理に普天間問題で答えを出すことを求めています。民主党政権が方向転換できなければ、日本は極東の勢力争いの中に置き去りにされ、中国あたりに服属する小国へと転落することになるでしょう。

 

 

ファイル:Greater Coat of Arms of the Russian Empire 1700x1767 pix Igor Barbe 2006.jpg ロシア帝国の国章

ファイル:Palaiologos-Dynasty-Eagle.svg 東ローマ帝国の国章

ファイル:Quaterionenadler David de Negker.svg 神聖ローマ帝国の国章

 余談ですが、「はげ・ふさの法則」というものがあります。帝政ロシア以来、最高指導者にハゲとフサフサが交互に就いてきたというものです。メドベージエフ大統領はふさふさであり、プーチン首相は大分薄くなっていますから、この法則通りということになるかも知れません。

 

2011年9月23日 (金)

減税日本と党議拘束

 私は河村市長のポピュリズムに徹した政策と手法には批判的な目を向けていますが、党議拘束に関する問題については従来の河村市長の理屈が正しいと考えています。党幹部や議員団幹部が一方的に賛否を決め、無役の議員は文句を言わずに従えと言うのは個々の議員を「数字」としか見ていない証左であり、個々の議員を選んだ有権者を馬鹿にしています。幹部であろうが長老であろうが新人であろうが、有権者は優劣をつけて選出しているわけではないからです。また、国や地方を問わず長年のこうした慣行が、議員から議論によって意見集約して行く能力そのものを育てる機会を奪い、数の力で押し切ったり義理人情で何とかしようとする手法により、民主政を揺るがす問題を生んでいるように思われます。

 河村市長の創設した減税日本は、この従来の河村市長の思想を取り入れ、減税と議員報酬削減以外の争点に関して党議拘束を設けないと言うことで出発しました。この党議拘束を設けないと言う考え方は、私ですら魅力を感じたものでした。他に職を持たなければ生活できない非常勤の議員がどこまで研究して話し合いに臨めるかは疑問であったものの、少なくとも少数の幹部や有力者によってはじめから結論ありきで決めてしまうよりははるかに良い事であると考えたものです。

 ところが、河村市長は減税日本の議員に実質的に「党議拘束」を行い、市長の意向に逆らわないよう求め始めたと伝えられています。これでは、従来の議会与党の姿勢と何処が違うのでしょうか。河村市長としては、絶対権力者になった以上翼賛議会で十分と考えているのでしょうか。だとしたら、大変に傲慢な考え方であり、名古屋市の有権者を騙したことになります。結局、河村市長の主義主張は権力を握るための方便にすぎなかったと指弾されても仕方がないでしょう。

 ただ、河村市長の顔と名前で当選してきた議員が圧倒的多数を占めている以上、議員を続けたいばかりに市長の命に服従せざるを得ない議員も増えていくものと思われます。そうなれば、それこそ議会は「無用」ということになる。今のところ法的には困難ですが、議会を廃止し、住民の声だけ地域委員会経由で行政に伝えるシステムを作ることができれば、市長はもう君主そのものになれます。どうか、そのようにならないことを祈りたいと思います。

2011年9月21日 (水)

三菱重工防衛機密漏洩事件

 三菱重工のコンピューターにウイルスが侵入し、防衛機密情報が流出していたことが明らかになりました。同時多発的に不正アクセスが行われたことや、感染させられたのが流出させることが目的のウイルスであったことから見て、コンピューターマニアのイタズラではなく、何者かが三菱の防衛機密を盗み出そうと意図して行ったのではないかと思われます。IHIや川崎重工など日本の防衛産業の中核を担っている企業にもサイバー攻撃が仕掛けられており、日本の防衛産業そのものをターゲットとした「組織的な」攻撃であったということになります。

 一部の報道によれば、不正アクセスの解析で中国大陸で常用される簡体字が出て来たとか、流出データの送信先が中国であるというものがありました。事件発覚当初から、中国による犯行との見方が囁かれており、実際に中国はサイバー上の戦いのための準備を着々と進めていることからして、中国犯行説には一定の説得力があります。一方、中国と対立している筈のインドのコンピューターが介在していると言う報道もありますから、これがインド独自のものなのか、インドを隠れ蓑にしたのか今後解明する必要があります。

 中国では自国が犯人扱いされている事に怒りの声が湧き上がっているそうですが、中国犯行説は決して看過できない。と言うのも、中国が各国の防衛機密を盗み出して兵器開発をしているのは周知の事実だからで、日本だけが例外と言うのも考え難い話だからです。例えば、アメリカの誇るイージスシステムの情報は中国によって盗み出され、そのデータをもとにしてチャイニーズ・イージスという外見からしてアメリカのアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦にそっくりな蘭州級ミサイル駆逐艦が建造されています。この事件では盗み出した中国系アメリカ人が罪に問われており、アメリカですら機密漏洩が相当なレベルまで発生していたことから見て、それよりもガードの甘い日本で機密の流出は起きていたと考えるのはむしろ自然ではないでしょうか。

 ちなみに、英語でパチ物のことを「Chinese copy」と言うそうですが、新幹線や兵器からアニメまで見ていると、そう言われても仕方がないように思うのは私だけではないでしょう。昨日の報道ではAK98なるAKB48に酷似した少女アイドルグループを売り出して中国国内からも顰蹙を買っているくらいです。

 三菱重工はこの事件について、八月中旬にはウイルス感染とデータ流出を認識していながら、報道されるまで防衛省に報告していなかったというのですから呆れます。装備品の発注は企業だから何処でも頼めるというものではなく、機密保持も含めた信頼関係の上に立って、国も信頼し多額の装備品の発注をしているのではないでしょうか。だからこそ、市販品や海外での価格と比較して高いのも容認されているわけです。機密タダ漏れというのでは、そもそも日本国内の企業に発注する意味すら失わせかねません。日本の防衛産業を守る上で、無視できない事件であり、事件発生後の三菱重工の姿勢は機密情報を扱う者の自覚に欠けていると非難されても仕方がないのではないでしょうか。

USS Halsey DDG-97アメリカのアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦

Fleet Hangchow Bay Bridge-1-.jpg中国の蘭州級ミサイル駆逐艦

2011年9月19日 (月)

年金の一本化について

 政府は税と社会保障の一体改革の一環として、従前の厚生年金保険と国家公務員・地方公務員等・私立学校教職員の共済の年金を統合する方向で調整に入りました。民主党が一貫して主張してきた「国民年金と厚生年金の統合」「月7万円の最低保障年金」はひとまず脇に置かれた形になります。

 厚生年金保険の制度に対して共済年金を統合して行くと言うのは、既に船員保険、旧国鉄共済、旧電電公社共済、旧専売公社共済などで実績もあります。国民年金と厚生年金を統合するよりは、制度変更はすんなりと進むのではないでしょうか。

 ただし、この共済との統合によって、年金制度が改革され国民の年金不安が解消されるのかと言うと、残念ながらそれはないと断言できます。

 まず、民主党に加えて自民党やみんなの党など、所謂新自由主義信奉グループは、永年に渡り「公務員が年金で優遇されているから当事者意識かなく年金改革が進まない」ということを念仏のように唱えてきました。年金を公務員任せにすること自体、既に彼らの主張してきた「政治主導」「脱官僚」と矛盾する話なのですが、これは単純に公務員の年金を切り下げるだけの効果しか生まないのではないかと思われます。

 明治初期にまで歴史を紐解くと、我が国の官吏(公務員)の質は年金制度で相対的に国民一般より優遇されていた時代の方が評価は高かった。戦前は公的年金のもらえる仕事が官吏か職業軍人くらいしかなく、その分優秀な人材が集まったわけです。高等教育を受けられない層(戦前の国民の圧倒的多数)にとっては、陸海軍の兵から下士官になることが出世コースで、戦前に貧しい田舎から志願して陸海軍に入った人たちの書いたものを読んでみると、「年金」が大きな魅力だったことがにじみ出ています。旧日本軍の下士官は勇敢で優秀だったと評価されていますが、優秀な人材が集まり努力した結果であって、その背後には「年金」と「安定した月給」があったことは、現代日本においても注目されてよいと思います。

 現在の年金不安の本質は、公務員の年金が高い事に対して不満を感じていると言うより、一般的な年金特に国民年金のみとなっている者に対する給付が安すぎること、労働者全体の非正規化に伴い厚生年金への加入そのもののハードルが若い労働者ほど高くなっていること、少子化と高齢化により受給と負担のバランスが維持できなくなるということなどが挙げられます。そして、公務員の年金を厚生年金保険に統合することで、これらの問題は何一つとして解決されません。

2011年9月17日 (土)

スポーツ庁設置を急ぐ必要はない

 中川文部科学大臣が、スポーツ庁設置を前向きに検討すると表明しました。政治家の「前向きに検討する」という言葉は所謂「玉虫色」の言葉ですからただちに信用はできませんが、この件に関しては前向きに検討する必要そのものが低いように思われます。

 スポーツ振興は悪事ではありませんが、私は音楽や絵画等の芸術を差し置いて、スポーツだけを特別扱いすることにかねてより疑問を呈してきました。国民に対しては、多様な選択肢が提供されていい筈です。色々と理由づけはしていますが、結局のところ、本音はメダルが欲しいのではないかと思えてなりません。

 今朝、被災地で復興事業よりも先にサッカー場を建設しようとしている自治体の話が報道されていました。国でも地方でも、何を優先させるべきか分かっていない人が多いと感じているのは私だけではないでしょう。

 ちなみに、スポーツはかつて国民を衆愚化し統制する方法として使われ、今も社会主義国では常套手段として用いられています。国際試合での日本チームの勝利が、結果的に失政の鬱憤を晴らす効果を生じている事に思いを致す時、公権力のスポーツ振興は、国民の自由と独立を確保する観点からも、大いに疑って見た方がよいと感じます。

 中央政府で復興事業を統括する「復興院」を設置するならばともかく、スポーツ庁の設置を急ぐ必要は全くないと思います。

2011年9月16日 (金)

エルトゥールル号事件から121年

               

                     フリゲイト「エルトゥールル」

 9月16日は、1890年にエルトゥールル号事件の発生した日で、今年で121年にあたります。

 オスマン帝国から日本に対して派遣されたフリゲイトで「エルトゥールル」は、帰路に和歌山県串本沖で台風のため遭難し、16日深夜に沈没しました。座礁して船体に亀裂を生じ、それが機関部に海水を流入させ、水蒸気爆発を引き起こした結果、587名が殉職しました。生存者69名が地元民の努力もあって助かり、日本海軍のコルベット「金剛」と「比叡」によってトルコに送り返されています。このことは、トルコではよく知られていたそうですが、日本でも最近になってよく知られるようになり、日本とトルコの友好の歴史の一ページ目として記憶されています。

 調べてみると、このとき遠洋航海のため「比叡」に乗り組んでいたのが少尉候補生時代の秋山真之でした。NHKドラマ「坂の上の雲」では原作にないエピソードが盛り込まれることも多い(例えば日清戦争で日本軍が清国で略奪を働くところなど)ので、エルトゥールル号事件のエピソードがあるのではないかと期待していましたが、残念ながらこの話は取り上げられませんでした。

 当時、日本とトルコはともにアジアに残された数少ない独立国であり、ロシアの南下政策に悩むという点で共通の利害関係を有していました。日露戦争においてトルコ政府が日本に好意的な態度を取り続けた事はよく知られています。第一次・第二次世界大戦においては敵同士として戦う事になりましたが、実際にトルコ軍と戦火を交えることはありませんでしたし、むしろ第二次世界大戦ではトルコは心情的には日本に味方したかったものの、「世界大戦に巻き込まれるな」というムスタファ・ケマル大統領の遺訓があって、ギリギリまで中立を保ち続け、日本と断交したのは1945年6月に入ってからでした。トルコは国連やOECDの原加盟国であり、その後も日本の国連加盟やOECD加盟に助力してくれています。

 トルコは朝鮮戦争においても国連軍の一員として6000名からなる部隊を派遣して朝鮮半島で戦い、多くのトルコ兵が命を落としています。北朝鮮を三十八度線で食い止めることができ、朝鮮半島の赤化を防げたことは我が国の安全を確保できたということとイコールであり、その点においてもトルコの献身を忘れるべきではありません。現在も、ワシントンDCのにある朝鮮戦争戦没者慰霊碑には、参戦国としてトルコの国名が刻まれ、記憶を今に留めています。慰霊碑に刻まれた「FREEDOM IS NOT FREE」(自由はタダではない)という言葉を今も覚えています。なお、朝鮮戦争での後方基地は占領下の日本であり、トルコの国立軍事博物館によると、やはりトルコ軍も日本で骨休めしていたようです。

 現在の世界情勢において、トルコがアメリカ・ヨーロッパと中東・イスラーム諸国との間で交渉ルートとして一定の地位を占め、国際社会での発言権を増しているのに対して、日本の凋落ぶりはあまりにも対称的と言えます。しかしながら、それでもなおトルコをはじめ中東世俗主義国の間では、我が国に対する期待は依然としてあります。

 エルトゥールル号事件のあと、遭難者を送り返すにあたり、日本が国費で軍艦を用いて送還したことについて、実は多くの批判もありました。国費の無駄遣いであると言うのです。「民間にできることは民間に」という考え方に立てば民間船舶を用いて旅費程度を負担してやればよかったわけですし、ロシアに至ってはタダで送還してもいいとまで申し入れてきていました。しかし、トルコの海軍軍人を同じ海軍である日本海軍が自らの軍艦で送還したことに大きな意味があったように思います。

 最後になりますが、殉職したオスマン・トルコ帝国海軍の将兵の御冥福をお祈り申し上げます。

 コルベット「金剛」

 コルベット「比叡」

2011年9月15日 (木)

貧困大国アメリカ

 アメリカの国勢調査局が、2010年の米国の貧困者が4618万人であったと発表しました。2009年は4356万9000人でしたから、262万人ほど増えた事になります。この数字は、統計を公表し始めた1959年以降最多ということです。貧困者の割合も上昇し、15.1パーセントになっています。

 日本の貧困問題と一概に比較はできませんが、アメリカの場合生活保護のハードルが日本よりもかなり緩く、加えて教会を代表する宗教勢力が相当な規模の慈善活動を行っています。日本は長らく「アメリカでは」を理由として「改革」を進めて来ました。一方で、アメリカ社会のセーフティーネットについてどれだけ学んでいるかは率直に言って疑問です。

 例えば、宗教法人は日本では原則として非課税です。そして、宗教に帰依している統計を積み重ねると日本の人口を大幅にオーバーしてしまう。宗教の信者が重複してカウントしているためであると言われていますが、それだけ「宗教が盛ん」な筈の日本で、宗教団体の慈善活動は注意して探さないとなかなか見つけることができません。しかも、その慈善活動を行っている宗教団体は、仏教系や神道系よりも圧倒的に少数派の筈のキリスト教系であることが珍しくない。戦後、慈善活動を期待してアメリカのように「非課税」にしたわけですが、現実はセーフティーネットを担うには程遠い状態であると言わざるを得ません。

 寄付文化にしても同様です。我が国でもアメリカほどではないにしろ、若き億万長者が次々と生まれました。最近ではさすがに目立つことは減っていますが、少し前までは会社を買い、豪邸に住み、豪遊している姿がよく報道されていたものです。翻って、彼らがネーミングライツではなく純粋に市民社会への寄付としてカーネギーホールまでとは言わないまでも建物でも建てたかと言うと、そうした話もほとんど聞きません。

 まだまだ「アメリカのように」という声は朝野を問わず根強いものがありますが、アメリカの貧困に思いを致す時、そう単純なものではないと考えます。もし、アメリカと同じ制度を導入したとすれば、我が国の状態は間違いなくアメリカの現状以下となるでしょう。我が国は長らくアメリカの「後追い」を続けてきました。貧困だけでなく、非正規労働即ち「派遣」や「偽装請負」などの問題についても、八十年代には既にアメリカで顕在化しており、九十年代にはそうした惨状を分析した研究結果が出ていたのです。日本の現状は、そうした分析結果に耳を傾けることなく、利益至上主義と思い込みによって「改革」が行われ、それを国民が支持した結果であり、ある意味では自業自得と言えます。

2011年9月13日 (火)

鉢呂吉雄前経済産業大臣失言事件

 鉢呂前経済産業大臣が失言によって辞職に追い込まれました。何やら、高支持率で出発できた野田内閣の「トカゲのしっぽ切り」に見えないこともありません。

 鉢呂前大臣の失言と言っても問題になったのは二つあります。ひとつは「福島は死の町」という発言であり、もうひとつは福島の視察から戻った際に新聞記者に対して「放射能を付けてやる」という発言をしたものです。

 このうち、前者については避難区域を形容したものであり、報道される避難区域の映像を見ていると、そう言えないこともありません。津波によってなぎ倒され瓦礫の山と化した区域も悲惨なものですが、目に見えない放射能によって人が住めば危険に晒される地域もまた、不気味な恐ろしさがあります。前後の文脈から考えると、いささか重箱の隅をつつく感がありますが、公言することが適切であったのかどうかは別問題でしょう。

 むしろ、問題なのは「放射能を付けてやる」という趣旨の発言です。福島入りしただけで鉢呂前大臣が放射能まみれになっているわけもなく、そんなことならば私も放射能に汚染されていなければならなくなります。風評被害に悩まされる国民が多い中、閣僚として余りにも配慮を欠く発言であったと言えます。

 何よりも、この「放射能をつけてやる」発言は、小学生が「便所」と言ってタッチし、タッチされた者を馬鹿にして遊ぶ嫌がらせと同じレベルです。呆れるほかないものでした。政治家である以前に、人間として余りにも幼稚です。辞職に追い込まれるのは仕方がないと言わざるを得ません。

2011年9月11日 (日)

911同時多発テロ事件から10年

                  

 今日は911同時多発テロ発生から10年にあたります。あの日、私は台北にいました。翌日の台湾の新聞は軒並み「真珠湾だ」という見出しを掲げていた記憶があります。アメリカと違って、日台間の航空便は正常に運行はされていましたが、台湾入国時と出国時では警備体制がまるで違っており、出国時に中正国際空港の警備は厳重なものになっていました。

 事件後ただちに「テロとの戦い」がはじまり、それは今も続いています。そして、終戦の目処は全く立っていません。かつての、国と国との戦いの場合は、相手国の首都を制圧したり焼け野原にすれば終わったものでした。内戦でも、革命派が中央政府の首都を制圧してしまえば大抵は決着が着いたものです。しかし、「テロとの戦い」はそのようなものにはなりませんでした。カブールを落としても、バグダッドを落しても、戦争は終わっていません。

                      Osama bin Laden portrait.jpg

 911テロの首謀者であるウサマ・ビン・ラディン容疑者は、最近になってアメリカ軍により殺害されました。潜伏していた自宅からは「憎むべき」アメリカやヨーロッパのポルノが大量に出て来たことで失笑を買いましたが、それで容疑者の権威が失墜したわけでもありません。ビン・ラディン容疑者は死にましたが、新たなテロリストが育っています。親玉を殺しても、直ぐに新たな親玉が出てくると言うことになるでしょう。

 テロ組織「アルカーイダ」にしても、その姿はテロリストのネットワークに近いもののようで、中央指導部があったわけでもないようです。その証拠に、「親玉」であり「オーナー」であった筈のビン・ラディン容疑者を殺しても、組織が壊滅したわけではありません。勝手に「アルカーイダ」と名乗っているテロ組織もあるようで、ひょっとすると晩年のビン・ラディン容疑者も組織の全体など把握していなかったのではないか。そして、「アルカーイダ」がテロ組織のブランドになっていることに鑑みれば、誰かが「アルカーイダ」を名乗り続けるのではないかと思います。

 首謀者のウサマ・ビン・ラディン容疑者もテロとの戦いを主導したブッシュ前大統領も、ここまで長期化することを想定していたのか。ビン・ラディン容疑者は「キリスト教の不信心者に対するジハード(聖戦)」であると位置づけ、ブッシュ前大統領もアメリカ軍を「クルーセイダー(十字軍)」と称したことがありました。ひょっとすると、彼らは意図せず互いに「文明の衝突」を作り出し、長期戦を覚悟していたのかも知れません。双方の権力維持にとって、「文明の衝突」と「長期戦」は有効なものであったからです。

 我が国も「テロとの戦い」に加わっています。武力による我が国への脅威は、断固として排除しなければなりません。もし、我が国と国民への脅威に対して日本政府が何もしないとしたら、国家を構成する意味そのものがなくなってしまいます。しかし、テロに対する戦いは、単純にテロリストをあぶり出して叩くだけでは意味がありません。新たなテロリストが生まれてくるからです。

 何故、テロリストが生まれるのか。多くの場合は現状に対する不満です。貧困地帯では、自らの境遇への不満がテロリストを生み出している。パレスチナのテロリストが典型例で、土地を奪われ難民キャンプで生まれながらの失業者では、現状を打破する方法としてテロに目が行くのは当然と言えましょう。

 では、裕福ならばいいのかというと、そうではない。911テロで実際に旅客機を操縦してビルに突入したのは、何れもエリートでした。イスラーム社会のエリートではなく、欧米社会においてもエリートに位置づけられる人々です。彼らがテロに走ったのは、欧米社会のマイノリティとしてアイデンテイティをイスラームに求め、更にその中でもより過激な方法で自己主張しようとしたとか、或いは虐げられる多くの同胞を見ていてエリートとして看過できなかったと言われています。

 貧困や差別が直接的間接的にテロの大きな温床となっているのは疑いようがないことであり、テロとの戦いを行うならば、武力闘争は別にして、根っこから断つことにも力を入れていく必要があります。

 同時に、多文化共生と言うのは簡単なものではないことを認識する必要があります。安価な労働者として受け入れられた人々の中からもテロリストが生まれています。「郷に入れば郷に従え」というのは多数派の理屈でしかありません。残念ながら、田舎に行けばいくほど、この考え方が危険な問題を生み出すことを自覚していない人が多い。例えば、日本社会において「◎◎町に住むなら町内会に入って神社の祭りを手伝え」というのは、一神教徒としては原則的に受け入れられる話ではないわけです。では、多数派の側が少数派の特殊事情を考慮するかと言うと、大抵は考慮しない。「みんな同じ」とか「和の精神」を根本から覆すことになるわけですから。

 同化させるのは簡単ではなく、一方で許容するのも簡単ではありません。多くの場合は対話ができ、双方が寛容の精神と打算があれば妥協は可能なのですが、原則論にこだわる限り、解決は非常に難しい。一方だけが寛容であっても困難です。

 「国際化時代」とは、非常に複雑な問題が国と国との間だけでなく、地域住民の間や個々人の間で起きると言う事なのです。そのことを自覚せず、国際化を推進すると言うのは狂気の沙汰ですし、逆に人的物的移動が著しい時代に鎖国するというのも妥当ではありません。政府関係者にしろ自治体関係者にしろ、或いは企業にしろ、微妙なかじ取りが求められます。そして、そのかじ取りを行うためには広い視野と冷静な判断力、それに理論と説得の能力が必要です。少なくとも「黙っていれば場の空気で何となくまとまるものだ」という日本人の大好きなやり方では対処できないことは確かで、仮にそのような考え方の持ち主を指導者に戴くならば構成員はその不利益を受けても自業自得と言うべきです。

 911テロは決して現代日本にとって遠い国の話でもなければ、過去の話でもありません。「民営化」「減税」「政権交代」というように、ワンフレーズだけで解決の道筋が見えたように錯覚できる話ですらない。非常に分かり難い問題です。しかし、分かり難い問題だからこそ、指導的立場にある者が逃げてしまっては話になりません。また、今後指導的立場に就く者は、こうした問題に突然対処しなければならなくなることも覚悟しておく必要がありましょう。

2011年9月 9日 (金)

政治家の利益相反行為

 山岡消費者担当大臣がマルチ業者から長年に渡り政治献金を受けていた事実が報道されています。ネット上ではかなり昔から周知のことだったのですが、野田総理は閣僚の「身体検査」をどう考えていたのか、首をかしげたくなります。閣僚にするだけでも国会において質疑に晒されるわけですが、それに加えて悪徳商法を取り締まる担当の閣僚に任命してしまったわけですから。

 献金を受けていたからと言って、ただちにその一味とか代理人であるとは思いたくありませんが、国民から色眼鏡で見られることは避けられないでしょう。取り締まる側と取り締まられる側が同じになってしまうと言うのは、どちらから見ても利益相反行為にあたるということになります。これでは、消費者担当相を信頼せよと言っても無理な話ではないでしょうか。野田総理と山岡大臣の認識は甘いと言うべきです。

 中央政界だけではありません。地方政界においても、首長や議員が経営していたり関わっている会社が自治体から仕事を受注している例はいくらでもあります。最近では政治家が公的機関の発注する仕事を受注する会社と密接な関係にあることが問題視されることもありますので就任にあたって形式的にトップから退いていたとしても、オーナーとして或いは圧倒的多数を握る株主として事実上の最高権力者になっていることは珍しいことではありません。散々議会や公務員や国を批判していた阿久根市の竹原信一前市長も、建設会社の経営者でした。もっとも、我が国では利益相反行為に関する問題については、政界に限らず総じて甘い感がありますので、国民の認識の問題とも言え、政治家だけを責めるのは酷と言えるかもしれませんが。

 オーストラリアのケビン・ラッド外相は前首相でもあるのですが、首相候補となるオーストラリア労働党党首就任に際して、妻が人材派遣会社を経営していたことが利益相反行為にあたるのではないかとの指摘を受け、事業売却を余儀なくされています。

 法律家の間では、受任に際して利益相反行為になることがないよう、倫理教育等で厳しく言われています。これは守秘義務の問題とともに、事情を知らない人たちから「固い」と言われることも多いのですが、守秘義務や利益相反行為の禁止を骨抜きにしてしまったら、恐ろしい事になるのは言うまでもないでしょう。

 政治家についても今後は相応の利益相反防止の対処が必要になるのではないでしょうか。特定の業界と深い結びつきがあるだけでも問題ですが、取り締まる側に取り締まられる側と混同されかねない立場の者を任命すると言うのはもう問題外でしょう。

2011年9月 7日 (水)

「東アジア共同体」は本当に必要ないのか

 野田総理は執筆した論文の中で、東アジア共同体は不要であり、必要なのは日米同盟の強化であると述べています。鳩山元総理が打ち出した「東アジア共同体」構想は、同じ民主党出身の総理の手で事実上葬り去られることになりそうです。

 思えば、鳩山元総理は実に能天気でした。何しろ、自由・民主・均富という価値観を共有する台湾は共同体に入れず(ちなみに、台湾の馬英九総統は台湾としては東アジア共同体に参画したいと表明していました)、一方で独裁・貧困・軍拡・恫喝を繰り返す北朝鮮には共同体に入ってもらいたいと言っていたのですから常軌を逸しています。東アジアでは中国の存在を無視することはできませんが、いくら経済発展著しいとは言っても非民主的な政治に法による支配が行われていないのですから、まだまだ中国は遠い存在であり、共同体を作ると言うのは日本が中国に服属しない限りはあの時点では不可能と言うしかないものでした。

 民主党政権は発足以来、対中国・対北朝鮮政策で兎角に低姿勢・融和路線を歩んだのに対して、アメリカに対しては信義を損なうようなことを繰り返してきました。口先では「日米同盟堅持」と言いつつも、事実上の「反米政権」であると指摘されていた。日米の同盟関係は戦後最悪のレベルであったと言っても過言ではありません。アメリカも野田政権に対しては日米関係の修復を期待していますから、野田総理は従来の民主党政権と異なり、外交的にはアメリカとの関係をより強化することになるのではないでしょうか。

 私自身も、今は対米関係を最重要視すべきだと考えています。日本の安全確保のためには、従来にも増してアメリカとの協力関係が欠かせません。かつては、海上自衛隊で中国・韓国・北朝鮮・台湾の海軍を封じ込めることは容易でしたが、今や中国海軍の増勢は目覚ましく、日本だけでは対処不可能です。同時に、アメリカも経済の減退で従来のような強力な部隊を世界各地に展開させることは困難になりつつあり、言い方は悪いですが「衰退期にある国」同士が手を結ばなければ新興の大国に対峙できない。もし、アメリカが日本と切れることになれば、アメリカは極東における拠点を失ってアラスカからハワイ、グアムを結ぶ線に後退することになるでしょうし(それは1945年以前のアメリカの姿でもある)、北東アジアに生まれた「権力の空白地帯」には中国が入り込んでくることは必至です。

 ただし、私は「東アジ共同体」に全く将来性がないとも考えていません。中国の民主化と北朝鮮の解放がなされ、北東アジア諸国が経済だけでなく自由や民主と言った価値観を共有できる事になった時、共同体へと言うステップはあってしかるべきものだからです。経済的な結びつきが強まってきているからこそ、共通の価値観のもとで話し合い、協力できる体制を作っていくことは重要です。

 残念ながら、現時点では中国や北朝鮮と言った独裁国家に振り回されることになるのは確実で、現段階で東アジア共同体に進めばかつて我が国が「大東亜共栄圏」を建設しようとして失敗したのと同じくらいの混乱と惨禍を招くことになるでしょう。しかし、経済的にも歴史的にも格別の繋がりをもってきた東アジアの国々が共に生きることは、大きな理想ではあります。そして、もしその理想が実現されれば、先の大戦での数千万人の犠牲者の死は無駄ではなかったと言う事にもなる。

 将来的な「東アジア共同体」は否定されるべきではなくむしろ推進されるべきであり、そのための里程標として独裁国家に対し逐次民主化・自由化を促すことが我が国には必要であると思います。同時に、それは我が国の安全を守ることにもなります。自由化・民主化が進めば、最早中国も北朝鮮も、経済関係や人的関係を決定的に破壊してしまうような行動を取る余地は少なくなっていくからです。ただし、いくら友好と通商があっても、全く脅威でないと認定してしまう事は双方にとってよくありません。例えば良好である日台関係においても、尖閣諸島に関しては常に台湾から文句をつけられており、劉前行政院長は立法院のの答弁で「開戦もあり得る」と述べています(あくまでも、劉前行政院長としては領土を侵された際の最終手段として戦争と言う選択肢を中華民国の国内法的に排除しないという趣旨でしたが)。

 仮に、中国と北朝鮮が、それぞれ分裂した片割れである台湾と韓国と同じくらいのスピードで民主化・経済改革を実現できたとしても、日本・韓国・台湾と同等のレベルに達するには半世紀以上の時間がかかるのではないかと思います。中国の沿海部の高学歴層は既に西欧的な価値観に染まりつつありますから、彼らと話していると楽観的な気分にならないではありませんが、沿海部の富裕・高学歴層の何倍もの貧困層を抱えていると言うのが中国の現実であり、北朝鮮となると実質的に奴隷制国家と変わらない。東アジ共同体に実際に踏み出せるのは、何十年も後の事になるのではないかと思います。

 とりあえず、自国の最高指導者を自由に批判できないような国と共同体を作るようなことはできません。アメリカではオバマ大統領を誰でも批判できます。台湾でも馬総統を馬鹿だと批判できますし、韓国でも李大統領を批判してもそれで罪に問われることはない。日本でも、最近の総理をして「○○はバカだ」と批判しても何らの罪にはならず、それどころか共感すら抱かれると言う笑えない状態が続いてきました。一方、中国で公然と胡錦濤主席を批判したら、北朝鮮で将軍様を批判したら、命の保証はありません。道のりは長い。

2011年9月 5日 (月)

野田内閣の支持率56パーセント

 世論調査で、野田内閣の支持率は軒並み50パーセントを超えており、大体6割程度の支持を得ています。菅内閣末期の支持率と比べて、文字通りV字回復と言えるでしょう。

 しかしながら、郵政選挙直後の小泉政権も含めて、安倍・福田・麻生・鳩山・菅と言った短命に終わった歴代内閣も発足当初の支持率は非常に高かったのです。それが、あっという間に急落し、与党内からもこれでは選挙が戦えないから引き下ろせと言う声が高まり、見捨てられて辞めていく。これが初秋の年中行事と化しています。

 首相が交代すると、何か新しい事が起きるような期待を抱いてしまいます。そうした感情が、発足当初の高支持率となっているのでしょう。特に、森内閣以降最近の総理は、常に石を持って追われるような状態で退陣を迎えてきました。前内閣への不信感・失望感の反動が、次の内閣の高支持率ともなっているのかも知れません。

 ただ、「顔」が変ったからと言って、閉塞感が一気に打破されるわけではありません。長年の不況で国民は慢性的な閉塞感を抱いており、最近はその閉塞感を打破してくれそうなものに飛びつく傾向があります。しかし、簡単に閉塞感が打破されるわけもなく、期待は直ぐに失望に変わる。そして、直ぐに新しいものにまた飛び付く。これでは、政治家の側も腰を据えて取り組むと言う事は難しいのではないでしょうか。彼らも人気商売であるからです。

 顔が変わってからと言って閉塞感が解消されるわけではないことを、国民の側も認識しておく必要があるのではないかと思います。

2011年9月 3日 (土)

トルコ共和国が駐箚トルコ共和国イスラエル国大使を追放

 トルコ共和国が、自国に駐箚しているイスラエル国大使を追放しました。イスラエルとの軍事協力も停止すると発表しています。

 特命全権大使も含めた「外交使節団」のメンバーは、接受国の意向により簡単に国外追放の処分ができます。これは「ペルソナ・ノン・グラータ」と呼ばれ、接受国は理由を示す必要もなければ、追放する理由がなくてもいいことなっています。外国人を入国させるかどうかは、国家に与えられた基本的な権利の一つであり専権事項であって、他国が口を挟むことはできないという考え方が基本にあって、これがない国は独立国と言えるかどうか怪しいと言われます。

 この対立の発端はトルコによるパレスチナへの支援船をイスラエルが攻撃してしまった事件なのですが、このことについて双方の主張は噛み合っていません。トルコは人道支援であったと主張していますが、イスラエルにとっては、パレスチナは憎むべき敵と言う事になっているからです。特に、パレスチナのテロリストによって市民の日常生活までが脅かされていますから、イスラエルは極めて神経質になっています。

 トルコはヨーロッパとアジアの境界に位置する地理的な要因に加えて、長年アメリカとの友好関係を持ち、窓口としての役割を果たしてきました。最近では欧米諸国とイラクとの間に立ち、国際社会における存在感を増していたところでした。それだけに、今回のイスラエル大使追放は、それがトルコ政府の専権事項であるにしても、あまりいい傾向でないことは確かです。

 ヨーロッパ諸国が警戒しているのは、ヨーロッパの一部に領土を持つトルコが「反ヨーロッパ」「親イスラーム原理主義」の国になってしまった場合、自国への脅威になるのではないかということです。特に、トルコではイスラム系政党の公正発展党が政権を握り、世俗派の共和人民党は第二党ではありますが国会の議席数では大きく引き離されています。最近では公正発展党もかつてのようなイスラム色は控える傾向にありますが、ヨーロッパ諸国の猜疑心が簡単に消えるわけもありません。

 一番怖いのは、トルコとイスラエルの間で公式な交渉ルートがなくなってしまうことです。何しろ、イスラム教徒が多数派を占める国の中でイスラエルと国交を持つ国そのものが少なく、更にまともに話し合いのできる国となればトルコくらいしかないからです。もし、正式な交渉ルートが失われることに慣れば、トルコとイスラエルの二箇国間のみならず、欧米諸国と中東を巻き込んで更なる対立を引き起こす事になる。

 今回のトルコ政府の措置はあくまでも大使の追放であり、他の外交使節団を軒並み退去させると言う事でもなければ国交断絶を通告したわけでもありません。よく「大使を召還」することが日韓関係でもありますが、これは「不満の表明」程度に過ぎないものであり、大使を召還したり追放したりしたからと言って、国際法上何らかの新たな権利義務が生じるものではありません。今回の大使追放にしても、あくまでもトルコ政府の「不満の表明」であり、イスラエルとの交渉断絶など考えてもいないというメッセージと観るべきです。そうした点ではまだ冷静さが残っていると言えるでしょう。

 トルコもイスラエルも、厳しい国際関係の中で生きて来た国です。両国とも、終着点を考えずに怒りを爆発させるような馬鹿なことはしないでしょう。こうした点は、我が国も大いに二箇国を見習う必要があります。

2011年9月 1日 (木)

朝鮮学校の無償化問題について

 菅総理(野田佳彦民主党代表は国会で首相に指名はされていますが、9月1日の現時点では親任式が行われていないため菅内閣が未だ存続しています)が、朝鮮学校の無償化についての手続きを再開するよう高木文部科学大臣に支持しました。昨年に発生した北朝鮮による砲撃事件で一時停止されていた無償化措置の手続きが再開されることになるわけです。

 朝鮮学校を無償化することに関しては、高校無償化そのものの是非とも関連して議論のあるところです。まして、北朝鮮は我が国にとって単なる外国のひとつという存在ではありません。我が国への脅威となっているところは論をまたないところです。

 内閣総理大臣交代と言う時期に、このような重大な決定をすることが、法的にはともかく道義的に問題があります。辞めていく総理が何をやっても、もう国会で追及されることもないわけで、意思決定をあとで検証することが難しい。新たな内閣の発足を待って、改めて話し合うべき問題ではないでしょうか。

 菅総理は北朝鮮の状況が変わったことをもって、無償化手続き再開の理由としています。しかし、本当に北朝鮮の「状況が変わった」と言えるのでしょうか。砲撃事件ひとつにしても、北朝鮮は未だに韓国から先に砲撃してきたという主張を変えておらず、もろちん謝罪など一切していません。開放政策に転換したと言うような事実もなく、着々と「三代将軍」への権力の世襲と先軍政治を進めています。後退したのはスローガンくらいで、「強勢大国」が「強勢国家」となり、大国になるのは諦めたようですが、その程度のことでしかない。これで「北朝鮮は変わった」と言うのは非常に難しい事です。

 ここで注目すべきは、菅総理が長年に渡り北朝鮮関係の団体に献金を続けて来たという事実です。それも5000万円以上というのですから、尋常な金額ではありません。何か弱みでも握られているのではないかと言われても仕方がない。その延長線上で、無償化を強行しようとしているのではないかと勘繰られるのもむしろ自然ではないかと思います。

 仮に無償化できるとしても、それは優先事項なのでしょうか。2009年の総選挙の時とは、我が国の国情は大きく変わってしまっています。被災地復興のために莫大な支出が必要な時に、高等学校無償化を行う事そのものも再検討すべきで、事情があまりにも変わっているのですから、それをもって「公約違反」と糾弾するのは酷であり、むしろ国民は納得するのではないでしょうか。

 何れにせよ、鳩山政権菅政権と民主党が朝鮮学校無償化「ありき」で行動してきたと見られているだけに、今回の菅総理の決定は総理大臣交代のどさくさに紛れて無償化を強行しようとしていると見られても仕方がない。そして、一度無償化してしまえば、あとは北朝鮮が何をやらかそうが、簡単に止めることはできなくなります。拙速な決定は禍根を残すでしょう。この問題は新内閣が国会ともよく協議して決めるべきことではないでしょうか。

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