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2011年3月

2011年3月31日 (木)

大規模災害に強いまちづくり

 長久手での大規模災害として特に懸念されるのは地震です。他の災害を軽視することはできませんが、先ずは地震の被害をいかに減らすかが、大規模災害に強いまちづくりへの第一歩となります。

 長久手町を歩いてみると、他の市町村に比べて住宅地の道路が広く取られている事に気付かされると思います。近年開発された新興住宅地だけでなく、旧部落でも土地区画整理を行ったところは、相応に道路を広く取っています。これは、災害に備えるという点では大きなプラス面です。

 地震が起きた場合、狭い道路では崩れて来た建物や塀などで道路が簡単に塞がってしまいます。これでは、避難にも救援にも時間がかかりますし、火災が発生した場合には大規模な延焼を招く危険性が非常に高い。これに対して、道路を広く取っておけば、建物が崩れてきた場合に完全に行き来のできなくなるというリスクはかなり軽減できます。また、火災の延焼を食い止め、消防車を迅速に向かわせることも可能になります。

 私が大阪大学の大学院に在籍していた時、下宿していたのは大阪府の池田市というところでした。倉田薫市長が橋下徹大阪府知事と喧嘩したことで、御記憶の方もおられると思います。下宿は入り組んだ住宅地の中にあり、車が何とか通れるかというところでした。ある時、近所で火事があったのですが、消防車が近くまで入っていくことができず、消火栓や川からホースをつなぐのにかなり時間がかかっており、正直に言って怖いと感じたものでした。

 道路を広く取る他に、もうひとつ重要なこととしては何箇所か抜けられるように区画の配置をしておくということです。住宅地の中には入口が一箇所でだけで、住宅地内をぐるぐる回ると同じところに戻ってきてしまうというところがあります。こうしたところでは、避難する際にボトルネックになってしまいますし、出入り口に当たる部分が塞がってしまうと袋のみずみになってしまいます。できるだけ、何箇所かに抜けられるように区割りをしていくことが必要と思います。もっとも、この場合は通勤通学の際の抜け道となり、住宅街を猛スピードで車が走っていくと言う事態にもなりかねませんから、一定の規制をかけることも同時に必要となるでしょう。

 勿論、長久手町内にも道路の狭い入り組んだ住宅地があります。道路を広げたり、抜けられるように区割りをすると言う事は一朝一夕にできることではありませんから、そうした地域への配慮は当然必要です。ですが、ただ、道路の広い住宅地の損害を軽減させることができれば、救難に必要な人員や資材をより困っている地域に送り込む事が可能になり、全体として救える命は多くなるわけです。したがって、努力することは町全体或いは長久手町を含む地域全体として、決して無益なものではありません。

 私の亡き祖父は土地区画整理組合の理事をしていました。まだ小さかった私が覚えているのは会議が終わった後に自転車で帰ってくる姿くらいですが、政治活動をはじめるようになって、地域の皆様方から祖父の話をよく聞かされるようになりました。祖父は整理組合で補償を担当していたそうで、かなり苦労があったようです。道路を広く取れば、その分そこに住む個々人の土地の面積は小さいものにならざるを得ません。道路以外にも、あちこちに公園が整備されています。これも、当然ながら避難場所として想定されています。地域の安全や利便性のためには、多少個々人が犠牲を払う必要があるわけですが、これを提案し、地域の皆様に納得していただくのは簡単なことではなかったと思います。

 まちを歩くたびに、先人の苦労と犠牲があったからこそ、一定の安全が確保できているということを感じています。私たちがすべきことは、そこから学んだ上で、新たに開発する地域や土地区画整理を行う地域を、より安全なものにしていく努力をすることであると考えます。

 また、ハード面だけでなくソフト面すなわち人的な側面も無視することはできません。大規模災害が発生した場合、自衛隊や消防が簡単に駆けつけられない事が多々ある事は、阪神大震災で得られた教訓ですし、今回の東北関東大震災でも同様です。

 ただ、現実問題として私のような特に専門的な技術も技能も持たない市民が重機を動かして救出をするというのは難しい。個人や周囲で工夫して、被害をできるだけ減らすこと、また平時からそうしたノウハウを学んで実践する事が当面は大事なのではないかと考えます。

 また、被災者に対する支援の需給調整や配分を考えると、情報伝達が重要になります。平素人間関係を密にしておくべきだとはよく言われますが、それに加えて支援要請カードを作成しておくなどして、一目で必要な情報を把握できるように準備しておくことが必要と思います。また、情報伝達をしっかりしておくことでパニックの防止や治安の悪化の歯止めにもつながります。

2011年3月30日 (水)

ワンフレーズ・ポリテイクスの危険性

 よく「分かりやすい政治を」と言われます。そして、細かい説明や政策は嫌われ、簡単な内容のものが有権者の元にばら撒かれることになります。

 ですが、企業経営はどうでしょうか。学問はどうでしょうか。多くの場合、分かり難いものになっています。「分かりやすい経営」では企業をとりまく現実の問題には対処できないでしょうし、「分かりやすい学問」は、そもそもアカデミックな吟味に耐えられないでしょう。つまり、そんな学問は学問として成り立たない。

 これは、政治にも言えると思います。国民の意見は多様であり、利害も複雑です。正義だと思っている事が、他の人にとっては不正義である事は珍しい事ではありません。それらを調整し、よりよい社会、町政で言えば住みよい長久手を作っていく事が政治の役割です。そうなると、「分かりやすい」ことを優先して、有権者に伝えるべき事を伝えない、言うべき事を言わないと言うのは、実は有権者に対する大きな背信行為と言えるのではないかと思います。

 「政治改革」「郵政民営化」「政権交代」「道州制」「減税」など、1990年代から現在に至るまで、ワンフレーズで国民の心を掴んだ政治勢力が選挙で躍進してきました。しかし、それではそうした勢力が政治をよくしたのでしょうか。皆さんの生活をよくしたのでしょうか。現在の中央政界と地方政界の混乱を見ていると、とてもそうは思えません。

 有権者の票を集めると言う観点から考えれば、ウソであっても「ワンフレーズ・ポリティクス」の方が有利になる事はナチスの例を見ても明らかです。しかし、政治や社会情勢が簡単に割り切れるものではない以上、それは結局のところ有権者を欺いていると言う事になります。先のワンフレーズ・ポリティクスの結果責任を取ることなく、新たなワンフレーズを叫んで有権者の目をそちらに向けて権力を維持する。権力を維持する方法としては正解なのかも知れません。しかし、民主的なやり方と胸を張る事はできない。

 分かりやすい事が、正しいとは限りません。また、市民の福祉に資するとも限らない。ワンフレーズ・ポリティクスは民主主義にとって危険であると思います。政治家も恐れずに説明責任を果たすべきですし、有権者の方も少なくともそれを聞くくらいの姿勢を持つ必要があります。

2011年3月28日 (月)

自治体防災協定の締結について

 既に周辺自治体の中でも他の自治体と防災協定を締結されたところがあります。我が長久手も、急ぐ必要はありませんが、他の自治体と防災協定を締結し、相互に助け合う体制作りをしていく必要があると考えます。

 大規模災害が発生した場合、大都市の中心部ですとか、極端に被害の大きい自治体はマスコミに取り上げられやすく、相対的にせよ物資が集まりやすく、救援の手も差し伸べられます。しかし、そうでなければ、被災地の声はなかなか届きません。しかも、災害発生時には情報が錯綜することが多々あります。そこで、被災地の外で「長久手だけを見つめてくれている」相手が必要なわけです。

 基本的な枠組みとしては、長久手の行政機構が広範囲に渡って破壊されてしまっているような場合、特に支援物資や人員について、協定を締結している自治体に取りまとめて送ってもらうと言うことになります。大規模災害の際には行政機構が麻痺状態に陥る事が珍しくなく、物資を集積してもさばき切れないことが想定されますし、必要な物資や人員のスキルと送られてきた物資や人員のスキルとのミスマッチを防ぐ必要もあります。そうなったとき、被害を受けていない自治体が取りまとめて送ってくれれば、住民に必要な物資や支援が迅速に届くようになり、行政機構の負担も軽減することができます。

 もちろん、協定を結んだ相手の自治体が大規模災害や紛争に巻き込まれた場合、長久手が全力を挙げて助ける事になります。「情けは人の為ならず」は決して死んだことわざではありません。

 協定を結ぶ相手先の要件としては、ある程度長久手から離れたところにある自治体と言う事が第一の要件となります。三重県や静岡県の自治体の場合、東南海大地震でも起きたときには長久手以上に被害を受けて救援どころではなくなる可能性があるからです。福島第一原発事件のような放射能汚染のことも考慮すると、九州や北海道の自治体との締結も検討すべきだと思います。

 また、相手の自治体が過疎ですとか、財政状況が悪いような場合も、十分な救援を受けられない可能性が出てきます。一方で、相手先の自治体があまりにも巨大な被害が生じやすいような場合、長久手の対応できる範囲を超えてしまい、十分な支援を行う事が出来なくなる。そうなると、相手探しは何処でもいいというわけにはいきません。

 どちらかが極度に依存してしまうような関係では、人間関係と同じく長続きはしないでしょう。双方の自治体がWin-Winの関係を作れるよう、ある程度の時間をかけ、十分な話し合いをして、その上で協定を締結する必要があります。

 長い目で見て、長久手の安全を確保できるような体制作りをすることこそ、政治の役割と言えるでしょう。安全が確保できないことには、福祉も経済活動もままならないことになるわけですから。

2011年3月25日 (金)

場当たり的な「反対」ではいけない

 世の中には「反対」そのものを活動の目的にしてしまっている人や団体があります。確かに、間違っている事や問題のある事について反対を叫ぶ事は大切です。反対する事には勇気がいります。しかし、社会や経済を広く見た上で反対しないと、結局のところ市民を苦しめることになってしまいます。場当たり的な反対ではいけません。
 
 今回の福島第一原発事件において、原子力発電に対する信頼性は残念ながら大きく損なわれることになりました。放射能の恐ろしさが各所で指摘されているのは周知の通りです。二酸化炭素排出問題やエネルギー安全保障の問題において、原子力発電は日本の切り札として期待されていたのですが、我が国の原子力政策が転換を迫られるのは避けられない情勢になっていると言えます。

 それでは、火力発電はどうかと言えば、二酸化炭素排出や大気汚染の元凶として批判されています。一見するとクリーンエネルギーに見える水力発電にしても、発電に必要なダム建設では反対され、ムダな公共事業の典型としてよく取り上げられています。

 「反対」に全く理由が見出せないわけではありませんが、個々の発電に関する反対だけ見ていても、結局のところどうやって電力を確保するのか全く見えてきません。中世の生活に戻ると言うのならともかく、それが現実問題としてできない以上、場当たり的な反対だけでは問題の解決にならないことは確かです。

2011年3月23日 (水)

大規模災害にいかに備えるか

 被災地の外である私たちが当面行うべき事は被災者の救援と復興支援ですが、同時に、今回の震災から学び、防災にフィードバックしていかなければなりません。
 今後、長久手が取り組むべきであることを箇条書きにしますと、

 ・医師の確保
 ・物資の確保
 ・被害の軽減
 ・救難人員の確保
 ・自治体防災協定の締結
 ・平時からの情報交換体制の確立

 になるのではないかと考えます。
 いかに取り組んでいくべきか、これから項目ごとに考えていきたいと思います。

2011年3月20日 (日)

震災で職務に殉じた人々を想う

 今回の東北関東大震災では、職務に忠実であった職員や警察官が多く犠牲になりました。職務に殉じた人々に感謝するとともに、国や自治体は遺族に対して十分な配慮をすることが必要でしょう。私たちは職務に殉じた人々の恩に報いる事が道徳的に求められていると思います。

 市役所の職員や警察官は公務員ですから、職務に殉じた場合には公務災害として補償を受けられます。同じように避難を呼び掛けてまわった結果逃げ遅れて犠牲となった自治会長などの扱いはどうなるのでしょうか。地域の役を持っていた人々も数多く犠牲になっています。地域の役はボランティアですが、ボランティアとしての役であったからと言って、公が何もしないのではいささか問題があると言えるのではないでしょうか。

 職務に殉じ犠牲になった方々の多くは、損得勘定など抜きにして職務に当たっておられたと思います。その自己犠牲の精神に公が甘えるようなことは絶対にあってはなりません。

2011年3月18日 (金)

黙祷

 地震からちょうど1週間が過ぎました。

 謹んで被災者の安全と、救難の成功と、死者の冥福をお祈り申し上げます。

        平成23年 3月18日 1446時

                            水野 勝康

「民間にできることは民間に」は本当に正しかったのか

 被災地では物資不足が深刻化しています。これは、首都圏等で買い占めが起きているということもあるでしょうが、物資を集めても輸送がスムーズに行っていないということが大きいようです。

 報道によれば、運送業者にお願いしようとしても、行き先が福島だと言うと拒否されるケースが多いそうです。民間業者としては、ただでも余震で危ない上に、原発がいつどうなるか分からないところに自社の社員を送りたくはないでしょう。もし、事故や被曝でもしたら、業者の側とて安全配慮義務違反や労働災害に問われることになりかねないのですから。確実な安全確保と行かないまでも、最低限きちんと補償がされるか分からない立場では、運転手にしても二の足を踏まざるを得ないでしょう。

 これが、もし警察官や自衛官だったらどうでしょうか。彼らはもともと命がけで任務を果たすことを宣誓して任官している人々です。普通の公務員でも、命令を受ければ行く事になったのではないかと思います。当たり前ですが、民間企業の場合特約でもなければ契約を結ばない自由もありますし、拒否する自由もある。これがアダになっているわけです。

 こうなると、本当に「民間にできることは民間に」という発想が正しかったのか、検証する必要があります。物を運搬するだけなら、作業そのものは同じかも知れません。しかし、危険地域への運送、更に義務と言うところまで考えると、民間企業の側は逃げてしまう可能性がある。仮に企業側が業務命令だとして命令したとしても、現場労働者が拒否することも考えられます。そうなると、民間にできる事でも公共の側でできるように人員や機材を確保しておく必要が出てくるわけです。

 更に、今回の震災の場合は顕著ですが、被曝の補償問題もあります。零細業者の場合、その労働者が会社に補償を求めても業者自体に資力がないということも考えられます。これでは恐ろしくて業務命令など出せないでしょうし、労働者も命令を受けられない。

 そうなると、結局「民間にできることは民間に」というのは、本来公的機関が負うべきリスクを民間に負わせ、最終的なツケを国民に回してしまっていると言えなくはないでしょうか。自衛隊、或いは現業公務員の削減が急激に進められてきましたが、このような非常事態への対応を考えると、単純な人員削減や民間に委ねるという方法は適切ではないのではないかと言わざるを得ません。平時にはある程度剰余の人員や機材を抱えることも、非常事態に備えてのリスクヘッジであると割り切る必要もあろうかと思います。

2011年3月17日 (木)

福島第一原発事件

 東北関東大震災に対する政府の対応は、少なくとも初動の点では評価できるものでありました。これは平日の昼間でしかも国会開会中であり、決算委員会に総理以下閣僚が出席していた点が大きいように思われます。ですから、もし国会が休会中であったり、総理が地方視察に出ていたりしていたら、内閣の初動はかなり遅れたのではないでしょうか。

 地震と津波の被害については、注意していればこれ以上悪くないと言う事はまずないのではないかと思いますが、一番の問題は原発です。日本史上最悪の事態になっていることだけは間違いありません。この事故に関して、東電からの情報が不正確であると言うのもあると思いますが、政府の対応は後手に回っているように見えます。情報が小出しであり、避難地域が時間を追って拡大し、一方で屋内退避を呼びかけられても十分な水も食料もない中いつまで続くか分からない。これでは、不信感を持つなと言う方が無理と言うものでしょう。

 炉の安定のための生命線が燃料切れを起こしましたが、その監視にあたっていたのは一人で、しかも他の巡回もしなければならなかった。その巡回中に燃料切れで停止してしまったと言うのですから、どのような人員配置をしていたのか検証する必要が大いにあります。

 放射線物質の拡散については人体にただちに被害が及ぶものではないと説明されていますが、それでも関東周辺での放射線測定において、原子炉の事故が原因と考えられる数値の上昇が確認されています。拡散の危険性という点でいえば、広範囲にわたって拡散してしまう事が実証されてしまっているわけです。首都圏で水や食料の買い占めが起こっているのも、群衆の恐怖心の裏返しと言えるのではないでしょうか。

 今回の事故は原子炉停止後に生じたものであり、チェルノブイリ事故ほどのものにはならないと専門家は主張しています。しかし、チェルノブイリ事故ほどにはならないにしろ、周辺地域が広範囲に渡って汚染される危険性は未だに残っています。現在、現場では東電の従業員や自衛隊や警察などが命をかけて被害を食い止めようとされています。その作業が成功する事を祈りたいと思います。

2011年3月16日 (水)

やはり金だ

 頼りになるのは、やはりお金です。軽くて便利で邪魔になりませんし、トラックに積み込んで運ぶ手間もかかりません。食べ物のように悪くなることもなく、いざとなれば預かってくれるところは沢山あります。

 被災地から遠く離れた地域でできることは、やはり義捐金を送る事だと思います。確かに、被災地で不足している物資は多々あるようですが、地域や避難所によっても異なります。物資を現物で送ると、かえって善意の押しつけになるという指摘もなされています。

 そうすると、やはり金だと言う事になります。しかるべき行政機関に渡せば、被災者に対して最も効果的な分配をしてくれるでしょう。この点では、民間よりやはり公的機関の方が色々言われているにしてもノウハウを持っていますし、公平性も確保できます。

 できるだけ、お金を送ろうではありませんか。今、被災地以外で出来ることは金が第一、金が全てであります。私たちが送ってもらう側になるかも知れないのですから。

2011年3月15日 (火)

災害時の自治体指揮官

 被災地の各自治体では首長以下の行政府の職員が不眠不休で職務に当たっている。中には、自らも被災し家族を喪いながら責務を果たしている者も多いようだ。心中を察するに余りある。

 今回の東日本大震災では地震の後に津波に襲われたこともあって、自治体の中枢が壊滅状態になったところが少なくない。津波に巻き込まれながら奇跡的に生還しただちに救援の陣頭に立った町長もいたが、生死不明の状態が続いている間、「自治体のそのものと連絡が付かない」と報じられていた。

 市長が執務不能になったら副市長が代行するくらいの事はごく普通に見られる話である。しかし、行政の幹部が丸ごと遭難した場合にどうするのか。今回はそうした自治体の情報は国にも県にもなかなか入らず、そのために外部からの救援が遅れに遅れる事になった。最終的には県の職員を派遣して処置させているようだが、悲惨なのは住民である。

 軍隊では、上位の者が戦死したらただちに下位の者が指揮を受け継ぐ。こうした体制が自治体にも必要なのではないだろうか。災害は戦場と同じであるからだ。

 こうした非常事態の代行制度については今後どのような制度が適当か検討して行かなければならない。例えば、指揮命令権を引き継ぐ系譜は副町長にはじまり、末端の職員が一人でも生き残っていればその者に承継させるのがよいか、或いは議員が代行するのがよいか、自治会長などが担当するのがよいか、それぞれにメリット・デメリットがある。都道府県などに投げてしまうと言う事も考えられるが、基礎自治体として職務を放棄してしまうような事をするべきではない。

 今回の震災から学ぶべきことは実に多い。事実を検証し、学び、非常事態への対応に反映させる事が出来れば、多くの死も日本国にとって無駄ではなかったということになる。地方自治に関わる者には、その責任を負わされていると考えなければならないのではないか。

2011年3月14日 (月)

予備自衛官・即応予備自衛官の招集について

 現役自衛官は約24万人ですが、政府はこのうち10万人を震災対応に投入することを決めました。諸外国に比べて我が国は人員が少ないのが特徴です。これに伴って、人員不足を少しでも補うため、報道によれば予備自衛官・即応予備自衛官の招集手続きが取られるようです。

 予備自衛官・即応予備自衛官の皆様は、平時は一般市民として生活している方々です。もし、招集となれば、市民生活特に仕事を後回しにして赴く事になります。

 人件費・人員数が厳しい状態であることは承知していますが、あえて経営者の皆様と労働者の皆様に呼びかけたい。

 経営者の方々。予備自衛官・即応予備自衛官として招集される方々に対して、どうか不利益な扱いをしないようにしてください。

 労働者の方々。予備自衛官・即応予備自衛官として仲間が職場の招集されたら、どうかその穴を皆で協力して埋めてください。

 直接被災地に赴かなくても、後顧の憂いなくプロフェッショナルである彼らを送り出すことも、立派な被災者支援になると思います。

2011年3月12日 (土)

愛知県にも津波の被害

 愛知県でも名古屋港周辺で津波の被害が生じたとの報道がありました。壊滅状態に陥っている東北地方に比べれば軽微な損害とは言え、津波の影響を無視できない事を改めて感じさせられました。

被害状況の把握

 地震発生から間もなく13時間が経過するが、被害状況の全貌は政府もまだ把握できていないようである。都道府県庁はともかくとして、小規模な市町村の中には役場そのものが破壊されてしまったところも多く、これでは地域の情報を収集するのは容易ではあるまい。

2011年3月11日 (金)

大地震発生

 大地震が発生し、関東以北では相当な被害が生じています。

 愛知県にはこれから津波が来るようです。1メートル程度という予想ですが、油断はできません。

 仮に愛知県に大きな被害が出なかったとしても、自治体として災害時の初動や情報収集等で学ぶことは多いと思います。被害の生じなかった地域でも「明日は我が身」になりかねないのですから、救援や復興に協力するだけでなく、災害への対応をしっかり「検証」する必要があると思います。

外国人による献金と通名使用

 長久手町には今のところ約1000人の外国人が居住しています。名古屋市や豊田市のように大きな勢力として居住しているわけではありませんが、人の移動が国境を越えることが珍しくない今日、増える事はあっても減る事はないでしょう。

 さて、福田元総理大臣、前原前外務大臣に続いて、今度は菅総理が外国人から献金を受け取っていた事が明らかになりました。この問題の背後には、通名使用の問題があります。明らかに外国の名前で生活している人から献金が来れば、政治家の側で法に触れる事を説明して受け取らないと言う対応は可能です。しかし、日本人と同じような名前を使って日常生活をし、献金してきているような場合、これを把握することは容易なことではありません。
 
 そもそも、外国人だけ通名で生活できると言うのも妙な話です。日本国民であれば、「偽名」となってしまう銀行口座の開設などが事実上認められてしまっている。これはおかしな話ではないでしょうか。

 確かに、差別の問題がありましたから、できるだけ日本名を使って目立たないようにしようと言う処世術は分からないではありません。しかし、名前は単に人を表す記号ではなく、先祖から受け継いだ誇りである事は日本人よりもむしろ中国人や韓国人の方がその意識は高かった筈です。通名ではなく、本名で生きる事が出来るようにすることが必要でしょう。

 いずれにせよ、外国人が献金を通じて日本の政治に影響力を及ぼすと言うことは日本の国益に関する重大問題です。やり難いことではありますが、政治家としても疑わしいものについてはきちんと献金者の本名や国籍を確認するくらいの事は必要でしょう。これを容認すると、日本人の偽名での献金すら容認するのと同じ事になってしまいます。

2011年3月10日 (木)

パンダの名前

 東京の上野動物園が中国からレンタルしているジャイアントパンダ2頭の日本名が決まりました。オスが「リーリー」(力力)で、メスが「シンシン」(真真)だそうです。

 高い費用を出してレンタルする是非は別にして、これは「日本名」と言えるのでしょうか。どう考えても「中国風の名前」だと思うのですが。

 トキにしてもそうですが、日本は兎角に中国風の名前を付けたがります。トキの国籍は日本になっている筈なのですが。パンダの場合はレンタルで国籍はあくまでも「中国」ですから仕方がないのかも知れませんが、それならばわざわざ日本で名前をつけ直す必要はないのではないでしょうか。「名無しの権兵衛」ではなくちゃんと中国で命名された名前があって、貸し出し期限が切れれば中国に戻って名前も元の名前に戻るのですから。

 ちなみに、必ずしも応募が多かった名前が命名されているわけではないそうで、メスの上位には「サクラ」(817件)もあったそうです。今後は、「日本名」を付けるのなら、日本でありそうな名前を付けた方がよいかと思います。こういう小さな積み重ねが、中国に対する誤ったメッセージになってしまう可能性が高いからです。パンダというのは、中国にとって「政治の手段」なのですから。

2011年3月 9日 (水)

地方議会が育てた論争力

 前原誠司前外務大臣が辞任に追い込まれた一連の国会審議において、追及の先頭に立って活躍したのが自民党の西田昌司参議院議員でした。今や国会で「爆弾男」と呼ばれ、論争力や追及力は高く評価されているそうです。私は大学時代十数年に渡りから西田議員とは面識があり、何度もお話しする機会がありましたが、西田議員の論争力は地方議会で育てられたものだと思います。

 自民党議員の国会質問は、どうしても与党時代の癖が抜けないようで、歯切れが悪かったり、内容的に何を言いたいのか良く分からないものが目立ちます。そもそも、自民党議員は「言語明瞭意味不明瞭」と呼ばれる人がいたくらいで、論争をするよりも親分子分の義理人情を大切にして、できるだけ自分の意見は表明せず、上手く強い者について立ち回る事に長けている人が多かった。言わば「敵を作らない」ことが大切で、そのためには論争はできるだけしないほうがよかったわけです。地方議員にはこのタイプが特に多いように思うのですが、地方議員はパイプ役としての役割を期待される事が多いわけですから、地元地域の要望を通すためにはその他の事を妥協せざるを得ないという事情もあったのでしょう。

 西田議員は2007年初当選の一年生議員ですが、5期に渡り京都府議会議員を経験されました。この経歴が重要だと思います。京都は日本でも珍しい共産党が強い土地柄で、今ではその勢力も随分衰えましたが、西田議員が府議会議員として初当選された頃は府議会の第二党でした。

 共産党は「理論家」の多い政党です。これと対決する上で、自民党側としても理論武装せざるを得なかった。これは地方議会の中でもかなり異質の環境で、もともとの資質もあったと思いますが、共産党との論争の中で鍛えられてきた面は見落とせないのではないでしょうか。

2011年3月 7日 (月)

国旗と国歌について考える

 春は、卒業式そして入学式の季節である。多くの公立学校で「国旗・国歌」の扱いで揉める時期でもある。日本ほど、国旗や国歌で揉め事の多い国はないのではないか。国際常識として、外国に行けば、その国の国旗や国歌に対する儀礼は欠かせない。例えば、アメリカでは国際試合でない普通の野球の試合であっても、全員規律し、国歌を斉唱する。街を歩くと至る所に星条旗が見られる。映画の上映前に全員起立を求められ、そこで国歌が流れる国もあれば、日没と同時に街中に国歌が流れ、国民が降下される国旗に敬礼する国もある。台湾には国歌とは別に国旗歌という歌があり、毎朝朝礼では国旗歌に併せて国旗が掲揚され、夕方に国旗歌とともに国旗が降下される。

 他の国に比べれば、日本で国旗や国歌に出会う機会は少ないと言ってよい。学校でも、せいぜい入学式と卒業式、それに体育祭くらいのもので、毎朝朝礼で国旗を揚げることもないし、国歌を斉唱するわけでもない。試合前の国旗掲揚と国歌斉唱も、国際試合でなければまず行われない。日本の入学式や卒業式で求められる国旗・国歌に対する儀礼は、あくまで儀礼的なものであって、国旗や国歌に対する神聖視を伴うものであるとは思われない。しかし、国旗や国歌に対して最低限度のルールが守れなければ、国際社会で笑われるだろう。

 日本よりも国旗や国歌を大事にしている国が世界では圧倒的に多数であり、国旗や国歌に対する非礼は、そのまま相手国に対する非礼になりかねないからだ。「国際化」というのはよく使われる言葉だが、国旗・国歌に対する儀礼も「国際化」の一環として学ぶようにしてはどうかと思う。もともと、国旗は自他を識別するためのものであるし、日本の国旗・国歌は、国際社会の中での日本と言う国の位置づけで捉えたほうが、分かり易いであろうと考えられるからだ。その中で、どの程度の礼を尽くせばよいのか、理解できるのではないかと思われる。

 義務教育で「国旗・国歌」について教える場合、日本の「国旗・国歌」について教えるのは当然であるが、同時に外国の国旗・国歌についても学ぶ機会を設けてはどうだろうか。今は1クラスに1人くらいは外国籍の学生・生徒がいるのが普通になっている時代である。国旗や国歌の歴史や扱われ方も調べてみると面白い。

 現在のドイツ連邦共和国の国歌は、かつて同じメロディーが神聖ローマ帝国、オーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オーストリア共和国、ポーランド共和国、ワイマール共和国、ナチス・ドイツの国歌として使われていた過去を持つ。作曲は1796年か1797年にフランツ・ヨーゼフ・ハイドンによりなされ、もともとは皇帝賛歌として当時の神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世に捧げられたものであった。

 ナポレオンの侵攻によって1806年に神聖ローマ帝国は滅亡。神聖ローマ皇帝を長く独占してきたハプスブルク家は、残った領土を「オーストリア帝国」と改称し、神聖ローマ帝国国歌はそのままオーストリア帝国国歌となった。実は神聖ローマ帝国滅亡と言っても、そのまま看板をオーストリア帝国に変えただけといのが実態だったようで、皇帝も神聖ローマ皇帝フランツ2世がオーストリア皇帝フランツ1世と名を変えただけであった。

 多民族国家であったオーストリア帝国は帝国内の諸民族の自立の動きを受けて、ハンガリーの独立を認め、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねるかたちで、1867年に「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が成立した。そして、オーストリア国歌がオーストリア・ハンガリー二重帝国の国歌として採用される。

 第一次世界大戦における敗戦によって、1918年にオーストリア・ハンガリー二重帝国は滅亡した。新たに成立したオーストリア共和国は、歌詞を若干変えてそのまま国歌を使い続けたそうだが、1938年にナチス・ドイツによって併合され消滅してしまう。

 併合したナチス・ドイツの方も、国歌はワイマール共和国時代の1922年に採用されたものを使っており、このメロディーは、オーストリア共和国と同じものであった。事実上ワイマール体制を否定して成立したナチス・ドイツだが、国歌は変えなかった。さらに、ナチス・ドイツが第二次世界大戦勃発と同時に併合したことで消滅してしまったポーランド共和国も、同じメロディーの国歌を使っていたのだからややこしい。そして、「第三帝国」を自称したナチス・ドイツも、第二次世界大戦に敗れて滅亡した。

 結局、ハイドンの作曲した国歌を採用した国は、神聖ローマ帝国、オーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国、オーストリア共和国、ポーランド共和国、ワイマール共和国、ドイツ第三帝国と、150年ほどの間に次々と消滅してしまった。列挙するのも大変だが、さすがにこの国歌は縁起が悪いと考えたのか、現在のオーストリアはモーツァルト作曲のものを国歌として使っている。ポーランド国歌も歌詞は第二次大戦前のものを使っているが、メロディーは別のものを採用した。

 ドイツ連邦共和国国歌のケースは一例であるが、大抵国歌や国旗にはそれぞれ物語があり、それが制定された当時の国際政治を無視しては語れない。中華人民共和国国歌の「義勇軍進行曲」は反日映画の主題歌であったし、大韓民国国歌の「愛国歌」の作曲者安益泰は満州国建国10周年の祝賀曲を作曲していたため、後に「親日派」のレッテルを貼られる羽目になった。また、これは豆知識になるかもしれないが、韓国国歌は「蛍の光」のメロディーで歌うことができる。

 なお、現在でも、イギリス国歌とリヒテンシュタイン国歌、フィンランド国歌とエストニア国歌のように、同一のメロディーに別の歌詞が付けられている国歌が存在している。また、ギリシア共和国とキプロス共和国の国歌「自由への賛歌」や、トルコ共和国と北キプロス・トルコ共和国の国歌「独立行進曲」のように、複数の国が同一の歌詞とメロディーの曲を国歌とする例もある。もともと、キプロスはギリシア系住民とトルコ系住民が混在しており、イギリスの直轄植民地を経て独立した後も、ギリシア系住民はギリシアへの併合を求め、トルコ系住民はトルコへの併合を求めていた。1964年には遂に紛争になり、キプロス島の北側が現在の北キプロス・トルコ共和国として独立したが、現在も国家として承認しているのはトルコだけである。ギリシアとトルコは同じNATOに属しながら仲が悪く、半世紀近く首脳会談すら途絶えたままであった。ギリシアとトルコの紛争は、遡れば神話の時代のトロイ戦争まで行き着く。南キプロスはギリシアの、北キプロスはトルコの国歌をそれぞれ自国の国歌として使っているということは、それぞれ将来の併合を求めてか、少なくとも民族的な母国とのつながりを残したいという意思の現われであろう。

 台湾(中華民国)の国歌「三民主義」は、国際関係上の微妙な問題もあり、自国以外の公の場ではほとんど歌われない。もともと黄浦軍官学校(中国国民党の陸軍士官学校)の校歌として孫文が作詞したものだが、中国に対する遠慮から、オリンピック等では国旗歌が用いられている。この国旗歌は台湾では朝夕の国旗掲揚・降下の際に使われているので、台湾の国民にとっては身近な歌ではあるようだ。台湾の国旗は青天白日満地紅旗だが、これも中国との関係から、オリンピック等では別のデザインの旗が使われている。一方、台湾独立派は、中国と台湾は別の国であり、「三民主義」と「青天白日満地紅旗」は中国統治の残滓であるので、独立にあたっては別の国旗・国歌を改めて制定すべきだ、と主張している。今も微妙な問題が続いているのである。

 国旗について見ていくと、日本の国旗「日の丸」は太陽を表現したものである。同様に、太陽を表現した国旗はバングラデシュ人民共和国とパラオ共和国が採用している。バングラデシュのものは草原に、パラオのものは海に昇る太陽を表現したものだそうである。台湾の「青天白日満地紅旗」は、もともと「青天白日旗」として、現在の旗の左上の部分だけが国旗として提案されていた。これも晴れた空に輝く太陽をデザインしたものである。ところが、「これでは日本の国旗とまぎらわしいのではないか」という意見が出たため、赤地を加えて現在の青天白日満地紅旗になった。なお、もともとの青天白日旗はそのまま中国国民党の党旗となり、また台湾海軍では艦首旗として使われている。

 艦首旗というのは、軍艦が港に停泊中に掲揚されるもので、日本では自衛艦旗は旭日旗だが、艦首旗には日章旗が用いられている。自衛艦旗は国際的には軍艦旗だが、国旗と同じデザインを使っている国と、国旗とは別のデザインのものを制定している国がある。前者の代表はアメリカ、後者の代表はイギリスである。日本の近隣諸国では日本、韓国、中国が独自の軍艦旗を制定し、台湾は国旗をそのまま軍艦旗に使っている。

 軍艦旗の資料には、海がないはずのボリビア共和国にも軍艦旗があることになっている。調べてみると、かつてボリビアは海に面していたのだが、1879年に「太平洋戦争」という戦争でチリに敗れ、海への出口を失ってしまった。内陸国になってしまったら海軍など不要になりそうなものだが、ボリビアは今も「海軍」を維持(河川哨戒部隊に海軍陸戦隊と海軍航空隊がある)し、チリに対して太平洋へのアクセスを求め続けているそうである。

 話を国旗に戻すと、イスラム諸国の国旗には月と星が描かれていることが多い。トルコ共和国やチュニジア共和国などがそうである。イスラム教では月や星を神聖なものだとしていたので、その名残であろう。

 国旗は不変のものというわけではなく、国情によっても変わる。代表的なのがアメリカの星条旗で、1777年に独立したときには13州を表す13の星が描かれていたが、その後州が増えるたびに星が追加され、なんと27回も変更されている。現在の国旗になったのは、ハワイ州が加わった1960年で、意外に新しい。

 一方、現在変更の議論がされている国もある。イギリスの国旗「ユニオンジャック」は、イングランドとスコットランドの同君連合時代に、イングランドの国旗とスコットランドの国旗が組み合わされて原型が作られ、さらにアイルランド王国との合同でグレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国が成立した際、アイルランドの国旗と称してアイルランドの有力諸侯だったキルデア伯の旗を加えて、現在のものになった。ところが、最近になってイギリスを構成する4つの非独立国のひとつであるウェールズの意匠が入っていないではないかと言う話が出てきた。政府と議会の成立にまで至ったウェールズの国民意識の復興に伴い、イギリスの国民統合の観点からウェールズのシンボルとなっている「赤い竜」の意匠を取り込むべきとの主張が、一部から提起されている。

 『デイリー・テレグラフ』紙がウェールズの意匠を取り入れた旗の試案を募集したところ、日本からも複数の作品が投稿され、そのひとつは投票で2位となった。デザインは、ドラゴンの背に日本のアニメ「ゼロの使い魔」の主人公「ルイズ」が乗り、ユニオンジャックを持っているというものであった。ただし、実際の変更については、難しいという見方が強い。理由は、ユニオンジャックがあまりにも定着しすぎていること、他国の国旗の意匠に入っており、影響がイギリスのみならず他国に及ぶこと、なによりも三つの十字架と赤い竜ではデザインがあまりにもかけ離れ過ぎているので、整合性の取れた国旗を作るのは難しいことなどである。この話は今後どうなるかわからないが、国旗は革命などがなくても、変更される可能性がある、というひとつの話ではある。

 以上掻い摘んで見てきたが、国旗・国歌には多くの物語がある。それらはその国の成り立ちや仕組みと無関係ではなく、国旗・国歌を通して国が見えると言っても過言ではない。国旗・国歌について学ぶことで、おのずから国際関係・国際儀礼や歴史を学ぶ機会にもなるのではないか。その点で、我が国の国旗・国歌に関する教育は、もう少し内容が工夫されてもよいように思われる。

(グローバル・フォーラム 2009年4月寄稿)

2011年3月 5日 (土)

外国人からの献金問題について

 前原誠司外務大臣が、長年に渡り在日外国人から献金を受けていた事が明らかになりました。

 前原外務大臣は、本当に「知らなかった」のでしょうか。在日外国人でも、特に在日韓国・朝鮮人の方々は通名を使っている事も多いですし、外見的にも日本国民たる日本人と大きな差があるわけではありませんので、見分ける事は困難です。しかし、献金を受ける時に相手の素性を全く調べもせずに受け取ると言うのはリスクが高すぎると思います。献金には「善意」のものもありますが「悪意」のものもあります。献金を受けたから要求を断れなかったという汚職事件は後を絶ちません。政治家が自身のリスク管理を行うと言う観点から考えても、前原外務大臣は脇が甘かったと言わざるを得ません。

 また、献金する側も、制度上違法だと言う自覚はなかったのでしょうか。受け取った前原外相は知らなかったとしても、まさか渡した側が自身が在日外国人である事を知らなかったということはないでしょう。

 政治資金は、政治家が日常の政治活動を行っていく上で無視することはできません。パンフレットを配布するにも、インターネットで政策を訴えるにも、全くタダではできません。いくばくかのお金がかかります。しかし、そのお金を外国人からもらっていたということになると、日本の国益を守るべき日本の政治家が、特定の外国のために国益を損なう行動をやりかねません。献金されると、その人に強く出られないのは一般的な常識から考えても分かる事です。

 もっとも、自民党が民主党を批判できるかと言うと、難しいところです。外資系企業からの献金解禁に熱心だったのはまさに自民党であり、この点において、ともに「外国勢力の金をもって日本政界に影響を与える」という点では変わらないものだからです。

 外国勢力と結託して国内での政治闘争を有利に進めようとすることが少なからず見られますが、これは極めて危険なことです。内紛を繰り返していても外国からの侵略に団結する国は強いのですが、国外勢力と結託して内紛を行っているような国は、たとえ強国であっても亡国への道を歩むことになるのは歴史の教えるところです。

 政治家の側も慎重にならなければなりませんし、外国人の方々もこうした点をきちんと自覚していただきたいと思います。

2011年3月 3日 (木)

失敗続きの日本外交

 2010年は内憂外患と言うしかない一年でしたが、2011年になってもこの傾向は変わっていないように思います。特に、外交では鳩山政権に続いて菅政権も失敗を繰り返しており、国際社会における日本の地位を著しく低下させ続けています。
 民主党政権はいくら口先で日米関係重視と主張していても、実態は相対的に親中でありアメリカに対していい印象は持っていないように見えます。2009年に民主党は沖縄の基地問題に火を付けました。これによって、普天間基地移設問題での日米合意をひっくり返し、「合意は守られるべし」という国際法の最も基本的なルールを分かっていないことを露呈してしまいました。これでは、アメリカ政府が民主党政権に不信感を抱くのは当然の事です。
 先の尖閣諸島における事件も、民主党政権が沖縄を中国の勢力下に引き渡すかの如きシグナルを送ってしまった結果ではないでしょうか。民主党は「沖縄を一国二制度」にすると主張していたからです。そして、政府は船長以下の船員と漁船を釈放し、録画したビデオを隠し、ひたすら中国に土下座する外交を展開しました。
 韓国に対しても、既に日韓条約で解決済みの問題を蒸し返し、文化財の引き渡しまで約束してしまった。いずれ、韓国側が被害だ損害だと主張すれば日本は賠償を行わなければならなくなり、古墳から出土したようなものまで返還を求められることになるおそれすらあります。
 民主党政権の外交の失敗は、官邸の機能を充実させる云々と言う問題ではありません。民主党という政党の基本的な理念の問題です。
 もっとも、私は自民党がいいとは全く思いません。自民党時代に中国の海洋調査船が沖縄周辺海域を調べてまわっているのを放置していたことが、中国の浸透を招来したと言えるからです。また、自民党にも民主党と同様に中国に甘いことしか言わない「媚中派」がいます。また、自民党が今の段階で政権復帰したら、政権転落しないために麻生政権の末期以上になりふりかまわないことをやるのではないでしょうか。
 与野党ともに攻守が入れ替わっても「傾国」路線が継続されているのは本当に残念な事です。

「努力した者が報われる社会」という幻想

 「努力した者が報われる社会」という言葉は90年代から今に至るまでよく使われてきました。小泉構造改革の旗を振った人たちの大義名分にもなりましたし、今の政権も基本的にはこの考え方に立っています。
 ですが、冷静に考えてみてください。本当に「努力」をすれば報われるのでしょうか。答えは「否」です。少しでも世間を知っていれば分かると思いますが、努力しても報われない事の方が実は多いのではないかと思います。一方で、努力しなくても報われているタナボタ的な人もまたいることはいる。
 「努力した者が報われる社会」という言葉が蔓延した結果、二つの社会の病理とも言うべき問題を生じさせています。ひとつは、「報われていないのは努力しなかったからだ」という理屈が勝ち組によって唱えられ、負け組と自覚している人たちの諦念につながっているということです。「報われていないのは努力しなかったからだ」という理屈はもっともらしく聞こえるかも知れません。しかし、論理では「逆は必ずしも真ならず」とされています。例えば「英雄色を好む」の逆「色好みだから英雄」ということではないわけです。「報われていないのは努力しなかったからだ」という理屈は、結局のところ論理のすり替えに過ぎません。
 もうひとつは、「努力した者のだから報われて当然」という考え方が、倫理観や使命感を欠落させ、弱者に対する横暴なやり方につながっていると言う事です。これは特に大企業やベンチャービジネスで成功した経営者に典型的に見られますが、下層労働者や下請企業に対して忍従を強いたり、簡単に切り捨てる一方、役員報酬やストック・オプション等で多額の利益を得ている。しかし、多くの場合よく調べてみると、多くの人たちの努力してきた最後の収穫を得ていることが多いのです。
 台湾の陳水扁前総統は貧農に生まれながら苦学して台湾大学を首席で卒業し、在学中に弁護士となり、海商法を得意として経済的に成功し、その後政界に進出した人です。しかし、陳前総統は在職中に弱者に対して強硬な姿勢を取り、台湾国内で顰蹙を買った。貧困層から這い上がった分だけ、努力して成功したという自負が強く、それが結果として社会的弱者に対する無関心につながっていたと指摘されています。
 欧米では、こうした成功者は一方でノブレス・オブリージュの精神を叩き込まれていることが普通ですから、概して慈善事業に熱心です。アメリカでは、過去の世界大戦に際して、多くの財界人が祖国の危機を救うべく、無給に等しい状態で政府の為に働いてきました。彼らは「年俸1ドルの男」と呼ばれ、例えば海軍長官をつとめたフランク・ノックスやジェームズ・V・フォレスタル、陸軍長官をつとめたロバート・ポーター・パターソンはがその典型です。ところが、日本の財界人にはそうした姿勢は基本的には見られません。
 この背後には、報われた事はかなりの部分「運」が左右しており、そこで得た金銭や名声は社会の為に還元すべきだと言う義務感のようなものを持っているのと、そうでない日本との違いによるところが大きいように思います。ちなみに、アメリカで政治家が「ボランティア」でやっていけるカラクリとしては、こうした「成功者」が積極的に政府に入ったり、有能な人物を後押しすることが定着している事、政界を離れた後のセカンド・キャリアもまた充実していることが挙げられます。ですから、河村名古屋市長の言い分は、議会攻撃の為諸外国の制度の中から自分に都合のいいところだけ例に挙げているという不実なものとしか私には思えません。
 イスラム諸国の場合は、もっと徹底しています。啓示を信じ、預言者を信じ、宿命を信じるイスラムの考えでは、自らが財をなしたことはまさにアッラーの思し召しであり、私有財産とて本当の意味ではアッラーのものであり自分のものではない。だからこそ、イスラム諸国でも「喜捨」というかたちで社会還元が行われています。無論、この「喜捨」としてテロ団体に金が流れているとか、貧困層のゆすりたかりが常識化している点は問題ですが、少なくともアッラーに対しての謙虚な姿勢が暴走の歯止めになっていることは確かでしょう。
 ところが、我が国には欧米流の価値観もイスラーム諸国の価値観もありません。
 私は民主党政権が発足した当初、自民党政権が推し進めてきたネオ・リベラリズムに基づく勝ち組意識丸出しの政治手法が変わると言う期待を持っていました。しかし、鳩山政権時代は「与党なのだからやりたいようにやれて当然」という政治手法の元、当時の小沢幹事長が強硬姿勢を取り続けていたのは記憶に新しい。そして、菅政権も基本的には同様です。この背後には、努力して与党になったのだから、報われて当然と言う意識が民主党議員の中にあるのではないかと思われてなりません。その証拠に、過去の自分達の言動を棚に上げて、野党が悪いと言う事を繰り返している。これは、与党になったのは自分達で自分達が努力した結果国民の負託を得て多数派を占めているのだから、文句を言うなと言うことではないでしょうか。
 私は努力することは重要だと思っています。しかし、報われていない人々を「努力していない結果だ」として切り捨てる風潮は問題があると言わざるを得ません。
 我が国の政治・経済の迷走を思う時、まずは「努力した者が報われて当然」という思考が、本当に正しいのか問いなおす必要があるのではないかと思います。これは同時に、「報われていないのは努力が足りなかったからではないのか」と意気消沈し、これ以上の努力をどうしてすればいいのか分からず途方に暮れている国民を勇気づけ、日本を元気にすることにもつながるでしょう。
 「努力した者が報われる社会」という言葉は、ワンフレーズ・ポリティクスのひとつでもありました。分かりやすい言葉です。しかし、分かりやすいからと言って、それが正しいとは限らない。有権者の皆さんには、こうした詭弁・幻想を見抜いていただきたいと思います。

2011年3月 2日 (水)

学び続けたい

 「政治家は勉強していない」という指摘をあちこちで受けます。国会議員、閣僚や政党幹部ですら、憲法や法律ついて、かなり認識不足の発言をすることがまま見受けられます。何故なのでしょうか。
 私は、政治家が国政から地方政界も含めて、サボっているわけではないと思います。ただ、多忙な日々の公務や議会活動に忙殺され、十分に「学ぶ時間」を取る事ができないということは大きいのは事実でしょう。また、日本では多くの場合議員は大学卒が普通ですが、大学という知の現場から離れて当選するまでには長い時間がかかるのが普通です(まれに海部俊樹・小渕恵三両元総理や小沢一郎元民主党代表のように、大学院在学中のまま当選した方もいなかったわけではありませんが)。
 地方に行けば行くほど、大学教育は未だに「贅沢品」と見られます。まして、大学院ともなると、「講釈ばかり覚えてくる」と否定的な見方すらされることがある。しかし、大学と言うところには多くの情報が集まり、そうした情報の中には五年先、十年先の事を考える上で重要なものも少なくありません。
 例えば、私は大学で産業関係学を学びました。一般の方には馴染みのない分野だと思いますが、労働・人事労務などを総合的に研究する学問分野です。1990年代末には不景気とか就職氷河期と言われていましたが、ワーキング・プアとか非正規雇用はそれほどクローズアップされていませんでした。むしろ、世間では終身雇用が否定的に見られ、雇用の流動化が求められていた。そのモデルとなっていたのは言うまでもなくアメリカでした。しかし、大学には「アメリカの不都合な真実」の情報もたくさん入ってきていました。「派遣切り」とか「ワーキングプア」の問題は、私の記憶では2000年の前期には既にアメリカの事情を参考に、日本でも遠からず同じ事になるだろうと言われていたものです。
 私はまだ31歳です。もし、有権者から負託をいただけたとしても、その結果責任をも生きているうちに問われることになるであろうことは間違いありません。より良い将来を作っていくためには、目先の事だけではなく、十年二十年先を見据えた手を打っていく必要がある事を痛感しています。そして、そのためにはどうしても最先端の情報が欲しい。この点で、大学と言う学問の場は、決して「象牙の塔」としての価値しかないのではありません。その中には、実務家として活かせるものが沢山あります。
 私は一端はアカデミックな世界から離れました。しかし、政治活動を進める過程で、故郷と国の将来像を描くためにはアカデミックな世界からの情報はどうしても欲しいですし、私の頭の中に蓄積された情報も、アップデートしていかなければ直ぐに役に立たなくなります。ブレーンを抱えると言う手もありますが、最後はやはり自分の頭で考えなければ意味がありません。
 学ぶためには時間もお金もかかりますが、近い将来において何とか学ぶ場を確保し、新鮮な情報を政策として落とし込み、住民の為の政治に活用していきたいと考えています。

2011年3月 1日 (火)

リニモの利便性

 リニモの利用を活性化するためには、利便性をいかに向上させるかが重要な筈です。長久手町も含む愛知県は自動車での移動が常態化していますから、リニモとしては自動車を超える何らかの「利点」を示さなければなりません。
 名古屋市営地下鉄にマナカが導入され、これに伴ってリニモでも使うことのできたトランパスカードは販売されなくなりました。リニモでは従来も昼間割引のカードは使えませんでしたが、トランパスカードを使うことで地下鉄との乗り継ぎの際は楽でしたし、相応の割引も受ける事が出来ました。これがなくなってしまったわけです。
 リニモでは、新たに回数券の販売をはじめました。回数券は毎日特定の駅から特定の駅に移動する人にとっては便利なものに違いありません。しかし、「いつも藤が丘駅から古戦場駅まで乗っているが、今日は買い物をしたいから杁ヶ池公園駅で降りる」というような使い方をする時には不便です。
 マナカのようなICカードの導入のためには設備投資が必要です。一方で、切符も引き続き販売されますから、従来の自動改札機も維持しなければならない。リニモは慢性的な赤字に加えて所謂「使い込み事件」もありました。経営は極めて厳しい状態にあります。そうすると、回数券と言うのが一番手の届きやすい選択だったのかも知れません。しかし、利便性は確実に低下しますから、これで客離れが進めば、更なる負のスパイラルに陥る危険性は高いのではないでしょうか。

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