2017年2月14日 (火)

政策入札における消防団活動優遇制度は妥当か

 愛知県が消防団活動に協力する企業を入札で優遇すると発表した。これは「政策入札」と呼ばれるシステムで、価格以外の要素も入札で考慮できるというものである。官製ワーキングプア問題に携わる識者の間では、専らコスト削減が人件費を標的としないように配慮した企業を優遇できる制度と認知されているが、実際には幅広い要素を考慮することが可能な仕組みになっている。
 消防団活動は尊い。そのこと自体に争いは少ないであろう(操法大会や行進のための訓練負担、報酬や会計の曖昧さなど課題がないとは言わないが)。しかし、政策入札なら他に過労死・過重労働の防止やワークライフバランス等も考慮の対象にすべきだ。共同体を守るという観点からは、予備自衛官を採用して訓練等に便宜を図っている企業に対しても考慮要素とされてしかるべきであろう。
 また、入札優遇を受けられるのはあくまでも企業側だが、企業側が従業員の消防団活動に配慮するにあたっては、家庭生活等の他の要素を犠牲にしないような配慮がなされてしかるべきであろう。消防団活動では操法大会前ともなれば早朝や夜間に練習に駆り出され、休日も訓練があり、地元の祭礼などでは警備も担当する。報奨金が出るとは言ってもほとんど無給に近い(それすら消防団が通帳保管してプールし団員への直接払を行わないことが少なく無い)。
 入札での有利な取り扱いを期待して、使用者がやりたくもない労働者を「人身御供」にする可能性がある。消防団側も会社が不利になるぞと申し向ける勧誘をやりかねない。いくら善意で組織される団体と言えども、相手が弱ければ態度が豹変することがまま見受けられるのは、NPOやユニオンがモンスター化する例をみても明らかである。この制度は、会社のために労働者が犠牲を強いられ搾取されるリスクが高い。
 仮に企業側が命令で入団させたり、訓練に動員したりということになると、これはもう業務命令で行っていると考えるしかない(現在でも中小企業では地域の有力者である経営者の指示のもと、従業員が半強制的に入団させられているという問題が指摘はされているが)。そうなれば賃金支払いの問題が発生するのみならず、企業から消防団に対して労働者派遣や法で禁止されている労働者供給が行われたという構成すら可能となる。動員される労働者のみならず、企業や消防団もリスクを負うことになるのは言うまでもない。
 実際に消防団活動をしている人たちから話を聞いてみると、確かにやりがいそのものは感じているが、同時に「義理だから仕方がない」という声が非常に多かったのが気になるところで、「強制された自発性」は自発的とは言えない。
 使用者が「強制はしていない」「労働者の奉仕だ」と言ったとしても簡単に信用してはならないのは言うまでもない。政策入札が決して労働者の福祉にばかり活用されるものではないことだけは認識しておく必要がある。

 また、公務関連労働の問題として見た場合、善意の「ボランティア」が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。タダあるいは最低賃金以下で稼働する者が出てこれば、本来これを業務として行っている公務員の人員削減や処遇の悪化につながりかねない。財政難に悩む自治体側としてはタダで済むものには「飛びつく」傾向がある。
 そもそも、政策入札自体制度として十分に機能しているのか怪しいもので、自治体関係者の間では「金額をひっくり返すのは簡単ではない」という。つまり、いくら政策入札で考慮するとは言え、価格の安さには自治体側も抗いがたいということだ。加えて、政策入札制度そのものが実質的に企業側の自己申告で運用されており、本当に企業が配慮しているのかは自治体すらわからない。また、不明朗な条件を付す政策入札が談合の温床になるのではないかと言う点は制度が作られた当初から指摘されているところである。
 広く企業の社会貢献活動を評価するシステムを構築し、その一環として消防団活動への支援を評価するのであれば何の問題もない。しかし、はじめから消防団への動員だけを狙って制度を作るのでは、かえって後々禍根を残すことになるのではないか。

2017年2月 6日 (月)

児童虐待相談をコールセンターに委ねて大丈夫か

 児童虐待通報・相談窓口である189番が、つながりにくかったことを理由にコールセンターに集約されるという。携帯電話からの通報では各地域の相談窓口につながるまで2分近くかかり、その間に切ってしまうことが多く、これが30秒程度に短縮できることが期待されている。
 既に開設されている多くの行政コールセンターでは、センターが民間業者に委託され、業者が低賃金で使える非正規労働者、特にシングルマザーなど弱い立場の人たちを集めて酷使する現場になっているという問題が生じている。社会政策学会ではシングルマザーは転居を伴う稼働先の移動が簡単ではないため、単身者よりも低い労働条件の職場から脱出することが極めて困難との指摘がされている。つまり「逃げ場がない」わけで、追い詰めて低い労働条件で働かせたい使用者側にとっては極めて有利な条件と言える。
 また、非正規労働者には障害認定されるほどではないが精神的あるいは知的障害と思われる症状を抱えていることが少なくなく、学習障害と思われる者も珍しくない。これらは適切なケアを受けながら就労すれば普通に働けるし、多大な成果を出せる者も珍しくない。としても、非正規を中心に使っている事業者にそうしたケアを期待するのは極めて難しい。
 労働者を「使い捨て」する思想は当たり前で、役所からの委託費がそもそも低いのだから労働条件が低くて当たり前、使い捨ても当たり前と開き直る業者は当たり前に入る(むしろ、開き直らないような業者は極めて少ない)。
 特に物の売り買いではないのだから、こうした相談では現実には「すぐに話を聞いてもらいたい」という電話も少なくないし、メンタル不調の相談者などに対してはより慎重な対応が必要になる。しかし要求されるのは「時間短縮」なのだから、相反する業務を命じられる相談員の負担は並大抵ではない。
 精神的重圧、低賃金、不安定雇用という状態で運用される児童虐待防止の現場が新たな虐待を生み出すようなことにならなければよいが・・・

2016年12月18日 (日)

「投資教育」は本当に必要か

 非正規化が進み、正社員といえども定年までの雇用すら怪しくなりつつある。ボーナスにしても15パーセントの労働者には縁がないものになっている。2000年代初頭の閉そく感漂う時期にもあったのだが、こういうときに出てくるのが「投資で儲けよう」というもので、そのために義務教育から「投資教育」を行うべきと言う主張がある。義務ではないにせよ、実はマネー教育というのはそれなりに浸透しつつある。というのも、金融業界が無償での学校教育に力を入れているからだ。

 だが、本当に「投資教育」が必要なのかと言えば、答えは否とするしかない。少なくとも、労働教育や主権者教育に比べると優先順位は低くてしかるべきだ。

 現実問題、株式投資などの投資に手を出した一般人は実のところあまり儲からない。言われてみれば当たり前なのだが、プロの投資家が多額の資金をつぎ込んでも大きな損失を出すのだから、それよりも資金力も情報収集力も劣るような一般人が勝ち抜くのは大変に難しい。それどころか、怪しい儲け話に乗って退職金を全額失ったなどと言う話は毎度のように出てくる。「消費者教育」としてうまい話はないことを教えるならともかく、「投資は儲かる」と刷り込むことになりかねない投資教育はむしろ危険でさえある。

 そもそも、特に義務教育においては様々な「外部教育」が競合するようになっている。労働教育、税教育、年金教育、情報保護教育、主権者教育など、他に優先すべき教育は多い。高校以上になれば義務教育に比べて時間は取りやすくなるとは言え、そもそも講義時間が潤沢に確保できているわけではないため、どうしてもできる教育は限られている。実際、根金教育や労働教育の提案に行っても「既に税教育で時間を押さえてしまった」として断られることも多い。

 まず先にやるべき教育がある。教育関係者はそこのところをはき違えるべきではない。

2016年12月15日 (木)

次の社会保険労務士会・連合会に必要なこと

 社会保険労務士の世界では特殊な例を除き、連合会から単位会まで任期は2年なので、奇数年である来年度が役員改選の時期になる。

 企業相手に労働・社会保険の手続きを行うという性格もあって一般国民の目に触れることが少なく、士業として後発であることもあって、他士業と比較してあまり目立たない存在であったが、ここ10年ほどで社会保険労務士を取り巻く環境は大きく変わった。労働問題や年金問題で認知度が高まる反面、違法行為の指南をはじめとする不適切な言動が労働組合等からたびたび批判を受けるようになり、間もなく制度創設50年を迎える社労士そのものの位置づけや規律について改めて整理しなおす時期に来ているのではないかと思われる。

 私見であるが、今後の社労士に必要な事項について若干検討してみたい。

 まず、第一に挙げられるのは社労士の倫理と処分の制度についてである。

 社労士は専門職として職業倫理は存在している。しかし、「弁護士職務基本規定」のように業務全体を踏まえて体系化されたものは存在していない。また、弁護士では懲戒事由になるが社労士では懲戒事由として挙げられていない事項もある。例えば、依頼人と金銭貸借関係を結ぶことなどである。弁護士の制度を取り入れれば良いというものではないが、弁護士の側には古代ローマ以来長い年月をかけて蓄積された倫理や職務を規律する体系があるので、そこから学ぶことは有益であろう。また、倫理規定を見直すだけでなく、その内容についても具体例の解説を付すなどして、十分な周知を図る必要がある。

 となれば、当然ながらより厳格・厳正な処分を行う以上、会員資格に対するものとは言え処分手続きもより厳格なものを作ることが必要であろう。すなわち、刑事訴訟に類似した三者構造の手続きを整備することが妥当であるように思われる。

 そもそも、現在では処分請求を行う窓口は実質的に都道府県社労士会の事務局となっている。だが、苦情の中からどのようなものが処分として切り分けられるのかが実は明確ではない。証拠も何もなく単なる悪口のようなものが多いようだが、処分を求めるならば処分手続きについて案内するとともに、処分請求の様式や添付証拠など一連の手続きも整備する必要がある。そうなれば、最初は事務局が受けるとしても、処分請求を求めているような場合には、検察官役を行う機関に引き継ぐような体制が必要となる。処分手続きに至らない場合の不服申し立ての手続きや、不服申立先(おそらくは連合会となるだろうが)の整備も必要だ。これはもう単位会でどうなるものでもないので、連合会が重点的に取り組むべきであろう。

 当然、検察官役からの告発を受けて、処分手続きにかけられた社労士の言い分も聞き、処分するかどうか、どのような所分を下すかということについては、理事会からも独立した機関に委ねるのが適当という事なる。その構成についても、例えば労働委員会のように労使及び有識者という構成にするのか、弁護士を加える構成にするのか、社労士が加わることの有無なども検討する必要がある(独立した士業としての規律を他士業に委ねるのは如何なものかと思うので、私としては労使及び有識者を審判役の中核にすべきと思う)。

 社労士の不祥事に際して、社労士の自治組織である社労士会には退会勧告までの権限しかない。このことは、昨年の不祥事に際して多くの社労士を歯ぎしりさせた。自浄作用を発揮しようにも、強制力が実質的に存在していない。会員資格に対する処分を行った上で、厚生労働省に報告するだけである。せめて自浄作用を発揮する場として、厚生労働大臣の懲戒権を害しない範囲に留めた上として、1箇月以内の業務停止処分などの自治権は認められるべきではないか。無論、業務停止の権限を付与することになると、社会保険労務士法の改正作業が必要となるので簡単ではない。しかし、社労士が業務範囲を拡大することを求めていくのであれば、従来以上に強い自律が求められるのであって、その自律を具体的になしていく制度の一環と考えれば、1箇月以内の業務停止程度の処分権限を社労士会が持つことは適切ではないか。

 倫理問題としては、「副業」の問題がある。現行法では社会保険労務士でなくとも、労務コンサルタントや年金コンサルタントとして、相談に応じて報酬を得ることは何の規制もない。このため、社労士としてでなく企業経営者として別事業を立ち上げている例が少なからずみられるが、そうした事例の中には社労士としての非違行為で業務停止の懲戒処分を受けながら、労務コンサルタントとして実質的に従前と変わらない営業を堂々としているものすら見受けられる。これは専門職としての規律や懲戒制度を明らかに逸脱する脱法行為であると言わざるを得ない。となれば、包括的に副業についても規制を加えていくことが必要とされよう。

 次に社労士会としての情報発信の問題である。昨年末に問題となった社労士の不適切な情報発信は文字通り問題外であるが、同時に報道においては一部のNPO関係者の不適切な認識に基づいて解説した社労士の処分制度が流布されてしまい、社労士に対する不満を増幅させる結果となった。

 すなわち、「社労士は社労士会が処分権を持っている」とか「退会したらその県内では社労士業務ができない」などである。社労士の懲戒権を持っているのは厚生労働大臣であり、社労士会が持っているのは会員資格に対する処分権にすぎない。強制加入団体である以上除名はできず退会勧告に留まる(しかも法律上は、そのような状態であっても社労士業務を行う事に制限は設けられていない)。また、社労士の登録は確かに都道府県単位で行われるが、活動範囲に制約はないし、退会すれば別の都道府県会に登録するか、弁護士でない限り全ての社労士業務が当然にできなくなる。そうした誤った認識の報道に対して、社労士会の側からも訂正を求めるような積極的な動きは殆どなかった。

 理由は分からないが、現代の不祥事において「沈黙は金」ではない。むしろ、公的な団体であればあるほど説明責任を求められる。そもそも、どのような報道がなされているのか掴んでいなかったとすれば、これはもう問題外となる。

 ちなみにこのNPO関係者は、その後も「社労士の合格者数は連合会が決めている」(現実は、連合会は社労士試験を運営するだけで、試験問題の作成や採点、合格基準や合格者数に関しては何ら関与することができない)などという情報を流布しているところを見ると、恐らく誰も指摘しなかったのではないか。

 いい加減な情報が流布される前に、積極的に情報開示していくという姿勢がまず必要であろう。

 「ブラック社労士」が目立つ原因は、彼らが企業を捕まえようと意図的に宣伝していることだけに原因を求めることはできない。従来の社労士が行ってきた手続き業務の後退、社労士自身が官製ワーキングプアの被害者となっている事実を含めたうえで考える必要がある。

 もともと税理士は社労士業務のうち租税確定に必要な業務を行うことができたのだが、現状は顧客サービスとして社会保険の手続き業務を行ってしまう例が少なくない。報酬を得なければ誰でも社会保険の手続き業務はできるからだ。この点、税理士会は報酬を得ずに租税業務を行う事を明確に否定している。実際、税理士側もボランティアで引き受けているわけではなく、その背後ではキッチリ税務士業務での見返りを期待している筈である。いわば下心がある経済活動と言わざるを得ず、それならば社労士側もこの点について職域侵害として戦う権利はある筈である。

 かなりの社労士が税理士事務所の下請と化している現状がある。中には「税理士事務所の勤務社労士」という登録をして、税理士事務所の顧客に関する業務を行っている例すらある。本来は勤務社労士はその事業所内部の手続きを行う権利が認められているだけであって、事業所の顧客の手続きを行う権利はない。「税理士事務所が無料で顧客の社会保険手続きを引き受け、税理士の補助者という身分で関与している」という構成は可能だが、倫理的には問題があろう。実際、「ブラック社労士」として問題になっている事例の中には、税理士事務所の勤務社労士が対応していた例が少なからず見受けられ(税理士事務所の封筒で書類が届いていた例すらある)るが、これでは独立士業としての立法趣旨そのものを没却する行為と言わざるを得ない。
 税理士業界と密接な関係を保ってきた社労士業界としては言い出しにくいところもあるし、目の前の利益からは遠のくリスクもある。しかし、倫理的に問題のある現状を漫然と利益のために放置することを是とするならば、そもそも専門職とは言えない。
 同様の問題は行政協力業務にも言える。かつては行政協力業務は片手間で文字通りの「協力」であったようだが、現在は年金事務所窓口業務に代表されるような高度な能力が求められる協力業務が増えている。行政内部の正規職員と同様の問題を同様な能力で処理することを求められているのだが、能力担保の機会はほとんどない。行政内部の手続きなど、そもそも行政外部にいては分からないことも多い。いきおい、社労士側は研鑽に時間と費用を使わねばならない。しかも、行政側からの要求水準は日に日に高まっていく。一方で、報酬は決して高くない。アルバイトや派遣と大して変わらない金額である。
 問題は、こうした「アルバイト生活」から脱却できず、延々と行政協力で食いつないでいる者が増えているという事である。かつては開業後しばらく食いつなぐ方法であった行政協力が、現在は命綱になってしまっている。これでは、行政側から理不尽な要求をされても拒否できるわけもない。それどころか、切られては困るとばかり行政側の心証を良くしようと無理な業務を抱え込んだり、無給無報酬の勤務を周囲に要求するようになる。改善を求めようとしている者を孤立させる。これはもう、「ブラック企業」の被害事例と変わるところは無い。
 実のところ、同様の問題が弁護士の国選業務でも指摘されている。「奉仕」と位置付けられている低報酬の業務でかろうじて生きているのは、決して社労士だけの問題ではない。そして、このような奉仕を前提とした低報酬の制度で働かざるを得ないことから、業務の質の低下が指摘されている。国選弁護で言えば、真面目に接見に行けば行くほど赤字になるそうだ。そのため、国選弁護人として最限度の活動しかせず、結果的に被疑者の利益を損なうことが現場では少なくないという。

 無論、このような問題は公共とにって重大な危機だ。ならば、士業が連帯して行政に対して働きかけを、少なくとも専門職としての生活と体面が保てるくらいの報酬を確保できるように要求していくべきだ。官ワーキングプアを防止すべき立場の士業が、その餌食としていいように利用されているというのは悪い冗談でしかない。

 また、従来から社労士は行政に対する手続き業務中心であったこともあって、行政に対して通るかどうかという視点が実務上極めて重要であった。効率の良い業務遂行としては重要だが、一方で何故このような結論になったのかを説明できない、すなわち論理的思考力や分析力、論証力は重視されてこなかった。これがコンサル業務などに拡大していくと、無理な手続きや強引な要求などという問題を発生させる。表面的な制度については詳しくとも、その制度の理屈や問題を正確に説明できない社労士はあまりにも多い。

 単なる代書屋であればそれでも良いのかもしれないが、それではコンサルティング業務や労務監査業務などの業務拡充は望むべくもない。能力開発を否定するということは、自ら業務拡充への道を閉ざすことになる。

 今後は、労働・社会保険制度の根本的な理屈や理論、歴史、論理的思考力や表現力などを高める努力をする必要があるし、それにあたっては連合会や各都道府県会の研修も充実させていく必要がある。

2016年12月 9日 (金)

年金額の根本的な引き下げは年金不安を増大させるだけ

 従来、我が国の公的年金制度は物価スライド制度と呼ばれる調整機能を持っていた。これは物価によって年金額を変化させるもので、物価は変化しても価値は変わらないという制度だった。これをマクロ経済スライドとして、賃金や寿命などを勘案して物価に比して年金の伸びを押さえようとした。このため、アベノミクスでの物価上昇に年金が追い付かず、多くの受給者の不満を招いている。そして、次はより賃金を反映させた制度に変更するという。そもそも、安倍政権は「賃金は上がっている」と主張していたのに、年金については「将来に備えた給付の抑制のため」に賃金を持ち出しているのだからよく分からない。

 それはともかく、「少子化で年金保険料を払う人が減っている」という認識は間違いだ。確かに人口減少社会に突入はしているが、毎年何百万人も一気に減っているわけではない。「保険料を払える人が減っている」というのが正しいと言える。その最大の要因は雇用の劣化だ。

 また、自営業者も厳しい。バブル時代までは独立すればそこらのサラリーマンの二倍三倍稼げるのが当たり前だったそうだが、今やサラリーマンの半分も稼げれば良いのではないか。例えば社会保険労務士は平均年収500万円と言われているが、これは勤務社労士として正規雇用で相応の扱いを受けている者を含んだ数字なので、実際の開業社労士はせいぜい300万円から400万円程度に留まると思われる。多くの顧問先を抱える古手が平均値を引き上げているであろうことを加味すれば、若手などは200万円程度と考えた方が良いのではないか。

 今や、自営業者の多くは「子供に後を継がせたくない」と言う。自営業から脱却した中小企業の経営者でもそうした声が少なくない。 

 もともと、国民年金第1号被保険者は「定年が無く、家業を子供に継がせられる」「賃金以外に収入源がある」「養ってもらえる」ことが前提の年金制度であるが、これらの前提がほとんど崩壊してしまっている。代わって、下層階級に転落した非正規労働者や無職の者など、被用者年金制度の枠組みから脱落した(させられた)人たちが第1号被保険者の中心になっている。免除や猶予の制度があるとはいえ、生活そのものが厳しい中で、保険料支払いは大変な負担だ。

 ここで年金額を根本的に引き下げられるということは、今でも生活に不足している年金額から更に下落するということになる。こうなると、どの道将来的に年金で生活できないという諦念が蔓延することになる。これでは、年金不安を増大させるだけだ。

 せめて、国民年金の1か月あたりの単価を見直し、生活保護水準まで引き上げることが必要と思われる。納付した分が具体的に生活を支えられるということを担保することは、スウェーデンなどの例を見ても分かる通り、年金制度の信頼と納付状況の改善につながる。年金額の引き下げは欧州においてももっぱらマイナスの効果しか生んでいない。

 「働き方改革」と称して、「雇われない生き方」が持ち上げられているが、我が国の年金制度は働き方によって制度が異なる仕組みを持っている。特に労働者扱いされるかどうかは極めて重要な分岐点だが、そうした議論はほとんどなされていない。現役時代の働き方の変革が、老後はもとより障害や死亡の際にどのようなマイナス効果をもたらすか、もっと目を向けるべきであろう。

2016年11月20日 (日)

奨学金という名称そのものの問題

 夏の参院選では与野党ともに給付型奨学金制度の充実を公約としていた。自民党の場合、長らく財源や「大学がすべてではない」という声が強いことから給付型奨学金制度には非常に消極的であったのが、選挙直前一転して導入を推進することになった。ただ、選挙が終わってもなお範囲や給付額については案が浮かんでは消えるという状態である。
 今なお、高等教育に価値を認めない人たちを中心に、給付型奨学金に対する反対意見は強い。奨学金が実質的には「ローン」に過ぎず、若い世代の貧困やブラック企業に就職しても容易に辞められないという問題につながっていることについても、同様に「餓死するレベルではない」とか「忍耐が足りない」として「若者の甘え」と切り捨てる意見が保守層には根強いものがある。
 私は国民全体の能力開発と、リスクを若年世代に押し付けないようにするために、早急に給付型奨学金を原則とすべきという立場だ。なお、給付型奨学金導入支持者の中には給付型奨学金を導入しないと「経済徴兵制」になると主張している者もいる。ここから「給付型奨学金を要求するのは左翼だ」という的外れな批判になるわけだが、そもそも自衛隊にしても誰でもいいというわけではない。どうしても、一定の能力や素養を持つ者から採用せざるを得ないから、人手不足の状態になっている。経済徴兵制と奨学金は、学歴社会でない我が国ではアメリカのようにはなるまい。
 さて、給付型奨学金を大々的に導入できるかどうはともかく、問題なのは「奨学金」という名称そのものにある。そもそも、世間一般で考えられている「奨学金」は「給付型奨学金」ではないか。
 現在の奨学金の本流である「有利子奨学金」は奨学金という名前を付けた単なる「貸金」「ローン」でしかない。しかも、厳しい取り立てに加えて保証人までが追い詰められる「奨学金連鎖破産」と言うべき問題も生じている。気軽に借りるのが問題という一面はあるが、そもそも「奨学金」という名称を使う事で、借金を借金でないもののように見せてしまっているという事路がある。
 つまり、「有利子奨学金」までが「奨学金」という文言を用いているのは、明らかに誤解を招いている。給付型奨学金の拡大だけでなく、「奨学金」という名称の使用を制限する必要があるのではないか。無利子奨学金はともかく、少なくとも「有利子奨学金」については、奨学金の名称を文言に使わせるべきではない。

2016年11月 4日 (金)

日比健太郎さんを悼む

 名古屋市議会議員の日比健太郎さんが逝去された。

 急性混合性白血病という骨髄性白血病と、リンパ性白血病が両方併発する白血病を患って、臍帯血移植を受けたことは知っていたが、経過は良好という話であり、年内には退院され遠からず復帰されると思っていただけに、残念でならない。

 30代は若い。若いが、徐々に病気が増えてくる。一方で、仕事ではもはや新人ではなく、重要な仕事を任されるようになる頃だ。それだけに、病気との向き合い方を考えなければならない世代でもある。

 病気治療と言っても簡単な話ではない。一般的な労働者の場合、私傷病では「休職」という扱いになることが多く、その間の生活は健康保険法の傷病手当金で賄うことになる。ただ、社会保険が適用されている労働者でなければ傷病手当金を受けることはできない。社会保険が適用されていない事業所に雇用されている労働者はもとより、社保逃れの企業、社保に入れないように労働時間等が調整されている労働者の生活は厳しいものになる。

 休職制度は法律で決められているものではないため、制度を設けるかどうかは労使の話し合い次第(実質的には使用者の裁量)ということになる。このため、休職制度が適用されるのは正社員のみになっている企業が多く、社保とも関連して非正規労働者には特に過酷な状態になっている。

 今や癌は治療技術の向上に伴って生存率が伸びた結果、治癒はしなくとも治療を受けながら社会生活を営むことができるようになった。一方、いかに就労とのバランスを保っていくかが今まで以上に重要になっている。国もがんの就労支援に力を入れているが、これを突破口として広く慢性疾患を抱えながら働く者に対する支援制度を構築していくべきだ。

 政治家にとって自分の病気を公開するというのは重い決断である。日比さんは、自分がここで終わるとは思っていなかっただろう。一定期間仕事を休まなければならない骨髄移植ドナーの支援体制の整備など、病気を境に気が付いた様々な問題に取り組んでいくつもりで闘病そのものを学びの場と考えつつ闘病されていたに違いない。日比さん本人が一番無念であろう。

 私自身も社会保険労務士として、難病や慢性疾患に対する就労支援に取り組んでいる。引き続き取り組むことが一番の供養になると思う。それにしても本当に残念だ。

2016年11月 1日 (火)

海賊対処部隊を縮小して大丈夫か

 稲田防衛大臣はソマリア沖の海賊対処部隊を護衛艦1隻程度に縮小すると発表した。海賊の認知件数が激減していることと、北朝鮮への備えに回すためという。
 いささか、考えが甘いのではないかと危惧せざるを得ない。確かに、ソマリア沖で暴れまわる海賊は激減した。としても、海賊の根拠地そのものを徹底的に叩いたわけではない。海賊に走る土壌そのものを改善できたわけでもない。歴史的に見ても、海賊を根絶するためには海賊の根拠地を徹底的に叩いて壊滅させ、海賊に乗り出していく人々が多い地域に交易船の船員などのまっとうな雇用を与える必要がある。残念ながら、ソマリア沖ではそのどちらも十分に行われたわけではない。
 そもそも、財宝やロマンを求めて海賊になるのは映画の中だけで、現実の海賊は全うに食っていける道がなく、仕方がないので海賊になる。一方で海賊はビジネスだから、軍艦で護衛されている船団を襲って玉砕するような馬鹿な真似はしない。
 海賊を生み出す社会状況を改善できなければ、海賊予備軍は相変わらず存在するという事になる。今はあくまでも、算盤勘定で海賊行為に及ぶのが損になっているから大人しくなっているに過ぎない。船団護衛が手薄になれば、すくに海賊は息を吹き返す。ビジネスである以上、儲かるとなれば必ず戻ってくる。
 海賊対策は確かに海上自衛隊にとっても負担であった。艦艇複数を常時中東に張り付けておくのは、国内に残る部隊を含めて人員のやりくりは厳しい。しかし、それでもなお陸上部隊がアフリカで慣れない駆け付け警護を行うのと比較すれば、日本の能力を発揮した国際貢献と言ってよい。我が国は有力な海上部隊をもって貢献した方がよい。

2016年10月 9日 (日)

第二次電通事件

 労働法や労働問題を少しでも学んだことがあれば、「電通事件」の四文字は必ず目にしている筈である。過労自殺の問題が争われた訴訟として、あまりにも有名だからだ。今回はあくまで遺族側の労災申請が認められただけで、電通そのものが過労自殺の責任を認めて損害賠償請求に応じたわけではない。その点では、「電通事件」とは状況は異なる。

 だが、「電通事件」から二十年以上過ぎたにもかかわらず、再び電通で過労自殺事件が起きてしまった。しかも、報道されている内容を見る限りでは、電通が「第一次電通事件」を反省しているとは思われない。いや、そもそも反省するつもりなど「第一次電通事件」の頃からなかったのかも知れない。自殺した労働者個人の責任に帰結させるべく、当時の電通側が裁判で「失恋したのが自殺の原因だ」「まじめだったのが良くない」などと繰り返し主張していたのは有名な話である

 私も色々なところで企業を見てきたが、一度裁判に負けたくらいではなかなか反省しない。大抵の場合、企業経営者はその企業の中で競争を勝ち抜いてきた「勝者」である。出世レースを先行して走っていた人たちが不祥事などで一網打尽にされてしまい、傍流からトップに立つ人がいないわけではないが、稀なケースだ。競争を勝ち抜いてきた人たちが、自分たちの歩んできた道を否定するわけがないのである。

 まして、現在の電通の幹部クラスは、ちょうど「電通事件」が争われていた頃に若手社員だった人々である。企業不祥事の場合、大抵は告発した側や死んだ側が組織内では悪者にされ、「あいつは頭がおかしかった」とか「彼は仕事ができていなかった」など、あることないこと喧伝されるのが普通である。某「引越社」事件で、内部告発した従業員の写真つき「懲戒解雇の告知」を職場に掲示し、さらし者にしていたことは記憶に新しい。恐らく、第一次電通事件も電通の中では電通は悪くなく、死んだ社員と裁判を起こした親が悪いということで意思統一が図られてきたのだろう。となれば、第一次電通事件を反省した労務管理などそもそも取り組みようがない。

 恐ろしいのは、東京オリンピックも含めて、この会社は公的な業務を多数受託しているということである。いわば、国家や自治体が「ブラック企業」を税金を使って儲けさせているわけだ。電通を利用してきた側も、本当に使うべき企業であったのかどうか、反省すべきではないか。

2016年5月18日 (水)

再雇用による賃金低下をめぐる問題

 東京地方裁判所の判決で「定年後の再雇用でも業務が同じまま、賃金を引き下げるのは違法」との判断が下された。一般的に、定年延長を行うか再雇用のどちらかの制度が選ばれることが多いが、老齢化に伴う負担の軽減と引き換えに賃金は60歳前よりも大幅に引き下げられることが多い。我が国では、公的年金も含めて、60歳から「徐々に引退」するという制度設計ではあるものの、65歳までは現役で働くことを大原則としている。

 この点において、再雇用前と後で仕事の内容も責任も変わらないのに、賃金だけが引き下げられるのは納得がいかないのはよく分かる。まして、「能力主義」「成果主義」が叫ばれるようになって二十年以上経っている。能力も成果も衰えていないのに、それで賃金だけが引き下げられるというのは、そもそも能力主義や成果主義を原則にしてしまった企業としてはダブルスタンダードである感を免れない。

 ただし、そもそもこの問題では「賃金」とは何者であるかを考える必要がある。今では「成果に対して払うもの」というのがもっぱらの見方であり、少し前まで主流であった「能力に対して支払うもの」という考え方も根強く残っている。しかし、一方で官公庁や大企業中心に年齢によって上昇していく賃金モデルを採用しているところも多い。中小零細企業では、そもそもルールに則った昇給制度そのものがないところが多く、中にはバブル崩壊以来記録上昇給していない者すら見られる。非正規労働者や派遣労働者の場合、昇給するのは例外的な事例とすら言えるのが実態だ。
 もともと、「賃金」の精神は「人たるに値する生活を保障するもの」であって、単に成果に応じて支払うというものではなかった。大企業正社員の賃金が年齢とともに上昇し、50代前半をピークとしていたのは、「結婚→子育て→住宅取得→子供の学費」という、一般的な家庭の基本的な歩みに合わせたものである。
 この伝統的(ある意味理想主義的と言えるが)な考え方に立つのであれば、子育ても終わり、住宅取得も終わった労働者に従前の子育てや住宅取得をカバーできるだけの賃金を支払う必要はないということになる。しかし、使用者側がそう言い切れるためには、当然ながら人生の段階に応じた年齢を重視する賃金を賃金制度の根幹として存続させていなければなるまい。若い労働者には成果主義だ能力主義だと言って賃金を抑制し、高年齢の労働者に対して今度は生活給は高くなくてもいいから減らすと言うのであれば、完全な論理破綻である。

 「生活給」を考慮すれば、同一労働であっても中年層と高齢者で賃金が違って当然であるのが日本の慣行だった。逆に言えば、財界の口車に騙されて生活保障という原点を積極的に破壊したツケが回ってきたと言える。
 また、再雇用だけでなく若年者との間でも同様の論点での問題が生じる。若年者の場合、経験や能力の不足を理由として賃金は低いのが当たり前だった。しかし、「業務が同じ」「成果も同じ」「責任も同じ」ということになると、若年者と中年との間で賃金に格差があるのも問題だという事になる(ただ、若年者の場合は「引き下げ」ではないので、高齢者と同じように争われるわけでは無かろう)。
 ここでも「生活給」を中心に考える立場であれば、中年と青年では賃金には大幅な差があって当たり前だ。しかし、「成果主義」「能力主義」ではそうは言えない。
 賃金設計の実務上は折衷的な方法が取られるのが普通であるとは言え、特に「成果主義」に比重を置くのであれば、生活給と同様の考え方で賃金を大幅に引き下げるのは問題があるということになる。

 大抵の場合特別支給の高齢厚生年金が支給されるので、「年金の補填程度に賃金を支払えばいい」と思っている経営者も少なくない。しかし、60歳台前半における年金と賃金との関係はこの逆である。60歳を境とする大幅な賃金低下を補てんする制度として、特別支給の老齢厚生年金と高年齢雇用継続基本給付金の制度が設けられている。よく誤解されるが、60代前半の老齢年金が60代後半以降の老齢年金に比べて支給停止の要件が厳しいのは、もともと年金を中心に生活設計するというよりも、老齢による稼得能力の低下を補填する意味合いで制度が設けられたためである。

 今回の判決は地裁レベルのもので、まだ確定判決というわけではない。しかし、安易に再雇用で賃金を引き下げるのは難しいという事になる。若年者に回る賃金や雇用を食われるという批判も当然出るだろう。
 残念ながら、使用者が注目するのは「いかに引き下げるか」の話ばかりであり、弁護士などの法律職やコンサルタントも法的紛争の回避や勝つことに力点を置きがちだ。しかし、業務内容を変えるとか、現役も含めた賃金制度全体の考え方を組み立てると言った、言わば「現場の労務の問題」に立ち入らなければ、労働紛争は続くだろうし、若年者も含めた不満はくすぶり続けることになるのではないか。

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